日本同盟基督教団 小海キリスト教会です。

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牧師 荒籾 実

2017年4月23日 みことば 


 「彼らの目が開かれ、
  イエスだとわかった。」

                  ルカ24章31節

 

2017年4月23日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「ふたつの大切な勧め」          使途acts 11:22~27

バルナバは、救われたばかりのアンテオケの兄弟姉妹に二つのことを勧めていま す。一つ目は、心を堅く保つことです。ここに勧められている心を堅く保つとは、 自分の力で信仰を堅く保つように努カするようにという意味ではありません。それぞれが与えられた信仰を公にして自分の立場をはっきりと表明して生きるようにという意味なのです。初代教会の人々も、現代の私たちもこの点は、同じであると言えるのです。自分がイエス様を信じたことを公にすることはキリスト者にとってとても重要なことです。洗礼準備会でも学びますが自分がイエス様を信じたことを表明することにより、私たちはいろいろな誘惑から守られることになるのです。
私たちは、自分の与えられた信仰を隠してはなりません。信仰は、私たちにとっ て宝です。これ以上にすばらしいものはありません。 なぜなら、信仰は自分を罪の力から解放するだけでなく、家族や友人や知人だけでなく時代を超えてあらゆる国の人々を罪の支配から解放してきたものだからです。そして、自分の信仰を表明して生きることにより、私たちは、さまざまな誘惑からも守られることになります。 初代教会の人々も、救われる以前の生活に戻されてしまう誘惑の多い環境に生活していたのです。偶像崇拝の盛んなアンテオケの都市です。その町に住んでいた兄弟姉殊にバルナバは、自分の信仰を表明して生活するように勧めたのです。そして、 バルナバの勧めを実行したアンテオケの兄弟姉妹は、人々からキリスト者と呼ばれるようになります。
バルナバが勧めた二つ目のことは、主に留まることです。主にとどまるとは、イエス様に繋がり続けること、つまりイエス様が生きられたように生きることです。イエス様のように生きるには、イエス様がどのようなお方であり、 どのように生きられたお方なのか知る必要があります。イエス様を見ると、神様が完全に義なるお方であり、同時に完全に愛なるお方であることが分かります。イエス様は、罪を憎まれましたが、罪を犯してしまう人間を愛され、ご自身を犠牲にして人間が救われる道を作ってくださったお方です。イエス様が私たちの罪を赦してくださったように、私たちもイエス様にならい、人に対し赦しのわざを実行できる ように日々祈りつつ、みことぱに従って神様の喜ばれることを選択し神の子としての生活を現すものに変えていただきましょう。

2017年4月16日 みことば 


 「私たちは
  イエスが死んで復活されたことを、
  信じています。」

             Tテサロニケ4章14節


2017年4月16日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「救いの宣言」           ローマromans 4:19~25

義なる神様は、人間の罪を見逃すことができません。罪とは、創造主であられる 神様の存在を無視して自分の生きたいように生きていることです。 罪から来る報酬は死です。ローマ6:23参照。とあるように、義なる神様は、 罪に対しては厳しい罰をもって報いるお方です。しかし、義なる神様は、同時に愛なるお方でもあり、人間に無理な要求はなさいません。神様は、罪人である私たちを滅びから救うために、ご自分の愛するひとり子を身代わりに差出し、罪を贖うためのいけにえとなさったのです。そして、イエス様は、罪人である私たちの罪の罰を十字架にかかり、完全に受け尽くしてくださいました。
では、仮にイエス様が十字架に架かられ死んで葬られたままだったとしたらどう でしょうか。きっと自分の罪が本当に天の父なる神様に赦されていることの確信をもつことができないでしょう。ですから、私たちは、自分の罪が赦されたのかどうかを疑う気持ちが起きてきた時にイエス様のよみがえりに目を向けることが必要なのです。
イエス様のよみがえりは、天の父なる神様がイエス様の十字架の贖いの死が人類 のすべての罪を贖うのに十分なものであったことの証明として人間に与えられたものです。なぜなら、天の父なる神様がイエス様の贖いのわざに満足されなかったとしたら、イエス様をよみがえらされなかったはずだからです。そして、イエス様がよみがえられなかったとしたら、私たちの罪は赦されることなく、そのまま残ることになります。しかし、イエス様はよみがえられたのです。ですから、私たちの罪がイエス様の流された血の代価によって贖われ、私たちの罪が完全に赦されていることをイエス様のよみがえりを通して確信することができるのです。
私たちは、もう何も,心配する必要はありません。自分の救いを疑わせるようなサタンの声が聞こえてきたとしても、もはやその声に耳を傾ける必要はありません。 なぜなら、天の父なる神様は、イエス様の十字架の贖いの死を受け入れられ、満足された故に、イエス様を死者の中からよみがえらされたからです。 私たちに救いの確信を与えるためによみがえられたイエス様とイエス様を死の淵からよみがえらされた天の父なる神様の御業を賛美しつつ救いの確信を新たにし主の御前に歩ませていただきましょう。

2017年4月9日 みことば 


 「神は、実に、
  そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
  それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
  永遠のいのちを持つためである。」

                   ヨハネ3章16節

 

2017年4月9日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「ゲッセマネの祈り」          マタイmatthew 26:36~46

イエス様は、いつも神様に祈られるとき、御前にひざを屈め祈られたお方でした。 イエス様の祈る姿をいつも見ていた弟子たちは、イエス様がいつも以上に深く身を屈め、額を地に押しつけるようにして祈られる姿を見たのです。イエス様は、これから全人類の罪の罰をご自分が一身に負われることがわかっておられた故に、その使命の大きさに打ちのめされ、神様の御前にひれ伏さずにはいられなかったのです。 私たちの罪がイエス様にひざを屈めさせることになったのです。私たちは、その事実をどれほど重く受け止めているでしょうか。イエス様の苦しみを他人ごとのように考えていることはないでしょうか。イエス様が十字架に架かったのは、当時、イエス様を十字架にかけた人々の罪を赦すためである。私たちは、そのように長い間考えてきたのではないでしょうか。しかし、聖書はイエス様の十字架の死は、私たちの罪の罰を負うためであると証言しています。ヘブル9:11〜12参照。
イエス様は、ご自分の前に置かれた人生最大の危機に直面し、ご自分の素直な願 いを父なる神様に告げられたのです。イエス様の願いは、「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」というものです。この「でき