日本同盟基督教団 小海キリスト教会です。

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牧師 荒籾 実

2023年12月10日 みことば






「神にとって不可能なことは何もありません。」
              ルカ1:37  


              


   

「力ある神」             イザヤ9:6、Ⅰコリント1:18
序)  
 人間は、力ある存在に憧れるものです。イスラエルの民がずっと待ち望んだ救い主は、ローマ帝国の支配から解放してくれる、力あるメシアでした。ユダヤ人は、いつの日か救い主が現れ、圧倒的な力でローマ軍を打ち破り、自由を与えてくれる救い主が来ると信じていました。イエス様が神の御子として公のご生涯を開始された時、メシアであるしるしとして数々の奇蹟を行うと、人々は期待するメシア像を膨らませていったのです。  
本)  
 もう一度、イザヤ9:6をお読みします。
「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」  
力ある神、救い主と聞いて、その存在をどのようにイメージされるでしょうか。 イエス様は、どんな病も癒すことがお出来になり、生まれつき目の見えなかった人の目を開き、口のきけなかった人を話すことができるようにされました。また、悪霊に取り憑かれた人々から悪霊を追い出し、その痛みと苦しみから解放してくださいました。ある時は、水を葡萄酒に変え、5つのパンと二匹の魚で5000人以上の空腹を満たし、さらには、一度、死んだ人間をよみがえらせることもお出来になったお方です。
 まさに、預言者イザヤが預言したメシアの名の通り、「力ある神」そのものである方は、イエス様の先にもいなかったし、これから後にも現れることはありません。  イスラエルの民は、イエス様の力ある業を見て、この方こそ、自分たちの待ち望んできた救い主に違いないと歓迎しました。イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入場された時、人々は自分たちの王を迎えるようにして、棕櫚の葉と、自分が持っている大切な上着を道に敷き、その上をイエス様を乗せたろばが歩くようにして、喜びと歓迎の意を現したのです。
 しかし、この歓喜に溢れたイエス様のエルサレム入城から、一週間も経たないうちに、イエス様は十字架に架けられたのです。人々が、イエス様を待ちわびてきたメシアであると祭り上げるのと対照的に、妬みに駆られ殺意を燃やしていた律法学者やパリサイ人たちの策略により、不当な裁判を受けてイエス様が有罪とされると、人々の態度は一転し、イエス様を「十字架にかけろ」と叫ぶ者になりました。
 そして、イエス様は二人の犯罪人と共に十字架に架けられ、殺されてしまったのです。 しかし聖書には、救い主が、私たち人間の救いを成し遂げるために、どのような扱いを受けるのかについて、初めから預言されていました。  
イザヤ53章4節5節をお読みします。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、神は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。」
  イスラエルの民は、自分たちの願いを叶えてくれる勝手な理想のメシア像を思い描き、自分たちの救い主として来られるお方は、ダビデ王のように闘いの先頭に立って、力で敵を滅ぼし、自分たちに勝利と自由を与えてくれる存在であると勝手に思い込んでいました。 イエス様の力ある業を目の前で見て来た弟子たちもまた、イエス様が十字架に架けられてしまうことなど全く予想できなかったことでしょう。この方には神の力があると信じて疑わず、仕事を捨て、家族から離れ、主に従い行動を共にしてきたイエス様が、無抵抗でローマ兵に捕らえられ、裁判で有罪とされ、あっけなく十字架刑に処せられるなど、到底受け入れ難い、信じられない事だったはずです。  このような期待と絶望は、弟子たちやイスラエルの民だけに見られることではありません。私たちにも、自分が思い描く救い主像や、期待すること、望むことがあるのではないでしょうか。 世界に戦争が絶えることのない現状を見て、ヒーロー的な救い主が来て、力で治め、すぐに平和を実現してくれたらどんなにいいだろうかと思う事があるかも知れません。 確かに、そのような、あっと驚く力ある御業を、旧約聖書に記されている歴史の中に見ることができます。Ⅱ列王記にあるエリシャの戦いなどはそうでしょう。
 この世界の全てと人間を創造されたお方には、不可能なことは一つもありません。なさろうと思えばどんなことでもおできになります。それは、イエス様も同じです。イエス様は、神の御子です。地上におけるすべての権威がイエス様に与えられており、イエス様のご命令によって、荒れ狂う嵐も静まりました。天の軍勢を呼んでローマ兵を追い散らすこともイエス様にはお出来になったのです。
 しかし、イエス様は敢えてそれをなさいませんでした。イエス様は、ご自分が人として地上に生まれ、遣わされた目的を知っておられたからです。人間が救われる道はただ一つ。イエス様の十字架の死と復活によるのです。イエス様は、人間の目には無力と思われる死、想像を遥かに超えた深く大きな御業を通して、人間が救われる道を備えてくださいました。 「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」コリント人への手紙第一1章18節。 十字架のことばは神の力…救い主であるイエス様が、私を、あなたを救うために、本来なら、この私が受けなければならなかった罪の罰を受けて下さいました。私の、あなたの代わりに十字架に架かり、死んでくださったイエス様の尊い血潮と贖いによって、私たちの罪が赦されたのです。ここに、父なる神様の義と愛が私たちに現わされました。私たちは十字架にいのちを投げ出して下さったイエス様を救い主と信じる信仰によって、義と認められ、神の子とされる特権と永遠のいのちという、驚くべき恵みが与えられるのです。 イエス様は、人間が思い描き期待するメシア像とは違う在り方で、ご自分のいのちとひきかえに、神の愛と神の義を教えてくださいました。
 そして、死の力を打ち破り、死に勝利され、私たちに永遠のいのちという確かな希望を与えて、主の愛と恵みのうちに生きる者としてくださいました。これこそが、神の力です。
「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証です。」(Ⅰテモテ2:5,6)
「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2:6-8)
 イエス様こそ「力ある神」です。イエス様はみことばをもってサタンに打ち勝ち、十字架の死より復活して、死に完全に勝利された唯一のお方です。 そして約束の聖霊を与えて下さり、罪に対して無力な私たちが、聖霊の導きに従って、みこころを行うことができるよう助けて下さるのです。 イエス様の弟子たちも、イエス様の十字架の死と復活、力ある神の御業によって、新しく造り変えられました。弟子たちの晩年の生き方が、それを証しています。
  復活されたイエス様と出会い、ペンテコステの日に聖霊を受けた弟子たちは、人を恐れず福音を宣べ伝える者と変えられました。彼らは、どんなに迫害されても諦めることなく、散らされた場所、場所で福音を、イエス様の十字架の死と復活の事実を証し、人々がイエス様を信じ救われることを心から祈り願い、宣べ伝え続けたのです。
 それは、弟子たちの力によることではありません。彼らの信仰が私たちよりも優れていたとか、強かったという事でもありません。彼らは、イエス様を心から信じ、イエス様だけを信頼し、イエス様が与えて下さった聖霊に満たされることにより、大胆に宣教できる者と変えられたのです。
 同じように私たちも、イエス様の力を信頼し、この世界を何もないところから父なる神様と共に創造されたお方が共に居てくださると信じる時、心の内側から勇気と力が沸き上がり、人を恐れる思いから解放され、真理を大胆に語ることの出来る者と変えられるのです。
 確かに、自分の信仰を表明して生きることは、口で言うほど簡単なことではありません。初代教会の人々がイエス様の弟子たちがみな迫害を受け、その多くが殉教の死を遂げたことを思えば、イエス様と共に生きる道は楽な道ではありません。しかし、弟子たちは、信仰の目をもって、その迫害の先にある天の御国における永遠のいのちに目を向け、希望と喜びに溢れて歩むことができたのです。
結)  
 「力ある神」として、十字架に死に、死よりよみがえられたイエス様が、インマヌエルの主として、私たちといつも共に居られます。  「力ある神」なるイエス様が、神を愛する人々、神に召されたすべての兄弟姉妹たちの信仰を支え続けてくださり、ありとあらゆる試練と災いから守って下さるので、福音は全世界に届けられ続けているのです。
 試練に耐える力は、弟子たちや初代教会の人々、先代の宣教師や伝道者たちが、もともと備え持っていたものではありません。彼らの力の根源は、「力ある神」と呼ばれたイエス様からくるものでした。イエス様には、奇蹟を行う力があり、悪霊や自然界をも支配され、死んだ人間をよみがえらせることさえもお出来になります。人を恐れたり、目に見えないことに不安を抱いたりしてしまいやすい人間を、聖霊で満たし、大胆に福音を宣べ伝える者と変える力をもつお方です。 私たちも聖霊の助けによって、イエス様につながり続けている間、常に「力ある神」であるイエス様から必要な力を頂くことが出来、私たちを通してもまた、福音は人々に届けられていくのです。
 私たちの住むこの日本にも、沢山の宣教師たちが迫害を恐れることなく、足を運んでこられました。片言の日本語で福音を伝え、忍耐を尽くし、あわれみの心をもって、親身に関わり続けてくださったことを通して、どれほど多くの魂がイエス様のもとに立ち返ることができたでしょうか。私たちは、その大きな犠牲と愛の歴史の上に生かされています。宣教師の中には、日本に来て、その後、一度も祖国に帰ることなく、異国の地で日本人に宣教する事に全力を尽くし、天国へ凱旋された方もいます。
 私が知る中には、家族で自分一人がクリスチャンとなり、その後、宣教師となって海外で宣教された方がいます。自分の家族にも救われて欲しい、自分が家族を救いに導きたいと願いつつも、与えられた宣教師としての召しに従い、まだ救われていない家族、ご両親を残して宣教地へと旅立たれたのです。 複雑な思いがあったことでしょう。しかし、そこには、人間の思いや考えにまさる神さまのご計画があり、主はその方を宣教師として召し、遣わされる国の人々の救いの為に用いられたのです。離れた場所で生き、直接的に関わる時間があまり持てなかったであろうご両親は、地上での生涯が終わる前に信仰告白へと導かれました。
 そのように、一人の人に福音が届けられるまでには、多くの犠牲がその背後にあるものです。人間の目には効率の悪い方法、愚かに見えても、「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの図ったとおりに成就する。(イザヤ14:24)」と誓って言われる万軍の主、力ある神様のご計画、みこころがなされるのです。 そのみこころは、神を愛するすべての人が救われることです。
 私たちは、私たちに福音を伝えてくださった方々のうちに、「力ある神」であるイエス様が共におられ、イエス様の愛と力に支えられていたことをもう一度覚えたいと思います。
 そして、イエス様が示してくださったお姿に、本当の強さや力はどこにあるのかを思い巡らし、自分がどんなに愚かに見えても、弱く見えても、そこに働かれる主の力に依り頼んでいきたいと願います。
 イエス様が弱く小さな赤ちゃんとしてお生まれになったクリスマス。
私たち自身が、主イエス様から目を離さずに、いつも主が共におられる喜びと平安に満たされ、勇気を出して、家族や友人や知人に、福音を宣べ伝えていきたいと願います。そして、人間を本当の意味で救うことのお出来になる、「力ある神」イエス様を、私たちの身近な人々が信じ救いの恵みに与ることができるよう、執り成し祈り続けてまいりましょう。
  
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