日本同盟基督教団 小海キリスト教会です。

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牧師 荒籾 実

2017年10月15日 みことば 


「平和をつくる者は幸いです。」
 その人たちは、神の子どもと呼ばれるから。」

              マタイ5章9節



2017年10月15日 メッセージ 山本将信 師 

「赦されて生きる」       マルコ 2:1〜12

 ここに中風の者が物体のように運ばれて来ました。ここに来るに際して、一体誰の意志だったかさえ不明確です。主イエスは「彼らの信仰を見て、中風の者に『見よ、あなたの罪はゆるされた』と言われた」のです。
 ここでは「中風の者の信仰を見て」とは記されていません。一体、他人の信仰を借りることは出来るものでしょうか。もちろん信仰は一人一人が信じることで、他人の信仰を代行したり、代用したりはできません。それにも拘わらず「彼ら」に運ばれてやって来ます。信仰は全く個人のプライベートなものなのではなく、またあってもなりません。信仰には「とりなし」と言う本質があります。「子よ、あなたの罪は赦された。」この言葉は私への言葉です。
 私が聖書に出会った最初は実はこの「生きることは赦される」でした。聖書が道徳書でなく、生命の書として私の前に姿を現したのは中学3年を卒業したときでした。我が家が倒産して一家ばらばらになり、私は義務教育を終えると大阪に集団就職で働きに出ました。その時、結核で血を吐きながら医療保護で入院していた兄に挨拶に行きました。我が家では彼が唯一のカトリック信徒でした。兄は年端も行かない弟が一人大阪に行くのは不憫だっだのだろうと思います。さりとて何もしてやることもできません。「存在そのものが迷惑」として生きていた兄の信仰告白だったのだと、今にして思います。こう言って私を励ましました。「将信、しっかり生きて行けよ。食い詰めてしまったら盗人になっても生きて行け。そのような時は泥棒も赦されると聖書にちゃんと書いてある。」私は びっくりしました。泥棒しても良いと兄貴が言うだけでなく、聖書にそう書いてあると言うのです。後の日、それが聖書のどこに書いてあるかを探して読み始めました。そんなこと書いてありません。
「存在自体が迷惑」な人に「子よ、あなたの罪は赦された」と主イエスは宣言しておられます。そして「起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われました。彼は「赦された存在」として家に帰って行きました。人は失意の「床を取り上げて」立ち直り、生きることが赦されています。なので生きていかなければなりません。否、生きていくことができるのです。

2017年10月8日 みことば 


「人を恐れるとわなにかかる。」
 しかし主に信頼する者は守られる。
              
          箴言29章25節


2017年10月8日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「主の力強い励まし」        使徒acts 18:1〜11

 バウロは、宣教する時、さまざまな苦しみを経験します。Uコリント11:23〜29 参照。神様は、そのような多くの苦難の中でパウロをいつも励まし続けてくださったお方です。その一つが今日の箇所の出来事になります。
 コリントの町でパウロは、敬虔なキリスト者夫妻と出会います。アクラとプリスキラ夫妻です。この二人の名前は、パウロの書簡に度々登場する名前です。この夫婦は、以前ローマに住んでいましたが迫害に合い、コリントに逃れてきて住んでいたようです。パウロにとって、アクラたちの存在は大きさ励ましとなったと考えられます。なぜなら、知り合いのいないコリントの町にきて仕事をすると言っても簡単に仕事が見つかるわけではありません。神様は、パウロがコリントに来る前に同じ主にある兄弟姉妹の夫婦をコリントの町に派遣され、パウロが宣教するうえで必要な収入を得ることができるように同業者のアクラたちを備えてくださっていたのです。神様の行き届いた配慮をここでも見ることができます。さらに、
 神様のパウロに対する励ましは続きます。5節参照。神様はパウロのもとにシラスとテモテという強力な助け手を送ってくださり、パウロは宣教に専念できるようになります。神様は、このようにパウロを励ましてくださるのです。しかし、福音はコリントの町でもユダヤ人から拒まれます。福音を拒む人々に対し、パウロは宣言します。6 節参照。福音を拒んだユダヤ人のもとを去る決断をしたパウロが、次に向かった宣教の相手は、異邦人です。パウロは、神を敬うテテオ・ユストという人の家を拠点にして宣教を続けます。コリントの町におけるユダヤ人に対する宣教は、思った以上の成果を得られませんでしたが、このコストと会堂管理者の家族が救われたのです。7節参照。これはユダヤ人の救いを心から望んでいたパウロにとって大きな励ましになったことでしょう。ところが、パウロはここでスランプに陥ることになります。パウロも私たちと同じ弱さをもった人間です。不安になることや落ち込むこともあったでしょう。そんな彼を神様は、幻の中で励まされたのです。9〜1O節参照。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけ ない。わたし(神)があなたとともにいるのだ。」全宇宙と全世界を創造されたまことの神様がパウロとともにいてくださり、彼を守ってくださると約束してくださったのです。これにまさる励ましはありません。私たちも、同じ神様に日々守られながら、生かされていることを感謝しつつ宣教に励んでまいりましょう。

2017年10月1日 みことば 



   
「信仰によって、アブラハムは、
   相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、
   これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」


                 へブル11章8節


2017年10月1日 メッセージ 廣瀬薫 師 

「神に生かされて周りを生かす」     ルカの福音書19章1〜10節

 人が生かされにくい時代に、私たちと周りを本来の姿に生かすものは何かを教えてくれる人がザアカイです。人生には目的地と乗り物の2つの要素があります。ザアカイは地位と財産という乗り物を選びましたが、幸いな目的地に行けませんでした。
●質問1:何故ザアカイは、この乗り物を選んだのでしょうか。
彼なりに人生の困難を生き抜こうとしたのです。私たちにとっても、乗り物は用意したが、幸せな目的地に着かなかったという経験は身近です。
●質問2:その乗り物はザアカイをどこに連れて行ったのでしょうか。
彼が何を失っていたものが3つあります。
@人間関係。誰にも愛されない孤独。ザアカイの家庭は壊れていたでしょう。
A自分との関係。自分を愛せない劣等感。
B神様との関係。神様からの命の養いを受けていない無力感。
この3つの関係は、人間が幸いに生きるためには、必ず3つとも満たされていなければなりません。
●質問3:人間を本来の姿に活かす力はどこにあるのでしょうか。
彼は3つの関係を回復します。誰も呼ばない名前を呼ばれて人格的関係を持つ温かさ。家に泊まる事は一つになる程親密な受容です。「アブラハムの子」と呼ばれ、救うだけでなく、神様の祝福の源として活かされ用いられる喜びを得ます。
●質問4:この後ザアカイは、どのように生きて行ったのでしょうか。
彼は「本物の取税人」「本物の金儲け」をする者として生きて行ったでしょう。クリスチャンになると、今までの事に神様の命が入って本来の姿に活かされるのです。 初代教会の急速な成長の要因はこれです。TCUが目指すのもこれです。あらゆる分野に、聖書のキリスト教世界観に立って「神の国」を造る人材がいるのが、リバイバルへの道です。
●質問5:では、私たちはどのように生きて行くのでしょうか。
同じ事が私たちにも与えられています。神様は私たちの名を呼んで愛します。
「聖霊の内住」が与えられています。
私たちは「アブラハムの子」です。(ガラテヤ書)
自分が救われて喜ぶだけでなく、回りに神様の祝福を広げる人生に活かされる大きな喜びがあります。皆さんは祝福を周りに広げる尊い拠点なのです。

2017年9月24日 みことば 


「よくやった。良い忠実なしもべだ。」
 あなたは、わずかな物に忠実だったから、
 私はあなたにたくさんの物を任せよう。」

              マタイ25章21節


2017年9月24日 メッセージ 長野めぐみ教会 平島誠 牧師 

「主の輝くお姿」       ヨハネの黙示録 1:9〜19

(1) ヨハネが見た人の子のような方 (9~13節)
  〜ちょっと不思議な光景。 ヨハネが聞いた大きな声。そして振り向くと「人の子」のような方。
 (17〜19)には、わたしは、復活した。こうして見ると、
このお方はイエス・キリスト。
(2)主の輝くお姿 (13~16)。
 〜そしてその方が、こんなお姿であった
  @ (13節)「足まで垂れた長い衣」。この長い着物、威厳のあるりっぱなお方。 そして「胸に金の帯」。これは、聖書に出てくる大祭司よりもはるかに優る金の帯。
  A (14節)「頭と髪の毛は、羊毛のように、また雪のように白かった」。これは、イエス様は、全きお方、罪のない真白なきよいお方であった。そして「その目は、 燃える炎のようであった」。これは、燃える炎のような目。するどく罪を見抜き、正しきを見抜く。その強い決意を表わしている。
 B (15節)「その足は、炉で精錬されて、光り輝くしんちゅうのようであった」。 これは、りっぱな足。すべてを支配し、その足元にすべてを治める。そして 「その声は大水の音のよう」。権威のある、威厳のある、大きな声を発していた。  C (16節)「右手に7つの星を待っていた」。この7つの星は、教会。「口からは鋭い両刃の剣が出ていた」。両刃の剣は、神のするどいみことば、それがその口からは出ていた。「顔は強く輝く太陽のよう。」栄光で輝くお方であった。それがこの時見られた、イエス様のお姿。輝くお姿。
(3)復活の恵み (1 7〜1 9)。
  〜復活。それは人が全く無カとなる。「それでも」その先もある。決して無ではない。人生に3つの坂。 上り坂、下り坂、「まさか」。「まさか」は、災害、事故、事件、病気、人との関係、自死など。なぜそうしたことがあるのか。(出エジプト4: 11)。それが、死んでも、それだけでは終わらない。たとえ死んでももう1度復活する。復活。
(まとめ)
 そのお方が言われること。それを私たちはしっかりと受け留めて、それでも生 きる者でありたい。
 

2017年9月17日 みことば 


「自分の宝を天にたくわえなさい。」
 
              マタイ6章20節




2017年9月17日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「宣教の情熱」       使徒acts 17:16〜34

 パウロは、偶像に心を支配されているアテネの町の人々をなんとかして救いたいと宣教の情熱に満たされ、伝道を開始します。いつもならぱユダヤ人の会堂で福音を語るところ、パウロは毎日広場に足を運び、そこで出会う人々に手あたり次第声をかけ、福音を伝えることを実行したのです。論争好きのアテネの人々は、パウロの話す教えに耳を傾け、パウロをアレオパゴスに連れて行きます。パウロは、そこで福音を語るチャンスを得るのです。22節から31 節参照。
パウロは全宇宙を無から創造されたお方が人間の造った神殿などに住むお方ではないことを人々に教えます。さらに、創造主であられる神様は、人に仕えられる必要のないお方であることを教えたのです。神様は、人間の小さな頭で理解できるような存在ではなく、人間を遥かに超えた唯一絶対者であられることを彼らに語ります。
しかし、パウロの教えも罪の為に霊の目が閉ざされていたアテネの町の人々には受け入れられません。福音を聴いても、関心を示さない。罪を悔い改めようとしない。これは実に危険なことなのです。イエス様を拒んだ人々がどうなったか思い出してみてください。イエス様を拒むことはすなわち滅びを意味しています。 人間は、福音を拒み続けています。私たちは、それでも福音を語り続けるのです。相手が福音を拒絶することが分かっていても、福音の内容を変えてはいけません。パウロは、イエス様の十字架の死と復活の事実を変えることなく大胆に宣べ伝えます。I コリント1:16参照。この福音の真理を変えて人々に伝えることは許されません。
神の御子が人間の代わりに十字架にかかり罪の罰を受けてくださったという驚くべき福音の内密は滅びに至る人々にとっては信じることのできない事柄となります。なぜなら、アテネの町の人々は神と呼ぶことができる存在がおられるならばそのお方は、人間に対し無関心であり、人間から遠く離れた存在だと考えていたからです。しかし、聖書が教える神様は、遠くから人間の営みを眺めているようなお方ではありません。自分から犠牲を払い、人聞と同じようにいや誰よりもへりくだられ、神にのろわれた者となって十字架に架かってくださるほどに人間を愛されたお方なのです。ヨハネ3:16参照。
私たちも父なる神様の情熱に心燃やされ、滅びに向かって歩んでいる人々に福音を大胆にお伝えする者になりたいと願います。神様からいのちがけの愛を頂いた者として、神様から預けられた時間を使い、滅び行く人々に福音を知らせましょう。
 

2017年9月10日 みことば 


「あなたの隣人を
 あなた自身のように愛せよ。」
 
                 ルカ10章27節



2017年9月10日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「神を知る態度」       使徒acts 17:10〜15

 パウロたちは迫害の手を逃れ、ベレヤの町に行きます。この町の人々は、良い人であると記されています。この良い人とは、高潔な人という意味があります。もともと生まれがいいという意味がある言葉ですがそれが寛大であるとか、自由であるとか、偏見がないとか、素直であるという意味に代わっていった言葉です。この言葉の意味から分かるようにべレヤの町の人々は、パウロたちが伝えた福音に対し、偏見をもっていなかった人々であったことが分かります。神を知る態度として必要なことは偏見を捨てることです。さらに、神を知る態度で大切なことは、神様が人格(性格)をもつお方であることを認めることです。神様は、三位 一体であられるお方であることは、みことばから知ることのできる真理です。創世記1:28参照。
人間が神の姿に似せて作られたという意味は、神様が交わりをもつお方であると同じように人間も人間同士の交わりを必要とする者として造られたという意味なのです。そして、私たちは、人間同士の交わりが必要なように神様とも本来、交わることが必要な存在として創造されました。しかし、アダムたちが神様の命令に背いた結果、その交わりが断絶され、人間は自分の意志で自分勝手な道を進む者になります。その罪のために断たれた関係を回復させるためにイエス様は十字架に架かられ、罪の間題を解決してくださったのです。これほどまでに神様は、人間との交わりを望んでおられます。
神を知る態度は、神様が人間との交わりを望んでおられることを素直に認めることです。神様に対するいろいろな偏見を捨て、みことばと向き合いましょう。そして、聖書が示すありのままの神様を知るならば新しい発見があるのです。神様に霊の目を開いてください。みことばの真理を正しく理解させてくださいと謙虚な態度で祈りながら聖書を読みましょう。天の父なる神様は、子である私たちとの日々の個人的な交わりを心から楽しみにしておられるのです。親が子どもとの時間を喜ぶように、なんでも言い合える信頼関係を築きたいと望んでおられます。
ダビデは、詩篇で神様に対する自分の正直な心のうちを告白しています。すべてを知っておられる神様に隠し事は無用です。ありのままの思いを父なる神様にぶつけましょう。神様は、本気でご自身を知りたいと願う者にご自身の本当の姿を現してくださいます。 ヨハネ14 : 8〜10参照
 

2017年9月3日 みことば 


「お互いに親切にし、心の優しい人となり、
 神がキリストにおいて
 あなたがたを赦してくださったように、
 互いに赦し合いなさい。」
 
                 エペソ4章32節

2017年9月3日 メッセージ 荒籾実 牧師 

「王なるイエス」       使徒acts 17:1〜9

 私たちの周りには、苦しむ人々が沢山います。私たちは、助けを必要としてい る人々に仕えるために選ばれたことを覚えたいと思うのです。私たちは、強いか ら相手を助けられるわけではありません。苦しみの中にある人にとって、強い人 の存在は受け入れ難いものです。強い人よりも弱い人、苦しみの中に置かれてい る人の存在が苦しむ人を励まし、慰め、助けることになるのです。イザヤ53章参照。
イエス様は私たちと同じようにいやそれ以上に弱さを纏われたお方です。人々の罪を赦し、病を癒し、悪霊の力から解放された背後には、それらの苦しみをご自分が代わりに負われるという犠牲がありました。 また、イエス様は、弱い私たちを慰め、励ますために小さな者となってくださったお方です。子ろばに乗られ、エルサレムに入城されたイエス様に深いあわれみに満ちた神様の愛を覚えさせられます。力の象徴である軍馬ではなく、柔和さと忠実さの象徴であるロバに乗ってまことの王であられるお方は来てくださったのです。そして、イエス様は言われました。マルコ10:45参照。イエス様は、人々に仕えられるために来られた王ではなく、人々に仕えるために来られたお方です。しもべとなられたイエス様をまことの王とする私たちも、イエス様に倣い、イエス様が愛された者たちをへりくだって愛する者になりたいと願います。誰が小さき者なのか教えてくださいと祈りましょう。教会から離れている兄弟姉妹が示されるかも知れません。家族の誰かが示されるかも知れません。自分が示されることもあるでしょう。示された人に対し全力で愛することを選択していこうではありませんか。イエス様は、愛するもののためにいのちを捨てられたお方です。私たちがイエス様のように全力で相手を愛するならば、その愛はいつか必ず相手に届く時が来ます。その時を信じて、愛し続けましょう。
ただ、天国に入るだけで満足する消極的な生き方ではなく、天国で今より沢山のこ奉仕を任せていただけるように「よくやった忠実なしもべだ。あなたはわずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜ぴをともに喜んでくれ。」マタイ25:21 とまことの王であられるイエス様からあたたかい言葉をいただけるように積極的に物事と向き会い、悔いのない人生を選択していこうではありませんか。