第6章 死に関する真理


 プラスチックの切れ端や石ころなどは生きてはいませんが、かといって「死んでいる」とも言いません。そうしたものは生きていたことがあるわけではないし、またいつか生きるというものでもありませんから、それらについて生命がどうのこうのと言うことは的はずれなことです。
 何かが死んでいるという場合、それは通常ならば生きているべきものについて言っているわけです。死とは生命の無いこと、つまり生命原理からの離脱、あるいは、命の源から切り離されてしまっていることです。
 人間が生きるべきものとされていることは明かです。生ける神は人を「生きた者」(創世記2:7)として造られました。それは人がその創造者と仲良く永遠に生きるという目的のためだったのです。しかし、罪が入り込んできたとき、死も入り込んで来ました(創世記2:17; ローマ5:12)。生きるべき人間が死すべき人間となったのでした。 実に「罪の報酬は死」です(ローマ6:23)。ただこれらの報酬はいくつかの異なった通貨で支払われます。つまり、それは死ですが、死には全部で3種類あります

 第一は肉体的死です。人間とはもともと霊と肉体とが一体となっているべきものです。このふたつのものが一体となっている限り肉体は生きています。人間の霊は肉体的生命の源です。ヤコブ2:26には「霊魂のない体は死んだものである」と書かれています。肉体的死は霊が体から離れるときに起きます(ヨハネ19:30参照)。
 第二は霊的死です。これは前の章で扱った霊的堕落ということと同じで、エペソ2:1,5コロサイ2:13が「死」と言っている状態です。 罪びとの霊魂は真の意味で死んでいます。なぜなら、生命の源である神ご自身から隔てられているからです(エペソ4:18)。罪びとは神から隔てられている状態にあり(イザヤ59:2)、その霊的生命は失われています。(神のもとに立ち帰り、回心する時にその人は再び生きた人となるのです。エペソ2:5)。
 第三に永遠の死があります。裁きの日には有罪宣告をされた罪びとは、肉体も霊魂も(マタイ10:28)永遠に火の燃える池の中に投げ込まれます。これは「第二の死」とも呼ばれているものです(黙示20:14,15; 21:8)。この死の本質は消滅することでも無存在となることでもなく、むしろ神から永遠に切り離されることであって、それは修復不能なのです (マタイ7:23; 22:13; 25:41; 2テサロニケ1:7-10参照)。
 ただ本章では、こうした聖書の教えのひとつである肉体死にのみ焦点を当てることを心に留めておいてください。ここではどのように肉体の死が罪への罰として、あるいは恐れるべき敵として、またイエス・キリストによって打ち負かされた罪としてのべられているかを見ることにしましょう。

T. 死は罰であること


 「どうして人間は死ぬのか?」この問に対する現代人の答は「当たり前じゃないか。人間以外のあらゆるものも死ぬのだから」というものです。
 この答が立っている前提は、人間が他のものすべてと同様に自然の秩序の一部だということです。これはいわばトロイの馬伝説的進化論(の残り滓)です。つまり、人間の生命は他の生物と同じ過程で進化してきたとか、従って人間の死は昆虫や象が死ぬように自然のことだというのです。
 教会のリーダーたちでも、往々にしてこのような死に対する見方をすることがあります。聖書信仰に立つクリスチャンからさえも、死は自然のものだから罪の結果ではないなどと聞かされることがあり、ある人は「死すべき運命は罪とは無関係で、天地創造のはじめからのきまりだ」などと書いたりしています。
 これはとんでもないことです。聖書は、人間の肉体の死は罪の結果であってむしろ罰だ、とはっきり教えています。はじめにアダムとイブは警告を受けました:もし従わないならばあなたは「きっと死ぬであろう」(創世記2:17)。ローマ1:32でパウロは罪を行うものは「死に価する」と言っています。
 またパウロは死が罪の報酬であり(ローマ6:23)、「からだは罪の故に死」ぬ(ローマ8:10)と言っています。ヤコブ1:15は死の由来を次のようにのべています:「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」。
 ローマ5:12は死がひとりの人アダムを通してこの世に入り、また全人類に広がったと説明しています。つまり個人は自分が犯した何らかの個人的罪への罰として死ぬのではないということです。それは人類という種族全体への呪いですから、乳幼児や聖人であっても死ぬのです(個人がキリストの贖いによって、死からよみがえらされるかどうかは、その人が個人的に犯した罪からキリストによって救われているかどうかにかかっています)。
 いずれにしても、人間の死が自然でも普通のことでもないということはきわめて明かです。人間は他のもののように自然に死んで行くものとしては創造されなかったのです。罪が入ってきたばかりに、死の運命が人類にふりかかったのです。それは罪に対する処罰です。
 こう言うとよく出される反論は、これらの聖書箇所が述べているのは、霊的ないし永遠の死のことであって、肉体の死についてではないのではないかというものです。確かにそうした死ということも考慮に入っているとは思いますが、これらの聖書箇所が肉体の死を含まない意図だと考えることは無理です。たとえば、創世記2:17では従わなかったことに対する罰は死です。そしてこの罰が科せられたときの(創世記3:19)、そこに記されている唯一の死は肉体の死です。ローマ5:12を分脈全体の観点(たとえばローマ6:9)から読んでみると、肉体の死が考えられているのが分かります。 ローマ8:10は特に罪に対する肉体の死が述べられています。
 救いということについてちょっと考えてみてもそのことは分かります。たとえば、肉体の復活が贖いの業だということは(ローマ8:23)、肉体の死が罪の結果だということを示しています。また、もし肉体の死が自然なことであるなら、どうして十字架上のキリストの死は呪いなのでしょうか?ガラテヤ3:13; ヘブル2:14,15参照。
 人間は罪の故に死にます。このふたつのことが関係ないなどという悪魔の嘘(創世記3:4参照)にたぶらかされてはなりません。

U.死は敵であること


 人が死ぬとき、それは単に「自然に起こるべきことが起きている」のではありません。むしろ、その人は母の胎内に生を受けたときから追跡してきた、ある侵入者の攻撃を受けて、打ち負かされたのです。その人は(少なくとも一時的には)この死という冷酷な敵に破れたのです。
 死をこのように敵--それも恐れ、戦い、また打ち勝つべき敵--と考えることは正しいことです。ヘブル2:14,15はサタンについて「死の力を持つ者」と言っていますし、死自体に関しては、恐怖によって人間達を捕えるものと述べています。マタイ16:18でイエスは教会を死の猛攻撃から私たちを守る避難所ないし砦であると言っています(ここで「ハデスの門」(新改訳)--死の場所--はその餌食を打ち負かす死の力を象徴しています)。1コリント15:25,26は死を(終末の復活の際に)キリストにより打ち負かされることになっている「最後の敵」と述べています。
 このように、死は友とすべきものではないのですから、安心したり無頓着でいるべきではありません。「死が恐怖などとは幻想に過ぎない」といったことを書いたりするクリスチャンの編集者には賛成できません。その人は「死は人間が考えるような恐ろしいものではない」と言い、「むしろ、恵み深い神の定めだ」として、「死の陰の谷」(詩篇23:4)が意味するものはそれ、つまり、死は単に影であり、幻想であって実体のない見かけだけのものだと言うのです。
 このような考え方は罪びととしての人間は死を恐れるべきだという事実をぼかすものです。なぜなら、死は罪に対する罰であり、死後の裁き(ヘブル9:27)のいわば前奏だからです。結局、「生ける神の御手の内に落ちるのは恐ろしいこと」(ヘブル10:31)だからです。
 近年のさまざまな思潮は、悪魔的なものにつき動かされて、死が自然で恐くない、むしろ美しくなじみ深いものですらあるとし、何とかしてこの世を納得させようと必死になっています。進化論はこの面で最も効果を発揮しています。オカルト主義も特に心霊めいた形でこうしたメッセージを広めています。「死は存在しない」というのが心霊主義の中心メッセージです。つまり、死など何でもない、それは単に通過するドアのようなものだと言うのです。
 現代の心霊主義の内で最もまことしやかなものは、レイモンド・ムーディや、エリザベス・キュブラー・ロス(彼らの心霊主義とのつながりは明かです)に率いられている「死後生」として知られている思潮です。この問題多い異端の中心的メッセージは、どうも「死は友達だから恐れることはない」というものらしいのです。転生経験を持つという人々の大半が、生前どんな信仰に立っていても死は美しく祝福されたものだと確信するに至ったと言うのです。
 こうした経験をどう説明しようとも、そこから引き出された結論は悪魔的であり、反聖書的です。それらはキリストの福音を否定します。私たちはサタンがあらゆる手だてで私たちを「最後の敵」である死と友達にさせようとする事を警戒しなければなりません。

V. 死はうち負かされた敵


 さて、「クリスチャンって死を恐れてはいけないはずではありませんか?」と言う人があるかもしれません。まったくその通りです。私たちは死の恐怖から解放されています(ヘブル2:14,15)。しかしそれは死が友達だなどという嘘によってではありません。
 私たちの解放は「私たちの敵である死はもう打ち負かされた!」という福音のメッセージから来ています。死はいまだに敵ですが、それはキリストによって打ち破られた敵です。十字架と復活によってイエスは死に打ち勝ったのです(黙示1:17,18)。キリストにつく私たちは、この勝利にあずかります。それが私たちがもはや死を恐れない理由です。
 もし私たちがどんなふうにせよ、死は当たり前のこととか、自然だとか、友達みたいなものだと言うとすれば、未信者の人々にとんでもない仕打ちをする事になります(臨終の席や葬儀に際しては言葉に注意しましょう)。誰であってもキリストの救いの恵みの外にいる人は、死とそれに続く裁きに恐れおののくのです。もちろん私たちはこうした恐れから彼らを解放してあげたいと思うのですが、はっきりすべきことは、このことから本当に逃れる道はキリストの福音を受け入れることだということです。ヘブル2:14,15をもう一度参照してください。
 罪の贖いに関する出来事の一切は、-- それが霊的死であれ、永遠の死、また肉体的死であれ--死という問題に対する神の解決策です。キリストの救いの業は私たちを罰と束縛と死の恐怖から解放しました。これがキリスト教です。これが福音のすばらしさです。すでに打ち負かした敵を旧友などと誤解して福音の栄光を見失わないようにしようではありませんか。

《目次へ》《前の章へ》《次の章へ》