第7章 恵みについての真理


 「あなたはどうして自分が天国に行けると思うのですか?」
 最後の審判ということについては、誰でも人生のあるときに、きっとあるとか、あるいは少なくともそんなことがあるかも知れないと思いをめぐらすものです。そのときに浮かぶ疑問は「自分は合格するだろうか?本当に天国に行くことが許されるだろうか?」ということです。
 仮にその審判であなたが「どうしてあなたは自分が天国に行けると思うのだね?」と聞かれるのだとしてみましょう。あなたはどう答えますか?神はあなたにどのような答を期待しているでしょうか?どう答えれば神に「よろしい。それなら結構です。入ってください」と言われるのでしょうか?
 これは救いの本質に関わる問題です。どのようにして人間は天国に行くことができる者とされるのでしょうか?天国が目的地とすれば、人はそこに着くためにどのような道をとるべきなのでしょうか?天国を競技の勝者に与えられる賞にたとえれば、どのようにすれば勝つことができるのでしょうか?競技の勝敗を決める一般的ルールはどのようなものでしょうか?これが「恵み」を一番よく理解することができる状況の前後関係です。
 前2章で述べられた私たち人間の苦境において、私たちをこの状況から救うことができる計画を立てることは可能なのでしょうか?それは実は可能ですが、神の恵みによって事に当たるという条件付きです。恵みは救いの根本的性格をよく表しています。そして、救いは罪びとを天国に入れるための神の計画を理解するための鍵なのです。
 従って、最後の審判でのあの重要な質問への正しい申し開きは、恵みの仕組みそのものからなされなければなりません。私たちは恵みということによって考えるように、考え方を整えてゆきましょう。ですから、恵みとはいったい何なのかを理解することはとても大切なのです。

T.恵み:与える心


 まず指摘したい第一の点は、恵みが与える心だということです。ギリシア語で恵みという言葉が使われるのは、ふつう、喜びとか与えることと結びついているのが一番自然です。ある神学事典は、恵みの意味の始まりは「贈り物による喜び」にあると言っています。それは「人を喜ばす贈り物」であるわけです。
 こうした意味は救いが恵みであることを見れば非常にはっきりしてきます。それは神が私たちを罪の結果から解放してくださる過程の本質を理解する手助けになります。救われていないことと救われていることとの根本的な違いを表しています。ローマ6:23は「罪の報酬は死である。しかし神の賜は、私たちの主キリスト・イエスにおける永遠の命である」と言っています。
 ここで救われれていない人の行き着くところ(死)と、救われた人の行くところ(命)が反対であることが分かります。しかし同時に、行き先決定についてのふたつの道ないし方法が、くっきりと対照的に示されているのが分かります。死は罪の報酬、つまり罪びとがその行いと生き方に応じたものを受けることとして描かれています。死はその人への報酬であり、負債であるわけです。これに対し、永遠の命は神からの無代価の贈り物と呼ばれています。それは何かの報酬ではありません。私たちにはそれを要求する権利がありません。それはただ贈り物という形でのみ得られるものです。これが恵みです。エペソ2:8参照。
 これが恵みを理解する出発点です。それは贈り物に関係していることであって、自力獲得とか受ける資格とかとは関係ありません。「恵みにより」と「報酬として」は正反対のことなのです(ローマ4:4)。

U.恵み:神の特質


 贈り物としての恵みとは単なる抽象的な理論ではなく、また、箱やタンスの中にしまっておいて滅多に取り出さないもののような、親しみのないものでもありません。それはまず第一に、与える方の心の傾向として現実に存在するものです。それは態度であり、心のあり方であり、望みであり、与えることを喜ぶ心です。ここに「救いをもたらす神の恵み」(テトス2:11新共同訳)が、それも神の心のまっただ中に始まるのです。すでにみたように正義も神の摂理です。その意味するところはつまり、“神は本当に私たちが当然受けるべきものをもって臨まれる”ということです。私たちは罪びとであり、罪の受けるべきものはとがめと怒りです。このようにして正義である神は私たちをとがめ、その怒りを私たちの上に注がれます。「神は人のわざに従ってその身に報い ...、全能者は裁きを曲げられない」(ヨブ34:11,12)。 ローマ12:19; エゼキエル7:8,9; ヘブル12:29参照。
 しかし神のご性質にはもうひとつの面があります。「焼きつくす火」である神が同時に愛と慈しみと恵みとにあふれた神なのです。実際、神の愛の摂理はある意味でその怒りをはるかにしのいでいます。それは神の恵みが、罪びとのために神の怒りから免れる道を備えたという点に表れています。神がお怒りになることは本当ですが、それが「最期の」言葉ではありません。「神は恵みを施すことを忘れ ...たであろうか」(詩篇77:9)。いいえ、そんなことはありません。「主はあわれみに富み、恵み深く、怒ること遅く、慈しみ豊かでいらせられる」(詩篇103:8)。「誰かあなたのように不義を許し、その嗣業の残れる者のためにとがを見過ごされる神があろうか。神は慈しみを喜ばれるので、その怒りを長く保たない」(ミカ7:18)。
 その意味は、もし私たちが神の正義があまねく行きわたることに甘んじるならば、神は私たちそれぞれに応じたもの(罪の報い)をお与えになるということです。しかし同時に--実はこちらの方が本当のみこころなのですが--神は本来ならば私たちが当然身に受けるべき報いとは反対のものを与えることがおできになります。つまり、もし私たちがみこころにゆだねるならば、神は私たちに恵み深くありたいと思っておられます。(神は進んで受けようとする人にのみ恵みを賜います。マタイ23:37参照。)
 これが恵みということの本質です。それはある意味で正義と反対です。私たちに受ける資格がないのにも拘らず、神は私たちを愛してくださいますし、その価値もない者なのに、私たちが自らの手ではどうにも手に入れることのできない救いをお与えくださいます。私たちが当然受けるべき報いではなしに、神は永遠の生命という贈り物をくださるのです。

V.恵み:救いへの道


 神の特性がふたつ(正義と愛)あることに呼応して、神との関係のあり方にもふたつあります。事柄を分かりやすくするために神が天に座っておられるとしてみましょう。その王座のある部屋にはふたつの窓があって、そこから神が全人類を見渡せるとします。一方は正義の窓で、この窓からながめられた人々はすべてその行動に応じたものを受けるのです。もう一方は恵みにあふれた愛の窓です。この窓からながめられた人々すべてが受けるものは贈り物であって、前者とは逆に、彼らにそれをいただく資格があって受けるのではありません。
 ここで今述べているのは、実は天国に行くふたつの(可能な)道についてなのです。ひとつめは律法の道であり、ふたつめは恵みの道です(ヨハネ1:17; ガラテヤ5:4; ローマ6:14参照)。律法の方式によるとすれば、私たちは神が正義の方であることによってつながりをもっていこうとすることになりますし、恵みの方式によるとすれば、私たちは神が愛の方であることによってつながりを持っていこうとすることになります。
 「どんな理由であなたは自分が天国に行けると思うのか」という質問にどう答えるべきかは、天国にはいるのが律法によるか、恵みによるのかということにかかっています。その違いはきわめて重要ですから、この点を明らかにして行きたいと思います。

A. 律法による道

 律法による救いの道を理解するのは難しい事ではありません。その基本原則がとても単純だからです:「律法を守れば罰を免れ、律法を破れば罰で苦しむ」。
 ここで「律法」といっているのは、成典法規や神の掟をさし、どの時代に生まれたかは関係ありません。ある人が自分に当てはまる律法を守るならば、神の怒りを免れ救われますし、律法を破ればその人は罰で苦しむことになります。これが律法方式のはたらきかたです。
 さて私たちは律法のもとに人生を始めること以外に選択の余地はありません。これが自然の状態です。誰でもきまりや特定の律法(たとえば、モーセ律法とか新約のきまり)を介して神との関係を持つべく生まれています。誰でも自分に当てはまる命令に、それを守るにしても破るにしても、応答して行くことになります。
 さて律法のもとでも救われることが理論上は可能です。基本原則が「律法を守れば、罰を免れる」とはっきりしているからです。従って律法の下では、もしきまりを守れば救われることができます。しかし、すべての律法を--しかも完全に守った人だけが天国に行く資格があります。たったひとつでも守れなければすべては水の泡になってしまいます。ヤコブ2:10; ガラテヤ3:10参照。
 とすれば、一体誰かが律法によって(つまり、律法を守ることによって)実際、天国にゆけるというのでしょうか。いいえ、誰も行くことはできません。なぜなら「すべての人は罪を犯した」(ローマ3:23)からです。このように、律法によってはひとりの人も救われることはないでしょう。律法によって神とのつながりを持とうとする限り、私たちが期待できるものは、身に受けるべき当然の罰しかありません。

B. 恵みによる道

 福音の本体は神につながる道が実はもうひとつあるということ、つまり天国へのもうひとつの道--恵みによる道があるということです。それはまったく異なった方式です。全然違った基本原理に基づいて働くのです。救いは次のように表わされます。「律法を守る人が罰を受け、律法を破る人は罰を免れる。」こういうとすぐに反論が起こるでしょう。「ちょっと待った。どこか変だぞ。なぜ律法を守る人が罰を受けて、破る人が罰を免れるんだ?そんなのは不公平だ!」
 まったくその通りです。公平ではありません。そんなことがあるべきではありません。これが公平だとすれば、恵みではないはずです。律法こそ公平で、恵みは公平どころではなくなります。
 これに対してあるいは、こう言う人もいるでしょう、「それはそうだが、もうひとつの面はどうだろうか。文の後半に『律法を破る人は罰を免れる』とあるけれども、これはすばらしいのではないか。これは唯一の希望だ。それにしても前半の『律法を守る人が罰を受ける』というのはどうだろう。やっぱりひどい。どうしてこれが恵みなのだろう」。
 確かにこれは奇妙に見えるし、反対したくもなるでしょう。しかし、思い起こしてほしいのは、恵みとは私たちの普通の考えとは異なったものだということです。それは律法とか正義とか公平とかの枠内に収まらないのです。このことは特に前半部分に表れています。
 ただし、これは恵みの恵みたるゆえんの本当に基本的な事柄です。この前提なしには他のなにものもありえません。結局のところ、この前提は誰に当てはまるでしょうか。いったい誰が律法を完全に守ったのでしょうか?たった一人、イエス・キリストしかいません。それなのに彼は律法を守ったにもかかわらず、罰を受けました。なぜでしょうか。それは恵みのためでした。恵みが生きて働くためには、とがめのない主が十字架につく必要があったのです。なぜなら、無実のキリストが死なれたということは、彼が私たちのすべての罰の身代わりに十字架上で苦しまれたことと、その結果本当の律法違反者である私たちが罰を免れることが可能になったということを示しているからです。
 恵みによる救いは 2コリント5:21に完璧に要約されています:「神は私たちの罪のために、罪を知らない方を罪とされた。それは、私たちが彼にあって神の義となるためなのである」。キリストは私たちの罪を取り、私たちは彼の義を受け取るのです。神がイエスを罪人のように扱われたのは、それによって私たちが罪のないもののように扱われるためでした。このようにして、神の正義はちょうど、罰金が支払われたように満たされ、神の愛も満たされたのです。
 このようにして恵みのもとでは、私たちは罪を犯した者でありながらも、イエスの故に処罰を免れます。身に受くべき当然の報いを受けることはありません。わたしたちと神をつなぐものは律法ではなく、恵みです。神の愛の故に私たちはその怒りを免れるのです。(気をつけていただきたいのは、「律法--恵み」の区別は「旧約--新約」ということと同じではないということです。以上、ここでのべられたことはどの時代にも当てはまります。モーセ律法であろうと、新約の戒めであろうと、それらを守ることによって救われ得るような罪びとは誰もいません。)
 神と律法によってつながるか、あるいは恵みによってつながるかは人それぞれの選択事項です。律法の下にとどまることを選択できはしますが、自分の行為に応じた報いを受けます。この人に神が「どういう理由で私はあなたを天国に迎えられると思うかね?」と尋ねられたとき、その人はパリサイ人のように答えるでしょう:「私はあなたの掟のすべてに従いました」(ルカ18:11,12参照)(このパリサイ人は裁きの日のための練習をしていたのでしょうか?)。この答はもちろん真実を言っていませんが、律法遵守に望みをかけている人に、ほかにどう答えようがあるでしょうか。彼はパリサイ人のように、義とされることがないでしょう(ルカ18:14)。
 この人とは反対に恵みを唯一の希望として持ち、あの取税人のように「神様、罪びとの私をお赦しください」(13節)と答えてゆく道があります。これこそ神が私たちから聞きたいことなのです。なぜなら、これだけが神が私たちを救う道だからです。

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