日本同盟基督教団 小海キリスト教会です。

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牧師 荒籾 実

2017年8月6日 みことば 


  「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ
   草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、
   とこしえに変わることがない。」
 
                 Tペテロ1章24〜25節



2017年8月6日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「主の御名による解放」     使徒16:16〜18  
 
 パウロたち一行は、ピリピで占いの霊に憑りつかれた女奴隷に出会います。その女奴隷は、パウロたちの宣教を妨害し、困り果てたパウロは、主の御名によって占いの霊を女奴隷から追い出します。占いの霊に憑りつかれた女の人が悪霊の力から解放された後、イエス様を信じたかどうかは分かりません。しかし、イエス様の御名によって悪霊の力から解放されたことだけは確かです。
私たちも、イエス様の御名によっていろいろなものから解放された者たちです。ある人は、金銭の奴隷となり、すべてを犠牲にして仕事に没頭してきたことでしょう。そして、イエス様と出会い、金銭よりも大切なことがあることに気づいたはずです。また、ある人は、地位や名誉を得るために多くのことを犠牲にしてきたかも知れません。しかし、イエス様と出会い、求めていたものが空しいものであり、もっと大切なことがあることに気づいたはずです。心の中で神様よりも大切なものがみな偶像となります。神様はその人の心が偶像の奴隷となることを悲しまれるのです。イエス様は、奴隷の状態から私たちを解放するために十字架にかかられたのです。どうして、イエス様が十字架にかかることが私たちを罪の力から解放することになる のでしょうか。それはイエス様を信じた時、私たちはイェス様と一つにされ、イエス様が十字架にかかり死なれた時、私たちの自我もイエス様と一緒に死んでいるためです。(ローマ6:6〜13参照)
死んだ者は、すでに罪の奴隷状態から解放されています。罪の奴隷状態からの解放とは、罪を犯さなくなるという意味で はありません。救われる以前、罪を犯すことしかできなかった者が罪を犯さない選択肢をもつ者と変えられることを意味しています。実際に、私たちは日々、罪を犯すかどうかを選択しているはずです。自力でサタンの誘惑に勝つことはできませんが、聖霊様の力をいただくことにより誘惑に打ち勝つことができるのです。 聖霊様の力にいつも満たされてサタンの誘惑を退けることができるように祈り続けましょう。自分は大丈夫であると考えることほど危険なことはありません。占いの霊から解放された女の人も油断していると前の霊が他の霊を引き連れ戻ってくる場合もあります。イエス様に心の王座に着いていただくことが必要なのはその故です。イエス様は、悪霊よりも力のあるお方であるため、悪霊の働きから守ってくださいます。自分の霊の状態が正常な状態となっているか常に点検し、自分のために、家族のために、そして、これから救われる人々のために、聖霊様の助けを祈り求め、とりなし祈り続ける者になりましょう。

2017年7月30日 みことば 


  「人の子は、失われた人を捜して
   救うために来たのです。」
 
                 ルカ19章10節



2017年7月30日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「宣教を支える教会」     使徒16:11〜15  
 
 教会の使命は、宣教です。初代教会は、イエス様の大宣教命令に従って宣教を展開し、宣教によって建てられた教会がさらに宣教師を派遣し、祈り支え、福音が世界中に広がった経緯があります。日本同盟基督教団も、教団設立時より国内宣教だけでなく、国外宣教にも力を注いできた教団です。国外宣教を押し進めること対し当初、諸教会には反対する声がありました。 自分たちの教会がまだ牧師の謝儀も十分に支払うことができない経済状況でどうして国外に宣教師を派遣できるのかという現実的な見方がありました。しかし、教団はイエス様の大宣教命令に従い、犠牲を覚悟で海外に宣教師を派遣し続けたのです。その姿は、ピリピの教会とパウロの関係に重なります。なぜなら、ピリピの教会は、貧しい中からパウロたちの宣教をサポートし続けたからです。
同盟教団から派遣されている宣教たちも、諸教会の祈りと献金により霊的な面と経済的な面が支えられ、安定した宣教が可能となります。 宣教の働きは、教会の祈りと支えなしでは継続できません。異国の地に足を運び、 そこで宣教し、教会を建て上げ、現地の人に牧会を引き継ぐことは容易なことではありません。膨大な時間と労カと犠牲が注ぎ込まれ、ひとつの教会が自立まで導かれます。
国内における開拓でも教会が自立するところまで辿りつくのに20年かかると言われています。これからはもっと時間がかかるでしょう。私たちも、宣教の働きに積極的に参加し、国内の開拓教会のために祈り捧げ、海外で宣教しておられる宣教師のためにも具体的に祈り支える群れになりたいと願います。宣教のために自分にできることは何だろうか。真剣に考えてみる必要があります。まず、宣教師 のために祈ることです。また、宣教師に手紙を書くことも励ましになります。宣教地を実際に訪問することはさらいよいことです。なぜなら、具体的な祈りは、宣教の現場に足を運び、実際の関わりの中で生まれるものだからです。現地に行けなくても宣教師の方々に関心を向け祈り続けましょう。
日本の国は、ずっと海外から宣教師の方々を送っていただいてきた歴史があります。これからは、日本から宣教師たちを海外に送り出す番です。教団は国外宣教7O周年にあたる2030年を一つの目標に、アジア全域へ宣教師を派遣することを目指しています。宣教のために喜んで捧げ、悔いの残らない最後を迎える者になりたいと願います。すべてを与え尽くされ、天に凱旋されたイエス様と弟子たちに倣い、私たちも神様から与えられたものを喜んで捧げる群れになり国内・国外宣教を支えてまいりましょう。

2017年7月23日 みことば 


  「わたしは、よみがえりです。いのちです。
   わたしを信じる者は、
   死んでも生きるのです。」
 
                ヨハネ11章25節


2017年7月23日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「主にゆだねよ」         使途16:6〜10

 使徒の働きは、別名聖霊の働きと呼ばれます。その呼び名の由来は、使徒の働きの背後に常に聖霊様のご支配とお導きがあるからです。今日の箇所は、その呼び名がズバリ当てはまる箇所であると言えます。なぜなら、バウロたちの伝道旅行の行先を聖霊様が閉ざされ、別の道に彼らを導かれたからです。
私たちも、日々の歩みの中で同じような出来事を体験しているのではないでしょうか。自分の計画では、こうして、ああして、こうなるだろうと予想していてもその通りに行かない場合があります。準備不足の為に、予定どおりにいかない場合もありますが十分に準偏していてもなかなか思い通りに物事が進まないこともあります。特に、建てた計画が祈りつつ主のみこころを求めながらなされた場合、どうして神様はこの計画を予定どおりに進ませてくださらないのだろうかと不満に思うこともあります。パウロたちも、自分たちの計画が思うように進まずにどうして行く手が閉ざされるのかと当惑します。救われて間もないパウロだったら、自分たちの計画を強引に押し進めようと抵抗したかも知れません。しかし、パウロはイエス様と出会い、十数年が経ち、自分の人生は自分のものではなく、イエス様のものであることを体験し、すべてをイエス様におゆだねすることのできる人に変えられたのです。私たちもパウロのようにイエス様におゆだねすることのできる者に変えられたいと願います。箴言16:1〜3参照。
私たちの人生の主権者は、神様です。私たちはいろいろと人生の計画を立てますがそれがどのような結果になるか決定されるお方がおられることを忘れてはなりません。私たちは自分の計画したことが絶対であると思い上がることもありますがすべてを知っておられる神様が私たちの計画をご覧になられ、御心のままにその計画を修正されることもあることを覚えましょう。将来のことを祈りつつ計画することは確かに必要なことですがその計画を変更する余地を残しつつ、いつでも柔軟に計画を変更できる謙虚さを身につけたいと願います。
パウロたちは、 自分たちの計画が留められたことを神様の導きであると受け止め、自分たちの計画を見直す時であると判断し、新しく示された宣教地に向かうことがみこころであると確信します。こうして記念すべきヨ一ロッパ宣教の第一歩が進められたのです。 使徒1:8参照。
私たちも、宣教の主が主権者であられ、主から遣わされた聖霊様の導きに従って、主のご計画だけがなることを期待し、すべてを主にゆだねつつ、開かれた道を大胆に進んで行く決断をいたしましょう。

2017年7月16日 みことば 


  「わたしもあなたを罪に定めない。
   行きなさい。
   今からは決して罪を犯してはなりません。」
 
                 ヨハネ8章:11節



2017年7月16日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「福音のために」       使徒16:1〜5

 パウロたちは、一刻も早くルステラに辿りつきたいと道を急ぎます。その理由は、 そこが以前宣教した際に石打ちの刑にあった場所であった為、そこに残してきた兄弟姉妹の様子が気になったからです。パウロは、自分が福音を伝えた相手のことを一日も忘れることなく、彼らの信仰が守られるように祈り続けていました。 神様が必ず彼らを守ってくださると信じ委ねていても実際に会うまで安心できません。また、ルステラ訪問にはもう一つ大切な目的がありました。それが同行者の獲得です。パウロは、異邦人宣教のために、テモテが用いられると考えたのです。なぜなら、テモテは、ユダヤ人の母親によって幼い時から旧約聖書を通してまことの神様を畏れる者に育てられていました。 さらに、彼の父親はギリシヤ人であった為、テモテはギリシャ語に堪能であり、異邦人宣教にその能力が用いられるからです。そして、何よりテモテがルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であったこともパウロの目に留まった理由の一つであると考えられます。
神様は、マルコを伝道旅行に同伴させるか、させないかでバルナバという強力な助け手を失ったパウロにテモテという有力な助け手を予め備えてくださっておられたのです。ところがここで一つの問題が生じてきます。それは、テモテが割礼を受けていなかった点です。パウロがテモテに割礼を受けさせた理由は二つ挙げられます。一つ目は、ユダヤ人の多くは割礼を受けていない人を一人前のユダヤ人として認めません。一人前のユダヤ人として認められないと一緒に食事をするなどの交わりに参加することができません。二つ目は、ユダヤ教の会堂で説教する場合、割礼を受けている必要がありました。 この二つの障害をクリアーするためにパウロは、テモテに割礼を受けさせたのです。パウロは決して「救いに割礼が必要である」と考えを変えたわけではありません。ただ「何とかして福音を人々に伝えたい」と考えたのです。テモテも、パウロの考えに同意して割礼を受け、パウロと共に伝道旅行に同伴する決断をします。パウロもテモテも福音のため」ならば何でもするという姿勢で一致していた故に犠牲を惜しむことなく割礼を受けたのです。(Iコリント9:19〜23参照)
神様は、私たちが与えられた賜物を喜んで捧げ、福音のために生きる者になるこ とを望んでおられます。出し惜しみすることなく、全力で自分に与えられた使命を果たし、いつの日かイエス様にお会いした時に 「よくやった。 良い忠実なしもべだ」 (マタイ25:21)とのお褒めのお言葉をいただくことができるように、悔いのない日々を選択していこうではありませんか。