神の目が注がれる時
今日は、県内の牧師の集いが開かれました。
今日のメッセンジャーは、平田キリスト教会の楫直樹先生でした。
聖書箇所はマルコによる福音書12章41〜44節で、
レプタ2つを献げたやもめの個所から、
「神の目が注がれる時」というテーマで語ってくださいました。
神は、私たちの心をいつもご覧になっておられる、
「何をしたのか」ではなく「どんな心でしたのか」が問われている、
目に見える行動や結果を人は見てしまうが、神は目に見えない
心を見ておられる、という内容でした。
説教の中で、このやもめはレプタ2つを、
どのような気持ちで、献げたのだろうか?
ということについて、思いめぐらしました。
決して、誰かに強制されてではなかったでしょうし、
人に見せるためでもなかったでしょう。
いや逆に額の少なさから言えば、見られたくなかったでしょう。
その額の少なさに人から非難されようとも、恥ずかしいなどと思わず
人が何と言おうとも、レプタ2つだけであってもささげたかったのです。
どうしてでしょうか?
ご主人がいない独り身で、生活費も底をつき、
普通であれば、こんな悲観的な状況で献金などとてもできようがない、
どうしてこんな貧しいのだろうか?神は助けてくれないのか?
などと神への不平不満がでてきてもおかしくない状況です。
けれども、イエスから「誰よりも多く献げたのだ」と言われています。
不平不満をぶつけるわけでもなく、喜んで献げる姿がそこに見られます。
なぜなのでしょうか?
なぜ、貧しい中にあっても、イエスから称賛されるほどの心で
ささげたのでしょうか?
彼女の心は、彼女に対する神の愛を十分に受け取り、
神への愛で一杯に満たされていたのでは、ないでしょうか?
その愛のゆえに、神への心からの感謝で持っているすべての
レプタ2つを献げたのではないでしょうか?
強制されて献げていたとするなら、イエスは称賛しなかったでしょう。
そうではなく、自発的に献げていたからこそ称賛されていたはずです。
愛がなければ一切は無益なのですから、そこに神への愛が溢れていたはずです。
だからこそ、彼女はイエスに称賛されたのに違いないのです。
「あなたの心は今イエスの愛を受け取って、幸せに輝いているだろうか」と
自分の心に、問いかけられた気がします。
伝道や奉仕は、その内容や結果が問われているのではなく、
それらは神の愛に対する自分自身の愛の応答であって、愛が問われているのです。
神を愛して行動していたら、自然に
それが、伝道になり奉仕になってゆくものなのです。
【今日の聖書】
イエスは賽銭箱の向かいに座って、
群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。
大勢の金持ちがたくさん入れていた。
ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、
すなわち一クァドランスを入れた。
イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。
「はっきり言っておく。
この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、
だれよりもたくさん入れた。
皆は有り余る中から入れたが、この人は、
乏しい中から自分の持っている物をすべて、
生活費を全部入れたからである。」
マルコによる福音書 12章41〜44節
※
今月18日から旧暦の神在月です