2010.7.1 ルカ8章19~21, 22~25, 26~39

19~21:イエスが神を語り、律法学者に批判を浴びるようになり、「気が狂ったのだ」(マルコ3:21)という人がいたので、イエスの母と兄弟はイエスを家に連れ戻しに来た。イエスは「私の母、兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人です。」この御言葉は、神様の家族とはアブラハムの血の繋がりより、異邦人であっても神の言葉を信じる人たちであることを言っている。22節から8章の最後まで、4つの奇跡を通してイエスの神の権威と力を示している。  

22~25:イエスの「向こう岸へ渡ろう」という命に従い、ガリラヤ湖を渡る船が嵐に遭遇した。弟子(漁師)たちは恐れたが、イエスは嵐を鎮めた。そのあと「あなたたちの信仰はどこにあるのか?」弟子たちは、自然界(物質)の力まで従わせるとは、ただの預言者ではない。いったい、どういう方なのか。」と預言者以上の人だと気付き始めた。イエスは、神様と弟子との関係(神を知り、信頼し、従う)を求めた。向こう岸(非ユダヤ地域)にいる囚われた人を心配し、救われるために出かけた。すなわち、信仰とは何かを問われた。

26~39:何百という悪霊につかれた人から、悪霊を追い出した。悪霊たちはイエスの力をよく知っている。最後の審判(悪魔の裁きの日)ではないことを承知しているので、豚に入ることを願い、イエスはそれを許された。悪霊はガリラヤ湖に沈んだ。その人は正気に返った。ユダヤ人にとっては、豚は穢れたもので、悪霊がこの人についていた事をあかしした。普通、人が助けられたら喜ぶが、それを見た人たちは恐ろしくなった。生きている神の前に立つと人の罪が明らかになる。人が癒されたのに、この人たちは豚(生活、財産)を無くした。神を選ぶか、生活を選ぶか、神に触れられると生活が変わることを恐れた。私たちは時々イエス様を忘れる。安心していて忘れる。悪霊の支配(自分を失い奴隷となる罪の結果は死)<イエス様の愛(平安、希望、自由)を忘れている。現在、ゲラサ地方のその地は、イスラエル国立公園であり、新約の唯一の遺跡がある。それは、その人がイエスの命により、神がどんなに大きなことをされたか言い広めた拠点の教会、修道院であろうことがわかっている。

マーク・マグヌソン