第六〇講 ロマ書 大觀

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 すべて書物を讀みたる後において忘れ得ざるものは大体の印象である。もちろんその中の重要なる個處もまた忘れがたきものではあるが、最も強く長くわが心に留まるは、その全体の空氣である。あだかも百花咲きにおう春野を逍遙せし後において、個々の花の忘れがたきもあれど、むしろ花の野に身を浸してその香に酔うたという事その事が、最も強き記憶として残るたぐいである。ロマ書を讀み終えし後の感もまた同樣である。その三章後半、あるいは七章後半、あるいは八章全体というごとき著しき個處が、われらの記憶に強く残ることは事實である。けれどもなお強くわれらを動かすものは、大体の印象である。今ここにこの大体の印象を述べておきたい。これすなわちロマ書大觀である。

 ロマ書全体に關することを講述の題目とする時はなお他にも多い。二、三の例を擧げれば、ロマ書の世界歴史における影響というごときは、確かにおもしろき題目である。ルーテルの宗ヘ改革のごとき歴史的大革新が、彼の聖書研究、ことにロマ書研究に源を發せしごとき、その最大なるものである。その他、この書の研究は幾度も史的革新の源泉となつたのである。あるいはまた幾人かの偉人傑士のロマ書觀=この書に對する見方、あるいはこの書より得し印象等=を學ぶことも、確かに興趣深きことである。その他、この書について學ぶべきことは多いけれど、今はしばらくこれを省略しておく。

 ロマ書を讀了して受くる第一の印象は、それが信仰第一の書であるということである。信仰によりて義とせられ、信仰によりてきよめられ、信仰によりて榮化せらる。信仰をもつて始まつて信仰をもつて進み、信仰をもつて終わる。これを説いたのがロマ書である。ロマ書はもちろん愛を説く。また望みを説く。その愛を説きし十二、十三章のごとき、その望みを説きし八章のごとき、いずれも著しき處ではあるが、しかしロマ書全体にみなぎる空氣は、信第一のそれである。パウロは律法に信仰を對立せしめて、後者をもつて前者を打ち破つたのである。かくしてふるき律法時代にいとまを告げて、新しき信仰時代の到米を公宣したのである。これがすなわちロマ書である。この事は實に信仰時代のあけぼのを告げる暁の鐘の音である。

 第二に受くる印象は、この書が恩惠の書であるということである。~の、人に對する道は絶對的恩惠である。~はただ恩惠をもつて人を義とし、人を救いたもう。「キリストは、われらのなお罪人たる時、われらのために死にたまえり。~はこれによりてその愛をあらわしたもう」(五・八)とあるは、ロマ書の大主張である。われらが罪人であることは、少しも~の恩惠の發動を妨げない。いな、罪人を救わんためにこそ、彼はそのひとり子を世に賜いて、彼をして十字架上に人類の罪を贖わしめて、もつて罪人のゆるされ、かつ救わるる道を開きたもうたのである。事は、何ら人の功(いさおし)によらない。また人の願いによらない、ただもっぱら~の自發的行動に屬してゐる。ゆえに絶對的恩惠である。この事を極力闡明(せんめい)するのがロマ書である。

 ~は、かく、ただ恩惠をもつてのみ、人に對したもう。人の、功なくて救わるるの道はすでに備えられてゐる。ゆえに、人は、ただこのまま~に立ち歸りて信從の生活に入りさえすればよい。實に簡易の極とはこの事である。しかるに多くの人はこの事を知らない。~が手を開いて寶物を與えんとしつつあるを知らない。ゆえに、この恩惠の中におのれを投げ入れようとしないのである。また信者といえども、このiケの中心的生命の處在を充分に知らない。ゆえに信仰生活をもつて努力作善の連続と誤想する。そしてそのために早くもすでに疲憊(ひはい)しつくして、信仰生活の弛緩(しかん)無力を生むのである。これ、一に~の恩惠の眞性質を知らぬことに起因する。まことに今日のキリスト信者はただ恩惠恩惠(めぐみめぐみ)と叫ぶのみであつて、この恩惠の何であるかを知らないのである。パウロは信仰中心の人であつたが、その基に、~の恩惠、~の愛を置いた人であつた。すなわち、~がまず愛をもつて人に對するがゆえに、これに感激して人が信仰を起こすのであると彼は説く。實に恩惠なくしてiケはないのである。ロマ書が~の恩惠を何よりも先に立つる書であることを忘れてはならない。

 キリストヘというからとて、これを、他のいわゆる宗ヘと同一列に置くは誤まつてゐる。キリストヘはいわゆる宗ヘではない、~より人への啓示である。宗ヘは人が~を求むるものであるが、キリストヘは~が人を求むるものである。ゆえに前者は、人の努力、工夫、攻究、修養、論理、修道に重きを置くに反し、後者はただ~の恩惠の受納を主眼とするのである。自己が種々の方法をめぐらして~に近より行くのが普通の宗ヘであつて、ただ恩惠を受け感謝喜悦に入るのがキリストヘである。かく、この世の宗ヘと、~よりの啓示たるiケは相違してゐる。地の産と天の産との間にはある根元的の相違があるのである。しかるに人は多くこの区別を知らずして、あるいは比較宗ヘ學の立場より、あるいは努力修養の道より、あるいは論理攻究の道よりして、iケの生命に達せんとする。これ、ドクトル・ジョンソンのいわゆる、雄牛より乳を搾取せんと願うの類である。赤子の心をもつて、へりくだりて~の與えたもう生命を受くること、これが救いに入る唯一の道である。~は人を求めつつある。彼は、人が努力修道の険路(けんろ)を經て近より來たるを靜かに待ちたもう~ではない。~は常に人を求めつつある。兩手に珠玉を滿載して、人々が手を伸ばして受け取るのを待ちつつある。人は信仰をもつてこれを受けさえすればよい。それより、眞の生命は臨むのである。

 ロマ書は以上のごとき事を傳うる書である。したがつて、信仰をもつてこの恩惠を受くる態度を人に要求する書である。しかしながら、かかる態度に入るにあたつてまず必要なるは、いかにして~の前に義たらんかとの問題を心に強くいだくことである。自己の積罪汚濁に堪えかねて、聖き~の前におのれを置くに堪えず、~の刑罰に當然値することを認めて、苦惱重く心を壓し、いかにして~の前に義たらんかとの問題に惱む人、かかる人にとりてはロマ書は絶好の伴侶(はんりょ)である。ロマ書は、要するにこの人生の最難問題に對して、明確にして最後的の解答を與え、もつて心の重き苦悶を取り去りて、晴天白日の境に人を引き出だすものである。すなわち、人の提供する義にあらずして、~の提供する義、人にあるところの義にあらずして、キリストにあるところの義、この義をすべて信ずる者に賜うことをロマ書はヘえて、人々をして、動かざる歡喜の世界に入らしむるのである。パウロはピリピ書においてこの事を述べて、「信仰に基づきて~より出づる義、すなわち律法によれるおのが義にあらず、キリストを信ずるによれるところの義をもちて」(ピリピ書三・九)というた。この義を人に與えて、人の罪の苦悶を取り去るのが、ロマ書にいわゆるiケである。ゆえに、ロマ書はこのむずかしき問題に苦惱せる人の讀むべき書である。

 しかしながら、いかにして義たらんかというごとき問題をいだかぬという人がこの世には數かぎりなくある。しかしながら、この事は決してこの事の普汎的價値を損ずるものではない。何となれば、人が眞に人生に目ざめし時、眞に自己の實相を知りその最深の要求を探りあてし時、人が最もまじめになりし時、かかる時に必ず心に湧起するものはこの一問題であるからである。ゆえに、たれもロマ書を讀むべきである。今日のために、または他日に備うるために、たれもロマ書を讀むべきである。そしてこの書に示されしごときiケの道を經て、この書に示されしごとき生命に入るべきである。これ、この世に生をうけし人が、他のすべての事柄にまさりて全注意をささぐべき、人生第一の業(わざ)である。

 なお、注意すべき一事がある。「イエス・キリストのしもべパウロ」をもつて始まりしこの書は、最後に「独一叡知の~」を贊美して終わつた。彼はまずキリストのしもべとして、自己を全く彼の下に隠して紹介し、そして最後には~を贊美するのみにて、少しも自己をあらわさない。もとより強き特徴を持つていた彼のことであるから、いたる處に彼の拐~はあざやかにあらわれ、ことに七章後半のごとき痛烈なる自己一身の告白などありて、この書を讀みしのちにおいて、著者たるパウロ彼自身がかなり強く讀者の心に残るは自然である。しかしこれ求めてなせしところではない。彼はひとえに自己をあらわさじと努めたのである。彼は「わが名によりてバプテスマを施すと、人にいわれんことをおそれ」(コリント前書一・十五)て、つとめてバプテスマ施行を避けた人であつた。また「ことばと知惠のすぐれたるをもて……~の證を傳え」なかつた。これ自己の力をもつて人をiケに引くをおそれたからであつた。「そは、なんじらの信仰をして、人の知惠によらず、~の力によらしめんと思えばなり」(コリント前書二・一 〜 五)と彼はいうてゐる。彼は、かく常に注意しておのれを隠して、~とキリストとをあらわさんとした人であつた。ゆえに、ロマ書を讀みて、彼の姿がかなり強く見ゆるとはいうものの、それにも増して −−しかり、幾十倍も増して −− 強く見ゆるものは、~とキリストの姿である。實にこの事において~の愛とキリストの救いとは、パウロのすべての特徴を押しのけて立つてゐる。しかり、~とキリストは滿天の輝きを受けしごときあざやかさをもつて立つてゐるのである。ゆえに、この書を讀んでさらに知りたく思うは、パウロではなくして、~とキリストである。パウロが極力自己を隠してあらわさんとしたこの~、このキリストは何であるか、その愛、その救いについてなお深き知識はいかにして得べきかと、人々はこの研究に對する熱心を燃やすのである。この意味において、ロマ書は大なる傳道書であるというべきである。

 これを要するに、世界最大の書といえば、これをロマ書のほかに求むることはできない。この世に大作といわるるもの、名著といわるるものは少なくないが、ロマ書に比してはその光を失うのである。ゲーテのファウストのごときを近代人の聖書という人あるも、とうていロマ書と比することはできない。その他、ダンテの~曲というも、シェークスピアのハムレットというも、なおこれらと比肩するに足るべき大作というも、とうていロマ書と光を争うことはできない。たれか臨終の時にあたつて世のいわゆる大作によつて慰められ得ようか。しかしながら、死に處しても生に處しても、いかなる場合にも、常に人生の最大伴侶たるはロマ着である。ゆえに、これにまさる貴き書物はこの世にないのである。

第六〇講 約  説
ロマ書大觀
 
 ロマ書を大觀して第一に氣の付くことは、それが信仰の書であることである。「~の義はこれにあらわれて、信仰より信仰に至る。しるして、義人は信仰によりて生くとあるがごとし」(一・十七)とある。信仰が原因であつて、信仰が手段であつて、また信仰が結果である。信仰に始まつて信仰に終わる。思索ではない。修養ではない。みずから潔(きよ)うせんとする努力ではない。信仰である。信仰によりて義とせられ、信仰によりて潔められ、信仰によりてあがなわる。ただ仰ぎ見る事によりて救わる。「見よ、しもべ、その主人の手に目を注ぎ、しもめ、その主婦の手に目を注ぐがごとく、われらはわが~エホバに目を注ぎて、そのわれをあわれみたまわんことを待つ」(詩篇一二三・二)とあるその態度である。この態度に自己を置かずして、ロマ書はわからない。ロマ書に臨むに、單に哲學者の冷靜と藝術家の敏感をもつてして、その特に貴き書なる理由を探ることはできない。

 第二に氣の付くことは、その恩惠の書であることである。「それ人はみなすでに罪を犯したれば、~より榮えを受くるに足らず。ただキリスト・イエスのあがないによりて~の恩惠を受け、功(いさおし)なくて義とせらるるなり」(三・二三 〜 二四)とあるがごとし。救いは~より出でたるものにして、人が製出(つくりだ)すことのできるものでない。「なんじ、いけにえとささげ物をこのまず、ただわがために体を備えたまえり」(ヘブル書一〇・五)とあるがごとし。救いは、~にたてまつる犧牲とささげ物とに對する~の報賞(むくい)として、われに臨むにあらず。~ご自身が、その無限の愛のゆえに、わがために備えたまいし聖子の(みこ)の体のゆえに、われに授かるのである。犧牲をささぐる者は、われにあらずして~である。「キリストは、われらのなお罪人たる時、われらのために死にたまえり。~はこれによりてその愛をあらわしたもう」(五・八)とあるがごとし。救いの提供者は~である。人はただ信仰をもつてこれに應ずるまでである。恩惠は愛の自發的行爲である。人の惠まれんと欲するのを待つて惠むのは恩惠ではない。惠まるるの資格なき者のためにnメiさいわい)を備うる事、その事が恩惠である。そしてロマ書が新約聖書の他の部分と共に高調してやまざるところのものは、罪人が受くるの資格なき、~のこの恩惠である。~のこの愛を知りて、パウロは叫ばざるを得なかつたのである。いわく「あるいは死、あるいは生、あるいは天使、あるいは執政(つかさ)、あるいは力あるもの、あるいは今あるもの、あるいは後あらんもの、あるいは高き、あるいは深き、また他の被造物(つくられしもの)は、われらを、わが主イエス・キリストによれる~の愛より離らすことあたわざるを、われは信ず」(八・三八 〜 三九)と。罪を寛大に扱うの道はあるが、おのが一子を捨ててまでも、罪人の永久のnモノ備えたもうとの~の愛は、彼ご自身が無窮であるだけ、それだけ無窮である。われらは~の知惠と能力(ちから)の限りなきに驚くが、わが主イエス・キリストによれる~の愛を知るに至りて、ただ驚歎、なすところを知らないのである。「~の惠みの測りなや。愛の深さぞ知りがたき」(贊美歌五五)とは、われらの口よりおのずからほとばしる贊美の歌である。

 ロマ書を研究して知ることは、キリストヘの特性である。確かドクトル・チャルマースであつたと思う、かつていうたことがある、「キリストヘは宗ヘにあらず」と。その事はこうである。すなわち宗ヘとは、人が~を探ることである。インドヘ、ギリシャヘ、その他、宗ヘという宗ヘはすべてしからざるはなし。パウロのいわゆる「人をして~を求めしめ、彼らがあるいは探り得ることあらんためなり」(使徒行傳十七・二七)とあるその事である。しかるに、キリストヘだけは、その意味において宗ヘでない。キリストヘは、人が~を探る事にあらずして、~が人を求めたもう事である。「われら、~を要するにあらず、~、われらを愛し、われらの罪のために、その子をつかわして、なだめの供え物とせり。これすなわち愛なり」との、ヨハネ第一書四章十節のことばは、ロマ書五章八節と共に、この事を示して誤らないのである。ゆえにキリストヘはひとりこれを宗ヘと稱せずして、啓示というのである。キリストヘは religion ではなくして revelation である。人より求めざるに、~より示されたるものである。ゆえに、揣摩(しま)し、功究し、思索し、探求すべきものにあらずして、ただ信受すべきものである。すでに賜わりしものを感謝して攝取すれば、それで救拯(たすか)るのである。ロマ書最後のことばに「萬國の民をして、信仰の服從に入らしめんがため」とあるはこの事をいうのである。いわゆる宗ヘに對しては研鑽努力が必要であるが、キリストのiケに對してはただ信仰の服從あるのみである。これは迷信でもなければ盲從でもない。iケの性質がしからしむるのである。あたかも夜の暗きを照らすためのろうそくや電燈の光は、これを研究して改良するの必要があるが、昼り輝きをなす太陽の光は、ただこれに浴するよりほかに道がないと同じである。ロマ書は大議論であるが、論理的に人を説服せんとする宗ヘ哲學の類ではない。~が罪人を救わんとしたもう恩惠のiケの大提唱である。近代人のいわゆる比較宗ヘの立場に立ちてキリストヘを解せんと欲するがごとき者に對して、ロマ書は光明を與えんとしない。

 ロマ書は信仰の書である。また恩惠の書である。宗ヘの書にあらずしてiケの宣傳である。ゆえに、いかなる人にとり、いかなる場合において役に立つ書であるかは一目瞭然である。問題は「人はいかにして~の前に義たらんか」である。問題の要點は~と義とである。飢えかわくごとく~の義を慕う者にあらざれば、この書を味わうことはできない。「わが靈魂はかわけるごとくに~を慕う。生ける~をぞ慕う。ああ、いずれの時にか、われ行きて~のみ前に出でん」(詩篇四二・二)といいて、~を慕いあえぐ者にとりて、ロマ書は實にiケであるのである。この切なるあこがれなくして、人は、いかに深遠なる宗ヘ哲學と該博なる言語學の知識をもつてこれに臨むといえども、彼の得るところはいたつて僅少である。~のみ前に出でんと欲す。されどもわが罪はわれをさえぎりて、われの彼に近づくを許さず。しかのみならず、わが罪はわれを罪に定め、~の子たるべく造られしわれをして、~を目前にながめながら、のろいの子たらしむ。この苦しき境遇に置かれて、われはパウロと共に叫ぶのである、「ああわれ、なやめる人なるかな。この死の体よりわれを救わん者はたれぞや」(七・二四)と。そしてロマ書はこのなやみよりわれを救い出してあやまたないのである。哲學上の問題はわからないかも知らない。社会學上の實際の問題に滿足なる解決を與えないかも知らない。されども、~と和らがんと欲する罪人に、彼のみ前に出づる道を示すにおいて、天(あま)が下にロマ書にまさる書とては他にないのである。ジョン・バンヤンが、かつてロマ書の姉妹篇なるガラテヤ書についていうたことがある、「これは、いためる良心を癒やす點において唯一の書である」と。そしてこのことばは、移してもつてこれをロマ書に適用することができる。ロマ書は、罪の痛手になやみて聖父(らち)のみ前に出づるあたわざる者にとりて唯一の書である。そしてこの事成りて以來、幾人の人がこれによりてそのいためる良心を癒やされたるか。ただ天の父のみ、よくその數を知りたもう。實におびただしき數であろう。

 しかし今の人はいうであろう、われらにかかるなやみなし、われらに生活のなやみあり、戀愛のなやみあり、人生問題解決のなやみあり、されども、いためる良心というがごとき、生ける~をぞ慕うというがごとき、死の体をいかにせんというがごときなやみはない。ゆえに、口マ書を讀み、その講義を聞かされて、著者の熱心誠實には多少動かされざるにあらずといえども、ルーテルやウェスレーがこれを讀みて起こししというがごとき熱信は、われらには起こらない、さらばわれらはその研究の座につらなりて何の益をも受けざりしかと。まことに近代人に缺けたるものにして、~を慕う愛と罪に苦しむなやみのごときはない。ゆえに、今の人は昔の人のごとくに、おさえがたき熱心をもつてロマ書またはガラテヤ書を研究しないのである。しかりといえども、近代人といえどもまた人である。そして人である以上、いつか、どこかで、良心の苦悶というがごときものを實驗するであろう。あるいは事業に失敗し、名譽を剥(は)がれて、今世に何のたよるものなきに至つた場合か、あるいは死のまぎわか、あるいは、今世においては~と和らぐの何の必要をも感ぜざるも、來世において、身にありてなせし事をことごとくさばかるる時において、眠れる良心は急にさめて、おのが不潔に堪え得ざる時が來ないともかぎらない。しかり、人が人たる以上、かかる覺醒は必ず一度はあると信ずる。そしてかかる時にロマ書は何びとにも役に立つのである。しかり、非常の役に立つのである。その時には、博士の稱号も、巨萬の富も、この世のすべての知識も、何の役にも立たずして、舊(ふる)いパウロの書いた舊いロマ書が、わが救いのたよりとなるのである。その時、三章二十三 〜 二十八節が、わが千世經(ちよへ)し岩となりてわれを圍み、われをして、焼き盡くす審判(さばき)の火よりまぬかることを得しむるのである。その時、ここに一年と六カ月にわたりてロマ書を研究したことの實益が現わるるであろう。ことわざにいう、「最後の三分間に備うるために全生涯を用ゐるの價値(ねうち)がある」と。そのごとく、最後の審判の日に備うるために、全力を盡くしてロマ書を學んでおくの價値がある。
 
人はみな罪を犯したれば、~より榮光を受くるに足らず。ただキリスト・イエスのあがないによりて~の恩惠(めぐみ)を受け、功(いさおし)なくして義とせらるるなり。すなわち~は忍びて過ぎこしかたの罪を見のがしたまいしが、今おのが義をあらわさんとて、イエスを立て、その血によりて、信ずる者のなだめの供え物となしたまえり。これ、みずから義たらんため、またイエスを信ずる者を義としたまわんためなり。さらば誇るところ、いずくにあるや。あることなし。何の法によるか。おこないの法か。しからず。信仰の法なり。ゆえに、われ思うに、人の義とせらるるは信仰による。律法のおこないによらずと。
 

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