日本同盟基督教団 小海キリスト教会です。

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牧師 荒籾 実

2019年6月9日 みことば

      

  「聖霊があなたがたの上に臨むとき、
   あなたがたは力を受けます。
   そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、
   さらに地の果てまで、わたしの証人となります。 」
     
                使徒1:8 



2019年6月9日 メッセージ 荒籾 実 牧師

「共に祈る群れとなる」     使徒1:12〜14
 
 本日は、ペンテコステです。ペンテコステは、教会の誕生日です。
では、どのようにして教会は誕生し、宣教が何を原動力として進められたのかを共にみてまいりましょう。
 弟子たちは、イエス様の約束を信じて、共に集まり、心を合わせ、祈りに専念していました。使徒1:8参照。イエス様の約束を信じて祈る彼らの上に、聖霊様が天から降り、彼らを満たし、宣教の働き手として世界へと遣わされていきます。宣教の働きは、祈る群れから派遣された人々によって全世界に宣べ伝えられはじめたのです。その日から約2000年、祈る群れに聖霊様が豊かに臨んでくださり、その聖霊様の力が宣教の原動力となり、全世界に福音が届けられつつあります。
 今日の教会で当てはめてみるならば、祈祷会が宣教の働きを進めていく原動力を教会に与えることになると言ってよいでしょう。共に祈る群れが祝福されるのです。家族の救いのために自分だけで祈ることも大切ですが、同じ信仰をもつ兄弟姉妹と一緒に祈るならば、その祈る人自身が祝福されるのです。確かに、祈祷会に参加することは、多くの犠牲を伴うものです。日曜日の礼拝を守るだけでも多くの犠牲を払いつつ集われる方々にさらに、水曜日の祈祷会にも参加するようにと強いるつもりはありません。しかし、祈りのもたらす恵みの豊かさを覚える時、その祈りの力を体験させていただいた者として無理を承知で勧めずにはいられません。多くの犠牲を払い、涙をもってとりなし祈る兄弟姉妹の姿に感動し、自分がどれほど長い年月祈られ、守られ、支えられてきたのか。自分の救いのためにどれほど多くの方の祈りが積み重ねられてきたのか知ることができ、自分の罪深さを改めて自覚させられたのを昨日のことのように思い出されます。
私たちは、自分で思っているほど強いものではなく、一人で信仰を持ち続けていくことは困難です。互いのために執り成し祈ることが必要です。教会には、忠実な祈り手が神様によって備えられ、途絶えることなく2000年に渡り脈々と祈り手が加えられ続けてきました。私たちも主の命令に従って、宣教のわざに祈りを通して共に参加する者となってまいりましょう。そこに聖霊様が豊かに臨んでくださり、信仰のリバイバルが起るのです。


2019年6月2日 みことば

      

  「今は恵みの時、今は救いの日です。 」
     
                Uコリント6:2 





2019年6月2日 メッセージ 荒籾 実 牧師

「互いに従い合う者となるために」     エペソ5:21〜24
 
 互いに従い合う者となるとはどういう事なのでしょうか。
パウロは、三つの関係を例に上げて教えています。その最初のものが夫婦関係です。二つ目が親子関係、三つ目が主人と奴隷の関係です。
今日はその最初の例である夫婦関係から「妻に対する教え」を共に学んでまいりましょう。パウロは妻に対し、「自分の夫に従いなさい」と勧めていますがそれは夫に対する奴隷的な服従を強制しているわけではありません。なぜなら、妻に対し「教会がキリストに従うように」と人格的な服従を勧めているからです。
パウロの妻に対する勧めは「キリストと教会」の関係に置き換えることができます。私たちは、喜んでキリストのお命じになることに従おうとします。それはなぜか。それはキリストが教会のかしらであられ、キリストご自身が教会のために愛の犠牲を支払われたお方だからです。23節参照。イエス様は、私たちを霊的に死んだ者から霊的に新しく造り変えるために、十字架にかかりご自分のいのちを犠牲にしてくださいました。ですから、私たちはその犠牲の愛に応答し喜んでキリストのご命令に従おうとします。
 では、夫が妻に対して犠牲を払わない時には従わなくてよいのでしょうか。いいえ、たとえ夫が妻のために犠牲を払わなくても妻は、夫に従うことが勧められています。それは妻のかしらは夫だからです。神様は家庭に秩序を与えられ、その秩序が守られる時、家庭の平和が保たれるようにされたことを常に忘れてはいけないポイントです。これは、とても厳しい命令です。神様に対する服従の態度がなければ実行不可能な内容です。イエス様は神様に対する完全な服従を身をもって弟子たちに示されたお方です。それが十字架の道です。さらに、主は互いに従い合うことを具体的に教えるために弟子たちの足を洗われたのです。私たちも罪を犯す度に主はご自身の血をもって私たちを罪の汚れからきよめ続けてくださっています。この愛にお応えし、私たちも互いの足を洗い合う者、互いに仕え合う者、助け合う者になろうではありませんか。
 私たちが心から主の服従された姿にならい心から夫に従う者になる時、そこに主の栄光が現わされ、家庭が祝福されはじめるのです。夫婦の関係が改善され、家庭に秩序が回復し、いろいろな問題も解決に向かって動きはじめる幸いを共に喜ぶという祝福に与る者にしていただこうではありませんか。
 

2019年5月19日 みことば

     
  「子どものように
   神の国を受け入れる者でなければ、
   決してそこに入ることはできません。 」
     
                ルカ18:17 




2019年5月19日 メッセージ 荒籾 実 牧師

「光の子どもとして歩みなさい。」     エペソ5:8〜14

 私たちは、救われた後、分かるようになることが沢山あります。自分が無意識に行ってきたことが実は罪だったことを知るからです。あれも罪、これも罪、そして一番の罪がこの世界を創造された神様の存在を意識せずに自分勝手に自己中心に生きていたことです。ですから、その罪の罰である永遠の滅びを本来ならば私たち自身が受けなければなりません。しかし、この滅びから救われる道が一つだけあります。8節参照。この主にあってとは、光そのものであられる主イエス・キリストに結びつくことによってという意味です。
まことの世の光であられるキリストが私たちの心を照らし、私たちの心の中に入ってくださる事により、私たちも世の光と呼ばれる存在となり、罪を赦され、神の子とされ、この暗い世界を照らす役割を果たす者となることができるのです。
 神の子ども(光の子ども)にはあらゆる善意と正義と真実という光の実を結ぶ者になることが期待されているのです。しかし、この光の実を結ぶことができなくするものがあります。それが罪です。ですから、その罪を私たちは常に明るみに出すことが求められるのです。明るみに出すとは、誰かに自分の犯した罪を告白するという意味ではありません。私たちがいつも覚えておかなければならない事は、すべてをご存知であられる主の御前に自分の犯した罪を言い表すことです。罪を犯したことを認めることです。主はどんな罪でも必ず赦してくださり、私たちをその罪の汚れから完全に清めてくださいます。ちょうど、太陽の光に当たると細菌などの病原体が死滅するように、私たちの暗闇のわざは主の光の前で消えてしまいます。イザヤ60:1〜3参照。
 暗闇のわざとは、淫らな行い、汚れ、貪り、わいせつ、愚かなおしゃべり、下品な冗談です。私たちはかつて、霊的に死んだ者として、この暗闇のわざを行っている者たちでした。しかし、キリストの光が私たちの心を照らし、私たちをそこから起き上がらせ、キリストの光を反映させながら、光の子どもとして歩むことができる者と変えられたのです。しかし、もし今、救われる以前の暗闇のわざに戻っていることがあるならば、その状態を素直に認め、主のもとに行き、キリストの光でもう一度清めていただきましょう。
そして、罪を赦された者、罪を清められた者として、あらゆる善意と正義と真実という実を結ぶ者と変えていただこうではありませんか。
 

2019年5月12日 みことば

     
  
  「神は人々とともに住み、人々は神の民となる。
   神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。 」
     
             黙示21:3 





2019年5月12日 メッセージ 荒籾 実 牧師

「闇の子から光の子へ」     エペソ5:3〜7

 エペソの教会の多くの人も、アルテミス神殿の影響を受け、救われる以前淫らな行いをしていたのでしょう。この淫らな行いという言葉は、原文でポルネイアといい、ポルノという言葉の語源になっているものです。このポルネイアという言葉の意味は、もともと結婚している者が配偶者以外の者と性的な関係を結ぶこと、すなわち婚外性交を現わしています。現代の日本も、その意味でエペソの町と同じように淫らな行いが横行している現実があります。すべての結婚が創造主を信じる信じないに関係なく、神様のご支配のもとにあることを私たちは子どもたちに教え、私たちを創造されたお方が結婚前の性的な関係を禁じていることの真意を教える責任があるのです。本気で子どもたちの幸福を願うならば、自分自身がみことばに従って生き、子どもたちにもその見本に倣うように教え諭し導く者にならなければなりません。ですから、パウロが指摘しているように救われる以前の悪しき習慣や言葉づかいや生き方があるならばそれを改めることが必要です。わいせつなことや、愚かなおしゃべりや、下品な冗談を言っているならそれを口にしないように努めましょう。そして、召された者に新しく造り変えられた者にふさわしい言葉を口にする者になることが期待されるのです。
 召された者にふさわしい言葉とは、感謝のことばです。感謝できるようになるには、神様から愛されている事実を知る努力が欠かせません。知る方法は聖書を読むことです。恵みとは本来、受ける資格のない者がただ神様の一方的な選びの故に、救いに移され、闇の子から光の子と変えられ、光の中を歩むことができる者とされていることです。罪に対する刑罰である死が私たちにとっては天国の入り口と変えられ、死がのろいから祝福に変えられています。私たちにとって死は今与えられている不完全な肉体からの解放の時となり、苦しみも悲しみも憂いもない完全な世界へ旅立つ時となります。しかし、地上に生かされている間、私たちは誘惑に負け罪を犯すことがあります。私たちは自分の罪が示された時、すぐに主のもとに行き、その犯した罪を言い表し、主の赦しをいただき、主との交わりを回復しなければなりません。もう二度と闇の子であった時の悪しき習慣に戻ってはいけないのです。そして、光の子とされた者にふさわしいことばを用い、光の子としてふさわしい態度を身につけ、義の太陽であられるイエス様の光を反射する者であり続けたいと願います。


2019年5月5日 みことば

     
  
  「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、
   天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、
   またおいでになります。 」
     
             使徒1:11 




2019年5月5日 メッセージ 荒籾 実 牧師

「神にならう者になる」     エペソ4:31〜5:2

 私たちは、悪意の渦巻く地獄のような状況から救い出され、今、赦しと和解と平和の世界へと移され、平安のうちに日々、主の御前に生きることが可能とされています。これは本当に主のあわれみです。しかし、油断していると私たちは、救われる以前の状態に戻ってしまう危険といつも隣合わせに生きていることを覚えたいと思います。なぜなら、サタンは常に私たちを誘惑してくるからです。みことばから救われる以前の自分の状態を再確認し、救われた後に目指すべきことについてみことばにきいてまいりましょう。
 私たちは自分で考えているよりも誘惑に弱い存在です。私たちの周りには、誘惑となるものが満ちています。目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢をサタンは用いて私たちを誘惑してくるのです。また、目に見える裁きがすべてではなく、目に見ることのできない裁きがあることを覚えなければならないのです。その裁きとは、罪を犯すと神との霊的な交わりが失われることです。罪を悔い改めることなくそのままにするならば、私たちの心は神から離れ、この世の事に関心が向けられるようになってしまうのです。ですから、私たちはいつも、自分の霊的な状態に関心をもち、言い表していない罪があるならば教えてくださいと主に祈り求めなければいけないのです。そして、救われた者が求めるべきことは互いに赦し合う者になることです。天の父なる神の愛を知った人は人に対して寛容な態度を示せるようになります。
 では、神にならう者になるとはどういう事なのでしょうか。この「ならう」という言葉には、「まねる」とか「なぞる」という意味があります。私たちの愛のお手本は、父なる神が私たちを赦してくださった事実です。イエス様の十字架の死に父なる神の人間に対する愛と赦しの見本が示されています。これほどはっきりとした愛の見本は他に見当たりません。
 私たちは、愛の冷え切ったこの世にあって神にならう者になることが期待されています。ですから、救われる以前の神に対する悪しき態度があればその態度を改め、悪しき習慣を捨て続け、聖霊様が喜ばれる善を追い求め、良い業に励みつつ、善意の目で人の良い面を探し、建設的な意見を述べ合い、積極的に目の前の課題に取り組み、召された者にふさわしい生活を実践し、神の御前に芳ばしい香りのささげものを常にお捧げする群れでありたいと願います。

 
          
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