第3章 神についての真理(2)


 贖い主としての神の働きということが聖書の中心的主題であり、従ってこの本のメインテーマもここにあります。贖罪の働きそのものについては、後に詳しく説明しますので、ここでは深く取り扱わないことにします。
 心に留めておきたい事実は、贖罪ということがキリスト教だけにある概念ではないということです。大部分の宗教と宗教哲学は人間の苦境とそれから救われる道について、何らかの型を持っています。ただ、そうしたものの大部分はキリスト教の考え方とはきわめて異なっています。事実、贖罪についての聖書の教えのみがまったくの恵みによる救いをもたらし、またそのことを約束しています。救いについて体系を組み立てようとする他の試みの大部分は、次のうちのどちらかにあたります。つまり、知識による救いか、行いによる救いかということです。歴史をさかのぼってみると、多くの人々や宗教体系は人間の問題点の根本的原因は無知にあると決めつけてきました。こうしてそれらは知識(啓示や教育)に基づいた救いの道を考案してきたのです。こうしたアプローチの例としては、プラトン主義、グノーシス主義、またいくつかの神秘主義があげられます。
 そのほかの大部分の体系では、人間の苦境についての考え方がどうであれ、それから抜け出す道は個人の行いのみによって達成されるとしています。つまり、もし神が介入しているのなら、人は神の感情を損なわないように行動すべきであり、もし神の感情が損なわれているのなら、人はその怒りをなだめるよう行動しなければならないとするのです。大部分の未開宗教はこのタイプです。転生を説く宗教では、人は転生によってその実体をより高くしてゆき、ついに頂上に達し、もうそのサイクルの中に入ってゆく必要がなくなってはじめて救いを達成するとされています。こうした進展は行い(善、敬虔、奉仕、滅私)という基礎に立ってのみなされるとするのです。
 贖罪についての聖書の教えはこうした考えが不毛で誤ったものであることを示しています。人間の罪の問題はきわめて深刻な問題であって、教育とか善行とかで解決されるものではありません。救いは根本的に異なった道筋--つまり、神の恵みから来なければなりません。私たちが救われ得るのは、ローマ人への手紙3:24にあるように、「価なしに神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いによって義とされる」ことのみによるのです。
 この章で取り扱うのは、特に贖罪という働きに現れているありのままの神の本性についてです。罪の贖いということ自体がキリスト教の教えのユニークさであるように、このみわざを成し遂げられた神の本性もまたそうなのです。

T. 贖罪の必要性


 神の本性の全体は、神が贖罪を成し遂げられたという面のみでは理解できるものではなく、その前に贖罪の必要性をあらしめたものが何なのかということを理解しなければなりません。つまり、神の聖性と怒りの両面を含む神の正義ということの理解が必要です。
 聖書では「聖」という語は基本的には「分離する、区別する」ということを意味しています。その第一に意味するところは、神が被造物ではないというところからくる、被造物との分離ないし差異ということです。(言い替えれば、超越しているということです)。しかし、同時に義なる神の罪との分離、あるいは神の絶対的純粋性と公正さ、道徳的崇高さと完全さということを意味しています。
 「我らの神、主は聖である」と詩篇99:9には書かれています。その聖なる性質が私たちの生き方の手本であることについてペテロ第一の手紙1:16はこう言っています:「私が聖なる者であるから、あなた方も聖なる者になるべきである。」神はすべての罪の正反対におられ、聖なる激情を持って罪を憎んでおられます。詩篇作者は神についてこう書いています:「あなたは義を愛し、悪を憎む」(詩篇45:7)。「あなたはすべて悪を行う者を憎まれる」(詩篇5:5)。
イザヤ59:2; ハバクク1:13; ヤコブ1:13も参照してください。
 神は罪に接したとき、その聖なる本性のゆえに、怒りを持って応答せざるを得ないのです。指摘に価する興味深いことは、罪びとたちが神の怒りを決して強調したがらないということです。現代の自由主義的宗教は、この神の怒りという考えを否定しがちです。たとえば、ある実存的神学者がこう言っています:「怒りというのはどのような形であれ、神には無縁である。神の慈悲は無限だ。」
 聖書が終始、神を怒りの神として描いている以上、この意見の持ち主が聖書の神について語っているのでないことは明かです。ある人の数えたところでは、旧約聖書が神の怒りについて言及している所は580箇所で、新約聖書もこのことについては、負けず劣らず強調しています。イザヤ30:27-31; エゼキエル7:8-14; ヨハネ3:36; 黙示6:17黙示14:19を参照してください。
 もちろん神の怒りは気まぐれであてずっぽうなむら気であるとか、抑えのきかない怒りの爆発とか、発作とかではありません。それはただ聖でないものすべてに対する、聖なる神の自然で不可避な応答なのです。それは神の性質そのものに反する罪に対する神の正当な義憤なのです。
 贖罪が必要だった理由は、この神の義なる怒りです。人間の苦境についての他の見解はどんなものでも、その重要性においてとるに足りないものです。ですから、罪びとは神の怒りの下にあって、主のみもとから退けられて永遠の滅びにいたるのです(2テサロニケ1:9)。私たちの神は、焼き尽くす火です(ヘブル12:29)。

U. 神が私たちの罪の贖いを望まれたこと


 聖書が罪びとたちに対する神の怒りということを強調している点からみると、神が私たちを何とかして救おうとされたということは、意外なことに思われるかもしれません。しかし、確かに神がなされるのです:「主は...一人も滅びることがなく、すべての者が悔い改めにいたることを望」んでおられるのです(2ペテロ3:9)。私たちの罪を贖いたいという神の願望が、何よりも言葉に尽くせない神の愛を明らかにしています。
 愛はそのもっとも基本的な意味では、良い意志を持った態度、あるいは他人の幸福に対する慈しみに満ちた配慮です。これは疑いもなく、神の被造物に対する基本的姿勢です。ヨハネ第一の手紙4:8が言っているように「神は愛なのです」。
 人間の幸福を望まれる神のみこころが、苦しんでいる人や惨めな人やかわいそうな人に向けられるとき、それは慈悲と呼ばれます。神がその慈悲の目で精神的な危機や欠乏にある私たちをご覧になるとき、必ずや私たちをそこから救い出したいと望まれるのです。この姿勢を表す別の言葉には親愛あるいは同情があります。
申命記5:10; 詩篇5:10; 詩篇86:5; 詩篇136篇 を参照してください。
 私たちがただその被造物であるというだけの理由で、神がどんなにこうした心配りをしておられるかということは分かりましたが、私たちが罪びとであるにもかかわらず、それでも私たちを愛しておられるということは本当に驚くべきことです。
ローマ5:1-11; エペソ3:19を参照してください。 愛がこのように価値のない、それに価しない者に向けられるということ、それが「恵み」と呼ばれるものなのです。恵みは愛らしくない者への愛であり、恵みへの権利をすべて失った者への恩寵です。私たちの神はそのようなお方なのです。エペソ1:6,7; エペソ2:7-9; ローマ3:24を参照してください。

V. 私たちを救う神の御力


 神が私たちを救いたいと望まれるにしても、神にそれができるのでしょうか?神に私たちを救う力があるのでしょうか?無からの創造と宇宙全体に行われている神の至高権との中に現されている偉大な力のなんたるかを、私たちはすでに見ました。明らかに、そうした力のお方である神には罪と罪びとの事柄に対して力を持っているのです。
 このことは確かですが、銘記しておきたいことは、どういう種類の力かということ、つまり力そのものとしての「実」力です。事実、全能の神には罪に対する処理方法として、単に悪と悪行をする者とを壊滅させてしまうということだって可能なのです。結局、悔い改めない罪びとたちは皆そうしたたぐいの破滅に苦しむことになるでしょう。
 しかし、神は罪に対するこうした力のみでのかかわり方に満足されるわけではありません。神の愛がそれを許そうとしません。その愛と慈しみと恵みの故に、神は異なった種類の力によって罪を打ち負かすことをお選びになり、また打ち負かすことがお出来になるのです。つまり、破壊し壊滅させる力ではなく、引き寄せる力、道徳的な力、「血の通った心(heart)」の力です。
 ローマ人への手紙1:16でパウロは(キリストの死と復活の)福音は救済ということのための神の力であるといっています。それが真理であることは、福音が成就されたことと、宣言されたことの両方に表れています。福音は単なるメッセージではありません。それは行為であり、行動なのです。それは愛の行動であって、この世が知り得る限りのもっとも深く感動的な愛の行動なのです。十字架は行動的愛であり、ここで神の愛が、ある意味でご自身の怒りを打ち負かしたのです。それは力業によってではなく、むしろご自身の最愛の子の限りない苦しみを通して、怒りが充足されたことによるのです。
 福音が確信させ、動機づけ、意志を動かし心を溶かす力であると宣言されているのはそういうわけなのです。イエスは言われました、「わたしがこの地から上げられる時には、すべての人を私のところに引き寄せるであろう」(ヨハネ12:32)。「十字架の言は...神の力である」とパウロはいいました(1コリント1:18)。神の愛がやっかい者でもどんなに救おうとされているかを私たちがついに知りさえすれば、私たちの心が打ち負かされて(ある意味で)、そして私たちは自分で神の愛に答えることになるのです(1ヨハネ4:19)。
 神の創造的・摂理的力の前に畏敬の念を抱くとき、私たちはその救いの力に、よりいっそう驚嘆するはずです。なぜなら、それは何物にもまさった力だということが感覚的に分かるからです。
 イソップ童話の中に、風と太陽がどちらが強いかで言い争った話があります。両者は旅人の外套を脱がせることのできた方を勝ちとする事にしました。風は吹きまくって吹き飛ばそうとしましたが、旅人はかえって外套をますますしっかり纏うだけでした。その後で太陽はこれとは違う力を使い始めたのです。つまり、暖かく静かな陽の光です。旅人はじきに額の汗を拭い、外套を脱いだのです。
 罪びとの私たちにとって本当に感謝すべきことに、私たちの神はどちらの種類の力も持っておられます。

W. 事実としての贖罪


 神が私たちを救われたということの事実そのものの中には、神の本性の或ることが現れています。神がイエス・キリストを通して私たちの罪の贖いを成し遂げられたとき、神は地の基が据えられる前に立てた計画を実行されたのです(1ペテロ1:18-20)。神はアダムとイヴの時代に最初になされた約束を果たされたのです(創世記3:15)。
 神がその計画を成し遂げられ、その約束を果たされたことの中には神の誠実さが現れています。神が約束されたことは果たされるのです。そう信じきって良いのです。 詩篇89:1; 哀歌3:22,23; イザヤ25:1,2; 2テモテ2:13; ヘブル10:23。 神は岩のように堅く、また信頼できるお方です(申命32:4; 詩篇62:6,7)。
 事実としての贖罪から、私たちは神が変わることのないお方、つまり不変性を持った方であることが分かります。神の本性に関するこの点をめぐっては、あらゆる種類の極端な解釈が出されてきました。ギリシア哲学の過度な影響を受けた初期キリスト教神学者たちは、神を花崗岩の彫像のようにじっとして動かないもののようにみなしました。悲しみや喜びといった感情を表すことすらありえないとしたのです。
 他方で現代的手法の哲学者や神学者がいます。彼らは神を他の事柄同様、常に変化し進化しているとして描きます。この見解は進化論がすべての学問分野を席巻している時代には非常な注目を惹きました。しかし他の見解同様、それは非聖書的な極端論として排斥されるべきです。
 聖書は神が不変であると教えています:「主である私は変わることがない」(マラキ3:6)。 ミカ7:18-20; ヤコブ1:17; ヘブル13:7-9も参照してください。ただし、この根本的な点は、やはり神の誠実さです。神はその心や目的を変えることがありません。神は真実で誠実です。神は移り気でなく、いつでもまったく恒常的です。このことは神の本性が一定であり、不変であるということを意味していますが、その手になる被造物との真の内面的交流や、悲しみ喜びといった真の感情を閉め出しているということではありません。
 J. B.フィリップが「あなたの神は小さすぎる」というすぐれた本を著わしていますが、その中で彼は私たちが神について見当違いの考えを持っているととがめています。しかしまさに本当の意味で、神についての私たちの考えは小さすぎるのです。私たちが神をどんなに偉大に描こうとも、実際の神が常にそれ以上偉大であるということは明かです。ハレルヤ!何という救い主でしょう。

《目次へ》《前の章へ》《次の章へ》