今日のできごと
2016/9/27(火)

今日は、松江地域の牧師の早天祈祷会が開かれました。
列王記上17章8〜16節の、サレプタのやもめの個所を
読んで、共に祈りました。
1.エリヤの言葉は常識はずれも甚だしかった
@エリヤの要求はとてもひどい要求でした
彼は立ってサレプタに行った。
町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。
エリヤはやもめに声をかけ、
「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。
彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、
「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。
列王紀上 17章10〜11節
なぜこれがひどい要求だったかというと、やもめの次の言葉から
それがわかります。
彼女は答えた。
「あなたの神、主は生きておられます。
わたしには焼いたパンなどありません。
ただ壺の中に一握りの小麦粉と、
瓶の中にわずかな油があるだけです。
わたしは二本の薪を拾って帰り、
わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。
わたしたちは、それを食べてしまえば、
あとは死ぬのを待つばかりです。」
列王紀上 17章12節
そうです、もうパンを焼くための粉も油も
残すところ、やもめ親子の1食分しかなかったのです。
そんな困窮している人に対して、パンを要求するのは
この人の最後の望みのパンを、奪うことになることだったのです。
やもめの女性は、悲痛な答えを返しています。
「わたしには焼いたパンなどありません。」
「ただ壺の中に一握りの小麦粉と、
瓶の中にわずかな油があるだけです。」
かわいそうに、もう食糧が1食分しか残ってなかったのです。
Aエリヤの語る神の約束は常軌を逸していました
普通、このようなやもめの言葉を聞いたら、
「申し訳ありませんでした、そんな状況だとは存じ上げず
失礼致しました。水だけで結構です。」などと言うでしょう。
けれども、エリヤは構わず続けるのです。
エリヤは言った。
「恐れてはならない。
帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。
だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、
わたしに持って来なさい。
その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。
列王紀上 17章13節
「今、もう粉も油もわずかしかないって言ったでしょう、
わかりませんか?それでも私にパン菓子を作れと
言われるのですか?」と、普通なら言いたくなります。
ここまでなら、エリヤは何という図々しい人なんだろうか!
と思えてしまいます。
続けてエリヤはそのように言った理由を、説明します。
なぜならイスラエルの神、
主はこう言われる。
主が地の面に雨を降らせる日まで
壺の粉は尽きることなく
瓶の油はなくならない。」
列王紀上 17章14節
「そんなばかな!あり得ない!
いや、絶対無理でしょう。壺から粉が湧いて出るんですか?
瓶から油が湧き出るんですか?」
「パンがほしいだけでしょ!パンがほしいからと言って、
いい加減なことを言わないでください。」
そう言い返したくなってしまうような、約束の言葉です。
よくよく考えてみると、エリヤの言葉は常識はずれも
甚だしい言葉だったのです。初対面の人に、
こんなことを言われて、誰が信じられるでしょうか?
2.やもめはエリヤの言葉を信じて素直に従った
しかし、このやもめはこのエリヤの言葉を、
そのまま受け入れて、エリヤの言葉通りにしているのです。
ここが不思議なところです。
やもめは行って、
エリヤの言葉どおりにした。
列王紀上 17章15節(前半)
「食糧が底を突く」という極限の状態で、
自分も子供も、もう死ぬかもしれないという状況で
一番自分の本性が出てしまうような、そんな状況で
初対面のエリヤの言葉に従っているのです。
なぜ神様が、この貧しいやもめを選ばれたのか、
その理由が、ここにあったのです。
イエス様もこの箇所を引用して、話をされました。
確かに言っておく。
エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、
その地方一帯に大飢饉が起こったとき、
イスラエルには多くのやもめがいたが、
エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、
シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
ルカによる福音書 4章25〜26節
このやもめの従順さ、
エリヤを通して語られる「神の言葉」を信じ、
通常なら、図々しいとも思えるような
エリヤの要求を受け入れ、
絶対あり得ない、と思えるような「神の約束」を信じて、
行動に移す心、それが神に選ばれた理由だったのです。
神様が、このやもめにエリヤを養わせようと、
決めておられたのです。
「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。
わたしは一人のやもめに命じて、
そこであなたを養わせる。」
列王紀上 17章9節
3.神は豊かに与える前に信仰を求められた
やもめの信仰の行動、すなわち「自分たちが食べる前に、
エリヤに対して、小さなパン菓子を作って与える」
という行動の後に、何が起こったでしょうか?
通常あり得ないことが、起きました。
エリヤの言葉通りのことが、起きたのです。
壺の粉も瓶の油も、決してなくならなかったのです。
主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、
壺の粉は尽きることなく、
瓶の油もなくならなかった。
列王紀上 17章16節
そして、エリヤとやもめと、やもめの家族は
雨が降らない中でも、きちんと食べて暮らしていくことが
できたのです。
こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、
幾日も食べ物に事欠かなかった。
列王紀上 17章15節(後半)
もともと壺の中にあったのは、一握りの小麦粉だけでした。
瓶の中にあったのは、わずかな油だけでした。
それが、雨が降るその日まで、なくならなかったのです。
3年半の干ばつの期間の内、どのくらいの間エリヤが
サレプタにいたかは、記されていません。
例えば1年いたとしたら、どうでしょうか?
1日3人が1食食べるとしても、1年を365日として1095食、
1日に2食なら、2190食、3食なら3285食です。
2年いたら、その倍、3年ならその3倍になります。
もし、エリヤがケリト川に半年しかいなかったとしたら、
残りの3年間は、サレプタにいたことになります。
その場合に、1日3食、3人で食べていたらどうなるでしょうか?
365日×3年×3人×3食(朝昼晩)=9855食ということになります。
実に1万食近くの、粉と油が出てきたことになります。
一握りの小麦粉とわずかな油が、何倍に増えたことになるのでしょうか?
数十倍、数百倍というレベルではなく、
数千倍というレベルの、増加ということになるのです。
神様が与えられる祝福に、限界がないことを教えられます。
神様に限界はないのです。
エジプトのヨセフの時の豊作も、収穫量が量りきれないので
量るのをやめたと記されています。
ヨセフは、海辺の砂ほども多くの穀物を蓄え、
ついに量りきれなくなったので、量るのをやめた。
創世記 41章49節
ソロモン王の得た食糧は、毎日以下の通りでした。
(1コル=220〜230リットルと言われています)
ソロモンの得た食糧は、
日に上等の小麦粉三十コル、小麦粉六十コル、
肥えた牛十頭、牧場で飼育した牛二十頭、
羊百匹であり、その他、鹿、かもしか、子鹿、
肥えた家禽もあった。
列王紀上 5章2〜3節
年間に直すと、小麦だけで約755万5500リットルです。
だいたい小麦粉は1リットルで600グラムほどですので、
年間4533.3トンになります。
2014年の「FAO統計データベース」の統計でみてみると、
日本の小麦の年間生産量は、85万2400トンです。
したがって、日本の小麦の1年間の生産量の
188分の1の量の小麦を、ソロモン王は毎日与えられていた
という計算になります。(1コル=230リットルとして計算)
神様に限界はないのです。
実に数千倍というレベルの、食糧の増加の恵みを
サレプタのやもめは、神様に与えられたのです。
むすび.
やもめに必要だったことは、何でしょうか?
それは、エリヤを通して語られる神の言葉を信じて、
それを実行に移すことでした。
現状を見て判断し、エリヤの言葉を退けて絶望することではなく
エリヤを通して語られた神様の約束を信じて、
信仰を行動に移すこと、これこそが求められていたのです。
私たちにも神様は、チャレンジをくださいます。
時間がない、お金がない、人がいない、...
その状況でさらにこれ以上できません!というときに
神様は私たちにも、約束とチャレンジを与えられます。
神様のチャレンジに、こたえる人となりたいと思います。
そして神様の約束を、受け取る人になりたいと願います。
【今日の聖書】
信仰がなければ、
神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、
神が存在しておられること、
また、神は御自分を求める者たちに
報いてくださる方であることを、
信じていなければならないからです。
ヘブライ人への手紙 11章6節