「もうだめだ」ではなかった!
1.イエスが十字架で死なれた時の弟子たちの絶望
イエス・キリストが、十字架に掛けられて死んでしまわれた時
弟子たちは、どう思ったでしょうか?
「もうだめだ」でした。
「いよいよ3日目には復活するぞ!」等と思った弟子はいなかったのです。
彼らの思いは「もはやこれまで!もうだめだ!」でした。
その証拠に彼らは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけて閉じこもっていたのです。
もし復活を信じていたら、どうだったでしょうか?
部屋に鍵などかけずに、堂々と待っていたことでしょう。
弟子たちの頭に、復活はほんのかけらもなかったことがわかります。
その日、すなわち週の初めの日の夕方、
弟子たちはユダヤ人を恐れて、
自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。
ヨハネによる福音書 20章19節
弟子たちは、「もうだめだ」と絶望しきっていたに違いないのです。
2.湖上の嵐の時の弟子たちの危急の叫び
弟子たちが「もうだめだ」と思ったのは、
何も、この時が初めてではありませんでした。
ガリラヤ湖の嵐のときも、同じでした。
そのとき、湖に激しい嵐が起こり、
舟は波にのまれそうになった。
イエスは眠っておられた。
弟子たちは近寄って起こし、
「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。
イエスは言われた。
「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」
そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、
すっかり凪になった。
マタイによる福音書 8章24〜26節
このままではおぼれ死んでしまう、
「もうだめだ」とパニックになっています。
「おぼれそうです」という言葉は、滅びる・殺すという意味を持ちますので
口語訳の場合「死にそうです」と訳しています。
「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と言った。(口語訳)
「もうだめだ!死んでしまう!」と言う状況だったことがわかります。
3.絶望的状況こそが信仰を働かす絶好のチャンス
主に信頼する者には「もうだめだ」は、あり得ません。
逆に、普通だったら「もうだめだ」と思わざるを得ない状況こそ、
神のみわざを見る、絶好のチャンスになるのです。
キリストの十字架の死は、「もうだめだ」ではありませんでした。
素晴らしい救いのみわざが、成し遂げられた瞬間だったのです。
感謝しても感謝してもしつくせない、そういう時だったのです。
そしてイエスは3日目に、よみがえられました。
死に勝利したのです。
もし弟子たちが、復活を先に見ていたとするなら、
たとえ、イエスの十字架の死を目の前にしても、
「絶対大丈夫!」と思ったことでしょう。
なぜなら、十字架の死が復活に続いているのをすでに知っているからです。
湖の嵐の時も、前もって嵐を静めるイエスの様子を
どこかで見ていたとするなら、安心しきっていれたでしょう。
「大丈夫、イエスがきっと嵐を静めてくださる」と。
むすび.「もうだめだ」は大きな喜びの時
もし「もうだめだ」という状況が、まったくなかったとしたら
絶望的状況を180度変えて、そこから脱出させてくださる神のわざを
体験することはできないでしょう。
神が、絶望的状況「もうだめだ」という状況を、
あえて与えてくださるからこそ、私たちは、モーセのように
そこから見事に脱出させてくださる神を、体験できるのです。
神の素晴らしさがわかり、信仰が大きく成長してゆくのです。
とするなら、「もうだめだ」という状況こそ、大喜びするチャンス
ということになってくるのです。
だからいつも喜んでいられるのです。
今日も、明日も、何が起こっても、喜んでいましょう!
神が必ず、素晴らしいみわざを私たちになしてくださるからです。
【今日の聖書】
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、
神があなたがたに望んでおられることです。
テサロニケの信徒への手紙一 5章16〜18節