第四十四講 ユダヤ人の不信と人類の救い(二)
九 〜 一〇章

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 ロマ書九章、十章、十一章は一つの連続した思想の發表である。その説くところは、ユダヤ民族、ひいて全人類の救いに關する重大なる問題である。ゆえに讀者はこの點に第一の注意をなさねばならぬ。しかるに九章六節あたりより、パウロの説くところは、いわゆる「豫定」のヘえである。この解しがたき事がここにあるため、人々はこの一問題にのみ全注意を注ぎ、これを思索の中心とし議論の焦點として、そのために、九、十、十一章の趣旨を逸し去るのである。これパウロの意(こころ)を解する道ではない。まずこの三つの章全体を通讀して、その主眼たるところに注目し、その大意を了得することが第一の問題である。そしてしかる後、初めて九章處説の難問題を考察の題目とすべきである。そしてこの三つの章の趣旨は、ユダヤ人の救いはいつ、いかにしておこなわるるかの問題に對する解答である。彼は第九章の四、五節において、ユダヤ民族の特権を幾つも掲げた。かかる特権を~より與えられ來たりし民族が、今やその大なる救いの恩惠より遠ざかつてゐるのは何ゆえであるか。これ單に同胞イスラエルの問題たるのみならず、また共に~の攝理の問題 − ~がいかように世界を統べゆくかの問題である。これが解決せられざる時は、彼はその同胞を餘處(よそ)に異邦世界にのみiケを宣傳するその使徒職を執り得なかつたのである。彼が三年の間アラビヤに過ごせしという沈思祈祷の歳月は、たぶんこのたいせつなる問題の解答を得んことをもそのおもなる内容の一つとしたことであろう。それほどこれはたいせつなる處である。

 彼はまず「うめき」をもつてこのたいせつなる問題を始めた。「われに大いなる憂いある事と、心に絶えざるの痛みある事」を述べた。その憂いと痛みとは、同胞たるイスラエルの救われざる事についてであつた。そして彼は同胞の救われざる理由として三つを擧げる。第一の理由は九章に、第二の理由は十章に、第三の理由は十一章にしるされる。彼らの救われざる第一の理由は、~のみ心によるのであるという事、第二の理由は、彼らの不信仰によるのであるという事、第三の理由は、異邦人が救われんため、かつその結果として全人類が救われんためであるという事である。

 九章は(炎mにいえば九章六 〜 二九節は)、右の第一の理由を述べし處である。その主眼は、救われるも救われぬももっぱら~の意志(みこころ)に基づくというにある。「肉によりて子たる者、これらは~の子たるにあらず、ただ約束によりて子たる者は、その裔(すえ)とせらるるなり」と八節はいう。またエサウとヤコブが母の胎にあつた時、母リベカは「兄は弟に仕えん」とのエホバの聲を聞いた。これ「その子いまだ生まれず、また善意をなさざれど、~の選びたまいし聖旨(みこころ)は變わることなく、おこないによらで召しによるをあらわさんとて」(一〇 〜 十三)であつた。また十五節にいう、「~、モーセにいう、われ、あわれまんと思う者をあわれみ、いつくしまんと思う者をいつくしむと」と。なお十八節にいう、「されば~は、あわれまんと思う者をあわれみ、かたくなにせんと思う者をかたくなにせり」と。實に人の救わるるも滅ぶるも、すべてが~の絶對の意志と絶對の力とに依據するのであるという。まことに大膽なる斷定である。そしてパウロはなおこの事の合理的根據として、二十一節において、「陶人(すえものし)は、同じ土くれをもて、一つの器(うつわ)を貴く一つの器を卑しく造るの権あるにあらずや」というてゐる。

 救わるる者もあらかじめ定まり、救われぬ者もあらかじめ定まつてゐるという。すなわち、いわゆる豫定のヘ義である。かく、人の運命が至上者の心において定まつてゐるものならば、人には何らの責任もないこととなり、努力奮励の必要は全くなく、傳道は無益の業となつてしまうとの疑義が當然起こる。しかり、豫定のヘ義は理論上には幾つもの困難を有す。しかしこれ人生の一つの見方なることは明らかである。すなわち、ある人は自己の事をかく見るのである。見ざるを得ないのである。すなわちこれ實驗上の眞理である。自己の既往を囘顧するとき、いっさいの出來事がわが救いのための設備であつて、~はわれを救わんことをあらかじめ定め置きて、この目的に向かつてわれを進めたのであると考える。わが救いは決してわが努力の處産ではない。幾度も幾度も~を捨てて他に走らんと願いしも、彼はついにわれを離したまわない。すなわちわれは~に捕えられたのである。その理由はわれにはわからない。ただその事實がわが實驗として存するのである。しかる時、パウロの「わが母の胎を出でし時よりわれを選びおき、惠みをもてわれを召したまいし~」(ガラテヤ書一・十五)との確信がおのずから生まれる。豫定のヘ義をわれより離して考うる時は、解しがたき點がある。何ゆえに、~は、ある人を恩惠の中に攝取し、ある人を不信の中に閉じ込むるのか、その理由はわからない。しかし自己の問題として、~とわれとの關係の上の問題として見るとき、これは明々白々たる眞理となるのである。

 パウロは同胞イスラエルについて思う、彼らの今救われざるは~の聖旨によるのである、救われるも救われざるも、すべて~の心より出づ、~は救わんと欲する者を救い、滅ぼさんと欲する者を滅ぼす、これが彼のなしたもうところである、舊約の歴史においても、この事はたびたびしるされてゐる、ゆえにイスラエルの今の不信は悲しむべきではあるが、聖旨であればまたやむを得ないと。かく考えて、彼はその悲歎を慰めるのである。さらば、イスラエルの救われざる事については、彼らには全然責任がないであろうか。いな、彼らの救われざるはまた彼らの責任である。すなわち彼らの不信仰が彼らの滅びをひき起こしつつあるのである。かくパウロは考えて、これを第十章においてしるしたのである。

 さらば、九章と十章とは相いれぬ二つの眞理を説いたものではないか。その間(かん)に明白なる矛盾があるではないか。人の救いと滅びとは全然~の意志に基づくというのは九章、人の意志からの信不信に基づくというのは十章である。甲は、すべてを~の意志に置きて、人の責任を無視するがごとく、乙は、人の意志に重きを置きて、人の責任を問うがごとくである。ここに矛盾があるといえばたしかに矛盾がある、しかしこの矛盾の中に人生の興趣もまたある。いかにしてこの矛盾が調和せらるべきか、すなわち~の意志と人の意志との併存をいかようにして認むべきか、ここに人生のおもしろみが存するのである。

 イスラエルの不信は、~の意志より出でまた人の意志より出づるという。さらばイスラエルは永久に~のしりぞくるところとなるのであるか。いなと、パウロは答える。彼は十一章において説きていう、イスラエルの今の不信は、iケの光の異邦に臨まんためである、彼らがiケをしりぞけしために、今iケは異邦の暗き谷を照らし、そこに異邦人は続々としてキリストに歸(き)しつつある、しかして異邦の人救われしのち、iケの光は再びイスラエルを照らし、「イスラエルの人ことごとく救わるるを得」るに至る、かくして全世界に生命の光ゆきわたり、地上の全民族に救いは臨むのである、ゆえに、今のイスラエルのiケ拒否は、やがて全世界がこれを傳受する豫備であると。これパウロの世界救拯論(せかいきゅうしょうろん)である。實に深妙なる歴史哲學、壯美なる世界の大觀、雄大なる未來の豫言と稱すべきものである。ここに、いっさいの矛盾、疑義が、~の大愛てふ(ちょう)一義の中にうるわしく調和融合せられるのである。

 このパウロの大希望の豫言に接して、われらは現在の世界の状態について大いに慰められるのである。今や世界の壊亂はその極に至つたかと思われる。今や人は善意という簡單なる道コ的差別をさえ認めない時代である。いっさいを自己と自己の快樂のために用いて、これを恥じざるのみか、これを誇りつつあるが現代人の心理である。そのために人類社会の醜陋(しゅうろう)堕落急轉直下の勢いを示してゐるかと思われる。パリ、ベルリン、ニューヨーク等の文明都市の大腐敗は、この事の著しきしるしである。これ實に人の意志より出でたものであつて、同時に~の意志より出でたものである。すなわちこれ明白に~の審判である。しかしながら、~はまた必ずこの暗きを通して新たなる光明の世まで人類を導きたもうであろう。ユダヤ人の不信がついに全世界の救いを起こすとのパウロの豫言にならいて、われらもまた、今の世界壊亂はついに全世界の救いにまで導かるると放言し得るであろう。人は今~の法(おきて)を破りつつあるがごとくであるが、實は~の法は人に破らるるごとき脆弱(ぜいじゃく)なるものではない。~の法は厳として千古に立つてゐる。彼は依然として全世界救拯のその聖計畫を進めつつある。やがて聖圖(せいと)の成る時は必ず來たる。あたかもわれの罪を通して~はわれを光明の境にまで導き來たりたまいしがごとく、全世界の今の罪惡を通して、彼はこれをその聖目的のあるところまで導き行きたもうであろう。その事を思うて、われらにもまた悲歎のうちに大なる慰籍がある。

 以上のごとく九、十、十一章の大意を見ることがはなはだ肝要である。すなわち、われらは主なる着眼點を全人類の救いというところに置かねばならぬ。しかるときは九章の豫定問題のごときもまたおのずから解け去るのである。豫定問題のみを摘出し、これを客觀的眞理として、理論の上においてのみ驗査するゆえ、わからないのである。これをさらに廣き視野においてながめる時は、決して難問題として人を苦しめないのである。すなわち~がいかように世界人類を導きつつあるか、いかにして人類の救いは成るべきか、この大問題を心に置きて、その一部として豫定のヘえを見る時は、このむずかしきヘ義と思わるるものが自然と解けてしまうのである。

 これ九、十、十一章の大觀である。さらばわれらは前に歸つて十章の大意を見よう。これイスラエル不信の第二の理由である。すなわち彼らの不信は彼らの責任であるという主張の提起である。「彼らは~の義を知らず、おのれの義を立てんことを求めて、~の義に從わざるなり」と三節にある。また「すべて信ずる者の義とせられんために、キリストは律法の終わりとなれり」と四節にある。律法のおこないによつてみずからを義とせんとは、キリスト以前のことである。律法のおこないによりて、すなわち自己を義として救わるるとは、舊(ふる)き原理である。キリストが十字架において滅ぼしたる原理である。今はただ信仰だけで義とせられるのである。これが「~の義」である。しかるにキリストを知らざる彼らは、この簡單容易なる義の道を捨てて、かの複雑困難なる義の道に執着してゐる。彼らは舊くして劣れるものを固くいだきて、新しくしてまされるものをしりぞけてゐる。自己の努力奮闘によつて律法の義をおこない、もつて~の前におのれを義とせんとして、信仰によつて與えらるるところの~の義を顧みない。ここにおいてかキリストとその十字架とを受けないのである。見よ、信仰の道のいかに簡單なるかを。「道はなんじに近く、なんじの口にあり、なんじの心にありと。これすなわちわれらが宣(の)ぶるところの信仰の道なり。そはもしなんじ、口にて主イエスをいいあらわし、またなんじ、心にて~の彼を死よりよみがえらししを信ぜば、救わるべし。それ人は心に信じて義とせられ、口にいいあらわして救わるるなり」(一〇・八 〜 一〇)とある。この簡易なる信仰の義を採らずして、かの難渋なるおこないの義によれること、これユダヤ人不信の理由である。かくばかり平易簡明なる恩惠の道をすら採らない。ゆえに不信の責任は彼ら自身が負うべきものである。

 實に信仰の義は簡易である。ただ信仰さえすれば義とせらるるのである。ユダヤ人、ギリシャ人の区別はない。「すべて主の名を呼び求むる者は救わるべし」(一〇・二二)である。ただ父なる~にたよりさえすればよい。おのれの修養、工夫、努力、計畫によつて自己を義とせんとする自立的態度を~は喜びたまわない。ただキリストを心に信じ、これを口に告白するだけで義とせられる。しかるに、哲學と叫び~學と唱え、何か自己の工夫をもつて偉大なる心境を開拓し~聖なる境地におのれを持ち行こうとするゆえ、日に夜に勞して、得るところは勞苦と失望のみである。法然上人の「選択集(せんじゃくしゅう)」は、信仰による救いを證明せし大著である。おこないによる道を難行道(なんぎょうどう)と名づけ、信仰による道を易行道(いぎょうどう)と呼ぶ。難行道は唆瞼(しゅんけん)なる急坂をあえぎあえぎ登るごときものであり、易行道は、舟子(ふなこ)のあやつる船におのれの身をまかするごときものであるとヘう。まことにそのとおりである。ただキリストを信じていっさいをまかせれば、それだけで、救いの船に乘せられて天の國まで連れられて行くのである。人はその生涯においていかに多くの善行を積んだとて救われるのではない。ただ信ずべき者を信じ、よりたのむべき者によりたのみて、かつこの信仰を告白する生涯をつづけて、救われるのである。

 この秘義を知らずして、イスラエルはキリストをしりぞけ、今の文明人もまた同樣にしてキリストをしりぞけてゐる。この簡易なる信仰の道に、人生の不安、歡喜、愉悦、生命および永生のあることを知らずして、人間の努力をもつて、何か良きものを人の心に人の社会に産み出さんとして、狂奔亂撃におちいり、すべて失望をもつて終わるの惨状を呈してゐる。すなわち彼らは昔のユダヤ人と全く同じ心理状態にある。ゆえに、キリストヘ國と稱せらるる國々においても大部分の者はキリストを信ぜず、また異ヘ國においても同樣に、そのごく小部分のみしか彼を信じないのである。今日の文明人はパウロ時代のユダヤ人そのままである。みずから立たんと欲するがゆえに、キリストを信受しないのである。パウロはユダヤ人に悔い改めよと叫んだ。われらも今の文明人に向かつて同樣の叫びを發せざるを得ない。
 

第四十四講 約   説

イスラエルの不信(一〇章)
 
 ユダヤ人は何ゆえに救われざるか。(一)聖書にかなわんがためである(九章六 〜 二九節)。(二)彼らが信ぜざるがゆえである(九章三〇節 〜 一〇章)。(三)彼らの不信によつて異邦人が救われ、ついに全人類が救われんがためである(十一章)。

 第九章は、主として~の選み(豫定)について論ずる。イサクの招かれしも、ヤコブの選まれしも、これによる。~の選みの聖意(みこころ)の動かざらんためである(十一)。~はかくなして不義をおこないたもうにあらず。彼はあわれまんと欲する者をあわれみ、かたくなにせんと欲する者をかたくなにして、彼が~たるの権能を現わしたもうにすぎない。陶工(すえものし)は、同じ土くれをもつて、おのが意(こころ)にまかせ、ある器は貴く、ある器は卑しく作るがごとくに、~もまた聖意のままに、滅びの器とあわれみの器とを備えたまいたればとて、何びとも不義をもつて彼を責むることはできない。彼は豫言者をもつていいたもうた、「イスラエルの子の數は海の砂のごとくなれども、救わるる者はただわずかならん」(イザヤ書一〇・二二)と。しかして事實はそのとおりであつた。イスラエルの人の多數は救われざるべしとの事は、~の聖意であつて、聖書にかなう事であつた。~の聖意である。ゆえに、その内に深き理由がなくてはならない。これを思うて、わが耐えがたき苦痛(いたみ)の幾部分かを癒やすことができるとパウロはいうたのである。

 ユダヤ人の不信の原因は~の聖意にあつた。されども彼らにも大なる責任あつて存す。彼らは、信仰によらず、おこないによつて義を追い求めた。彼らは、おのが義を求めて、~の義を求めなかつた。「見よ、われ、つまずく石またさまたぐる岩をシオンに置かん。すべてこれを信ずる者ははずかしめられず」(イザヤ書八・十四、同二八・十六)とある。これはもちろんキリストをさしていうたのである。しかしてユダヤ人は信ずべき者を信ぜざりしがゆえに、これにつまずいたのである。これに反して、義を追い求めざりし異邦人は計らずも義を得たり。すなわち信仰による義を得たり。しかるに、イスラエルは、律法の義に達せんとして、これにさえ達し得なかつた。彼らは全然義の何たるかを解しなかつた。~のつかわしし者を信ずる、これすなわち~の喜びたもうわざである(ヨハネ傳六・二九)。義人かえつて義を失い、罪人かえつて義にあずかる。~が何よりも喜びたもうものは、碎けたる悔いし心である。イスラエルはこの事を忘れて、かえつて異邦人の先んずるところとなつた(三〇 〜 三三)。

 イスラエルに熱心がある。されども、知惠による熱心がない。彼らは~の義と人の義とを混同してゐる。~の義は信仰である。人の義は行爲(おこない)である。信仰は小兒の信頼である。行爲は大人(おとな)の努力である。前者は容易である。後者は困難である。しかしてイスラエルは易(やす)きを捨て、難(かた)きについて、その目的に達し得ないのである。愚かである。氣の毒である。行爲はいう、われ天に昇つて道を求めん、陰府(よみ)にくだつて義を探らんと。あたかもキリストはいまだくだりたまわず、いまだよみがえりたまわざるがごとくに思いて…されども、天に昇るに及ばず地にくだるに及ばず、「道はなんじに近く、なんじの口にあり、なんじの心にあり」である。道は簡單である。容易である。「なんじ、口にて主イエスをいいあらわし、また心にて~の彼をよみがえらししを信ぜば、救わるべし」。簡單明瞭である。ユダヤ人はこの道を取らずして他の道を取りしがゆえに、すなわら儀式と修養と思索と工夫(くふう)とによりて、信仰によらざりしがゆえに、救いの恩惠を過したのである(六 〜 十一)。

 信仰の道は簡單である。同時にまた普遍的である。これにユダヤ人またはギリシャ人というがごとき区別はない。これに遺傳もなければ系統もない。「すべて主の名を呼び求むる者は救わるべし」である。浄土門の佛ヘにいうところの稱名(しょうみょう)である。もちろん機械的の百萬遍(ひゃくまんべん)ではない。口にいいあらわし心に信ずる意味においての稱名である。アバ父よという小兒の信頼である。しかして~は、その子イエス・キリストにありて、ご自身をすべての人に示し、彼らをして、イエスを信じて救いの恩惠にあずからしめんとなしたもうた。簡單である。明瞭である。高遠である。深遠である。しかしてあまりに簡單なるがゆえに、ユダヤ人にはつまずくもの、ギリシャ人には愚かなるもののごとくに見ゆるのである(十二 〜 十三)。

 救いはiケによる。人はiケを聞き、これを信じて救わる。聞く事と信ずる事である。iケ士の幸bヘここにある。「おだやかなることばを宣べ、また善き事を宣ぶる者の、その足はうるわしきかな」とあるがごとし。傳道はヘ理の講釋でない。社会事業でない。iケの傳達である。「彼、語りたまいたれば、われもまた語る」というのが傳道である。「彼、告げたまいければ、われはそのごとく信ず」というのが信仰である。簡單この上なしである。されども信頼の道はすべての場合において簡單きわまるものである(十四 〜 十五)。

 iケは傳えられた。されどもユダヤ人は聞き從わなかつた。彼らはまた聖書によつて、あらかじめiケの何たるかをヘえられた。ゆえに彼らはいいのがるべきようなし。不信の責任、全然彼らにあり。彼らは救いを逸したればとて~を恨みまつることはできない(十六 〜 二一)。ユダヤ人しかり。今日の米國人また日本人またしかり。彼らは何をなしても信仰だけはなさない。宗ヘ研究、社会事業、平和運動、文化生活 − 彼らは雑行(ぞうぎょう)に忙殺せられて正行(しょうぎょう)につくのいとまがない。米國人はキリストの十字架を仰ぎ見るの秘訣(ひけつ)を忘れ、日本人にこれをなすの謙遜と單純とがない。かくて、兩者共に、ユダヤ人のごとくに、義の律法(理想の實現)を追い求めて、これに追い付かないのである。

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