第2章 神についての真理(1)


 一つの章というわずかなスペースのうちに、神に関する聖書のすべての教えをまとめようというのは暴挙ですので、この章に含まれるものは、より本質的な事柄のアウトライン的概観以上のものではないということを心にとめておいてください。
 神がどのようなお方であるかということを一番よく理解できるのは、その三つの大きな働き、つまり創造と摂理と贖いという働きにおいてです。たとえば、神が創造主であるということの意味が分かれば、私たちは神の本質についての一つの面がよりよく分かることになるでしょう。同様のことは神の他の働きについても言えるのです。

T. 神は創造主


 このようにしてまず創造ということからはじめましょう。クラウフォードは創造について次のように定義しています:「創造とは神の自由な行為であり、それによって可視・不可視の宇宙全体が先在的材料を一切使うことなく、はじめに造られたことを言う」。創造が「自由な行為」であるということの意味は、神が何かを創造しなければならないというような義務はなかったということ、つまり、孤独感や愛によって強いられてのことではなく、自由な決定によったのだということです。神が創造を行われたのは神がただそのように望まれたからです(黙示4:11)。
 「不可視の宇宙」とは、霊的存在つまり御使いたちの世界のことを指しています。この世界は義の御使いたちと、また罪を犯して邪鬼や悪魔となっている御使いたち(2ペテロ2:4)をも含んでいます。これらの御使いたちはサタンを含め、すべて被造物です。
 天地創造においてもっとも際だっている要素はすべてのものが「先在的材料を使用することなしに」造られたということです。このことはしばしば「無からの」創造と呼ばれます。神が創造を始める前は神御自身以外には何物も存在していませんでした。そのまったくの創造的力の御業によって、神が物質と霊とを存在させたのです。
 天地創造の事実は聖書の最初の教えです。創世記1:1には「はじめに神は天と地とを創造された」とあります。ヘブル11:3は無からの創造を示しています:「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである」。ナザレのイエスとなった永遠のロゴスは天地創造において活動していました。「すべてのものは、これによってできた」(ヨハネ1:3)。 詩篇33:6,コロサイ1:16, ローマ4:17も参照してください。
 聖書の天地創造についての教義のユニークさ、特に無からの創造という点は注目すべきことです。このような宇宙の起源についての考えは他のどこにもありません。結局、他のどんな神概念も聖書がのべる神に比肩するものはありません。

A. 創造主の本性

 「無から有を呼び出される神」(ローマ4:17)の本性はどのようなものでしょうか? そのような神はどんな属性を有しておられるのでしょうか?(心にとめておいていただきたいことは、父なる神について真であることは、神なる御子と神なる聖霊についても真だということです。)
 神は超絶です。その意味は被造物とは異なっていて、被造物ではなく、それを超えているということです。神のみが被造物ではない霊であり、その他のすべてのものは被造物です。神の本質そのものが、このように被造物とは種類を異にするのです。創造主と被造物とをはっきり区別することは基本的なことです(ローマ1:25; 1テモテ6:16)。
 その基本的違いは、超越神は無限だということ、つまり広大無辺だということを意味します。神は時間的に制約されることがなく永遠です。これは始まりもなく、終わりもないことを意味するとともに、時間を超えてはじめから終わりまでの一切を一瞥するだけで見ることができるということなのです。 詩篇102:25-27; イザヤ44:6; 46:9,10; 黙示1:8を読んでください。
 神はまた空間的にも制約されません。神は遍在、つまり同時にどこにでもおられます。神は常に空間のあらゆるところに完全に存在し、また意識的に働きかけておられるのです。詩篇139:7-10を参照してください。
 また神は力においても無限大であり全能です。実に神が無からこの広大な宇宙を創造することができたからには、神は望むことは何でもお出来になるのです。黙示1:8; 詩篇115:3; マタイ19:26を参照してください。
 神が超絶したお方であり、このように多くの点で無限界の方なので、私たちのように有限な被造物にはとうてい理解しきれることではありません。このことは私たちに神がどのようなお方であるかを、本当には理解することができないということを意味しています。私たちの知識は真実で正確ですが、それは完全であることはできません。有限なものに無限は把握しきれるものではないのです。 申命29:29; イザヤ40:18,28; ローマ11:33を参照してください。

B. 被造物についての意味

 天地創造の事実は聖書の教えの中でもっとも大切なものの一つです。この事実を無視したり否定したりするときに、あらゆる間違いや誤った教義が出てくるのです。他面で、この事実の理解が哲学や倫理学、神学上の多くの問題を解く鍵なのです。ここではより重要な意味のいくつかだけを列挙しましょう。
 1. 天地創造はこの物質的宇宙や出来事が本来的に善いことを示しています。神がそれを創造され、また「非常によい」と言われたのです(創世1:31)。宇宙にある悪性のもの(たとえば、病気や人間の死など)はどんなものでも、自然的でも本来的なものでもなく、それらは罪の結果なのです。ローマ8:19-23を参照してください。(多くの宗教哲学が性悪説を採り、その結果あらゆる種類の誤解と曲解を引き起こしています。)
 2. 天地創造がこの宇宙とその歴史に目的とゴールを与えています。ここにもっとも差し迫った哲学的問題--つまり、宇宙全体の意味は何なのかと言う問題--への解答があります。どんな哲学も天地創造ということを除外してはこの問題に答えることは決してできません。人格を持った神による創造という深い考えに基づいた行為のみが、目的とゴールをもたせ得るのです。そうでなければ宇宙は意味のない愚にもつかないものになってしまいます。答は実にそこにあるのです。
 3. 天地創造が人間の生に目的と意味を与えます。宇宙全体について真理であることは、その部分についても真理です。もし神が人間の生命を創造したのでないのなら、それは意味を持ち得ません。「人間であることにいったい何の意味があるのか?」といった疑問に答がないことになります。あるいは、どんな答でもよくなってしまって、どれが正しいとか正しくないとかはなくなってしまいます。
 4. 天地創造ということがモラルの基礎になります。超越的創造者である神のみが絶対的きまりや善悪の基準を設定する権威をもっています。さもなければすべての枠組みは相対的なものになり、罪の概念も無意味なものになってしまいます。またこのようにして、超越的創造者である神だけがこれらのきまりに従うべき絶対的義務を設定できます。
 5. 天地創造は私たちが永遠に被造物であって、今もまたこれからもどんな意味においても神になることは決してないということを意味しています。人間の魂は神の小さなかけらではありません。救いは、よく他の多くの偽宗教(モルモン教やアームストロング主義)が教えているような、人間が神になることでは決してありません。
 6. 天地創造は私たちがいつも創造主を畏れるべきことを求めています。それは礼拝の基礎です。私たちはいつも神に恐れと畏敬とを持つべきです。
 7. 天地創造は私たちの管理責任の基礎です。神には天地創造者としてすべての所有権がありますが、私たちには持っているものの管理責任だけです。これは自然環境も含まれています。
 現代世界が天地創造論を捨てようとだけしてきたことはよく知られています。
道徳や宗教の領域で混沌のみがあるとしても別に不思議がないのではないでしょうか?

U. 神が支配者


 神が宇宙を造り出されたからには、それ以後の歴史と神との関係はどのようなものなのでしょうか?すべての被造物の支配者または主としての神の役割は何なのでしょうか?
 ここで除いておくべき二つの極端な立場は次のようなものです。一つは、神は宇宙の動きのスイッチをいれたのであって、それ以後は身を退き、創造主としての立場からもはや干渉をせず、宇宙がその自動的法則によって動くのに任されたというものです。この見解は普通、理神論と呼ばれています。
 もう一つの受け入れ難い極端論は、創造以後の世界に展開している事柄はすべて実際に創造主によって引き起こされているのであって、いわゆる「自由意志」と呼ばれている人間の意志決定についてもそうだとする説です。これはジョン・カルビンの意見であり、普通、カルビン主義と呼ばれる神学体系と結びつけられていますが、この見解のみが天地創造についての神の至高の権威を保持するものだと主張されたりします。
 聖書の見解はこれらのどの極端論とも異なるものです。以下に要約してみましょう。

A. 神の摂理

 摂理という言葉はこれから扱う主題を表す包括的な用語ですが、それは進展中の世界への神の関わり方を示す言葉です。摂理は普通二つのカテゴリーに分けられています:第一には自然と神の関係、第二には歴史と神の関係です。
 はじめに心に留めておくべきことは、神が自然界のすべてを支配しているということです。一般的な意味では、神はここに発生するすべての事柄を常にコントロールしているということができます。聖書でもいくつかの箇所で、自然界に起きることはどんなことでも(たとえば天候など)神によって引き起こされていると書かれています。確かに私たちを支え、私たちの肉体的な生命存在を維持しているのは神であり、そのほかのすべてのものについても同様なのです。 使徒17:28; マタイ5:45, 10:29; 使徒14:17; コロサイ1:17を参照してください。
 しかし、神は地震や火山(詩篇104:32)や吹雪(詩篇147:15-18)といった自然現象をコントロールしている方としても描かれています。ヨブ記37:1-13で預言者エリフは、神が処罰や懲らしめといったものをも含むさまざまな目的を遂げるために、天候や雲の動きすらコントロールする方であると描写しています。「自然法則」というのは単に、神が自然のうちに働くときの整然とした方法と見ることもできるでしょう。
 また、聖書がはっきり教えていることは、神が歴史全体を支配しており、この世界に起きる事柄のすべては常にそのコントロール下にあるということです。ただし、ここでの神の関与の仕方は異なっています。というのも、歴史には人間の自由意志による決定と行動が含まれているからです。人間の自由の高潔さを尊重するが故に、神はどの人間をも特定の選択をするようには仕向けないのです。神はただ人間の意志決定に影響を与えたり、いろいろな方法で干渉したりすることで強く関与してはいるのです。
 世界の歴史を神がコントロールしているさまは詩篇22:28にこう書かれています、「国は主のものであって、主は諸々の国民を統べ治められます」。ダニエル5:21はこう断言しています、「いと高き神が人間の国を治めて、自分の意のままに人を立てられる」。 詩篇33:10-17; 75:6,7; 103:19; エペソ1:11も読んでください。
 次のような聖書の箇所を見た人の中には、神が実際にある人々に決定させていたように思って戸惑う人々があるようです。 たとえば、ヨセフの兄弟達がヨセフを奴隷として売ることを決めたとき(創世記45:5; 50:20)とか、パロがイスラエル人をエジプトに引き留めておこうと決心した時のこと(出エジプト4:21; ローマ9:17,8)とかです。 またユダがイエスを裏切ろうと決心した時(使徒2:23;4:27,28)もそうです。箴言21:1にはこう書かれています、「王の心は、主の手の内にあって、水の流れのようだ、主はみこころのままにこれを導かれる」。
 これらの聖句は神が人間に特定の(良いものであれ、悪いものであれ)決定をなさしめるということを意味しているのではありません。それらが教えているのは、どんな場合でもその状況はまったく神のコントロール下にあるということです。神はご自身の目的にかなう選択をするように特定の人々に影響を与える方法で、こうした状況を操作することができます。神はその人間の性格を予知されて(例:ユダの場合-使徒2:23)、ある特定の状況でどのような選択がなされるかをご存知なのです。
 このように、神が人間の事柄に関わる様は決定とか使役とかという観点からではなく、コントロールという観点から見られるべきです。神は外的状況をコントロールする仕方で人間の決定に影響を与えることができますし、同様に妨げることもできます。あるいは、自然法則や被造物の決定によって物事が起きるのを単に容認することもできます。これが神の主権ということについての聖書的考え方です。

B. 神のみこころ

 それでは「起きることは何でも神のみ心による」と言っても良いのでしょうか。その通りではありますが、いつもがいつも同じ意味でそうだということではありません。「神のみこころ」という言葉は、神の命令や律法を指す、神の訓示的意志ということを意味するかもしれません(マルコ3:35; マタイ7:21)。こういう意味では神のみこころに反する事柄が明らかにたくさん起きています。
 この言葉はまた神の目的意志、つまり世界の始まり以来、神によって決定され進められてきた永遠の計画と目的のことを指しているかもしれません。この目的を成し遂げるために必要なことであれば何でも神は実際に、また間違いなく起こされます。しかしある事柄は神の目的になんら関係がなく、従ってこうした意味での神のみこころの範囲内にないということはあります。 エペソ1:3-11を参照してください。 またエペソ3:8-11; ヘブル10:7-9; 1ペテロ1:18-20も参照してください。
 神のみこころという言葉は神の容認的意志、つまり物事の起きることを容認するということを指しているかもしれません。神の目的意志を妨げないことは何でも--たとえそれが罪深く、神の訓示的意志に反するものであったとしても--神の容認的意志の範囲内で発生するのです。少なくともこの意味では、すべてのことは神のコントロール、ないしみこころの内にあります。神は個人に特定の決定を起こさせないかもしれませんが、実現を確実に妨げることはおできになります。 ヤコブ4:13-15; 1コリント16:7; ヘブル6:3を参照してください。

C. 神の本性

このようなあり方で宇宙を支配しておられる神の本性はどのようなものでしょうか。神は確かにこの宇宙の中に存在(=内在)しておられるはずです。神は超実在ですが、これは単に神がその手になる被造物とは異なるということであって、空間的に切り離されているとか、距離的にかけ離れているということではありません。 使徒17:27,28; 詩篇139:7-10を参照してください。
 神は同時に至高の方であり、すべての被造物がその絶対的コントロール下にあります。これは神の全知性と前述した全能性、つまり過去・現在・未来にわたる万象についての欠けるところのない無限の知識を含んでいます。それは予知を含む神の絶対的知識であり、これが神の恒常的コントロールを可能にしているものなのです。 詩篇147:5; 1ヨハネ3:20; イザヤ41:21-23を参照してください。
 宇宙を支配しておられる神はまた善でもあります。詩篇36:6を参照してください。また詩篇145:9,15,16; 148; マタイ5:45も参照してください。

(詩篇148篇)
1 主をほめたたえよ。もろもろの天から主をほめたたえよ。もろもろの高き所で主をほめたたえよ。2 その天使よ、みな主をほめたたえよ。その万軍よ、みな主をほめたたえよ。3 日よ、月よ、主をほめたたえよ。輝く星よ、みな主をほめたたえよ。4 いと高き天よ、天の上にある水よ、主をほめたたえよ。5 これらのものに主のみ名をほめたたえさせよ、これらは主が命じられると造られたからである。6 主はこれらをとこしえに堅く定め、越えることのできないその境を定められた。7 海の獣よ、すべての淵よ、地から主をほめたたえよ。8 火よ、あられよ、雪よ、霜よ、み言葉を行うあらしよ、9 もろもろの山、すべての丘、実を結ぶ木、すべての香柏よ、10 野の獣、すべての家畜、這うもの、翼ある鳥よ、11 地の王たち、すべての民、君たち、地のすべてのつかさよ、12 若い男子、若い女子、老いた人と幼い者よ、13 彼らをして主のみ名をほめたたえさせよ。そのみ名は高く、たぐいなく、その栄光は地と天の上にあるからである。14 主はその民のために一つの角をあげられた。これはすべての聖徒のほめたたえるもの、主に近いイスラエルの人々の/ほめたたえるものである。主をほめたたえよ。

これはまた神の愛も含んでいます。神はその全能性を人間を苦しめたりだましたりすることにお使いになりません。それはまた神の信義(faithfulness)をも含んでいます。神には私たちを祝福することとか、ご自分の約束を守ることとか、その贖罪の目的を遂行することとかが可能であり、またそうする事が神のみこころなのです。

《目次へ》《前の章へ》《次の章へ》