第13章 救いの確信についての真理


 「どうしたら確信が持てるのだろうか?」実際のところ、これが問題なのです。私たちが一番はっきりほしいのは、今、神によって受け入れられていて、また将来にも栄光にあずかるということに関する確信です。端的に言えば、私たちには「祝福されているという確信」つまり、救いの確信が必要なのです。
 確信とは何でしょうか。私たちは確信を持つことができるのでしょうか。もしできるとすれば、それはどんな根拠によるのでしょう。この「キリストの真理」の最終章では、これらの質問に答えたいと思います。
 確信の問題についてはいくつかのアプローチの方法があって、そのあるものは聖書の答えに合っていません。聖書の答えを説明する前に、二つの誤った見解を調べてみましょう。

T. 「いったん救われたら、永久に救われている」


 救いの確信ということをめぐってよく主張される二つの見解は、互いに両極端に立っています。一つは「いったん救われたら、永久に救われている」と一般に言われるものと、もう一つは確信などありえないとする立場です。
「いったん救われたら、永久に」の立場はしばしば「永遠の保証」(eternal security)ともよばれます。この立場は次のようなものです:人がいったん本当の信仰者になった以上、その信仰を(少なくとも永久に)なくしたりすることはできないのだから、その人が救いを失ってしまうということは不可能だ;キリストの贖いの利益をはじめて受けた瞬間から、その人は永遠に保証されるのだ;その人は恵みから離れ落ちるなどということは心配する必要がない;神は永遠に信仰の内に保って下さる。
 これはカルビン主義全体系の中でなくてはならない見解です。T−U−L−I−Pという頭文字の中のPは「聖徒の堅忍」(perseverance または preservation of the saints)を意味します。それは全的堕落(total depravity)、無条件的選び(unconditional election)、不可抗的恵み(irresistible grace)といった一連の理論上にあります。それによると、神は天地創造以前に、全的堕落にある人々のうちの誰を救うかということを無条件に定めていて、あらかじめ定めていた時期が来た時に、その人を不可抗的に召して、信仰という贈り物を下さるのだというのです。そして、神は始めから終わりまで至上のコントロール力を持っておられるので、誰が終わりの時まで信仰を持ち続けるかを見きわめるに誤ることがないというのが純カルビン主義です。
 ここで思い起こすべきことは、カルビン主義は信仰が持つ自由意志の性格を否定しているということです。「いったん救われたら、永久に」というのはこの否定を別な観点から言ったものです。この方式では、人は自分の自由意志によって信じることをやめ、救いを押しやることもできません。純カルビン主義の宗派(たとえば、ほとんどの聖書信仰に立つ長老派)はその理論に立っています。他の派(たとえば、全部ではないにしてもいくつかのバプテスト派)は「永遠の保証」教理は採用していますが、基盤となる残りの教理は否定していて首尾一貫していません。
 「一度救われたら永久に」という見方は、聖書の教えに反するものとして否定しなければなりません。確かに神が私たちを見捨てることはなさいませんが(ヨハネ10:28,29;ローマ8:31-39)、 私たちが神を見捨てるということは充分有り得るのです。聖書は救いが条件付きであるとはっきり言っています。受け取って、しかも保ち続けるということは、主なるキリストに自分を明け渡すという私たちの自由意志による条件にかかっているのです。イエスは「もし人が私につながっており...もし私の戒めを守るならば...」(ヨハネ15:5-10)、あなたがたは大丈夫だと言っています。しかし、「もし(訳注:この語は日本語聖書には訳出されていないが、ギリシア語原文にはある)人が私につながっていないならば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて焼いてしまうのである」(ヨハネ15:6)。あるいは、パウロが言っているように、「もし(訳注:原文にあり)あなたがたが、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰に踏みとどまり、既に聞いている福音の望みから移りゆくことのないようにするなら、あなたがたは救われる(コロサイ1:23)。しかしパウロはローマ11:20-22で、もしあなた方が神の慈愛にとどまることをやめるならば、惜しまれずに切り捨てられるであろうと言っています。
 人が恵みから脱落し得るということは「ヘブル人への手紙」全体の前提になっています。この書の主題そのものがキリスト信仰を捨てることの可能性や危険性、それに愚かさです。明らかに一群のユダヤ人クリスチャンが、自分達のキリスト教への改宗について疑問を持っていたことと、キリストを捨ててキリスト以前のユダヤ教に戻ることを考えていたことを示しています。ヘブル人への手紙はこの背教を思いとどまらせようとして書かれたのです。
 たとえば、ヘブル6:4,5は「いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神のよきみことばと、来たるべき世の力とを味わった者たち」について語っています。ここからわかるように、これらの人々とは本当のクリスチャンたちのことをさしています。しかしヘブル6:6では、もしこれらの人々が「そののち堕落した場合には」またもや神の御子を自ら十字架につけてさらしものにし続ける限り、「ふたたび悔い改めに立ち帰ることは不可能である」と言っています。明らかにこれは恵みからの実際的脱落を示しています。ヘブル2:1-3; 3:6-14; 4:1,11; 10:26-39; 12:25 を参照して下さい。このように「いったん救われたら永久に」というのは救いの確約に関する聖書の教えではないというのが結論です。

U. 「救いの確約はない、一生懸命励むのみ」


 もう一つの誤った見方は、「救いの確約はない、一生懸命励むのみ」と要約できる極端論です。この立場を取る人々は、救いの確約そのものもありえないと否定しています。私たちがクリスチャンとしてどんなに励もうが、神の目に良しとされるかどうかわかるはずがないと彼らは言うのです。
 ある人々は永遠の救いの確約を拒絶してこの極端論に走ります。彼らの誤りは、「いったん救われたら、永遠に救われる」とする無条件的確約説が、救いの確約そのものだと混同している点にあります。つまり、前者(無条件的確約説)を否定するあまり、救いの確約そのものも捨て去ってしまっているのです。
 ただ自分の救いについて確信が持てない事の理由としては、神の恵みを誤解している場合が一番多いのです。クリスチャンでも救いが多かれ少なかれ、自分の行いによって、つまり善人であるかどうかによって決まると考えている人がたくさんいます。こんなふうに考え、しかも自分が無価値な罪びとだとあきらめてしまっては、疑いや悩み、絶望にずたずたに引き裂かれてしまう以外にありません。この人は自分が善人でないと分かっているのです。こんな状態で望み得ることといえば、教会にいるときに死ぬか、毎日の祈りの中で許しを請っている時に死ぬかすることぐらいです。
 また、たとえ確信がある人でも、むしろそれをまるで善人だから救われたのだというような、自分の高慢さや傲慢さだとして自己を責めます。しかし、救いは赦しから来るのであって、善人であることから来るものではありません。「確約はないのだから、一生懸命励め」という救いへの態度は「いったん救われたら永久に」という態度と同様に、聖書的には何等根拠がありません。どちらも誤りです。では、聖書は何と言っているでしょうか。

V. 聖書的確信


 救いの確信についての聖書の態度は1ペテロ1:5に良くまとめられています。つまり、私たちは「信仰により、神の御力に守られている」のです。ここで強調されているのは、神が約束に忠実な方であることと、クリスチャンが信仰を持つことの両方が救いの確信に関しては非常に大切だということです。

A. 「神の力によって守られている」

 「神の力によって守られている」ということの強調点は、神の確かな信頼性です。はっきりしていることは、神が私たちを決して見放されることも、のけ者にすることもありえないということです(ヘブル10:23参照)。また、私たちが外敵から身を守るために必要なもの全てを備えて下さるということもはっきりしています(ヨハネ10:28,29; ローマ8:31-39; 1コリント10:13; 2テサロニケ3:13; 1ヨハネ4:4 参照)。その中には聖霊、聖書、祈りに加えて教会とその仲間達や牧会者たちも含まれます。
 その中でも、神ご自身の確かな信頼性と、尽きることのない愛が最大のものです。パウロがローマ5:1-11で教えているところによれば、この愛こそが私たちの救いの確信の堅固な基礎です。 この聖書箇所でパウロは救いには2つの基本的な過程があると言っています。第一は怒りから恵みへ; 第二は恵みから栄光へです。怒りから恵みへの移行がなんといっても一番難しく、また極端で、あるいはそんなことがありえないと思われるかも知れません。しかし、神の愛がそのことを可能にして下さったのです。そうとすれば、神の愛が次の過程に私たちを連れていって下さることを疑うことができるでしょうか。なぜなら、次の過程の方が前の方と比較してみてもずっと自然なのですから。
 この聖書箇所でパウロ考え方の跡をたどってみることは、非常に参考になります:私たちが神に敵対していたときに、愛の神は最もすばらしい贈り物を備えて下さったほどですから、私たちが神の友である今は決して私たちを見放されることはありません。私たちが反抗的で罪深い、どうしようもない敵だったときに、神は何をして下さったのでしょうか?ご自分の息子を、私たちの苦しみの身代わりをするために賜ったことです(ローマ5:5-8)。しかし、私たちが神の敵だったときに神の愛がそうして下さったのなら、義とされ和解を受けている今はなおさら、それ以上のことを神がして下さるということは確実なことです(ローマ5:9,10)。 
 神がその敵のためにも死ぬという究極のことをして下さったのですから、ましてご自分の民を救って下さらないということが有り得るでしょうか。神の愛は私たちに欠けているものを補ってなお余りあるものではありませんか?ご自分の友への神の愛が、ご自分を憎む人々への愛に劣っているということがありうるでしょうか。もし神の愛が怒りと恵みの間にある、広く深い隔たりをも越えうる架け橋であるのなら(その橋の上に私たちは「今立っている」(ローマ5:2)のですが)、「なおさら」この同じ愛は恵みと栄光の間のより小さい隔たりを越えうるはずではありませんか!この神の愛の「なおさら」が、私たちの確信の基盤なのです。

B. 「信仰によって」
 第1ペテロ1:5には、私たちが「信仰により」神の御力に守られていると書かれています。このわずかな表現の中に、私たちは救いの確信に関する2つのことを学ぶことができます。第1に、確信は絶対的でも、無条件でもないということです。神の愛が無条件のものだということは確実なことですが、その神の愛に私たちがあずかるかどうかは、私たちの信仰しだいなのです。私たちが神の恵みにあふれた約束に安んじて信頼している限り、神はその恵みのうちに私たちを守って下さいます。もし、信頼することをやめるなら、私たちはみずからの意志で自分を神から切り離すことになるのです。
 私たちが「信仰によって」神の守りを受けるのだということは、つまり救いの確信は条件付きだということを示しています。私たちがキリストにあって神の約束を誠実に信じる限り、神との今の関係がいつまでも保たれるということが確かです。しかし、いつか私たちが信仰を失って、恵みから落ちてしまうという可能性は常にあります(ガラテヤ5:4)。ただ、誠実なクリスチャンなら誰でも、イエス・キリストへの信頼を持ち続けようと最大限の努力をするはずです。
 神の守りは私たちの「信仰を通して」のものであるということは、第2番目の結論、つまり私たちへの救いの確約は私たちの行いを条件としているのではないということです。前に述べましたが、私たちが義とされるのは律法によって規定される行いとは無関係の、信仰によるのです(ローマ3:28)。私たちが信仰によって義とされるということを知ることが、救いの確信への本当の鍵です。
 義とされるということの意味は、神との間に平和を得ていること(ローマ5:1)、罪に定められないこと(ローマ8:1)です。 信仰によって義とされるということの意味は、この平和と自由が私たちの善い行いを条件としているのでなく、すべてを贖うキリストの血に私たちが信頼し続けることにかかっているということです。 ローマ5:1-11でパウロが述べている2つの過程のことをちょっと思い返してみると、第1の過程での私たちの関わり方は信仰という語に要約されました。 怒りと恵みの間にある深淵を越えたのは信仰によってであって(ローマ5:2)、行いによるのではありませんでした。この最初の、渡り得ない深淵を、自分の行いによって越えたのではなかったように、まさしくそのように、第2の深淵だって自分の行いによって越えるのではないのです。神がその恵みによって橋を架けて下さるのですから、私たちは信仰によってその恵みに依り頼むのです。
 言い替えれば、私たちの救いの確信はキリストの血によって私たちが義とされたということを知るところからくるのであって、私たちが或る聖性に達したというところから来るのではありません。「自分はどれくらい善人だろうか」よりも、「自分はどのようにして赦されているのか」ということのほうが問題であり、私たちはキリストのゆえに、バプテスマのとき以来100%赦されているということが分かっています。
 イエス・キリストを通しての、神との現在のつながりについてのこの確信は、私たちに「栄光への希望」を与えます(ローマ5:2; コロサイ1:27)。希望とは未来についての確信です。それは何か良いことへの確信に満ちた期待です。普通、希望というとたいてい願望以上のものではないという意味で使われますが、聖書ではそうではありません。聖書で希望という言葉が使われるのは、それが不確実だからではなく、時間的に未来に関わるからなのです。ローマ8:24,25を参照して下さい。そして、キリストの血によって、いま義とされているということを信仰によって信じる私たちは、この希望を - つまり、キリストの栄光に永遠にあづかるという確信に満ちた望みを持っているのです。
 「彼についてこの望みを抱いているものは皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする」(1ヨハネ3:3)。

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