第4章 人間についての真理


 「人間とは何者なのか...?」と詩篇8:4は問いかけています。今日もっとも一般的な答は「何者とでも、なりたい者に」というものでしょう。つまり、誰でも自由だから「好き勝手にする」というわけです。
 これは進化論に基づく現代の相対主義の単なる一表現なのです。現代人は次のように結論づけます:「人間の本質」などというものはない;人間性の理想的なパターンなどはない;何にかひな型があって、それに型どって人間が造られたとか、それを努力目標にするとかということもない。このようにして、科学は人間を好き勝手に再構成できるとか(あるいは、実際にそうするとか)、自分の選んだライフスタイルで生きるのは個人の自由だとか言うのです。
 宗教の世界での最近の傾向は、こうした考え方に危険なまでに近づいてきています。それは「関係神学」と呼ばれているもので、次のように言い切っています:われわれは物事の本質など考える必要はない;神や人間でもそうだ;問題は関係ということだ。最近のある演説者がこうした考えを支持して言いました、「聖書が神や人間について定義する仕方は本質といった抽象的なものによるのではなく、相互の関係によってなのだ」。
 こうしたアプローチについては強く反対しなければなりません。この見解は聖書の教えよりは現代の風潮をむしろ反映しているようです。それはどちらにもとれるような論理的ペテンという誤った選択肢で私たちを欺くのです。私たちは「本質か関係か」というような選択をする必要はないのです。聖書は両方をとっているのですから。
 聖書には人間の本質や性質とか、人間存在の本質が何なのかということについて、ありあまるほどの言及があります。本章ではこの点についての教えを要約してみましょう。

T. 人間を形づくるものは何か?


 よく知られている西洋の童謡に「子供は何でできてるの?」と問いかけているものがあります。歌の中での答はまったく取るに足らないものですが、この質問自体はこの場にうってつけのものです。人間は何で「できている」のでしょうか。ここで問題にしているのは身体のいろいろな化学的成分とか、骨や筋肉といった身体の諸部分や、それらをどう組み立てるかということについてではありません。むしろ、物質的肉体と霊というもっと広い構成要素について考えているのです。

A. いくつかの選択肢

 選択肢にはどのようなものがあるでしょうか。霊と物質という二つの構成要素について考察を進めている以上、三つの選択肢しかありません:
(1)人間は霊だけである
(2)人間は物質だけである
(3)人間は物質と霊の両方である
これらの三つの見解にはそれぞれ擁護者たちがいます。
 人間を霊だけとする見解はごくわずかしかお目にかからないものの、大部分の西洋人が考えている以上に広まっている考え方です。たとえば、メアリー・ベイカー・エディー(訳注:クリスチャン・サイエンスという一派の創始者)はぶっきらぼうにこう言っています、「人間は物質ではない、霊である」。彼女は人間の肉体を含む物質そのものを、本当は存在していないのだとするのです。こうした見方は東洋の宗教、たとえば、ヒンズー教などにはごく普通で、そこでは物質はマヤ(幻想)だと見られています。人間の霊のみが人間の本質であり、それはいつかもともと出てきたところである大宇宙霊に還ってゆくのだというのです。
 クリスチャンであっても、もし身体の重要性を軽視して、「人間の霊が人間の真の姿であって、重きをなす部分だ」と言うならば、この誤った考えに危険なほど近づいていることになります。霊は確かに重要な部分ですが、唯一の部分ではありません。
 人間が物質だとか肉体のみだとかする見解は、現代ではかなり一般的になってきています。一般の物質主義者たちがこうした見解を擁護しても別に驚くには当たりません。というのも、彼らは神であろうが天使あるいは人間であろうが、霊的存在といったものはどんなものでも否定しているからです。しかし、この見解は宗教の世界にも広まっています。人間には魂や霊といった霊的実体などないというのがいくつかの有力な異端派の主要教義になっています。何人かの現代の自由主義的なクリスチャンも「転倒したギリシア哲学」ではなく、「本当のヘブル思想」に従っているのだと言って同様のことを説いています。実際は、彼らは聖書の教えよりも一般の物質主義の道をとってしまったのです。
 他方では穏健な牧師や教師のかなりの人々がこの「肉体のみ」の見解に傾いていっているように思われることは警戒すべきことです。彼らの意図は「霊オンリー」傾向での行き過ぎを是正することなのですが、ミイラとりがミイラになってしまって、聖書の真理が択一的聖書解釈と誤った選択のうちに失われてしまっているのです。
 人間は肉体と霊の両方だと言う伝統的見解のみが聖書の教えと合致するものです。それではこの見解を見てゆきましょう。

B. 肉体と霊

 聖書は人間の物質的性質について言及するに際し、さまざまな用語を使っており、その中には、刀の鞘(のようなもの)、人間の外側、身体、肉体といったものも含まれます。肉体(flesh)という言葉は注意すべき重要なもので、特にパウロの著作ではほかに言外の意味の含まれていることがしばしばあります。ローマ8:1-13とかガラテヤ5:16-21といった箇所では、この言葉は身体そのものではなく、かつての罪深い自分とか、罪深い生き方を指しています。このように「肉体」は新しい生命や生き方の源である聖霊と対比して考えられています。

(ローマ8:1-13)
1 こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。3 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。9 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。10 もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。 12 それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。 13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。

 また人間の霊的性質についてもいくつかの用語があり、その中には心、人間の内側、霊、魂などがあります。(魂と霊は異なるものだと考えている人たちがいます。1テサロニケ5:23ヘブル4:12といった箇所がそう見られるというのです。たとえ違いがあったとしても、聖書ではほとんど注意すべきほどのものでないことは確かですから、私たちはそこから拡大解釈的な神学上の結論を引き出そうとすべきではありません。こうした箇所や聖書全体についてのより良い理解として、魂や霊という用語が人間の霊的性質について述べるために用いられているときは同義語と解すべきです。)
 人間の性質が物質的要素と霊的要素からできているということは、私たちが旧約聖書と新約聖書の両方を読むときに圧倒的に受ける印象です。ダニエル7:15には文字どおり「私の霊はその体の内で悩んだ」と書かれています。伝道12:7にはこうあります、「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」。旧約聖書はまた人間を心と肉体として描いていますし(エゼキエル44:7,9; 伝道11:10; 詩篇16:9)、 詩篇63:1は魂と肉体としています。詩篇31:9; エゼキエル21:7; イザヤ10:18参照。
 この点については、新約聖書の方がよりはっきり言っています。人間は霊と肉体からなる(マタイ26:41; 2コリント7:1)、また霊と身体からなる(ローマ8:10; 1コリント7:34; ヤコブ2:26)、また魂と身体からなる(マタイ10:28)。パウロは外なる人と内なる人とを対照させています(2コリント4:16; 1ペテロ3:3,4)。イエスはマタイ10:28にあるように、魂と肉体は別々のもので、分離し得る実体であるとして次のように言っています、「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のある方を恐れなさい」。人が肉体的に死んでも霊は生き続けます(黙示6:9)。 そして復活の時に新しい霊的身体を受けるのですが、それまではそれを「着ていない」状態にあるのです(2コリント5:4)。
 ヘブル語やギリシア語の鍵になる言葉が一つ以上の意味を持っているということが、いくつかの混乱の原因になっています。たとえば、霊と訳されている言葉は同時に「息」や「風」をも意味します。しかしこのことは常に「息」と「風」のどちらかを意味するのだとは限りません。(聖霊のことを「聖なる吐息」などと言わなければならない羽目に陥りかねません)。同様に、魂と訳されている言葉にもほかの意味があって、とくに「命」(ヨハネ10:11; マタイ16:25)「人」あるいは「者」(使徒2:41; ローマ13:1)となっていることもあります。 しかし前にも言ったように、これらは単に意味の問題ではありません。分脈によってのみ、その魂に当たる語が、実際は「命」であるか「人」なのか、あるいは「霊的性質」なのかが分かるのです。ある箇所ではその語は「霊的性質」しか意味し得ないとしても(マタイ10:28; 黙示6:9)、上述した箇所では「命」や「人」と訳す方が適切なのです。
 結論的に言えば、人間は二元的存在であり、それは神の配剤により物質的要素と霊的要素との両方からなるのです。いずれも人間の本質をなす重要なものであり、もし一方が欠けてしまえば、人間はその全性を失うのです。

C.その意味する事柄

 人間の二元的性質は数々の重要なことを意味しています。第一に、人間が肉体からできているということをあげましょう。人間は死ぬべからざる肉体を持って創造されたのです。人間の肉体はもともと良いものであり、かなり広まっている異教が教えているような、悪いものとか、合い容れぬものとか、偶然のものとかではありません。肉体は処罰手段ではなく、「霊という真の自分」が逃れようと思っているテントとか監獄とかでもありません。肉体は私たちの本質そのものの一部分であり、神が永遠に持つようにと望まれ、また備えてくださったものなのです。
 第二に、人間は霊です。私たちには明らかに非物質的な面があり、それが私たちを物質界の他のいかなる物とも区別しています。人間は動物とは質的に異なっています。霊としての私たちは霊である神に似ています。しかし、この点についてはよくよく注意しなければなりません。私たちの霊は神のようではありますが、神ご自身のようではないということです。神おひとりが被造物でない霊であり、人間と天使たちは神によって造られた霊なのです。他の宗教とは異なって、人間の魂や霊は神の霊の一部分ではありません。つまり、神性を持ってはいないのです。その意味するところは、人間の魂はもともと不滅でも永遠でもないということです。魂は神によって創造されたものであり、もし神が消し去ろうとすればそうできたのです。(しかし、神はそうした選択をされませんでした。)私たちは魂について「不滅」か「無」かといった選択をする必要はありません。そんなことをするのは「存在するのは肉体のみ」などと言い張る人々の犯す誤りです。
 第三に、人間は肉体と霊とが融合した存在だということです。両方があってはじめて人間は人間になるのです。この融合性からいくつかのことが出てきます。
1. 肉体と霊は互いに敵対するものではありません。両者を結びつける第三のもの(霊からわざと区別した魂など)は必要ないのです。
2. 人間は肉体であって、かつ霊です。どちらも本当の人間です。
3. 罪の結果は人間に全的に、つまり肉体と霊の両方に及びます。
4. 死は当たり前のことではありません。なぜなら、それは霊と肉体が分離して人間の全的状態を壊すからです。いわゆる「中間状態」(死後、霊魂が消滅することも眠ることもなく、天国または地獄に行って終末の日を待つ状態)も完全なものではありません。
5. 救いは人間の肉体と霊との両方に全的に及びます。人の霊のみが救われるのではありません。肉体も贖われるのです(ローマ8:23)。
6. 肉体と霊の融合である人間は、神とこの世の両方にうまく結びついてゆけるように神がしてくださいました。私たちは物質ですから、宇宙が私たちの住む環境です。しかし、同時に霊でもありますから、宇宙を治める立場にあります(創世記1:26-28)。他方で、霊としての私たちは神を拝し、神と交わるということも自然にできます。ただし、肉体を持った私たちの礼拝は物質的手段(たとえば、パンとぶどう液、あるいは楽器など)を持って行うということも当然のことです。

U. 「神のかたちに」


 人間が「神のかたちに」(創世記1:26,27)創造されたということは、人間の性質に関する聖書のユニークな視点です。このことはいったい何を意味しているのでしょうか?基本的には私たち人間が人格を持っているということを意味しています。人格は霊的存在の本質です。霊的存在は人格的存在です。この点で私たちは神に似ているのです。神は霊であり、私たちも霊です。神は人格であり、私たちも人格です。
 人間として私たちは人格的な交わりを持つ能力がありますが、それは人間相互のみならず、神ご自身と交わる能力でもあるのです。これが神のもっとも望んでおられることです。そのために私たちは神の形に造られたのです。ですから、神との正しい関係にあるときこそ私たちは人間の創造の目的をはたしているのです。
 このことからいくつかのことが分かります。第一に、すべての人間には生まれもった尊さと意味と価値があるということ。これは高い地位にある人のみならず、どんな低きにいる人でも、みすぼらしい人にも真理です。これが自分を大切にしなければならないということの根拠です。
 第二に、人命は特に尊重すべきだということ。シュバイツアーはどんな生命でも尊重すべきだと言っていますが、これは人命と他の生物の命との間には質的な違いがあるということを見過ごしています。神の律法が保護しているのは人間の生命のみです(出エジプト20:13)。人間が神の姿に造られたということは、殺人を許すべからざる犯罪とし、死刑を正当とする根拠になります(創世記9:6)。
 最後に、失われた人々への伝道に誠実を尽くすべきこと。人が救われずに死ぬということは、神の姿に造られた人間が永遠に地獄に住むということです。こんな悲劇があってもよいものでしょうか!

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