第8章 イエス・キリストについての真理


 ある人が「キリストという方こそキリスト教だ」といいましたが、まったくその通りです。聖書のメッセージ全体はイエス・キリストをめぐり、かつキリストに行きつきます。この方だけが福音を恵みにすることのできる方です。彼だけが私たちを罪のとがめから解放してくださいました。彼だけが死を征服され、彼だけがこの本でどんなことが書かれるにせよ、読まれるにせよ、それらを価値あるものにしました。
 イエスに関する聖書の教えはキリスト教教理にとって頂点と土台の両方をなしています。それは最も崇高で栄光に満ちた聖書の教えであると同時に、聖書の他の教えすべてを支えている基盤でもあります。
 スペースの関係もありますので、ここではふたつの基本的な質問に簡潔に答えることにしましょう。このふたつの質問というのは、イエスとは誰なのか?また、彼は何をした人なのか?ということです。(これらの事柄は「キリストの人となりとその業」とよばれています)。これらの質問に対しては、ペテロがピリポ・カイザリヤでした有名な信仰告白が簡潔に答えています:「あなたこそ生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)。

T. イエスはキリスト


 クリスチャンなら誰でもペテロと同じように、イエスはキリストですと喜びをもって告白します。しかし、その意味はどういうことでしょうか?ギリシア語のキリストという語はヘブル語のメシヤという語と同じで、「油注がれたもの」という意味です。旧約聖書では油を注がれることは、特定の地位や仕事に任命されるということと同じでした。ですから、キリストとは神が救いの業をするために任命した者という意味です。イエスをキリストだと告白することは、神が世を救うために送ったのがイエスだということを受け入れることです。これがキリストの業についての告白です。
 旧約聖書では、神はご自分の民に指導者を備えるに当たって、預言者、祭司、王という三つの役職を設けられました。これはやがてイエスがきて、彼の内にこの三つの役目を融合させるための準備でした。

A. 油注がれた預言者としてのイエス

 列王上19:16に、エリシャがエリヤの後を継いで油を注がれ、預言者にされたことが書かれています。預言者というのは単に誰かの代弁者であり、誰か他の人の気持ちを表す者を指します。神の預言者は誰でも、人々に神のメッセージを何らかの方法で語る人です。
 イエスは神の気持ちと心をその最も高い方法で表すために、預言者の任務につかれました。イエスは「私を見たものは、父を見たのである」と言っています(ヨハネ14:9)。ヘブル1:1-3には、「神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿」である御子を通して、神は語られたとあります。イエスは神の国の福音をのべ伝えるという、まさにこの目的のために油注がれたのです(ルカ4:18,43)。
 私たちはイエスを最も偉大で最高の預言者だと心から告白しながらも、ある極端な立場にゆかないように気をつける必要があります。それについては次の3つのことを心に留めればよいのです。
 (1) イエスだけが神を表したのではないこと。
 (2) イエスだけが啓示を与えられた最後の方ではないこと。
 (3) 啓示はイエスの最も重要な業ではなかったこと。

B. 油注がれた祭司としてのイエス

 イスラエルの祭司として最初に油注がれたのは、アロンとその息子達でした(出エジプト29:4-9)。祭司とは何をする人なのでしょうか?基本的には彼は神と人間との仲介者です。特に誰かほかの人のために犠牲を捧げて、その人が神に受け入れられるようにすることでした。
 イエスは祭司の役目を負いに来られて、油注がれてご自身を完全な犠牲として捧げられました。それは私たちが神に受け入れられるものとなるためです。それは十字架の上で成し遂げられたのです。ヘブル9:11-14参照。
 ヘブル書の中心テーマはイエス・キリストの祭司性ですが、特にその祭司性がアロン家のものを超えているということに強調点があります。それというのも、アロン家の人々も罪びとであることには変わりがなかったので、旧約の祭司達は他の人々の分同様に、自分達の分も犠牲を捧げなければならなかったのです。こうした犠牲には罪科をのぞく本質的効力はありませんでした(ヘブル10:4参照)。しかし、キリストは「このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪びととは区別され、かつ、諸々の天よりも高くされている大祭司」であるので「彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々いけにえを捧げる必要はない。なぜなら、自分を捧げて、一度だけ、それをされたから」なのです(ヘブル7:26,27) 。彼のカルバリの丘での自己犠牲はたった一度で、いついかなる罪をも贖うものだったのです。 ヘブル3:1; 4:14-16; 5:5-10; 8:1; 10:10-12をも参照してください。
 祭司としてのイエスの働きを表す重要な聖書の言葉がいくつかあります。第一にはもちろん「犠牲」です。イエスは犠牲--それも、世の罪を取り除く傷のない小羊です(ヘブル10:12; ヨハネ1:29)。犠牲というのは罪科が転嫁されるものですが、それが実際の違反者の身代わりに捧げられるのです。イエス・キリストのみが「本物」の犠牲であって他の犠牲はすべてそのシンボルであるにすぎません。
 次に重要な言葉は「宥め」です。ヘブル2:17にイエスは「民の罪のために、宥めがなされるため」(新改訳)「神のみ前にあわれみ深い忠実な大祭司」となったと書かれています。イエスは宥めのために死んだのです。ローマ3:25; Iヨハネ2:2; 4:10参照。
 宥めとは何でしょう。それは受けるべき怒りをそらすための犠牲という事を特に表しています(怒っている妻の怒りをそらすために花を贈るとすれば、それは宥めということになるでしょう)。私たちの罪は神の怒りを受けて当然のものであり、神は聖なる義の方ですから、この怒りが充足されなければなりません。そしてそれは実際、私たちにではなく、キリストに対してなされたのです。
 私たちの主はそれをご自分の内の取り込んで神の怒りを私たちからそらしてくださったのです。主は私たちの罪をご自分のものだとして負ってくださり、次にそれに伴う罰をも背負ってくださいました。罪はまるで磁石のように神の怒りを私たちの宥めの身代わりの方に吸いつけたのです。2コリント5:21; 1ペテロ2:24; ガラテヤ3:13; イザヤ53:4-6参照。
 同じ事をあらわすもうひとつの言葉は「贖い」です。贖うというのは「解放するために代金を支払う」という意味です。十字架は私たちの贖いです(ローマ3:24; エペソ1:7)。キリストは私たちを何から贖ったのでしょうか。それは私たちが自分の罪の故に神に負っている負債、つまり、黄泉での永遠の罰という負債です。キリストが十字架を通して払ってくださったので、私たちはこの負債から解き放たれたのです。 マルコ10:45; 1ペテロ1:18,19; ガラテヤ3:13参照。
 十字架を通して成し遂げられた祭司としてのキリストの働きは、彼の最も重要なものです。イエスが犠牲・宥め・贖いとしてなされたことは福音の中心的な本質です。私たちが永遠の罰から救われることができるのは、ただただ救い主がそれと同等の苦しみを私たちの代わりに苦しんで下さったからです。これが聖書の教えのすべてのうちで最も基礎になることです。

C. 油注がれた王としてのイエス

 旧約時代には、神はご自分の民の上に王の位をもうけて、この任務のためにさまざまな人々に油を注がれました。例:サウル(サムエル上10:1);ダビデ(サムエル上16:13)。王はその民を権威と権力をもって支配する人々です。イエスは王の王として、また主の主として王位につかれるために来られました。 詩篇2:1-12; ヨハネ1:49; マタイ12:1-5; コロサイ1:15-17参照。
 ピラトが「それではあなたは王なのだな」と尋ねたとき、イエスは「あなたの言うとおり、私は王である」と言ってご自分が王であることを明らかにしました(ヨハネ18:37)。パウロはこのときのことを「りっぱなあかし」と言っています(1テモテ6:13)。私たちが、キリストは自分の生涯の主であり王ですと言うとき、同じように立派な証をする事になります。
 キリストの王としての働きは特に悪魔との戦いに表れています。この面でのキリストの使命はしばしば見過ごされがちですが、キリストがこの世に来たのは実に彼と、また私たちの最大の敵である悪魔と死に立ち向かい、打ち勝つという目的の為なのです(詩篇45:1-7; ヘブル2:14,15; コロサイ2:14,15)。十字架は戦場であり、復活はその勝利です。復活したキリストは戦いに勝った王であり、あらゆるものの主です。コロサイ1:18; 黙示1:17,18; ローマ6:9参照。 昇天によってイエスは天の国に凱旋し、永遠の支配を開始しました。詩篇24:7-10; 詩篇110:1,2; 使徒2:33-36; エペソ1:20-23参照。
 要約すれば、私たちが「イエスはキリストです」と言うとき、それは彼が真理によって来たる預言者であり、私たちの罪の犠牲としての祭司であり、また私たちの命の主としての王であることを告白しているのです。

U. 神の子としてのイエス


 イエスがしたと聖書が述べている力ある業を一体ほかに誰ができるでしょうか。ただの人間だったとしたらそれらのことを成し遂げることができたでしょうか。「ただの人間」だったならできなかったはずです。これが油注がれた方が人間以上の方、つまり、神でもあったということの証拠です。ペテロの告白で「あなたは...生ける神の子です」とあるのはこの意味です。私たちがイエスを神の子と認めるとき、彼が誰であるかということ、つまり神であって人間であったと言うことになるのです。

A. 神である子

 難癖をつけたがる人々は、「神の御子」という称号がイエスの神性を意味するということに反対します。しかし、イエスの時代にその言葉が異邦人やユダヤ人によって使われていたことや、新約聖書での使われ方を検討すると、この称号が神を表すことは明かです。
 たとえば、ヨハネ5:17,18にはイエスが神を「私の父」といっていることが記録されています。ユダヤ人たちは直ちに神を冒涜したかどで彼を殺そうとしました。というのはイエスが「神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからです。 ヨハネ10:29-39にも同様な出来事が書かれています。 ユダヤ人たちはイエスを石打ちにしようとしました。それは彼らが告発しているように「あなたは人間であるのに、自分を神としているから」(33節)でした。イエスは彼らの告発が「私は神の子である」(36節)といったご自分の宣言にあることを指摘しています。言い替えると、ユダヤ人の間ではそのような宣言は、自分を神とするものと明らかにみなされていたことが分かります。そして注目すべきことは、イエスはその宣言と宣言の意味することを決して翻さなかったということです!彼はただ「これが証拠だ。あなた方が判断しなさい」と言われただけです(ヨハネ5:31-47; 10:37,38)。実際にヨハネ5:23でご自分を父なる神と同等に置かれたとき、イエスはこの宣言を強調されたのです。そこでは「すべての人が父を敬うと同様に、子を敬」いなさいといわれました。 マタイ26:63-66; ルカ22:67-71参照。 

(ヨハネ5:31-47)
31 もし、わたしが自分自身についてあかしをするならば、わたしのあかしはほんとうではない。32 わたしについてあかしをするかたはほかにあり、そして、その人がするあかしがほんとうであることを、わたしは知っている。33 あなたがたはヨハネのもとへ人をつかわしたが、そのとき彼は真理についてあかしをした。34 わたしは人からあかしを受けないが、このことを言うのは、あなたがたが救われるためである。35 ヨハネは燃えて輝くあかりであった。あなたがたは、しばらくの間その光を喜び楽しもうとした。36 しかし、わたしには、ヨハネのあかしよりも、もっと力あるあかしがある。父がわたしに成就させようとしてお与えになったわざ、すなわち、今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている。37 また、わたしをつかわされた父も、ご自分でわたしについてあかしをされた。あなたがたは、まだそのみ声を聞いたこともなく、そのみ姿を見たこともない。38 また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。39 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。40 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。41 わたしは人からの誉を受けることはしない。42 しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。43 わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。44 互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。 45 わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である。46 もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。47 しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」。 [戻る]

この称号の用い方を別としても、イエスは聖書の中で他の多くの方法でご自分が神であると宣言されています。イザヤ9:6はメシヤに「大能の神」という名を当てています。ヨハネ1:1では人としての言が永遠の昔から存在していて、それがナザレのイエスという神(ヨハネ1:14)となられたと言っています。ピリピ2:6にあるように、彼は神のかたちで存在しておられ、本当に神と同じ性質をもっていたのです。 詩篇45:6; ローマ9:5; テトス2:13参照。
 イエスが神の子ですと告白することは、彼が神であり、子なる神であることを受け入れることです。もしイエスが何かそれ以下の方であったら、救いの業をなすことはできなかったのです。彼が神であることを否定するなら、私たちの救いをも否定することになります。

B. 受肉した神

 驚くべきことは子なる神が私たちの世界に人間として現れたということです。彼は単なる化身として人間の姿をとって来られたというのではなく、本当の肉体と魂を備えた人間として来られました。それがナザレのイエスです(ヨハネ1:14; ピリピ2:7,8)。私たちにとってイエスはマリヤの子であり、しかも神の子です。言い替えれば、彼は神性と同時に本当の人間性をもっておられます。
 また心に留めておくべきことは、子なる神が人間となられたとき、その神性ないし神と等しい性質はどんなかたちでも減ったり、従属的なものとなったりすることはなかったということです。イエスの神的輝きは人間の目には隠れて映りましたが、彼は肉体にありながら、真の神でした。「キリストにこそ、満ち満ちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿って」いるのです(コロサイ2:9)。
 キリストの業についての聖書の教えを理解するには、キリストがどなたかということに関するこの見解が必要です。イエスがなし得た業は、実に彼が在って在られた方であることによるのです。

  1. イエスは人間でした。だから彼は死ぬこともできたのです。ヘブル2:9-15
  2. イエスは罪のない人間でした。だから彼の死は自分の罪の故ではなく他の人の身代わりとなり得たのです。ヘブル4:15; 7:26-28
  3. イエスは神であって人間でした。だから、彼の死は誰か他の一人にとどまらず、人類のためで有り得、また死に打ち勝つことができたのです。

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