今日のできごと


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2017/5/7(日)



神の業がこの人に現れるため

 ある時イエスの一行が、盲人に出会います。
 弟子たちは、この人が目が見えないのは、何らかの罪を犯して
 神の裁きを受けた結果だと考えます。そしてこう考えました。

 「目が見えないというのは、罪を犯した結果だからだ。
  でも生まれつき目が見えないということになると、
  本人が罪を犯す前に、すでに目が見えなかったことになる。

  ということは、本人ではなくて両親が罪を犯したからなのだろうか?」
 そこで弟子たちは、イエスに問いかけました。
 「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか?」

 さて、イエスは通りすがりに、
 生まれつき目の見えない人を見かけられた。
 弟子たちがイエスに尋ねた。
 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、
  だれが罪を犯したからですか。
  本人ですか。それとも、両親ですか。」
 ヨハネによる福音書 9章1〜2節

 しかしそれを聞いたイエスの答えは、まったく違う観点からのものでした。
 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。
  神の業がこの人に現れるためである。」

 罪の結果ではなく、神のみわざが現わされるためなのだというのです。
 そしてその後、この人の目はイエスによって開かれたのです。

 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、
 唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
 そして、
 「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」
 と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、
 帰って来た。
 ヨハネによる福音書 9章6〜7節

 目が見えなかったからこそ、目が開くという神のみ業が現わされたのです。
 もしはじめから目が見えていたなら、どうだったでしょう?
 目を開くという神のみわざは、この人に起こらなかったのです。

 「不幸な境遇に生まれついた」と思われたことが、
 逆に「神の栄光を現わすこと」になったのです。幸い至極なことになったのです。
 不幸な境遇は、実は神のみわざが現わされる機会に他ならなかったのです。

 誰が罪を犯したからだったのか?
 誰が犯した結果だとしても、すべての罪を背負って
 イエスは十字架にかかって死んでくださったのです。

 そして赦してくださいました。
 その結果、罪の赦しだけではなく、体の病の癒しも
 私たちに与えて下さったのです。

 【今日の聖書】
 イエスはお答えになった。
 「本人が罪を犯したからでも、
  両親が罪を犯したからでもない。
  神の業がこの人に現れるためである。
 ヨハネによる福音書 9章3節


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