日吉の切通
松江市の水害は、江戸時代にも起きています。
農業土木学会誌の第55巻 第5号に、吉川篤美氏が
次のように記しています。
「元禄15年(1702)には6月と8月に二度も豪雨があった。
6月は宍道湖の水が6尺(約182cm)も増水してあふれ,
さらに8月には湖水8尺(約242cm)増水し,
平地の浸水は5尺から9尺にも及んだといわれる。
中海沿岸では,かなりの氾濫があり,松江藩内で男女溺死50人,
牛馬16頭,流失家屋4,157戸,作物被害84,294石にも及んだといわれる。」
1
昔から、この地域には豪雨による洪水があったことがわかります。
この元禄15年(1702)の大洪水は、城下だけでなく八雲町の日吉にも
致命的な被害をもたらしました。
八雲町の日吉には、剣山という岩山があります。
この岩山が
意宇川の流れを妨げ
山裾をぐるっと回る形で、蛇行させていました。
そのため、大雨が降ると氾濫し、多くの被害を与えていたので
周藤彌兵衛家正の藩への陳情によって、慶安3年(1650年)
剣山開削工事が開始され、意宇川は直進するようになります。
その状態で元禄15年(1702)の豪雨が起こるのですが、
剣山の開削幅が狭かったため、氾濫してしまったのです。
そこで、家正の孫の彌兵衛良刹が、更なる切通し拡大工事を始めます。
藩に頼らず私財を投入して、42年かけて工事を行い
延亨4年(1747年)に、切通しの拡張工事が完成したということです。
江戸時代にも、大変な人力だけの治水工事が行われていたのです。
現地に行くと、その様子を見ることができます。



こつこつと地道な作業を、40年以上継続して、
今のような川にしてくれたのです。
よくぞやってくれたと思います。
相当な忍耐と使命感があったに違いないと思います。
忍耐は愛の性質の一つです。
愛は忍耐強い。
愛は情け深い。
ねたまない。
愛は自慢せず、
高ぶらない。
コリントの信徒への手紙一 13章4節
人々のために忍耐強く、川違えをしてくれた先人に倣い
忍耐強い生き方をしていきたいと、思います。
聖書には、神が岩から水を出された話が載っています。
【今日の聖書】
エジプトの地、ツォアンの野で
神は先祖に対して不思議な御業を行い海を開いて彼らを渡らせる間
水をせきとめておかれた。
昼は雲をもって
夜は燃え続ける火の光をもって彼らを導かれた。
荒れ野では岩を開き
深淵のように豊かな水を飲ませてくださった。
岩から流れを引き出されたので
水は大河のように流れ下った。
詩編 78編12〜16節
1吉川篤美, 「周藤彌兵衛の日吉切通しと新田開発」,
[online] https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsidre1965/55/5/55_5_479/_pdf ,
J-STAGE, (参照2017-10-05).