第5章 罪についての真理


 創世記1:31を読んでみましょう。「神が造ったすべての物を見られたところ、それははなはだよかった。」歴史の本をどんなものでもいいですから読んでみて下さい。バビロニアやローマがエルサレムを包囲したときの恐ろしい出来事とか、ナチやカンボジアでの大量虐殺とかを読むと、これが「はなはだよい」ことだろうかと思います。
 新聞を手にとってみると、最近起きている戦争や大量殺人、拷問死などが載っています。アルコール中毒、覚醒剤中毒、売春、テロリズム、囚人の激増、何百万もの堕胎。これが「はなはだよい」ことでしょうか?
 明らかに何かが間違っています。私たちが見ている世界は神が「はなはだよい」といわれた世界とは確かに違います。歴史を暴力と流血と汚れとで埋めた人類は、あのエデンで主の恵みを受けた完全な二人とはまるで違っています。いったい何が起きたのでしょうか?その答は私たちの世界に何かが侵入してきて、内部の内部までめちゃめちゃにしてしまったということです。そして、その侵入者こそ罪です。それが創世記第3章に記録されているように、アダムとイブの心を通して入って来て、それ以前とはまったく何もかも違ったものにしてしまったのです。
 罪についての正しい理解は非常に大切なことです。特に罪が私たちにどんな影響を及ぼしているかを知ることは重要です。罪がもたらした苦境がどんなものであるかを知る必要があります。本章ではこのことに焦点を当ててゆきましょう。

T. アダムの罪


 「罪がどのように私たちに影響を及ぼしているのか」との問は、「誰の罪が私たちに?」と考えるとさらに複雑になってきます。単に自分の罪と取り組むのか、あるいは始祖であるアダムとイブから何かありがたくないものを受け継いでいるのでしょうか? ここに「原罪」という重要な問題が関わってきます。アダムの原罪(=アダムとイブの罪を縮めた言い方)が人類全体に何らかの影響を及ぼしているのでしょうか?この質問には実にさまざまな答があります。そのいくつかを見てみましょう。

A. さまざまな見方

 一つの極端な見方をする人は、アダムの罪が私たちの住む環境を変えたという点で、間接的にのみ影響を及ぼしたにすぎないと言います。罪が私たちをとりまいているために、彼のまねをする事によって罪びとになるというのです。また、別な見方としては、アダムの罪が全人類に肉体の死という呪いをもたらしたが、このことは私たちの霊的状態には何等の影響をも及ぼしてはいないとします。つまり、私たちは死すべきものとして生まれてきてはいるが、アダムをまねて罪を犯すまでは無実で清いというのです。(この見方と前述の見方はペラギウス主義と呼ばれる説です。)
 更に別な見方としては、人間はアダムの罪の故に肉体的に死ぬけれども、それはアダムのとがを受け継ぐからではなく、人間が生まれるときは無実だとします。ただ、私たちがアダムから受け継いでいるのは傷ついた、罪を犯し易い傾向で、こうした部分的欠陥が罪を犯させるのであって、必ず罪を犯すとは限らないというのです。(これは半ペラギウス主義と呼ばれます。)
 伝統的なローマ・カトリックはこの見方をさらに広げてアダムの罪のために、人は生まれる以前から罪と永遠の処罰が定められているとしています。
 最も極端な見方は紀元5世紀はじめにアウグスチヌスによって始められました。(このため、アウグスチヌス主義、また時にはカルビン主義と呼ばれます。)それは原罪に関するまったく古典的なものです。この見解によると、全人類がアダムから受け継いだのは肉体の死だけではなく、霊的問題すべてであるというのです。第一に、すべての赤ん坊は罪をもって生まれて来、そのままでは地獄に行くしかない。第二に、子供はすべて生まれながらにして霊的に欠陥をもっている。第三に、この欠陥性はすべての面に及ぶので、幼児には自由意志がない。そのため成長しても善を選び取ることができない。この最後の点は「全面的堕落(total depravity)」あるいは「意志の束縛(bondage of the will)」と呼ばれます。聖書を信ずるルーテル派やカルビン派(長老派と改革派教会)はこの見解に立っています。

B. ローマ5:12-21

(ローマ5:12-21)
12 このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。
13 というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。
14 しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。
15 しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。
16 かつ、この賜物は、ひとりの犯した罪の結果とは異なっている。なぜなら、さばきの場合は、ひとりの罪過から、罪に定めることになったが、恵みの場合には、多くの人の罪過から、義とする結果になるからである。
17 もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。
18 このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。
19 すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。
20 律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。
21 それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。

 興味深いことに、以上のどの見解も自説を聖書の正当的教えだと主張しています。しかもほとんどのものが自説の根拠を同じ聖句、つまりローマ5:12-21に置いています。そこではパウロが次のように言っています、「一人の人によって、罪がこの世に入り、また罪によって死が入ってきた」(12節)。また「一人の罪科によってすべての人が罪に定められた」(18節)。さらに「ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪びととされた」(19節)。
 これらの聖句について、ある人は肉体の死のみを指すと解し、他の人はある種の欠陥性を指すと解しています。アウグスチヌス主義の人々はここをさまざまな要素、つまり、肉体的死、霊的死(彼らのいわゆる全面的堕落)、それに永遠の死(堕地獄の定め)がひとまとめにされたものと見ます。
 パウロがこの難解な聖句で本当に教えようとしたことは何なのでしょうか?少なくとも言えることは、私たちがアダムの罪の故に肉体的に死ぬということです。しかし、それ以上のことを言おうとしているのでしょうか? 18,19節の「定め」とか「罪びと」とかいう言葉は、罪性や欠陥として私たちがそれらを受け継いでいるという意味なのでしょうか。この点については「そうかも知れないし、そうでないかも知れない」と答えるしかありません。しかし、こんな重要な問題に対して、どうしてそうもあやふやであっていいのでしょうか?その理由は、良く考えてみると、結局どうでもいい問題だということが分かるからです。つまり、人類がアダムから何を受け継いだにしても、それらはイエスキリストの贖いのわざによって取り除かれ、消し去られた以上、問題ではないのです。そのことがこの聖書箇所、特に15-19節の要旨です。A.I.ホッブスはこのことを次のように簡潔にまとめています。「私たちの意志や同意にかかわりなく、最初のアダムにおいて失ったものは、私たちの意志や同意にかかわりなく、第二のアダムにおいて回復され、またはされるだろう」。
 私たちはアダムの罪の故に死ぬのでしょうか?そんなことは問題になりません。なぜなら「キリストにあってすべての人が生かされる」(1コリント15:22)のだからです。アダムの罪によって全人類に罪性や全面的欠陥性が潜在的にふりかかったのでしょうか?それも問題になりません。それらはキリストの「ひとりの義なる行為によって」(ローマ5:18)全人類のために解消されたからです。そのことは罪の結果が現れる以前に、また十字架以前に生きていた人々にも及ぶのです。
 こうして最終的に分かることは、誰もアダムの罪によって定められた結果について苦しむことはないということです。キリストの贖いのわざはアダムの罪のすみずみまで解消したのです。私たちが今、罪性や欠陥をもっているとすれば、それは私たち自身の罪によるものであって、アダムの罪の故ではありません。復活による贖いによって、私たちに肉体的死が無くならないとすれば、それは私たち自身が個人的罪をまた積み上げてしまった結果です。しかし、主は讃むべきかな、キリストの救いの恵みはこれらすべてをも包んでくださいます。これがパウロが「まして」(15,17節)という言葉で強調していることなのです。

U. 個人の罪


 このようにして問題となるのはアダムの罪ではなく、私たち自身の罪の結果です。個人の罪は私たちにどのような霊的影響を及ぼしているでしょうか?それはふたつの根本的問題を引き起こしています。

A. 私たちの罪は私たちをとがありとします

 神に対する個人的罪の第一の結果は、私たちがとがのある者となった事です。罪を定義すれば、無法ないし「不法を行うこと」(1ヨハネ3:4)です。法の命令に違反すれば、法の定める処罰にあうことは当然です。罪は犯しうる最も深刻なものですから、罰も永遠の地獄という想像しうる最も重いものなのです。神の法を破ることは神に対する個人的反逆です。それは神の知恵と権威に対する侮辱です。
 このように、第一の問題点は法的なものです。罪は私たちを神の法との正しくない関係に引き込みます。私たちは法的に問題ある者となります。神は変わることのない正義の方ですから、法の完全無欠さを保つために、処罰を科さざるをえないのです。裁判官は「有罪!」といって判決を下します。それは裁き、怒り、処罰、非難、破滅、死を意味します。
 ここで思い起こしておくべきことは、このとがは私たちがアダムから受け継いだものではないということです。赤ん坊はとがあるものとして生まれてくるのではありません。私たちがとがの故に処罰を受けるべき者となるのは、神に対する罪とはどういう意味なのかということが分かるほどの年齢になってからのことです。そのときに私たちは、ほかでもない自分が罪に対して責任ある者となるのです。エゼキエル18:4はこの個人責任の原則を「罪を犯した魂は必ず死ぬ」とはっきり言っています。各人は(誰かほかの人のではなく)自分自身の行動に応じて報いを受けます。詩篇62:12; ローマ14:12; 2コリント5:10を参照してください。

B. 私たちの罪は私たちを病める者とします

 まるで罪の結果がとがありとするだけでは足りないかのように、もう一つの罪の結果があります。それは、霊的に病むということです。つまり、堕落していること、弱いこと、欠陥があること、罪深いことです。罪びとと魂(心、霊)は罪によって病気にかかっています。このように罪は私たちを神と神の律法との正しい関係から堕落させたのみならず、私たち自身の本性をも堕落させたのです。バスウェルは「私たちの行動のみならず、存在そのものも罪なのだ」と言っています。罪と罪を犯す人のいずれもが罪深いのです。
 イエスが木とその実(つまり、私たちの本性と行い)の両方が悪いと言ったのは(マタイ7:17; 12:33-35)、このことをはっきりさせたのです。彼は悪い「人」のことを言っているのであって、単に悪い行いのことを言っているのではありません(マタイ5:39,45; 12:34,35)。 この堕落は心の中(人間の内側、霊)でのことです。「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」(エレミヤ17:9)。身体の病気は私たちの魂の状態のたとえによく使われます。イザヤ1:5,6; ローマ3:10-18参照。
 この病気は非常に重く、「死」とか「魂の死んだ状態」と呼ばれています。エペソ2:1,5; 1テモテ5:6; ユダ12を参照してください。(エペソ書では、私たちが自分自身の罪によって死ぬのであって、アダムの罪によるのではないと書かれていることに注目してください。)
 これはどういうことを意味しているのでしょうか?それは私たちが罪を犯せば犯すほど、ますます罪を犯さないようにすることが難しくなると言う意味です。私たちの魂には悪意や情欲・ねたみ・貪欲・憎しみといった、あからさまな醜さがはびこっていて、それらから逃れられるとはとうてい思えません。私たちの意志は弱くて誘惑に打ち勝つことができません。心は神に逆らってかたくなであり、神の真理に対して盲目です。マガービーが「罪の結果としての絶望的弱さ」と呼んでいますが、このため私たちには神を喜ばせる力がなくなっています。私たちは罪の虜です。
 ある人々はこの罪深い状態を表すのに「堕落」という言葉を用います。唯一の問題はほとんどの人々がこのことばをアウグスチヌスの「全的堕落」の考えと結び付けてしまうことです。この「すべての人はアダムの罪の結果絶対的に堕落した」とする考え方はすでに退けました。しかし、その問題を別としても、依然として多くの人々が罪びとの全的堕落は聖書の教えだと言います。
 私たちはこの見解は誤りだと信じます。この考え方がキリスト教思想の中にあることだけで、ずいぶん悲惨な結果を引き起こしてきました。従って、ここでその誤りを簡潔にのべておきましょう。
 そのような見方をする人々にとって、全的堕落とはある人々が堕落することが可能だから堕落しているということを意味していません。全的堕落が意味しているのは、その人の一切が堕落しているということです。つまり、その人の考えや感情、意志などのすべてです。キーポイントは意志が束縛を受けているという点です。その結果、人間は神の目からみて、良い行いをする事がなにひとつ「絶対不能」だというのです。特にこの見方をする人々は、罪びとは福音に応答することができず、信仰と悔い改めのうちに神のもとに立ち帰ることができなくなっていると言います。その人の堕落がこうしたことを不可能にしていると言うわけです。こうして罪びとはまず神が彼を回心(心を入れ替えること)させるのでない限り、自分からは決して信じることも救われることもできない--つまり、罪びとである人間には選択権もないし、自分から決心や信仰を持つこともないというのです。
 この思想を示していると考えられている聖書の箇所は、実はそんなことを教えているのではありません。たとえば、この見方の正しさを証明するものとして使われているエレミヤ19:9とかエペソ2:1は、確かに罪びとは病気にかかっていて堕落していると教えてはいます。しかし、堕落しているということと全的堕落とは同じものではありません。
 他の箇所、(たとえば、ローマ8:7,8; エレミヤ13:23)にも確かに罪びとはよい行いをする事はできないと書かれていますが、それは人間的努力で良い生き方をしようとする事のむなしさを指しているのであって、信仰のうちに神に帰ることも不可能だといっているのではありません。 信仰が「なければ」神を喜ばせることはできません(ヘブル11:6)。このように、キリストを信じまいとする限り、また罪深い事柄に気を取られている限り、どんなことをしても神の前によい人間ではありえません。しかし、そのような人でも神の約束を信じ、従う力を与えられることによって、神のもとに立ち帰ることができるのです。 それでは「父が引き寄せてくださらなければ、誰も私にくることはできない」(ヨハネ6:44,45)という聖句はどういうことでしょうか?確かにその通りですが、これは何か秘密めいた神の選びの過程をいっているのではありません。 それは福音の力によって成し遂げられることです(ローマ10:17; ヤコブ1:18; ヨハネ12:32)。福音が書かれたという目的のひとつは、まさに信仰に導くためなのです(ヨハネ20:31)。神は罪びとを本当に引き寄せてくださいます。しかしそれは人類すべてに対してであって、しかも人間が拒もうと思えば拒むことができるのです。
 それでは信仰や悔い改めも賜だというのはどういうことでしょうか?(参照使徒5:31; 11:18; 13:48; ピリピ1:29; エペソ2:8,9 その他)。 ある意味で信仰は神からの贈り物だといえます。それは神が私たちに信じ悔い改める「機会」を与えてくださるからです。しかし、贈り物が必ずしも受け取られるとは限りません。ある人は受け入れ、ある人は拒絶します。贈り物は特定の人だけに贈られるのでもなく、また拒絶し得ない形で贈られるものでもありません。厳密な意味で、信仰も信じる能力も特別な賜ではありません。(エペソ2:8,9を注意深く調べてみると、ここでいう「神の賜」は信仰をさしているのではありません。このことは初級ギリシア語文法を知っているだけでも分かることです。)[訳注:「信仰」も「恵み」も女性名詞ですが、「神の賜」を含む文の主語は中性単数名詞です。従って「あなた方が救われたのは...神の賜」となるのであって、「恵みと信仰が...神の賜」となるのではないという意味です。]
 全的堕落説が誤りであることを示している鍵になる聖句はコロサイ2:12です。そこでは洗礼の時に私たちは「信仰によって」「よみがえらされた」(=新しく生まれる、再び生まれる、生かされる)とあります。このことによって分かるのは、聖霊が私たちを新生させる前に、すでに信仰が与えられているということです。信仰が新生に先立つことになっています。これは新生が信仰に先立たなければならないとする全的堕落の考えとまったく正反対です。全的堕落説を退けるあまり、次の事実を見失わないようにしましょう。それは私たちが自分の罪によって、いわば病気(これが堕落ということ)になっているということです。それも部分的ではありますが重度のもので、罪の結果ですから有罪です。この病気で有罪であることが、私たちのかかえている「二重苦」と呼ばれるもので、贖罪によって解決されるべきふたつの問題点です。

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