今日のできごと


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2016/10/6(木)


 出雲の神在月シリーズ その3

 出雲観光ガイドによると、 神迎神事かみむかえしんじは、以下のように行われるそうです。

No. 項目 内容
1 月日 旧暦10月10日 (2016年11月9日)
2 場所 出雲大社の西方1kmにある稲佐いなさの浜
3 斎場 浜に注連縄しめなわが張り巡らされた斎場が設置される
4 開始時刻 夕刻7時
5 御神火ごじんか 浜で御神火ごじんかが焚かれる
6 神籬ひもろぎ 斎場の中に神籬ひもろぎが2本配置される
7 龍蛇神りゅうじゃじん 神籬ひもろぎの傍らに神々の先導役となる龍蛇神りゅうじゃじんが海に向かって配置される
8 絹垣きんがい 神事が終わると、神籬ひもろぎは両側を絹垣きんがいで覆われる
9 行列 龍蛇神りゅうじゃじんが先導となり、高張提灯が並び奏楽が奏でられる中、参拝者が続き、浜から出雲大社への「神迎の道」を延々と行列が続く
10 神迎祭かみむかえさい 出雲大社神楽殿において国造こくそう以下全祀職の奉仕により「神迎祭」が執り行われる
11 十九社じゅうくしゃ 神々が旅(宿)社である東西の十九社に鎮まる

 このようにして、この時期に日本全国の八百万の神々を
 出雲大社に迎えるそうです。
 ここに「龍蛇神」という名前が出てきます。

 「龍蛇神」は、豊作や、豊漁、家門繁栄などの神とされています。
 神迎祭終了後の神在祭期間中にも、八足門内廻廊やつあしもんないかいろうに「龍蛇神」が祭られ、
 一般の自由参拝が可能になっているそうです。

 実は、神迎祭で八百万の神々を迎えるのは、「龍蛇神」なのです。
 そしてこの「龍蛇神」が、神迎祭終了後の神在祭期間中にも
 出雲大社では拝まれています。

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 とすると、これらの神々の支配構造はどうなっているのでしょうか?
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 伊勢神宮に祭られている天照大御神あまてらすおおみかみは、
 須佐之男命すさのおのみことと、姉弟です。
 大国主命おおくにぬしのみことは、須佐之男命の6代目の孫にあたります。

 世代から言えば、天照大御神の方が大国主命よりもずっと上です。
 そして、大国主命は、天照大御神に国を譲ったはずです。
 しかし、大国主命の所に、全国の八百万の神々が年に一度集合します。

 伊勢神宮ではなく、出雲大社なのです。
 天照大御神の所にではなく、大国主命の所に集まるのです。
 そして神々が会議を開くというのです。

 本来、天照大御神に、国の支配権があるにも関わらず、
 わざわざ、すでに国の支配権を放棄した
 出雲の大国主命の所に集まって来て、会議をするのです。

 しかもそこに、天照大御神は来ることがなく、諏訪の龍神と2人だけは、
 出雲に行かずに、会議に参加しません。蚊帳の外です。
 天照大御神は伊勢神宮に、諏訪の龍神は諏訪に留まるのです。

 支配構造からすると、国を譲られた天照大御神の方が上に見えますが
 実際のところ、目に見える部分を天照大御神が支配しているだけで、
 大国主命が、目に見えない部分を支配するという支配構造のようです。

 国を譲ったと言っておきながら、実質は表面的な譲渡に過ぎず
 実は、いまだに見えない部分では、大国主命の権力が大きく
 その力で国を支配していると言えないでしょうか?

 とすれば、実は伊勢神宮の天照大御神よりも、
 出雲の大国主命の方が、支配力が強いということになってきます。
 実は、伊勢よりも、出雲の方が全国の神々に対して、

 強烈な支配力を持っているのではないでしょうか?
 だからこそ、出雲だけが神在月で、伊勢を含む全国は
 信濃を除いてみな神無月なのではないでしょうか?

 そして出雲に集まる八百万の神々を先導するのが、「龍蛇神」です。
 大国主命おおくにぬしのみことが祭られている出雲大社で、
 実際の所は、龍と蛇の神「龍蛇神」が、拝まれています。

 なぜ、大国主命が祭られている出雲大社に、
 いきなり「龍蛇神」という神が、出てくるのでしょうか?
 どうも大国主命とは、何の関係もなさそうです。

 しかも、「龍蛇神」のポジションは、
 八百万の神々を先導するような重要なポジションであり
 神在祭期間中にも、「龍蛇神」だけは堂々と祭られているのです。

 「龍蛇神」とはいったい何者なのでしょうか?

 わからないことばかりです。しかし、出雲が伊勢よりも
 全国的に大きな影響力を持っていることだけは、確かなようです。
 霊的な支配構造の上位に、出雲が位置しているようです。

 聖書から言えば、もしこれらの神々というものが
 本当に存在するとするのなら、
 それらは、聖書の神とはどういう関係になるのでしょうか?

 聖書には次のように記されています。

 聞け、イスラエルよ。
 我らの神、主は唯一の主である。
 申命記 6章4節

 聖書によれば、神は唯一です。
 八百万ではありません。
 ただひとりの神なのです。

 そして聖書の神以外の神はいないと記されています。

 しかし見よ、わたしこそ、
 わたしこそそれである。
 わたしのほかに神はない。
 申命記 32章39節 (前半)

 ということは、神々と言われていても
 それらは「聖書の神でないもの」ということになってくるので
 聖書の神とは「反対の勢力圏にいる霊的存在」

 ということになってきます。
 「神々」とは呼ばれているものの、実際の所は真の神ではなく
 神の反対側にいる霊的勢力ということになってきます。

 とするなら、聖書から言えば、それらを礼拝しても、
 「そこには何の救いもない」ということになってきます。
 逆に言うと、永遠の滅びが待っているということなのです。

 【今日の聖書】
 わたし、
 わたしが主である。
 わたしのほかに救い主はない。
 イザヤ書 43章11節


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