第五十八講 パウロの友人録
十六章一 〜 二四節

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 パウロは自己の傳道計畫を説明して第十五章を終えた。そしてその最後に「平安の~、なんじらすべてと共にいまさんことを願う。アァメン」と、あたかもこの大書簡を結ぶがごとき一語を下した。彼はこの時はもう筆をおこうとしていたのかも知れぬ。しかしこの書簡の持參人なるフィベを一言ローマの信者に紹介するの必要を思い起こして、十六章一、二節の語を成した。そしてさらにローマにある彼の友人を想起して、その名を列記し、「安きを問え」の連發をもつて十六章までに至つたのである。

 「安きを問え」は、日本語の「よろしく」に相當する。ヘブライ人のあいさつの語は「サローム、アレーケム」であつて、~の平安、なんじにあれを意味する。彼は、ローマの信者中より、その知れる人々を想起して、一々「よろしく傳えよ」と全会衆に向かつて注文したのである。もらろんここに列擧せられし人々もこの書簡の讀み手の中に加わつていたのであるから、ことにかくいう必要はないようであるが、彼はかく述べて、全会衆がこの人々に注意せんことを望んだのであろう。とにかくこれは人名の連続にして、特に研究する必要ありとは思われぬ、歴史的には多少の意味あらんも、信仰的にはべつに研究の要あらじと、人はいうであろう。しかしこれ淺見である。敬虔(つつしみ)をもつてこれを研究せよ。言葉の裏に潜む深き意味を探り出せ。しかる時は、これまた確かに~のことばの一部にして、人の信仰を助くる文字なることを悟るであろう。不注意にこれを讀むときはあたかも砂漠を旅するがごとく感ずるであろう。しかしながら砂漠は決して無價値のものではない。その中にわずかあるところの草花、昆蟲の類は、博物學者にとつては無限の興味をになうものである。聖書の研究に要するものは敬虔の心である。また深く探る拐~である。

 パウロはまず「ケンクレヤにあるヘ会の女執事なる」フィベを、「われらの姉妹」として彼らに紹介した。そして「なんじら、聖徒のなすべきごとく、主によりて彼女を受け、その求むるところはこれを助けよ」と勧め、次にフィベのひととなりを簡潔なる語をもつて述べて、「彼女はもと多くの人を助け、またわれをも助く」というた。わずかに二節ではあるが、實に至れり盡くせりというべき紹介の語である。

 次に、安きを問うべき在ローマの人々を列擧せんとして、まず第一にプリスカとアクラを擧げた。プリスカは妻、アクラはその夫である。使徒行傳十八章において、この夫妻のことは明らかである。彼はもとローマの人であつたが、一時コリントに滞在し、この時パウロと職業を共にし−−彼らは天幕工であつた−−またiケのための勞苦を共にしたのである。のちまたパウロと共にエペソにいたつて、同樣の働きをなした。その後この夫妻はローマ府に歸りしと見え、パウロは幾人かにあいさつするにあたつて、だれよりも先にこの二人を擧げたのである。實に彼らはそれに充分値する人たちであつた。「彼らは、イエス・キリストについて、われと共に勤むる者なり。またわがいのちのためにおのれの首を剣の下に置けり。ただわれのみならず、異邦人のヘ会もまた彼らに感謝せり」としるす。短き語をもつて豐かなる事實が示されたのである。パウロは、彼らと共に勞苦せし年月を想起して萬感胸に迫るの感あり、彼らに對していだける感謝の念が、おのずからこのうるわしき推贊の辭となつて表われたのであろう。

 次に擧げらるるはエパネトである。「彼は、アジヤにおいてキリストの初めに結べる實(み)なり」という。アジヤは小アジアの一洲の名、エペソはすなわちその首府である。たぶんエパネトは、パウロのエペソ傳道の時、最初に悔い改めた人であろう。この一事實の中に、エパネトの人物と信仰の性質がよく見える。パウロは、彼の名譽のために、この事を特にローマの信徒に告げたのであろう。

 次には「われらのために多くの苦勞をせしマリヤに安きを問え」とある。この婦人についてくわしき事は少しもわからないが、ただこの一語によつて、彼女の信仰の戰士であつたことがわかるのである。次にはアンデロニコとユニアスを擧げる。この二人は、パウロと共にある期間獄舎に住みしことあり、また使徒の間に名高き人々であり、かつパウロよりも早く悔い改めた人であるとパウロはしるしてゐる。この數語で、彼らがいかなる人物であつたかはわかるのである。なお続いて、アムプリアト以下十數名を擧ぐるにあたつて、できるだけその人の特徴について一言せるに注意すべきである。「キリストにつきてわれらと共に勤むるウルバノ」というごとき、「キリストにおいて鍛錬なるアペレ」というごとき、「彼らは主において苦勞せし女なり」というごとき、いずれも一言をもつてその人の特徴を語れるものである。

 以上のごとくして、ローマの信徒が、その中のおもなる人々に敬意を表すべきを慫慂(しょうよう)したるのち、パウロは十六節において、ひとまずこのあいさつを閉じんとして、「なんじら、きよき接吻をもて互いに安きを問え。キリストのすべてのヘ会、なんじらに安きを問えり」としるした。前半は、ローマの信徒各自の問における愛と敬意との交換を勧めしもの、後半は、他のヘ会よりの傳言をひとまとめにして取り次いだのである。

 右のあいさつの語はローマにおけるパウロの友人録である。彼はローマに右のごとき善き友人を持つていたのである。おおよそ人は、何らの目的なくして、いかに独坐工夫を凝らすも、決して大思想をいだき得るものではない。大思想は、人を助けんとする愛に燃ゆる時、おのづと湧起するものである。ロマ書の内容がキリストヘ的救いの完全なる説明たるはいわずもがな、これを一つの宇宙觀、人生觀として見て、偉大、深奥、壯美なる大思想たるは、たれも否定し得ぬところである。そして何がかくのごとき大思想を産んだのであるか。これ、幾つもの解答を促し得る問題ではあるが、ローマ信徒に對するパウロの愛なくしてこれの生まれなかつたことは明らかである。されば、われらはここにロマ書を産みし原因の一つとして、パウロの幾人かの友人の名を知るのである。プリスカ、アクラを初めとして、ここにしるされたる二十有餘名の人々−−この種の人々を慰め、励まし、ヘえんとする愛の迸流(ほとばしり)がついにロマ書の大思想となつたのである。

 カーライルのクロンウェル傳は、世にある傳記中の最も優秀なものであろう。彼はクロンウェルの書簡と演説をできるだけ多く蒐集(しゅうしゅう)し、それに説明を加えて、讀者の了解に便ならしめて、これを世に提供したのである。ゆえに、題して「クロンウェル傳」といわず、「クロンウェルの書簡および演説」という。けだし、もし自己の筆をもつてクロンウェルの生涯をえがき出ださんか、讀者はカーライルを通してクロンウェルを知ることとなりて、その知識は間接なるをまぬかれないであろう。しかし、もしクロンウェルの書簡と演説とをそのまま讀者に提出するときは、人々は直ちにクロンウェルの姿に接するを得て、その知識は直接かつ純粹なるを得るであろう。カーライルはかく考えしゆえ、わざと自己を隠して、もっぱらクロンウェルだけを人の前に提出したのである。これ彼のクロンウェル傳の特に貴き理由である。まことに人の手紙ほどその人をよく表わすものはない。ロマ書のごときは一つの系統ある思想の大なる發表であるが、最後にこれら人名録を見て、これが一つの書簡としてこれらの人々に送られしものなることを知りて、この書が單なる論文にあらずして、生ける人より生ける人に送られし一つの生ける消息であることを知るのである。實にこの人名録はロマ書の價値と性質とを示すものである。

 この人名録の中、三分の一が婦人なることは、特にわれらの注意をひくことである。第一は、この書簡の持參人たるフィベ、第二はプリスカ、第三はマリヤ、この三人については前述せしとおりである。なかんずくプリスカは、パウロおよび夫のアクラと共に、主のため十字架を負いし女であつて、かつその夫より先に名のしるしあるを見れば(使徒行傳十八・十八、二六、テモテ後書四・九においても同じ)、信者としての彼女の優秀は一般の定評であつたのであろう。そして節四にパウロの擧げし婦人はツルパナとツルポサである。「彼らは主において苦勞せし女なり」という。この二人(たぶん骨肉か)は、iケのために努力盡瘁(じんすい)せる婦人であつた。第五には「愛せらるるペルシスに安きを問え。彼は主におりて多く苦勞せし女なり」としるして、彼女が充分に十字架を負える人なることを示してゐる。次にはルポスの母を擧げて、「すなわちわが母なり」と、簡單なる一語を加えてゐる。もつて彼女の價値ある老婦人なりしを知るのである。なお十五節のユリヤは婦人であり、そのほか「ネレオとその姉妹」の語がある。かく、初代ヘ会には婦人多く、しかも優秀にして、iケのために努力せし婦人が多かつたのである。

 すでにキリストの在世中にも幾人かの婦人が弟子の中にありて、それぞれ重き役目に當たり、ある意味において男子にまさりしこと、四iケ書にしるさるるとおりである。そしてここにしるさるるとおり、使徒時代においてもまた婦人に多くの善き信者ありて、彼らは男子に劣らぬ良き働きをなしたのである。かくて婦人はキリストヘ世界において事實的にその値を示して、その地位を高め進んだのである。由來ギリシャ、ローマの文明は決して婦人を重んずるものではなかつた。その社会においては著しく男尊女卑の風があつた。當時の哲人賢者の著書を見るも、その婦人觀は一般のそれと似たものである。かかる時代と社会にありて、iケは、新たに婦人の價値を發揚し婦人の地位を高めし點において全く独創的であつた。これiケの革命的性質そのものの一表顯である。パウロはコリント前書において「女のかしらは男なり」(十一・三二)との男主女從主義(男尊女卑にあらず)を主張しながらも、「されど、主にありては、男は女によらざることなく、女は男によらざることなし」(十一・十一)ことの、一種の平等觀を述べてゐる。そしてまたここには、その友人録中に、幾人かの女性を擧げて、彼らを推奨してゐる。これ當時の大哲學者たるセネカやシセロといえどもとうていなし得ぬところであつて、パウロの革命的なるを充分に語ると共に、彼をかく革命的にせしiケそのものの、革命的勢力たるを知るのである。
 
 次に注意すべきは、ここにしるされし人々がみな信仰の勇士なることである。あるいは富者もあつたであろう。高官にある人もあつたであろう。あるいは貧しき下層社会の人もあつたであろう。あるいは奴隷もあつたであろう。それがみな愛と信仰のゆえに一致して、ここに一つのうるわしき靈的一団を形成したのである。ここにしるさるる二十七人が、パウロの知れるローマ信者にして、いずれも良き信仰の持ち主なるを思えば、彼の知らざるローマ信者中にも幾人かの良き信者ありしこと、もちろんである。もつて初代ヘ会の靈的豐強を知るのである。

 なお注意すべきは、五節前半「またその家にあるヘ会にも安きを問え」の一語である。ヘ会とありても、今日のヘ会とは大いにちがう。これは原語エクレシヤであつて、一つの団体をなしてゐる信徒全体を意味する語である。すなわちこの場合においては、プリスカ、アクラの家に幾人かの信者がたびたび集会(あつまり)をしたその集会の人々をさしたのである。今日のいわゆるヘ会というごとき組織的のものは、紀元三世紀まではなかつた。原始ヘ会はただ愛をもつてつながる兄弟的団体たるにすぎなかつた。ローマヘ会というても、べつに堂々たる会堂を有していたわけではない。ただ信者の家で会合を持つだけのものである。プリスカの家にあるヘ会というのはその一つであつて、なお他にもこれに類するものがあつたのであろう(十四 〜 十五參照)。實に簡素な、單純な、べつにヘ職という職業的のものもなく、ヘ権とかヘ会政治とかいう、この世の政治組織をまねたものもなく、自由な、樂しいヘ会であつたのである。かかるものがヘ会であるならば、われらももちろんこれをしりぞけない。いな、これをわれらの靈的家庭として迎える。しかり、かくのごときもののみが眞のヘ会である。キリストヘが發剌(はつらつ)として生きていた原始時代においては、ヘ会とはすべてこれであつた。のち、靈において失いしところを肉において補わんとして、今見るごときヘ会なるものが生まれたのである。

 ここにわれらは十五章二十五節以下に注意したい。二十四節までにおいて、パウロは、スペイン行きの計畫について語つた。しかし二十五節より一轉していう、「されど、今われ聖徒を助けんためにエルサレムに行かんとす。マヤドニヤとアカヤの人々、エルサレムの貧しき聖徒のために援助(たすけ)をすることを喜びとせり……このゆえに、わが事終わり、この實(み)を渡ししのち、なんじらによりてイスパニヤに行かん」と。彼はかねての約束どおり、エルサレムの貧しき信徒を助くるため、異邦より獻金を募つた。そしてローマ行きに先だちてエルサレムに至つてこれを手渡しせんと計つた。そしてそれを實行した。彼はコリントにてロマ書をしたためしのち、兄弟たちと共にエルサレムに向かつて旅立つた。エルサレムにパウロ排撃の空氣濃きは著明の事實であつた。その地の頑固なるユダヤヘ信徒は、彼を讐敵(しゅうてき)のごとく憎んでいた。ゆえに、彼のエルサレム行きは、火焔の上におどるがごとき危きものであつた。從つて兄弟姉妹たちは彼のこの行をひき止めんとして、心をこめたる忠告を試みた。しかし彼は敢然としてエルサレム上りを決行した。彼は生命を賭(と)してこの愛の勤めを實行したのである。そしてもし幸いにしてエルサレムにおいて生命を全うするを得ば、西向してローマにおもむき、ローマよりまたスペインに行かんと志した。はたして彼はエルサレムにおいて身命の危険に会した。しかし~はよく死より生を起こしたもう。パウロのローマ行きの望みは徒(あだ)とならなかつた。彼は思いもよらず囚人としてローマに行くことになつた。~はかくのごとき道をもつてパウロのローマ行きの切望を達せしめたもうたのである。贊美すべきかな、彼!(事は使徒行傳二十章以下において明らかである)。

 時は紀元五十九年の春のころであつたと史家はいう。パウロは捕われの身ながらも、春のごとき若き希望に輝きて、イタリヤ半島とシシリー島との間を北上して、半島西岸の港ポテオリに上陸し、そこより陸路ローマに上り、ローマの兄弟たちと相合した。その時、プリスカ、アクラ以下數十名(または數百名)の兄弟姉妹たちの喜びはいかに大なりしか。また多年翹望(ぎょうぼう)の對象なりしローマ府を見し時の大使徒の喜びはいかなりしか。この地に數年を過ごせし間、この大使徒と信者たちの交わりはいかにうるわしくあつたであろう。これを、兄弟姉妹相争う今日のヘ会においてながめて、無量の感慨に打たれざるを得ないのである。
 
 
第五十八講 約   説

パウロの友人録(十六章一 〜 十六節の解譯)
 
私は、諸君に、私たちの姉妹フィベを推薦(すいせん)する。彼女はケンクレヤのヘ会の女執事である。私は諸君に勧む、諸君が、聖徒たるに應(かな)う道をもつて、主にありて彼女を迎え、彼女が諸君より求むるところに從い、何事によらず彼女を助けられんことを。そは、彼女自身もまた今日まで多くの人を助け、私自身もまた彼女の援助を受けたればなり(一 〜 二)

キリスト・イエスにありて私と共に働く者なるプリスカとアクラに平安(やすき)を問われたし。彼らは、私のいのちのために、その首を剣の下に置いた。それがために、ひとり私のみならず、異邦人のすべてのヘ会は、彼らに感謝する。また彼らの家にあるヘ会にその平安を問われたし(三 〜 五)

私の愛するエパネトに、その平安を問われたし。彼はアジヤがキリストにささげし初穂である(五)

私たちのために多く努力せしマリヤに、その平安を問われたし(六)

私の血縁の者にして、私と同樣に囚人となりしアンデロニコとユニアスに、その平安を問われたし。彼らは使徒の間に名聲(きこえ)ある者である。彼らはまた私より先にキリストを信じた者である(七)

主にありて私の愛するアムプリアトに、その平安を問われたし(八)

キリストにありて私と共に働くウルバノ、また私の愛するスタキスに、その平安を問われたし(九)キリストにありて鍛えられたるアペレにその平安を問われたし(一〇)

アリストブロの家の者に、その平安を問われたし(一〇)

私の血縁の者なるへロデオンに、その平安を問われたし(十一)

ナルキソの家の屬(もの)にして、キリストにある者に、その平安を問われたし(十一)

主にありて努力せしツルパナとツルポサに、その平安を問われたし。彼らは主にありて努力せし婦人である(十二)

愛せらるるペルシスに、その平安を問われたし。彼女は主にありて多く努力せる者である(十二)

主にありて選ばれたるルポスとその母とに平安を問われたし。彼の母はまた私の母である(十三)

アスンクリトと、フレゴンと、ヘルメスと、パトロバと、ヘルマスと、また彼らと共にある兄弟たちに、その平安を問われたし(十四)

ピロロゴとユリヤ、ネレオとその妹、オルンパ、ならびに彼らと共にあるすべての聖徒に、その平安を問われたし(十五)

諸君が、聖き接吻をもつて、相互の平安を問われんことを望む。キリストのすべてのヘ会、諸君に平安を問う(十六)

 
以上の略註
 
 以上は、パウロのローマにおける友人録とも、またローマヘ会の役員録とも見ることができる。またこれより演繹(えんえき)してローマヘ会の組織いかんをうかがうことができる。固有名詞は確實なる事實を語る。ロマ書は、生きたる人より生きたる人たちに書き贈られし書簡である。

 ここに第一に注意すべきは、婦人の名のわりあいに多いことである。擧げられし名はすべて二十七人、その内九人が婦人である。ロマ書をローマに携えし者が、コリント市の港ケンクレヤの女執事フィベであつた。パウロよりあいさつを受けし第一の者が、天幕製造業者アクラの妻なるプリスカであつた。その他、ツルパナとツルポサ(彼らはたぶん骨肉の姉妹であつたろう。あるいは骨肉もただならざる親しき二人の友であつたかも知れない)……主に愛せらるるペルシス、特にパウロが「わが母なり」と呼びしルポスの母があつた。キリストヘは、初めより婦人を迎え、彼らを高め貴ぶ宗ヘである。男尊女卑の當時にありて、實に著しきことである。そして婦人は初代のヘ会において單に尊ばれたのみでない。彼らは男子に劣らず働いたのである。プリスカはその夫と共に、一時はパウロのためにその首を斷頭臺の上に剣の下にさらしたのである。「われらのために多く努力せしマリヤ」とありて、彼女もまたパウロ一団のために辛勞危険を辭さなかつたのである。

 二十七人、いずれも信仰の戰士であつた。その内に學者もあつたかも知れないが、パウロはその事をしるさない。高位高官の人はなかつたらしく見ゆる。アリストブロの家の者、またナルキソの家の者とありて、二人共に富者であつたらしくあるが、しかし彼ら自身が信者でありしにあらずして、彼らの家の者(從屬または奴隷)の内に信者があつたのであるように見える。キリストヘ会は信者の団体であつて、その内に貴ばるるものは、學問または位ではなくして信仰である。「キリストにありて鍛えられたるアペレ」とある。信仰の試練を經てこれに及第したる者である。英語にいわゆる approved in Christ である。キリストにありてその信仰を試みられて(多くの患難と迫害とをもつて)、善しと認められたる者である。信仰の老兵(ヴェテラン)である。幾度か内外の惡魔と戰つてこれに勝つの秘術を知つた者である。

 「キリストにありて鍛えられたるアペレ」、かかる者がパウロの友人であつて、ローマヘ会の柱石であつた。~學と哲學とギリシャ語とヘブライ語とをもつてするも、鍛えられたる信仰をもつてするにあらざれば、信者の信頼を受くるに足りない。

 ローマヘ会という。ローマヘ会とはある特別なる会堂を持ちたる団体であつたろうか。しからず。「プリスカとアクラの家にあるヘ会にその平安を問え」とありて、天幕製造業者の家がローマヘ会のあつた處、あるいはその一つであつたのである。初代のヘ会が、各地のおもなる信者の家にあつたことは、疑うに餘地がない。使徒行傳十二章十二節、コロサイ書四章十五節、ピレモン書二節等がその事を證明する。かくいいて、余輩はヘ会堂の不必要を唱うるのではない。ただヘ会堂はなくとも信仰があればヘ会はあり得ると信ずるのである。「二人三人、わが名によりて集まる處に、われその内にあらん」とイエスはいいたもうた。余の知る最も善きヘ会は、信者の家にあるヘ会である。われらは信仰によりてわれら各自の家をヘ会となすことができる。なぜこれを起こさないのであるか。

 今よりほとんど十年前に、余はこの事について左のごとくに述べたことがある。
 ローマ帝國の首府にして人口四百萬ありしというローマの市において、キリストヘ会は、一人の天幕製造業者の家にあつたのである。普通の家であつた。高壇ありしにあらず、牧師館ありしにあらず。しかもヘ会はあつたのである。そこにパウロの親友なるプリスカとアクラとは、安息日ごとに兄弟姉妹を招き、キリストにありて鍛えられたるアペレもそこに來たり、ルポスは老いたる母の手を引いていたり、ピロロゴはその妻ユリヤと共に、ネレオはその妹と共に、ツルパナとツルポサの姉妹は共に手を携え、アリストブロのしもべ、しもめと、ナルキソの奴隷とは、何のはばかるところなくして名家の士女と共に一室に集(つど)いし時に、キリストは彼らの内にいまして、プリスカとアクラの家は地上の天國と化したのである。

 すべてのことに偉大なりしパウロは、また友誼(ゆうぎ)において偉大であつた。彼は人の長處を見るの目を持つていた。友にあいさつを述ぶるにあたつて、彼は單に名を呼ばずして、これに加うるに一言、その特長をもつてした。エパネトは、アジヤがキリストにささげし初穂であつた。アンデロニコは、パウロに先だちてキリストを信ぜし者であつた。アペレは、信仰鍛練の戰士であつた。ルポスは、特に主に選ばれし者であつて、彼の母はまたわが母なりというた。ことに男子の場合においては、「キリストにありてわが愛するアンプリアト」と呼びて、女子の場合においては、「愛せらるるペルシス」というがごとき、注意至れり盡くせりである。パウロに 多くの弟子(でし)はあつたろうが、彼が特に誇りしものは、彼に與えられし少數の友人であつた。そして彼は熱愛をもつて彼らを愛した。

 この書簡を書き贈つてのち三年、紀元五十九年の春ごろ、彼は囚人としてローマに着いた。使徒行傳二十八章十五節にいわく、「ローマの兄弟たち、われらのことを聞き、アピオ・ポロおよびトレス・夕べルネ(三館)といえる處に來たりて、われらを迎う。パウロ、これを見て、~に感謝し、その心に力を得たり」とある。この時、彼はこれらの友人に会し、聖き接吻をもつて相互の平安を問うたのであろう。

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