第五十九講 終結 頒榮の辭
十六章二五節以下

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 幾たびも終わらんとして終わらなかつたロマ書は、いよいよここに最後に達した。十六章二十五節以下は、この大書簡の最後を飾るにふさわしき大贊美である。

 パウロは、十五章十三節をもつて、ひとまず、この書簡を終えしも、追伸(ついしん)して二十三節に至り、ここに再びこの書簡を終えんとした。しかしまた追伸して、十六章十六節に至つて、三たび擱筆(かくひつ)せんとした。しかしまた追伸して、異論を誡めて、二十節に至つて、ここに四たび擱筆せんとした。しかしまた追伸して、彼と共にある者のあいさつの語を取り次いでのち、いよいよこの大書簡も終結に達せしゆえ、ここに最後に大なる頌榮(しょうえい)の辭を述べたのである。これ書簡の態より見ればやや變則であるといわねばならない。けれども筆者の心はこの變則を通して輝いてゐるのである。あたかも一つの宗ヘ的集会を催せし場合に、いつたん集まりを閉じしのち、なお講師より付言するところありて、二たび集まりを閉じしも、さらにまた付言するところありて、三たび集まりを閉じ、なおかくすること數囘にして、ようやく終わりしがごときものである。これ集会の形式より見れば明らかに混亂であるが、かえつてその中に靈的生命の豐かさが見ゆるのである。

 ロマ書は偉大なる書簡である、そして劈頭(へきとう)の語(一・一 〜 七)が偉大である。これに應じてその終尾の頌榮の語が偉大である。壯麗なる殿堂を飾るべく、その表門と裏門とが壯麗なのである。われらは今この壯麗なる裏門に全注意を注集すべきである。この頌榮の辭は三節にわたつてゐるけれども、實は全体で一つの成文(センテンス)をなしてゐるのである(最後のアァメンは別として)。邦譯聖書においても、英譯聖書においても、やはり一成文となつてゐる。原文においては、九つの句より成る一成文で、五十二字より成り(冠詞まで加算して)、必ずしも混雑した文ではないが、邦譯においては、邦文の性質上すこぶる混雑した文になつてゐるのである。ゆえに左表のごとく、一句一句に分析して研究の便を計りたい。ここにパウロは、わずか一成文の中に、彼の廣汎(こうはん)なるキリストヘ思想を壓搾したのである。ゆえに一句ごとに思想が新しくなる。甲の句が一つの大思想を傳えれば、また乙の句が別の大思想を傳える。ゆえに一句一句に深き注意を拂わねばならぬ。
 
   なんじらを堅うし得る者に
   わがiケによりて
   イエス・キリストの宣傳によりて
   奥義の啓示によりて
    永き間、世に隠れたりしも
     今あらわれ
    限りなき~の命(めい)により
    豫言者たちの聖書をもて
    信仰の服從に入らしめんために
     萬國の民に示されたる
     独一叡知(えいち)の~に
     世々かぎりなく
     イエス・キリストによりて
     榮光あらんことを
 
 この頌榮の辭のうち、根幹というべきは、「なんじらを堅うし得る者に、すなわち独一叡知の~に、世々かぎりなく、イエス・キリストによりて榮光あらんことを」の句である。あとは、この根幹に付随する枝葉である。もちろん枝葉というてもたいせつなるものではあるが、まず注意すべきは右の根幹である。「なんじらを竪うし得る者」はすなわち「独一叡知の~」である。信仰は~より與えられしもの、また信仰生活の堅立は~の導きによるのである。~は彼を信ずる者を堅うし得るのである。すなわち堅うする力を有したもうのである。ああ、かの幾人かの信者を作れりと誇稱する輩は何者ぞ。さらばなんじは花を造り得るか。木を育て得るか。「われは植え、アポロは水そそぐ。育つる者はただ~なり。植うる者も水そそぐ者も數うるに足らず。ただ貴きは、育つるところの~なり」(コリント前書三・六 〜 七)とある。傳道者はいかに大なる働きをなすとも、信者を造り、育て、堅うすることはできない。これをなし得るはただ~のみである。ゆえに「~は終わりまでなんじらを堅くし、われらの主イエス・キリストの日において、なんじらに責(とが)なからしむ」(コリント前書一・八)といい、また「なんじらの心の中に善きわざを始めし者、これを主イエス・キリストの日までに全うすべしと、われ深く信ず」(ピリピ書一・六)という。パウロは、信仰を堅うし得るところの独一叡知の~を贊美するのである。

 次に注意すべきは、「世々かぎりなく、イエス・キリストによりて榮光あらんことを」と、パウロがキリストを通して~を贊美したことである。キリストをもつて~と人との仲介者となし、彼を通して~と交わり、彼のゆえに罪をゆるされ、彼をもつて永生を與えらるるとの事は、iケ的キリストヘの基調である。今や彼を除きて~を信ずることが流行し、キリスト信者と祢する者の中にさえ、キリストを大ヘ師とのみ見る者多きは、パウロのこの心と全く正反對なるものである。キリストのほかに救いなしとは、iケ的救濟の根本義である。パウロはこの大なる頌榮の辭の最後に「イエス・キリストによりて」の一句を用いて、彼のいだけるこの篤(あつ)き信念をおのずから表わしたのである。
 
 以上の贊美の語が、二十五、六、七節の根幹である。パウロの頌榮の辭の骨はこれだけである。しかしこれに付随せる各句がまた一つ一つ重大なる思想の發表である。今それを概觀したい。第一の句は「わがiケによりて」である。~はiケによりて信徒を堅うするのである。「わがiケ」とあるも、べつに普通のiケと異なるものをさしたのではない。これパウロ特有の語にして、彼は二章十六節において、またテモテ後書二章八節において、同一の語を用いてゐる。けだし、わが説くところが純正のiケなることを確信しいたる彼は、時にこの種の語を用いたのであろう。「われらにもせよ、天よりの使者にもせよ、もしわれらがかつてなんじらに傳えしところに逆らうiケをなんじらに傳うる者はのろわるべし」(ガラテヤ書一・八)といいしほどのパウロである。彼のこの確信を知りて、「わがiケ」なるが語が決して偏狭傲慢を意味せぬことを知るのである。次の句は「イエス・キリストの宣傳によりて」である。~はiケにより、またキリスト宣傳によりて、信徒を堅うするのである。キりストを宣傳する事、彼と、その生涯、その十字架、復活、再臨を、人々に宣べ傳える事、彼に關する事のほかは宣べざる事、これすなわちキリスト宣傳である。そしてiケというは、要するにキリスト宣傳にほかならぬのである。

 次には「奥義の啓示によりて」の句がある。イエス・キリストの宣傳によりてということをいいかえれば、「奥義の啓示によりて」である。そしてこの奥義は「長き間、世に隠れたりしも、今あらわれ」たものである。「われらの語るところは、隠れたりし~の奥義の知惠なり。こは創世(よのはじめ)の先より、~のあらかじめわれらをして榮えを得しめんがために定めたまいしものなり」(コリント前書二・七)とパウロはかつていうた。そのとおり、あらかじめ定められてはいたが、隠れていたのである。その隠れていたものが、今、~のひとり子の出現、その生涯、その十字架、その復活によりて、明らかに啓示せられたのである。これすなわちパウロのいわゆる「わがiケ」である。わがiケというも、決して自己創造のヘえではない。~よりキリストを通して啓示せられたヘえである。もしiケが人間創造のヘえならば、これに眞の生命はない。たとえ榮ゆるも、朝に咲きて夕に枯るる野の花の榮えのごときものである。またその宣傳者たるパウロその他の使徒たちに、かくのごとき岩よりも堅き確信と火よりも熱き熱心とを與えたはずがない。まことにiケが~の啓示なればこそ、彼はその宣傳のためにすべてをなげうつて毫(ごう)も悔いず、わしのごとく翼を張つてのぼつたのである。

 そしてこの奥義の今啓示せられたるは、「限りなき~の命により」である。永遠にいます~は、ここにこの時をもつて、この奥義の啓示をなすことを、みずから定めたもうたのである。すなわちこのiケは全然~の意志より出でたのであつて、何ら人の心に依據しないのである。またこの奥義の啓示は「豫言者たちの聖書をもて」である。すなわち舊約聖書をもつて~の啓示はおこなわれたのである。ただし「長き間、世に隠れたりしも」とあるとおり、キリスト出現以前には、舊約聖書の眞意も、人々には充分わからなかつたのであるが、今キリスト出現のゆえに、その眞意明らかとなり、ここに聖書を通して~の啓示はおこなわるることとなつたのである。もちろん聖書以外に聖靈の指導は不可缺である。しかし聖書がこの新啓示の手段となつたことは明らかである。「聖書(舊約)は、なんじをして、キリスト・イエスを信ずるによりて救いを得しめんために、知惠を與うるものなり」(テモテ後書三・十五)と、パウロが後年テモテに説きしを見よ。なお最後に、この啓示は「信仰の服從に入らしめんために萬國の民に示されたる」ものである。啓示の目的は、世界萬國の民をして~に歸屬するに至らしめんためである。げにキリストのiケの目的はこれである。決してこれ以下ではない。iケの本質はあくまで抱世界的である。全人類をして~に信從せしむるにある。~はこれを目的として常に全人類を招きつつある。しかり、常に全人類を招きつつある。

 以上のごときが、この大なる頌榮の辭の大意である。今、大体原文の順序によりて、これをわかりよくいい直せば、おおよそ左のごとくである。
 
なんじらを堅うし得るものは~である。~はiケによりてなんじらを堅うするのである。換言すれば、イエス・キリストの宣傳によりて、なんじらを堅うするのである。また換言すれば、奥義の啓示によりて、なんじらを堅うするのである。−−この奥義は、長い間、世に隠れいたれど、今あらわれたのである。そのあらわれたのは、限りなき~の命(めい)によるのであつて、舊約聖書を通してあらわれ、かつ萬國の民に、彼らをして信仰の服從に入らしめんために、示されたものである。−−かくのごとくして、なんじらを堅うし得る~に、すなわち独一叡知の~に、世々かぎりなく、イエス・キリストによりて、榮光あらんことを願う
 
 まことに多くの學者のいえるごとく、この頌榮の中にロマ書全体が要約せられてゐるのである。

 ~の榮えを贊美することは、クリスチャンがすべての場合においてなすべきことである。いかに大なる成功をもつて見舞わるるも、彼はこれを自己の力に歸(き)してはならない。これを全然~の力に歸して、その榮えを贊美せねばならない。またいかに大なる不幸に会しても、~を無慈悲としてはならない。やはり~を贊美せねばならない。大災禍に会して「われ裸にて母の胎を出でたり。また裸にてかしこに歸らん。エホバ與え、エホバ取りたもうなり。エホバのみ名はほむべきかな」(ヨブ記一・二一)こといいしヨブは、われらの好き模範である。大書簡をしたためて、その最後に、何ら自己の力を思うことなくして、すべてを~に歸して、うるわしき頌榮の辭をとどめたる大使徒パウロは、われらのよき模範である。

 げにしかり。すべては~より出づるものである。人はただ~に使役せられて、かの事この事に當たるにすぎない。人に何かの能力あるも、それはもとより天賦(てんぷ)である。人に何の誇るところがあり得よう。人は~の前に立ちて絶對の謙遜あるのみである。彼は事に當たりて常に独一叡知の~を贊美すべきである。一つの事をなし終えて~を贊美し、一日を暮し終わりて~を贊美し、一週を、一月を、一年を送り終わりて~を贊美すべきである。囘顧して自己に何かの善きを見出だすは、いまだ信仰の不純なる者である。そしてこの世を去るの時、みもとに召さるるの時いよいよ來たらば、一生を囘顧して、自己の功績を思うことなく、すべての良き事を~に歸し、もつて聲高く頌榮の辭を述ぶべきである。大著述の最後を頌榮をもつて結びたる大使徒にならいて、われらも、與えられしわが小生涯の最後を、頌榮をもつて結ぶべきである。われらをして、今も、後も、いつまでも、~を贊美せしめよ。しかり、~を贊美せしめよ。

 以上のごときが、實にこの偉大なる書簡を結ぶところの大贊美の辭である。パウロならでロマ書が草(そう)せられなかつたように、彼ならでかかる大なる頌榮の辭は出でなかつたに相違ない。その一語一語、一節一節を見よ。むなしき語は一つもない。その一つ一つが重大なる思想の壓縮である。大著述をなして後も大使徒の力は少しも衰えずして、その終わりに、かくのごとく盛んなる、靈的生命の結晶ともいうべき大贊美が、彼の魂の底より天に向かつて擧がつたのである。事それ自身が實に壯美なることである。これぞ眞の畫竜點晴(がりゅうてんせい)である。これあつて、ロマ書は永久に世界第一の書である。
 
 
第五十九講 約 説
終結 頌榮の辭(十六章十七節以下)
 
 ロマ書は終結を告げつつある。その主要部は十五章十三節をもつて終わつたのである。「希望を與うる~の、なんじらをして、聖靈の力により、なんじらの希望を大いにせんがために、なんじらの信仰より起こるすべての喜びと平安を滿たしめたまわんことを」との祈願(ねがい)をもつて、この大書簡は終わつたと見ることができる。しかるにパウロは自分の事につき追つて書きを付するの必要を感じた。よつて十四節以下三十一節までに、彼の将來の傳道計畫について書き加うるところがあつた。そしてこれを書き終えて後に、三十二節において「平安の~。なんじらすべての者と共にあらんことを願う。アァメン」と書いて、彼はここに終結を告げんとした。しかるに彼はさらにローマにおける彼の友人を思い起こした。彼らはいずれも信仰の戰士であつた。彼らに對してまた一言なかるべからずと思うた。よつて三たび、彼の書記をして筆を取つて書かしめた。それが、十六章一節より十六節に至るまでの、紹介ならびにあいさつの言葉である。そしてこれを終えて後に、十七節より十九節までにおいて、異端の侵入について注意するところがあり、第二十節において「平安の~、なんじらの足の下において、すみやかにサタンを碎くべし。われらの主イエス・キリストの惠み、なんじらと共にあらんことを願う」と書きて、ここに三たびこの書簡を終わらんとした。しかるに彼はまだ終わり得なかつた。彼と共にありしテモテほか三人、書記のテルテオ、全会の家主ガイオ、コリント市の会計主任エラスト、ほかに兄弟クワルト、彼らもまたこの機会を利用して、キリストの愛を、遠きローマの兄弟姉妹に送らんと欲した。文書交換の機会は少なかつた。この好機逸すべからずである。(二十四節「われらの主イエス・キリストの惠み……」は、たぶん後世の記入であろう。改譯(註、大正譯)には除いてある)。

 三たび終えんとして終えざりしこの大書簡は、ついに終結に達した。そして最後の一言は本文相當のものでなくてはならない。建築でいえば、最後の冠石(かむりいし − capstone)である。偉大で、壯厳で、總括的でなくてはならない。そして事實は想像にたがわないのである。ロマ書結末の言は左のごとしである。
なんじらを堅うし得る者、わがiケとイエス・キリストの宣傳により、すなわち、長き世の問、隠れたりしも、今あらわれ、限りなき~の命により、豫言者たちの聖書をもて、信仰の服從に入らしめんがために萬國の民に示されたる奥義の啓示によりて、なんじらを堅うし得る者、すなわち独一叡知の~に、榮光、世々かぎりなくイエス・キリストによりてあらんことを。  アァメン
 

 實に偉大なる重い言葉である。最後にロマ書を總括して餘すところなき言葉である。

 ことばはまわりくどいように見ゆるが、その意味は簡單明瞭である。「わが宣べしiケをもつて、なんじらを堅うし得る者、すなわち独一叡知の~に、榮光、世々かぎりなくイエス・キリストによりてあらんことを」というのが、この頌榮の辭の大意である。くどいと思わるる部分は、パウロの宣べしiケの説明であつて、比較的に輕い言葉である。論理學上にいわゆる大前提と小前提とであつて、まず大を解して、小はおのずから解けるのである。

 この内で最も重き言葉は「得る者」である。ギリシャ語にありては δυναμεω という一語である。英譯には him-that-is-able としてある。しかし、四字であるが、一字として讀むべきものである。「なし得る者」または「なす能力を有する者」の意である。もちろん~の名稱である。~はなし得る者、なすの能力を有する者である。すなわちデューナメノスである。パウロはiケを傳え得た。しかしながら、そのiケをもつて人を救い得る者は~であると彼は信じたのである。われは語る者、~はなし得る者であるとパウロはいうのである。パウロいかに大なりといえども、救いの事をなし得ようとは信じなかつた。彼は自己を知つた。ゆえに、ほんとうに謙遜であつた。「なし得る~に榮光あれ」と彼はたたえた。自分で信者を作り得ると信ずる近代人、人格境遇の力で人をクリスチャンにすることができると思う米國流のキリスト信者は、大いにここにかんがみるべきである。

 「なし得る者」、「堅うし得る者」、「信者の信仰を確立し得る者」、それは、人ではなくして~である。偉大なりしパウロにおいてすら、この能力はなかつた。ゆえに、榮光、~にあれである。そしてその~は独一の~である。知惠の源である。人の場合においては、知惠があつても、これをおこのうの力なきが常であるが、~の場合においては、全知に伴うに全能がある。そしてその知惠と能力とは、ことに罪人の救いの場合において現わるるのである。パウロは十一章の終わりにおいて、「ああ~の知惠と知識の富は深いかな」といいて、萬民の救いに關する~の知識を贊美した。信者各自にとりてもまたしかりである。錯雑せる人生の關係の内にありて、~はわれら各自を光明と自由とに導き出す道を知りたもう。またよくこの事をなすの力を有したもう。ゆえに、榮光、彼にあれである。

 ~は信者の信仰を確立し、彼の救いを完成(まっとう)することができる。そして彼は、パウロに示したまいしiケによりて、この事をなしたもう。すなわちロマ書において説かれし十字架贖罪(しょくざい)のiケをいう。~は、このiケをもつて、世をさばくと共に、また世を救いたもう。「このほか、べつに救いあることなし」とペテロがいうたとおりである。そしてパウロのiケは「イエス・キリストの宣傳」である。彼の弟子ルカが傳えしようなるキリストを宣傳すること、それが彼パウロのiケであつた。パウロは今の~學者が唱うるように、自分の傳えしiケとイエス・キリストの生涯の出來事とを区別しなかつた。そしてこのiケはそもそもいかなるものであつたかというに、これは「長き世の間、隠れたりしも、今あらわれ、~の命により、聖書をもて、萬國の民に示されたる奥義の啓示」である。すなわちパウロの傳えしiケは彼のいわゆる創作でなかつた。これは、長き間、世にありしもの、しかも長の間、隠れておおわれしもの、しかして今に至りてあらわれしものであつた。これはまたパウロが自分でこのみて宣べ傳えしものではなかつた。~の命に從い、豫言者たちの書(ふみ)、すなわち舊(ふる)い聖書に基づきて、萬國の民らに示されたるものであつた。自分の創作ではない。自分の傳道ではない。長き間、奥義として、人の目より隠れありし~の聖旨を、~の命に從い、聖書をもつて宣べ傳うるのである。

 なんじらを堅うするの力を有したもう者、すなわち独一叡知の~に、「榮光かぎりなく、イエス・キリストによりてあらんことを」と。なぜキリストによらなければならぬか。これは省いてもよいことばではないか。しからずである。これは必要缺くべからざることばである。~はキリストをもつて人に救いを施したもう。人はまたキリストによりて~に歸ることができる。~の榮光はキリストによりて現われ、またキリストによりて彼のみもとに歸る。キリストなくして救いあるなし。永生あるなし。復活あるなし。勝利と榮冠あるなし。榮光はすべてキリストによりて、すなわち彼を通して、父なる~にあれである。
 

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