今日のできごと
2017/1/15(日)

愛は隣人の最善を求める
「愛と言われても、抽象的過ぎてよくわからない」と言われます。
愛とは、いったい何でしょうか?
愛するとは、具体的にどういうことでしょうか?
1.愛の行ないは、その動機の100%が相手のため
一言でいえば、愛は相手に対して最善を行うことです。
自分が損しようが、見返りがなかろうが、嫌われようが関係なく
相手に対して、最善をなすことを言います。
ですからその目的は、いつでも「相手のため」です。
少しでも「自分のため」が入ってしまうと、途端に愛でなくなります。
同じことを行っていても、愛ではなくなってしまいます。
ですから具体的に、こういう行いが愛ですとは言えません。
同じ行動でも、その動機によって愛の行動だったり、
自己中心的行動だったりしてしまうからです。
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、
誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、
愛がなければ、わたしに何の益もない。
コリントの信徒への手紙一 13章3節
たとえ自分の全財産を貧しい人に施したとしても、
自分の命を相手のために引き渡したとしても、
その動機が、自分の名誉や自慢のためであったとしたら、
その行動はもはや、愛でも何でもないというのです。
愛するというのは、動機に「自分のため」ということが
一切入っていないことを言うのです。
2.その動機が「私を愛してほしい」では、愛といえない
ボランティア活動をするとします。
炊出しに行って多くの人に食事をふるまったとします。
ご飯を振る舞うという行為は同じでも、動機が問われます。
A.動機が愛の場合
・自慢しない。
・誰も見ていなくても行なう。
・自分が損をしても、気にも留めない。
・自分の感情や好き嫌いに関係なく誰にでも施す。
・恩をあだで返されても、怒らない。
・何もお礼を言われなくても憤慨したり落胆したりしない。
・こんなにやってあげたのにという思いを一切持たない。
・自画自賛しない。
・自分のしたことを、よくやったと認めてもらおうとしない。
B.動機が愛でない場合
・自慢する。
・人が見ているところでしかやらない。
・自分が損をしないようにして行う。
・自分の気に入った人にだけ施す。
・恩をあだで返されたら、怒る。
・何もお礼を言われないと憤慨したり落胆したりする。
・こんなにやってあげたのにという思いを持つ。
・私はよくやったと自画自賛する。
・自分のしたことを、よくやったと認めてもらおうとする。
自己中心が入っているかいないかの、差になってきます。
自分の名誉のためにとか、自分の利益のためにという動機で行うのは
愛ではなく、自己顕示になってしまいます。
自己顕示というのは自己中心で、人のことよりも自分が中心です。
相手に良いことをしているようで、その動機は「自分の利益」です。
言い換えれば「私を愛してほしい」という動機なのです。
3.愛は、自分の感情や気持ちとは無関係
また「好き」というのも、自分自身の気持ちのことであって、
これも自己中心です。自分が好きな人にだけ親切にしてあげたい、
好きな人とだけ一緒に居たい、好きな人を自分だけのものにしたい。
よく考えれば「好き」というのも、その動機が
「自分の利益」であることに気がつきます。相手に最善を行う場合、
自分がその人を、好きか嫌いかは一切関係ありません。
愛は、自分の気持ちとは無関係です。
相手に対しての最善であって、自分は関係ないのです。
自分の思いを挟まずに、相手に対して最善を行なう
そのような行動が、愛の行動ということになります。
たとえ自分が愛されても、愛されなくても、
私たちは愛する行動を、常に行ってゆくのです。
【今日の聖書】
愛は忍耐強い。
愛は情け深い。
ねたまない。
愛は自慢せず、
高ぶらない。
礼を失せず、
自分の利益を求めず、
いらだたず、
恨みを抱かない。
不義を喜ばず、
真実を喜ぶ。
すべてを忍び、
すべてを信じ、
すべてを望み、
すべてに耐える。
コリントの信徒への手紙一 13章4〜7節