苦しめられても人を脅さず
1.名誉棄損となるようなことを言われたら?
名誉棄損となるようなことを言われることが、あるかもしれません。
特に、自分がそのような罪を犯していないにも関わらず、
疑いをかけられ、あたかも犯人かのように扱われてしまった場合
普通なら、怒り心頭に達し、慰謝料や損害賠償を請求したり、
名誉棄損で訴えたりしてしまうのではないでしょうか?
「疑われる方が悪い」と開き直られる時もありますが、そんな時は猶更です。
盗ってもいないのに「彼が盗んだに違いない」と思われることは
どれほど心を傷つけることでしょうか?
やってもいないことを「彼がやった」と言われるとどうでしょうか?
2.被害者なのに加害者にされたら?
自分が停車していた時に、バックでぶつかって来た車の運転手に
「そっちがぶつかってきた」と言われたらどうでしょうか?
そしてそれがそのまま警察で通ってしまって、
自分が損害賠償を払わなければならなくなったらどうでしょう?
自分の車は自分のお金で修理し、なおかつ人の車はこちらの費用で修理する。
しかも相手がぶつかって来て、自分は少しも動いていなかった。
こういう状況を、理不尽な状況と言います。
普通なら怒り心頭に達し、相手を恨んだり、保険会社を恨んだり
警察を恨んだりしてしまうでしょう。思い出すたびに悔しくなるでしょう。
3.イエス・キリストはどうなさったか?
しかし、イエス・キリストは、そんなこととは比べ物にならないような
理不尽な状況を、耐え忍ばれたのです。
「ただの人間なのに自分を神としている、神を冒涜する者だ!」と言われ
罪人として断罪され、十字架で死刑にされてしまったのです。
何の罪もない神の子だったにもかかわらず、罪人として十字架にかけられ
殺されてしまったのです。弁解も何も語られませんでした。
イエス・キリストの十字架の死は、敗北で失敗で泣き寝入りだったのでしょうか?
違うのです、確かに神はすべてをご覧になっておられたのです。
最後には正しい、本当に寸分の隙もなく正しい神の裁きがやってきます。
その神の裁きをイエス・キリストは、知っておられ、
最終的には正しく裁いて下さる神に、一切をゆだねておられました。
理不尽は理不尽で終わらないのです。最後の完璧な清算が待っているのです。
むすび.この世では理不尽な目に会うことが確かにある
この世では理不尽な目に会うことが確かにあります。
けれども神はすべてをご存知です。
すべてを知っておられ、あえてそのような状況をゆるしておられるのです。
私たちがすることは怒ることでも、恨みを抱くことでもありません。
模範は、イエス・キリストが示してくださいました。
一切の報復を捨て去るのです。
イエス・キリストのように、
ののしられてもののしり返さず、
苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方に任せるのです。
自分の力ではできないことも、聖霊の助けによってできるようになるのです。
祈りましょう!
【今日の聖書】
ののしられてもののしり返さず、
苦しめられても人を脅さず、
正しくお裁きになる方にお任せになりました。
ペトロの手紙一 2章23節