第1章 聖書についての真理


 たとえば、あなたが聖書を一度も見たことがなく、また聖書を持っている人とぜんぜん知り合いになったこともないと仮定してみてください 。あなたは今一体どんな神に祈っていることでしょうか?「聖なる木」とか、あるいは「魔力」のようなものでしょうか?
 人はどこからきて、またどこへゆこうとしているのかということについて、あなたはどのように思いますか?あなたはもしかしたら、人間の肉体は罪を犯したが故の処罰のようなものだと考えていたり、その結果救いというものは、肉体からの脱出だというふうに考えてはいませんか?
 ともかく、こうした疑問への答は一体あるのでしょうか?神や人間について、どこかに真理を求めることなどできるのでしょうか?
 じつはできるのです。かりに聖書がなかったとしても、人間にはそうした知識にまったく欠けるということはないのです。この創造された宇宙そのものが私たちに神と人間とのかかわり合いについて、あることを示しているのです。こうした自然界を通してあらわされる啓示は「一般啓示」と呼ばれることがあります。その意味は、誰にとっても知りうることであって、それによって知られる真理が、特別というよりは普通に分かることだということです。
 たとえば、宇宙が広大でありながら、しかも秩序を保っているということは、その創造者が知恵と力に満ちたすばらしい方だ(詩篇19:1)ということを示しています。また、地球の自然の恵みの深さは創造主の本質が慈しみに満ちたものだということを示しています(マタイ5:45;使徒14:17。 創造の御業が完全ですばらしいことはそれが全能者の手になるということと、その方が神をおいてほかにはいないということを明らかに示しています(ローマ1:18-20)
 神によって造られ、神にまったく依っている私たちが、創造主なる神のこの知恵に従ってゆくべきことは、私たちの責任なのです。例をあげれば、天地を造られた方として神をあがめ、その慈しみの深さに感謝すべきことは誰もが知っています(ローマ1:21,22)。また、基本的な道徳心が私たちに生まれつきあるらしい(ローマ2:12,15)ことは、おそらく私たちが神の似姿に造られたことの結果なのでしょう。
 大事なことはつまり、こうした真理が単に「知りうる」ということだけではなく、一般啓示を通して実際に「知られている」ということなのです(ローマ1:20 では「はっきりと認められる」と言っています)。
 さて、重要な点はこのことです。つまり、この真理がふつう異教徒と呼ばれる、一般啓示しか与えられていない人たちによってどう扱われてきたのかということです。この点についてはローマ1:18-32 に悲しい答がなされています。つまり、真理は押し隠され、汚され、ねじ曲げられたのです。素直な心からする礼拝は気味の悪い偶像礼拝に取り替えられ、みだらな罪がわざとおこなわれたりした当然の報いとして、神の怒りがそうした罪びとたちに直接下ったのです。なぜなら、彼らが啓示を知っていることは言い逃れできない事実だからです。
(ローマ1:18-32)
18 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。19 なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。20 神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性とは天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。21 なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。22 彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、23 不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。24 ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。25 彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン。26 それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、27 男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。28 そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。29 すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、30 そしる者、神を憎む者 不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、31 無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。32 彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている。

 ここで気をつけていただきたいことは、こうしたことすべてが一般啓示しか与えられておらず、従って、聖書の啓示の知られていないところであっても言えるということです。パウロが、「すべての者は罪を犯し、神の前に罪びととなっている」といったのはこのことなのです(ローマ3:9-20)。

(ローマ3:9-20)
9 すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。10 次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。11 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。12 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。13 彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、14 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。15 彼らの足は、血を流すのに速く、16 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。17 そして、彼らは平和の道を知らない。18 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。

 ここに一般啓示の限界があります。つまり、一般啓示というものは、神が創造主であることや、その恵みや救いについては決して教えてはくれません。ここに一般啓示だけの下にある人間のジレンマがあります。なぜなら、自分も必ず滅んでゆくということは分かるけれども、どうしたら救われるかということは分からないからです。この後の点については、救い主であるイエス・キリストに焦点を当てる特別啓示を通してのみ知られるのです(ローマ10:13-17)。
 以上のことをまとめてみますと、罪びとに最終的に必要なのは救いですが、今一番必要なのは真理なのです。一般啓示を通して与えられた真理を人間は否定またはゆがめてしまいましたし、救いについての真理は一般啓示を通しては与えられていません。罪深い人間には一般啓示以上のものが必要です。つまり神、人間、罪、そして救いといったことについての特別に啓示された真理、それも変質されていない明確で完全な真理が必要なのです。そしてこれこそが聖書全体が語っていることです。神のことばは真理であり、真理は私たちを自由にします(ヨハネ17:17; 8:32)。
 この章が焦点を当てようとする事は、聖書の性格が神の救いの計画の本質的な部分をなしているということです。聖書は神からの真理であり、この真理は罪びとのためのものであり、また永遠に変わることがありません。

I.神がくださった真理


 ある有名な哲学者がかつてこう言いました。「もし私が真理を探すほうと、真理を得ているほうとのどちらかを選ばなければならないとしたら、私は前者の方を選ぶだろう。」 こうした選択をしたということは、彼が人間ののっぴきならない状況についてほとんど分かっていないということを示しています。滅びの危機に直面しているときに、本当に必要なことは(1)その困難な事態についての正しい認識と、(2)そこから脱出する方法とをわきまえていることです。のんびりと探している時間はありません。私たちに必要なのは真理であって、それが今必要なのです。
 たとえば、ある人が高熱に襲われ、胸や腹に刺すような痛みがあって、腫れ上がって来、脈拍もどんどん下がってきたとしましょう。その人に緊急に必要なことは、病気の原因と治療方法とを知ることです。人間の精神的問題はこうした肉体的病気とは比べものにならないほど重要ですから、真理の必要性はよりいっそう緊急なのです。

A.確かな真理の源泉は神のみ

 どこにこうした真理が見つかるのでしょうか? 人間が自分でそれを発見することなどできるのでしょうか? 私たちがどんなに自負したところで、次のことは認めざるを得ないでしょう。つまり、人間は信頼に足るものではないということです。これについては二つの理由があげられます。
 第一に、私たちの知力には限界があること。つまり、人間にはどのような事柄についてでも、真理を極めたと確信することはできないということです。わたしたちの五感でさえもだまされやすいのです。見ていると思っているものを必ずしも見ているとは限らないのであって、感覚はいわば外界からの情報全部が通過するフィルターのようなものです。どれがフィルターで止められ、どれが何らかの形で変形されて通過してきたのかは、決してはっきり分からないのです。たとえば、私が知覚している明るいオレンジ色はそのあるがままの色と果たしてまったく同一のものなのでしょうか?
 もし、感覚によって知り得るものについてさえ、こうした不明確さがどうしてもあるのならば、抽象的概念に関する真理については一層私たちの能力は不確かなものであるといえます。ミカンの色についてさえ不確かであるとすれば、正義とか人間の目的とか永遠の生命についてはなおさらでしょう。
 第二に、私たちの意志がじゃまをしてしまっているので、もはや自分を信頼すべき真理の源とはなし得なくなっています。私たちにある真理でさえも、ちょうどローマ書第1章が示しているように、罪のために圧迫され、変形されているのです。
 このように、もし私たちが問題とその解決についての真理を本当に知ろうと思うならば、私たちは神に帰らなければなりません。神のみが真理の確かな源泉です。神は全知であり、すべての叡知、すべての善であり、その知恵は完璧であって、そのことばは真理なのです(ヨハネ17:17)。

B.聖書は神からのもの

 神が真理の確かな源泉であることによって私たちが恵みを受けるのは、神が私たちと心を通じ合わせようとされた時だけですが、はたして神がそのようにされたことがあったでしょうか? もちろんあります。すばらしいのは、神が人類に語りかけることを選ばれ、それが何よりも天地創造を通した一般啓示の中に明確にかつ直接的に表されていることです。神は言葉をもって語りかけられ、人間の言葉で話されました。そして聖書という変わることのない形で、私たちにそのメッセージを残されたのです。
 聖書は人間の手によって書かれてはいますが、その各々の部分は神からの直接啓示です。そうした例としては、一般的なものとして、十戒というモーセ律法と山上の垂訓があります。
 聖書のほかの部分は人間の回想や追想です。たとえば、使徒ヨハネが自分とペテロが空の墓まで走った様子を書いたとき、彼は啓示を受けていたのではなく、自分の経験したことを思い出していたのです(ヨハネ20:1-8)。  またダビデの悔い改めの詩(詩篇51)や、パウロがローマの人々に自分が心から彼らを訪ねたいと思っていることを強調したとき(ローマ1:10-15)、二人は本心から自分達の思いや感情を表していたのです。

(詩篇51篇)
聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌、これはダビデがバテセバに通った後預言者ナタンがきたときによんだもの
1 神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。2 わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。9 み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。10 神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。11 わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。12 あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。13 そうすればわたしは、とがを犯した者に/あなたの道を教え、罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。14 神よ、わが救の神よ、血を流した罪からわたしを助け出してください。わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう。 15 主よ、わたしのくちびるを開いてください。わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。16 あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても/あなたは喜ばれないでしょう。17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。18 あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、エルサレムの城壁を築きなおしてください。19 その時あなたは義のいけにえと燔祭と、全き燔祭とを喜ばれるでしょう。その時あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。

 一部の人にみられる誤った考えは、神から直接に啓示された聖書の部分だけが神の真理とみなされるべきだとする立場です。しかしこれは間違いです。聖書ができあがっていく過程での神の関与のされ方は、啓示のみによるのではなく、霊感にもよるのです。この霊感によって、聖霊が啓示や回想、思想を含む聖書全体の著述を導いたのです。つまり、聖書の著者やそのすべての言葉に神が直接に関与されたのです。
 これが、第2テモテ3:16に書かれてある、「聖書はすべて、神の霊感を受けている」ということの意味です。「霊感」という言葉は文字どおりには「神の息吹のかかった」とか、「神によって息の吹き込まれた」という意味です。聖書全体はこのようにして神の御業の結果なのです。詩篇22:11-21とかミカ5:2 にみられる、未来についての預言の場合のように、ある場合には聖書中の息吹は神の直接的啓示を含みますし、ある場合には人間である著者の記憶を刺激したり、その適切さや正確さを確実にしたりするのです(ヨハネ14:26)。また他の場合には、単に著者の記憶の補強をするにとどまる場合もありますが、神は最終的著者として聖書のすべての言葉の背後に立っておられるのです。
(詩篇22:11-21)

11 わたしを遠く離れないでください。悩みが近づき、助ける者がないのです。 12 多くの雄牛はわたしを取り巻き、バシャンの強い雄牛はわたしを囲み、 13 かき裂き、ほえたけるししのように、わたしにむかって口を開く。 14 わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。 15 わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。 16 まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。 17 わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。 18 彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。 19 しかし主よ、遠く離れないでください。わが力よ、速く来てわたしをお助けください。 20 わたしの魂をつるぎから、わたしのいのちを犬の力から助け出してください。 21 わたしをししの口から、苦しむわが魂を野牛の角から救い出してください。

 聖書の神的起源については、以下の箇所も参照してください:ヨハネ16:12-15; 2ペテロ1:20,21; マタイ1:22ルカ1:70第2サムエル23:2

C.聖書は真理

 聖書は神の霊感を受けているので完全な真理です。霊感の主要目的の一つが神の作品としての聖書の真理性を確保することなのです。真理の御霊を与えるということをイエスが弟子たちに約束されましたが(ヨハネ16:13)、それはイエスが使徒たちを真理に導き入れるためなのです。神の言葉はすべて必ず真理です(ヨハネ17:17)。イエスはこう言われました、「聖書はすたれることがあり得ない」(ヨハネ10:35)。聖書はよく無謬であるとか、誤りがないといわれます。このことは聖書全体についてあてはまります。つまり、その啓示の部分にも、回想や思想の部分にも当てはまるのです。厳密に言えば、無謬性は原典についてのみ言えることであって、写本や訳本には当てはまらないのですが、後者はほとんど正確であって注意深く決定された原典の復元本との検証に耐え得るものです。

U. 罪びとのための真理


 本当に聖書は神がくださった真理です。しかし、このことは聖書がありとあらゆる事柄について、それぞれに答となる真理すべてを含んでいるということを意味するものではありません。神のなさろうとしたことはそういうことではありません。本当の目的は私たちに神と人間との関係についての真理を示すということなのです。ですから、私たちは聖書にたとえば原子物理学とかイチゴの栽培方法とかについての詳細を求めるべきではありません。
 そうではなく、聖書の本来めざしているものと、そのメッセージを決定的なものにする事実は、それが、罪びとに対して向けられたものだということです。聖書のメッセージは神についての真理、人間や罪、そして救いについてのメッセージなのです。
 聖書の罪びとへのメッセージには二つの面があります。第一に、律法があること。これは普通、命令の形で書かれています。聖書の律法を通して、罪びとは自分の罪に気づくようになるのです(ローマ 3:20; 7:7)。つまり、罪とは何なのかを知り、自分が罪びとであるという事実に直面させられるのです。
 罪びとであるということを知ることによって、私たちは自分たちに救いが必要だということが分かります。このように律法は私たちに救い主に対して心を向けさせ、また駆り立てるものです(ガラテヤ3:24を読んでください)。これが聖書の第二のメッセージである、罪びとへの福音(それは神の救いの約束という形で与えられています)を理解するための大切な基礎をなしています。 救いについての福音ということが聖書のメインテーマです。これがすべてです。福音の目的は、罪びとがどうすれば救われるのかを示すことであり、恵みによるキリストの血を通して与えられる救いは、いわば「緋の糸」であって、それは聖書全体を貫いています。これが基盤となる真理であり、この真理が罪びとを解放するのです(ヨハネ8:32)。
 聖書が罪びとのための真理であるということは、それがありのままの私たち、つまり罪びととしての私たちに向けられているということです。聖書の基本的なメッセージは、誠意を持って心静かに取り組むならば、罪びとであっても理解することができます(ローマ1:16; ローマ10:13-17; ヘブル4:12)。

V. 永遠に確かな真理


 今や相対主義や主観主義が隆盛を極めています。広くみられる考え方としては、たとえば、絶対的な真理などというものはないとか、すべてが真理だとか、すべてが誤りだとか言うものです。このように誰でもその時々に自分に「真理」と思われるものを受け入れようとすればそれでいいかのようです。
 こういう考え方は、ある人々にはとても気楽に思われるかもしれませんが、多くの人々にとっては絶望に陥る原因なのです。出口が見つからず迷ったり、苦痛からのがれる方法が分からずに死と直面したり、赦される望みを知らず最後の審判の確実なことだけを恐れ続けるなどは、苦しみ以外の何物でもないではありませんか。そしてその苦痛がわずかばかり和らげられる時と言えば、自分の考えは単なる思いこみであって相対的なものにすぎないと結論づけるときだけなのです。
 ここにこそ私たちに真理の源として与えられている聖書の計り知れない恵みの意味があります。それはいわば流砂の只中に堅く立つ巌のようなものです。また、希望と信頼と救いの確信の堅固な礎なのです。
 その真理は絶対であり、永遠に残り、また変わることがありません。イエスが「聖書の言は、すたることがありえない」(ヨハネ10:35)と言われたとき、彼は私たちがいつも神の言に信頼することができると言ったのです。神の言は決して誤ることがなく、その真理は永遠に確かです。イエスの言われるように、「天地は滅びるであろう。しかし、私の言葉は滅びることがない」(マタイ24:35)。「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」とペテロ第一の手紙1:25は言っています(イザヤ40:8の引用)。たとえ宇宙の他の言葉全部が誤りに陥ったとしても、神の言は真理として残ります(ローマ3:4)。 その真理は客観的です。それは誰に対しても同じように開かれています。それは特別な洞察によってしか得られない悟りのようなものではありません。神のメッセージは自分の内側の感覚や、軽率な意見に頼らなくても知ることができるのです。
 その真理には権威があります。聖書は神がくださった絶対的で客観的な真理ですから、私たちはそれに心や意志や命のすべてを差し出さなければなりません。このことだけがわたしたちの信仰の堅いきまりであるべきです。つまり、私たちの信じ教える教義は神の書かれた言から引き出されなければならないと同時に、それだけがわたしたちの実践の確かな基準とされなければならないということです。ですから、正しいか間違っているかは聖書に基づくべきです。
 ある人は聖書に従うということを、束縛されるというふうに重荷に考えるかも知れません。しかし、真理は人を奴隷とするものではなく、解放するものなのです。聖書の権威に従うすべての人への約束はこうです:「またあなたがたは真理を知るであろう。そして真理はあなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8:32)。
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