日本同盟基督教団 小海キリスト教会です。

電話でのご予約・お問い合わせはTEL.0267-88-7169

〒384-1102
長野県南佐久郡小海町大字小海4355−27
牧師 荒籾 実

2019年4月7日 みことば 

     
  
  「わたしはあなたのために、
   あなたの信仰がなくならないように祈りました。 」
     
             ルカ 22:32  





2019年4月7日 メッセージ 荒籾 実 牧師

「罪を犯さないため」     エペソ4:26〜27

 神は、人間に喜怒哀楽の感情を与えてくださいました。この感情は私たちの人生にとってなくてはならない大切なものです。もし喜怒哀楽の感情がなかったとしたら私たちの日々の生活は無味乾燥な営みになってしまうからです。しかし、感情に振り回された浮き沈みの激しい営みもいろいろな問題へと発展することもあるので自分の感情に対する取扱い方を考えてみる必要があるのです。
 では、パウロは、どのように怒りの感情を取り扱うようにと勧めているのでしょうか。パウロは、怒りの感情自体を否定していません。逆に怒るべき時に怒らないことの方が不自然であることをパウロ自身が身をもって模範を示しています。ガラテヤ2:11〜21参照。パウロは、福音の真理が曲げられることに対し黙って見過ごすことができなかったのです。しかし、どんなに正しい怒りであってもその怒りの状態を持続させることを慎む事が必要です。なぜなら、それは怒りの感情がエスカレートすると怒りが憎しみに代わり、殺意へと発展していくからです。ですから、怒りの感情が自分のうちに湧き上がってきた時、人の言葉や態度が赦せないと思うような時、私たちが思い出すべきことは神様と自分の関係です。マタイ18:21〜35参照。
 私たちは、自分が本当に罪を赦された者であるという自覚を持っているのでしょうか。いいえ、自覚がないから人に対して寛容な態度を示すことができないというのが事実です。もし神に対する感謝の思いがあれば、自分に対して罪を犯した者に対し、神が自分の罪を赦してくださったのだから、私もこの人の罪を赦そうと考えるはずなのです。私たちの態度が私たちの心の状態を明らかにします。ですから、自分の心の中になかなか許せない思いがあることに気づいた時、神のもとに行き、まず自分の罪を赦していただいたことを感謝しましょう。
私たちは自分で考えているよりも高慢な者であり、素直に自分の過ちを認めよとしない者たちです。高慢な心は神との交わりを不可能にします。ですから、神から自分の心のうちにある高慢な心が示された時、素直に神のもとに行き、その罪を赦してくださいと祈り求める必要があるのです。私たちが自分の犯した罪の赦しを請い求めなくなる時、サタンはそのチャンスを逃しません。サタンに自分を誘惑させる機会を与えないために、常に主の御前にひざまずき、罪の赦しを求め続ける者でありたいと願います。

2019年3月31日 みことば 

     
  
  「弟子たちの目の前でその御姿が変わった。
   顔は 太陽のように輝き、
   衣は光のように白くなった。 」
     
              マタイ 17:2
                           
  


2019年3月31日 メッセージ 荒籾 実 牧師

「神の祝福を受け続けるために」     エペソ4:25

 教会が神の祝福を受け続けるために一番大切なことは何でしょうか。
それは一致を保ち続けることです。一人一人の力がたとえ小さくても、一致して祈り、一致をもって行動するなら大きな力となり福音宣教も前進します。では、一致を破壊するものは何でしょうか。それが偽りです。サタンは偽りを教会内に蔓延させようとその機会を伺っています。サタンの方法は、アダムたちを誘惑した時から変わっていません。アダムたちは、サタンの偽りの言葉に惑わされ、神のご命令に背くことを選択します。アダムたちが罪を犯すことにより、神と人間の間にあった信頼関係は破壊されたのです。
罪人である私たちは自力でみことばに従って生きることはできませんが私たちのうちに住んでおられる聖霊が私たちに力を与えてくださり、みことばに従って生きることができるように助けてくださいます。ですから、私たちはパウロの勧めに従い、偽りを捨て、真実を語ることができるのです。そして、パウロは真理を語る理由を教えています。「私たちは互いにからだの一部なのです。」教会は、キリストの体に譬えられます。体にはいろいろな器官がありますがその各器官は互いに真実を伝えることで調和しています。同じように、教会もキリストを頭としてキリストの指示のもとに各器官である私たちは、互いに真実を語り合うことで信頼関係が保たれ、一致して宣教の業に取り込むことができるのです。ですから、そこに偽りが入ると信頼関係が破壊され、不一致が生じ、協力して宣教の働きができません。それをサタンは知っているのです。教会が本当の意味で祝福されるためには教会が神の御前に誠実に忠実に真実に罪を悔い改めて歩んでいるか否かによって決まることを覚えたいと思います。
私たちはみな互いに弱さを持つ生身の人間です。サタンの誘惑に負け、偽りの罪を犯すこともあります。ですから、互いに執り成し合い、親身になって忠告してくれる兄弟姉妹の言葉を感謝し受け入れる者に造り変えてくださいと神に祈り求める者になりたいと願います。詩篇51:1〜13参照。
素直な心は、みことばによって罪が示された時、その罪を悔い改め続けることにより造られます。そして、神は、罪を悔い改めた者同士の群れである教会を祝福してくださり、教会の一致を保ち、宣教の業を推し進める力を与えてくださいます。それが神の祝福を受け続けるために私たちが大切にすべきことです。


2019年3月24日 みことば 

     
  
  「だれでもわたしについて来たいと思うなら、
    自分を捨て、自分の十字架を負って、
    わたしに従って来なさい。 」
     
            マタイ 16:24
                           
     


2019年3月24日 メッセージ 荒籾 実 牧師

「心と霊において新しくされ続ける」    エペソ4:17〜24

 この世界を創造されたお方が存在されることは、造り主の造られた被造物がある以上、誰の目にも明らかです。しかし、救われる以前、私たちは創造主に対し、崇めることも、感謝することもなく生きていました。
造られた者が造り主の意図に反して生きているならば、その造られた者としての目的を果たすことができずに空しさを覚えるのは当然です。しかし、キリスト者はイエス様と出会い、イエス様を主と告白し、罪を悔い改め、常に意識してイエス様ならばどうされるだろうかとイエス様に尋ねながら自分の言葉や態度を顧みる者になります。
 救われてキリスト者とされた人々にパウロは二つのことを勧めます。
一つ目は、人を欺くことをやめることです。
二つ目は、霊と心において新しくされ続けることです。
では私たちが新しくされたというのは、どういう点においてなのでしょうか。それが真理に基づく「義」と「聖」です。この義とは、キリスト者の人に対する正しい態度のことです。もう一つの聖とは、キリスト者の神に対する正しい態度のことです。人間はもともと人に対しても、神に対しても正しい態度で応答できる存在として造られました。しかし、人間が神様の命令に背くことを選択した結果、罪をもつ者となり人間に対しても、神に対しても正しい態度を示すことができなくなったのです。しかし、イエス様を信じることで失われていた義と聖を回復され、人と神に対しても正しい態度を選択できる者に変えられます。また、真理に基づく「聖」とは、宗教性と言い換えることができます。私たちは創造主に造られた被造物であり、造り主を礼拝するために存在している特別な被造物です。
救われる以前、私たちは、偽物の神々を拝み、仕え、奴隷となっていましたが救いに与ることにより、まことの神様を礼拝できるようになりました。私たちのうちに住んでおられる聖霊様は私たちが本気で望むならば、私たちがみことばに従って救われる以前の古い生活を捨てさせ、主の喜ばれる新しい生活を選択することができる者と変えてくださいます。そして、聖霊様が私たちをイエス様に似た者と造り変えてくださるのです。
自分の力ではなく、常に聖霊様の助けをいただいて共に励まし合い、心と霊において新しくされ続けることを祈り求めてまいりましょう。

2019年3月17日 みことば 

     
  
  「あなたは生ける神の子キリストです。 」
     
           マタイ 16:16
                           
     



2019年3月17日 メッセージ 荒籾 実 牧師

「主の教会を共に建て上げる」    エペソ4:14〜16

 主の教会を共に建て上げるために必要なことは聖書の真理に堅く立つことです。コロサイ人への手紙に当時の様子を知る手がかりがあります。コロサイ2:8参照。このだましごとの哲学とは、のちのグノーシス主義です。グノーシス主義とは、特別な知識(グノーシス)を強調し、神及び救い主としてのキリストを否定する教えです。この教えの特徴は二元論です。特別な知識の所有者である霊的な人間は、無知な大衆とは全く区別された存在であり、至高者(神)と同一となった彼らは、二つの相反する道徳観をもちます。それは禁欲主義と放縦主義です。前者は、地上のものにけがされるのを避け、隠遁し、後者はこの世界の侵すことのできる領域は肉体と魂までであるとし、霊は世界の道徳律より上にあるので、何をしても許されるという考えです。しかし、聖書は肉体と魂と霊を分けて考えることはしません。
このような偽りの教えがこの手紙が書かれた時代、彼らの間に横行していました。そこで、パウロは聖書の真理に堅く立つように警告したのです。私たちも聖書の真理に反する教えには気をつけ自分自身も真理を語りみことばに従って生きることを選択する者でありたいと願います。また、身近な人が聖書の真理に反することをしているのを目撃した場合、愛をもって真理を語るようにとパウロは勧めています。単に真理を語るだけでなく、愛をもって真理を語るように勧めています。これはとても大切な事です。なぜなら、単に相手の間違いを指摘するだけでは相手に指摘した側の真意が十分に伝わらないからです。諭す相手が自分の教えることを素直に聞くためには、日頃からの関係も重要です。ですから、自分から声をかけ信頼関係を主にある兄弟姉妹との間に作ろうと心掛けることも必要でしょう。
また、教会の成長は、子どもの体の成長と重なります。幼い子どもはよく転びます。しかし、体が成長すると頭と胴体とのバランスがちょうど良くなり、めったに転ばなくなるものです。それと同じように私たちも、霊的に共に成長することにより、安定した教会生活が営まれるようになり、みことばの真理に従って生きることを通して、キリストのご性質に似た者に変えられます。
 神様が私たちを選び、今、この教会に召してくださり、この教会の中で霊的に成長することを期待しておられるのです。ですから、聖書の真理に堅く立ち、愛をもって真理を語り、主の教会を共に建て上げる群れになりたいと願います。


2019年3月10日 みことば 

  

  「信仰の創始者であり
   完成者であるイエスから
   目を離さないでいなさい。 」
     
          ヘブル 12:2
                          
     

2019年3月10日 メッセージ 荒籾 実 牧師

「牧師が立てられた理由と目的」    エペソ4:11〜13

 パウロはエペソの教会の兄弟姉妹に対し、主が立てられた人々がどのような人々であり、その働き人が立てられた理由と目的を記しています。これは主のからだを形成する私たちが共通した理解をもち一致して宣教する群れとなるために必要な認識です。この手紙が記された当時に限定された働き人として使徒と預言者がいました。使徒の条件は、使徒1:15〜26参。
次は預言者です。彼らは単に将来起ることを予告するだけでなく、神のことばを語る働きもしていました。使徒11:27参。次の伝道者とは開拓伝道をした人々です。この伝道者の働きは今も継続しているものです。最後は牧師と教師です。この二つは二つの別々な務めというよりも一対になった二つの働きです。なぜなら、牧師の務めの中で教える務めは大きいものだからです。
 では、牧師の立てられた理由と目的は何でしょうか。12節参。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げることです。
聖徒とは、福音を受け入れ、信仰をもち、洗礼を受けて教会員となった人々です。その人々を整えて奉仕の働きをさせることが牧師の立てられた理由であり、目的です。
 私たちは、救いに与り、その後、成長しなくても良いというわけではありません。洗礼はゴールではなく、スタートです。救いに与った者たちが霊的に大人になりキリストのご性質に似た者になるには、実際にみことばに従って生きることが必要不可欠です。教会は、救われた人々に対し奉仕することを勧めてきました。聖書のお話しをすることも霊的に成長する一つの機会になります。なぜなら、お話しをするには自分が聖書に書かれてある真理を理解しなければならないからです。しかし、知的な理解だけが増し加わり体を用いた実践面での奉仕が欠けるということも起こります。そこで体を使った奉仕にも積極的に関わり、仕えることの喜びを体で体験していくことも必要です。自分のためだけに生きていた空しい過去の人生を繰り返さないためにも、人々の救いに繋がることのために自分に与えられた時間と賜物を捧げる者になりたいと思います。
 私たち一人一人が喜んで教会のために奉仕することにより、主の教会は建て上げられて行くのです。私たちは、同じ主に召された者たちです。召された目的を果たすために、主から与えられた賜物を用いて互いに仕え合い、主のからだである教会を共に建て上げるという光栄な務めに参与させていただこうではありませんか。

2019年3月3日 みことば 

     
  
  「あなたがたは、今日のように、
   私たちの神、主と心を一つにし、主の掟に歩み、
   主の命令を守らなければならないのです。 」
     
               T列王8:61
                           
     


2019年3月3日 メッセージ 荒籾 実 牧師

「主のからだである教会の豊かさ」    エペソ4:7〜10

 今日は、主のからだである教会の豊かさについて考えてみたいと思います。キリストのからだを構成する私たち一人一人は生まれも育ちも、能力も才能もひとそれぞれです。年齢も幼子から年配の方まで幅広い層の人々が神様によって召し出され、今、一つの家族とされています。ここに主のからだの豊かさがあります。教会に来なければ信仰をもつことがなければ出会うことも、交わることもない者同士が同じ主の霊により、導かれ、信仰告白に至る者とされ、同じみことばの糧に与り、互いに助け合い、励まし合い、宣教のために労する者になることが期待されています。
 主に選ばれた者である私たち一人一人に神様が与えてくださった賜物があることを覚えたいと思います。Tコリント12:4〜6参。
それぞれに神様が与えてくださった賜物は自分勝手に用いられるべきものではなく、教会の一致を促進させるために企画され、実行されるために私たちに与えられたものであることを覚えたいと思います。なぜなら、私たちは自分にない賜物に目を向け、つぶやいたり、不平を言ったり、ねたんだり争うこともあるからです。Tコリ12:12〜27参。
神様は、私たち一人一人に異なる賜物を与えてくださり、それを用いて主にお仕えすることを求めておられるのです。そして、賜物が恵みによって主から与えられたものであることを覚えたいと思います。
どうして賜物が恵みによって主から与えられたものであることを覚える必要があるのでしょうか。それは私たちが高ぶることがないためです。私たちは、油断しているとすぐに自分の能力や才能を誇る思いが湧き上がり、自分と人を比べ、自分は他の人より優れていると思い上がることがあるからです。神様が一番お嫌いになられることが高慢です。パウロも自分が高慢になる傾向があることを自覚し、同じようにエペソの教会の兄弟姉妹が高慢にならない為にそれぞれに与えられた賜物が主から与えられたものであることを詩篇68篇18節を引用することで教えようとしました。
主がそれぞれに異なる種々の賜物を私たちにお与えになったのは、キリスト者一人一人の奉仕によって、教会が建て上げられ、成長し、一致を保つためです。ですから、私たちは、キリストのからだ全体の一致と全体の益のために与えられた賜物を主のために用いる者になりたいと願います。
 私たち一人一人を召してくださった主をこれからも本気で礼拝し召された者にふさわしい歩みを実行できるように互いに執り成し祈り合いながら主のからだの豊かさを体験してまいりましょう。

2019年2月24日 みことば 

     
  
  「あなたがたのうちに、知恵の欠けている人がいるなら、
   その人は、だれにでも惜しみなく、
   とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。
   そうすれば与えらます。」
     
               ヤコブ1:5
                           
     


2019年2月24日 メッセージ 荒籾 実 牧師

「一致の内容と一致の手段」    エペソ4:4〜6

 今日は、一致の内容と一致の手段についてみことばから確認します。4節に3つの一致の内容に関することが記されている。
一つ目は、からだが一つであることです。からだとは、キリストのからだである教会を意味しています。このからだは、すべてのキリスト者によって構成されている普遍的な教会です。
二つ目は、御霊が一つであることです。この御霊とは、ペンテコステの日にユダヤ人のキリスト者に降られた御霊様のことです。同時に異邦人であったコルネリオたちの上に降られた御霊様もユダヤ人のキリスト者たちの上に降られたものと同じものです。
三つ目は、望みが一つであることです。これは救いの望みであり、世の終わりに、御国に行くことができるという保証の伴った望みです。エペソ1:13〜14参。
 では、教会の一致の手段に関する3つのことを見てみましょう。
一つ目は、主はひとりであることです。この主という言葉は神を意味するものであり、ローマ帝国の皇帝にささげられた称号でした。初代教会の人々は、皇帝に対してこの主を意味する称号を使うことを拒否し、イエス様に対してのみ、主と呼ぶことを選択します。
二つ目は、信仰です。ひとりの主に対する信仰です。この信仰は、ユダヤ人にも異邦人にも平等に与えられえているものです。ローマ3:29〜30参。
三つ目は、バプテスマです。パウロはここでバプテスマは一つであると教えています。このことから、バプテスマが複数あると考えている人々がいたことが推測できます。しかし、複数のバプテスマがあるのではありません。Tコリント12:13参。
 最後に教会の一致の源に関することに目を向けてまいりましょう。6節の中に記されているすべてのものを貫いてくださったお方とは、キリストのことです。キリストは神と人間の間に立ち、仲介者となってみこころを完全に実行し、救いの道を貫き、私たちが信仰により神様の祝福に与れる者にしてくださったお方です。私たちの救いが三位一体であられる神様の協同作業であり、父と子と聖霊の神様が一つとなって働いてくださることにより、教会の一致が保たれていることを覚えましょう。私たちが心を一つにして本気で主を礼拝し、主に祈り求める時、あふれるほどの祝福が私たちの教会にそれぞれの家庭に地域に注がれはじめることを信じ、私たちも全身全霊で一丸となって主に礼拝をささげる群れになりたいと願います。