第四十三講 ユダヤ人の不信と人類の救い(一)
九章一 〜 五節

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 ロマ書研究の初めにあたつて、われらはこの書の主文を三つの本館にたとえた。その中の第一本館は最大のものである。われらは八章までの研究を終えた。すなわち、ともかくもこの第一本館の大樣をながめ終わつたのである。そしてその結構の大と内容の壯美とに驚いたのである。これよりは第二本館に足を踏み入れねばならない。換言すれば、第八章までにおいて個人の救いは論じ盡くされたれば、第九章よりは、イスラエルおよび人類の救いの問題に入るのである。
 
 ロマ書は大著述であるという。たしかにそうである。しかしこれは内容よりいうたので、分量よりいうたのではない。日本文において二萬餘字、これを『聖書の研究』誌上に印刷すれば、その三分の一を滿たすにすぎない。文字に含まるる思想は高大深遠であるが、文字の數よりのみいえば、一小論文たるにすぎない。あるいは多忙の生涯を送つたパウロのことであるから、一日をもつて一氣呵成(いっきかせい)に草(そう)し終わつたかとも思う。當時彼はコリント市に滞在していたのである。第十六章二十二、二十三節に左のごときあいさつが述べてある。
 
 この書を筆(か)けるテルテオ、われ、キリストにおいて、なんじらに安きを問う。われと全会の寓主(あるじ)ガイオ、なんじらに安きを問えり。市の庫司(くらづかさ)エラストまた兄弟クワルト、なんじらに安きを問えり
 
 彼はガイオという相當の身分ある人の家に客となつていた。そしてある日、書記テルテオに口授してこの書簡をしたためしめた。たぶん主人ガイオ、市の庫司(今日の語でいえば、収入役、会計課長等の類か)エラストらは傍聽しつつあつたであろう。パウロは個人の救いを論じて、しだいに高調に達し、ついに八章末尾の大凱歌となつて、ひとまず休憩したであろう。

 休憩ののち、パウロの口授はまた始まつた。書記テルテオも傍聽者も、彼の熱情ますます燃えたつことと思つたであろう。しかるに意外なるかな、彼の樣子は全く一變していた。いいがたき苦悶が彼の心を占めつつあるがごとく見えた。悲痛が彼の表情にみなぎつた。人々はみなその意外に驚いたであろう。その驚きを破るがごとくに、彼はまず次のごとく口授した。
 われはキリストにありて眞實(まこと)を語る。われは僞らず。わが良心は聖靈にありて共に證す、われに大なる憂いあることを。わが心に絶えざる痛みあることを。われは思う、わが兄弟、わが骨肉のためならんには、キリストより離れてアナテマ(のろわれし者、滅亡に定められし者)たるも可なり(一 〜 三改譯)

 彼はまず自己が眞實を語りて虚僞を語らざることを強調する。「キリストにありて」眞實を語るといい、われの「良心」がその事柄の證明者であるといい、しかもその證明は「聖靈にありて」の證明であるという。さらば彼がキリストにありて眞實を語り、そして彼の良心が聖靈にありて證する事柄は何であるか。それは彼に「大なる憂い」があり、また彼の心に「絶えざる痛み」のあるという一事である。この事は、人は認めずとも、また人の中に一人の證明者はなくとも、これわが心の實際の感情であつて、わが良心と聖靈とはたしかにこれを知り、これを證すると彼はいうのである。さらば彼のこの憂い、この痛みは、何のための憂い、何のゆえの痛みぞ。
 
 パウロはその事を明白にはいわない。感情の火、彼のうちに燃えて、彼は直ちに第三節の強き語を發してしまつたのである。この節については種々の見方がある。しかし、その同胞たるイスラエル民族のためには、自分はキリストより離れて滅亡に至るもあえていとわぬとの意味に相違ない。この語によつて直ちに推知さるるのは、彼の憂いと痛みとの意味である。彼は同胞の大部分がキリストを拒斥しつつある不信を歎き、その未來の運命を思うて、痛切なる憂苦を胸にいだいたのである。そしてもし自己が滅亡におちゐることによつて彼らを救いに入れ得べきものならば、彼らのために自己の幸いを全部捨てて、キリストより離れ滅亡におちゐるもまた可なりというのである。
 
 八章を口授しつつある時、パウロの喜びは倍加し倍加しつつ進んだであろう。そしてその末尾の大奏曲に至つては、彼の喜びは彼の胸を張り裂くほどの絶頂に達したであろう。しかしながら、この喜びの後、彼は靜かに思うたであろう。この喜びはキリストを信受せし者についての喜びである。しかるに彼の同胞はいかに。少數者を除きては、みなこの喜びの外にありて、のろわるる者となりつつあるではないか。彼はこれを思うて、急に大なる憂悶を心に感じ、その憂悶のおのれにあることを虚僞ならずとして強調しながら、萬感胸に迫りて、その理由を述ぶる餘裕なく、直ちに三節のごとき犧牲的の愛國的熱情を吐露したのである。律法の破毀者(はきしゃ)とそしられ、國を忘れし者とののしられていた彼に、かくのごとき強烈なる愛國心のあることがここに示されたのである。
 
 冷淡なる批評家はいうであろう、自己の救いについてあれほどの大凱歌をあげたる彼が、たちまち自己の滅亡を可なりとするは何らの矛盾であるかと。淺きかな、この見方!パウロの無私なる愛國心を思うて、彼がかかる自己犧牲の大なる語を發したるに向かつてむしろ敬意を表すべきではないか。彼は、自己および救わるる者について大歡喜を味わうと共に、滅ぶる同胞のために大痛苦を感じて、自己をもつて彼らに代わり得べくば、自己を滅ぼしてなりと彼らを救わんと願つたのである。われらは彼の焼くがごとき愛國の熱情を敬うものである。

 一 〜 三節において右のごとき憂國の強き情を述べたる彼は、四、五節においてまた一轉して、イスラエルの特権を擧ぐるのである。子とせられし事、榮光、盟約、律法を與えられし事、祭儀、約束、みな彼らに屈するところである。これにてイスラエルに六つの特有物がある。しかのみならず、列祖アブラハム、イサク、ヤコブは彼らの先祖である。さらにこれに加うるに、主キリスト・イエスも、その人間的方面においていえば、彼ら民族の一員である。パウロはかくイスラエルの優秀なる點八つを擧げたるのち、最後のキリストについていう、「彼は萬物の上にありて、世々贊美(ほまれ)を得べき~なり、アーメン」と。すなわちキリストを~として、彼はこの贊美をなしたのである。これ注意すべきことである。まことに徹底せるキリスト~性の主張がこれに含まれてゐるのである。

 かくのごとく、~の大なる恩惠を受けつつあるイスラエルが、今の不信のありさまはいかに。あまりに大なる矛盾ではないか。かかる民の不信なればこそ、パウロは痛恨堪えがたくして、彼らの救いとならば自己をアナテマとせんというのである。實に愛國心の絶頂というべきである。ゆえにパウロのこの語はわれらに強く訴えるのである。

 由來、われら日本人は愛國心の強きをもつて鳴る民である。余はここに、はしなくも余らの青年時代を想起する。當時、余らは信仰に入りて大なる喜びを味わいしも、またたちまち自己の愛する兩親、兄弟、乃至(ないし)同人がこの光にいまだ浴せざるを見ては悲痛措(お)くあたわず、愛國の心に燃えて、同胞の救濟、日本國のヘ化のために一生をささげんと決心したものである。われらは自己および共に主にある者の勝利について大いに喜ぶ。そのゆえに大凱歌をあげる。しかしそれだけで歇(や)んではならない。直ちに同胞の大部分が暗中にさまよいつつあるこの迷亂の状態を深く心に置きて、同胞の救いのために粉骨碎身せんとの愛國的熱情を起こさねばならない。自己の救いのみにふけりて同胞の不信を憂えず、また同胞の救いのために熱情を起こさざるは、いまだ信仰淺しといわねばならない。
 
 ルーテル、ミルトン、クロンウェルらを見よ。クリスチャンの中に眞正の愛國者があつた。深き愛國心は、~を知らぬ者のいだき得ぬところである。自國に~の與えたまいし使命あるを見、同胞を~の道に導くためにあらゆる努力をいとわじという。これ最も聖き愛國心である、眞の愛國者はパウロのこの心がなくてはならぬ。今日わが國において愛國心の衰頽(すいたい)著しきは、深き信仰的基礎が人々の愛國心に存しないからである。單なる國自慢、民族的偏狭、愚かなる敵愾心(てきがいしん)、むなしき民族的矜誇(きんこ) − これらのみをいだいて愛國心の處有者と自任せる者のおかしきよ。かかるものはあるも效(かい)なし。またあるもたちまち衰え去る。そして人みな自己中心の利欲的動物となるのである。iケは必ずしも愛國を高調しない。しかしながらiケは人の心をその根底から動かすものなるゆえ、これを受けし者に、眞にして深き愛國愛民の心が生まるるのである。實にiケは人間固有の愛國の情を高め、深め、きよめるものである。
 
 今や日本人の愛國心は著しく衰頽した。日本人ほど愛國心を鼓吹(こすい)せられた國民はない。愛國心は日本國民の宗ヘといわるるほどであつた。しかるに今や愛國心は地を拂つて去つた。人々は今や國を思わず、社会を思わず、世界人類を思わず、ただ自己一身の幸jl得にのみ全於ヘを注ぎおるありさまである。實にわが民族は、わずかの年月の間に、一方の極端より他方の極端にまで走つたのである。しかしこれ、ふしぎのごとくにして、ふしぎではない。國のためにのみ國を愛する愛國心、すなわち他に何らの基礎を有せざる淺き愛國心の運命はみなかくのごときものである。
 
 眞の愛國心とは單なる愛國心ではない。深い、廣い、ある拐~の外に發せし一表現である。~の愛を味わい、その更に励まされて~を愛すと共に人を愛し全人類を愛するに至りし結果として、おのずから湧起(ゆうき)するところの、國と同胞とを愛するの心 − これすなわち眞個の愛國心である。この種の愛國心は決して年と共に變わらない。いな、年を經てますます盛んになるのである。この意味の愛國心を豐かにいだいていたのはイエス・キリストであつた。彼がオリブ山よりエルサレム城を下瞰(かかん)し、その運命を思うて、「ああエルサレムよ、エルサレムよ…」と、萬斛(ばんこく)の熱涙を注ぎ出だしたるを見よ。深き深き人類愛に根ざした愛國心が彼の心を占領していたのである。パウロの愛國心もまたこれであつた。~を愛し人類を愛する基礎に立ちての愛國心であつた。そのイエスの愛國心、またパウロの愛國心、それが、以後すべての眞のキリスト信者に傳わつたのである。

 ゆえに、愛國心の模範的實例は、偉大なるクリスチャンの生涯において求むべきである。英國においては、最も純粹なる愛國心をミルトンの詩に求むべく、ドイツの愛國心はルーテルによつて涵養(かんよう)せられ、イタリア人は今に至るも愛國者の模範としてサボナローラを仰ぎ、米國人の愛國心はピルグリム祖先より發生し來たり、また新興國チェコスロバキヤは、初めて國を興すにあたつて、宗ヘ改革の犧牲者ヨハン・フッスの愛國心に励まさるるところ大であつた。みなこれ深きiケ的信仰をもつて養われたるキリストヘ徒の愛國心に源泉を發してゐるのである。iケを源として湧き立ちし愛國心のみが、永遠に盡きざる、清き、廣き熱情を保ちて、とこしえに國をうるおすのである。

 しかしてキリストの愛國心は、また舊約の偉大なる豫言者に源を發したものである。愛國的思想および情感の最も純粹なる模範を見んと欲せば、今なおこれを舊約の豫言書において見出だし得るのである。ゆえにいう、聖書を除いて眞正の愛國心が起こり得るや、疑問であると。わが國においても、この源泉に至らぬうちは、眞正の愛國心は起こり得ないのである。この國民のために、ここにこの事をいう。

 同胞の不信はパウロを憂えしめ痛ましめた。しかし彼は失望をもつて終わる人ではない。ゆえに、イスラエルの救いがある形をもつてある時ついにおこなわるるを信じた。この事をしるしたのが、九章、十章、十一章である。すなわちこれパウロのイスラエル救拯論(きゅうしょうろん)である。彼はイスラエルの救わるべき時あることを信じて、ここに失望より發して希望に終わるのである。われらも日本民族について思う、今彼らが自己中心におちいりてキリストを拒否してはゐるが、~は必ずある方法をもつてわれらの愛するこの民を救いたもうであろうと。ゆえにわれらは喜びをもつて刈り取る日の必ずいつかあるべきを思いて、今涙をもつて種をまきつつあるのである。國人の無情と輕薄と冷淡とに屈せずして、主の道を説きつつあるのである。日本人の現状はわれらを大いに悲しましむる。しかし、わが民族はかつては優秀なる宗ヘ家と宗ヘ信者とを數多く出した民ではないか。パウロが同胞の優秀點を數えあげしがごとく、われらもまた同胞のそれを數え得る。~はついにわれらの愛するところの日本民族を救いたもうであろう。かく思いて、われらは希望をもつて働く。日本國のみならず、東洋全体に、水の海をおおうがごとく、~を知るの知識が滿つる時をはるかに望み見つつ、今は憂國の情と同胞のための熱心とをもつて日々に働くのである。しかして、イスラエルの救いが人類全体の救いと相かかわりて離れざるごとく、日本民族の救いも全人類の救いとかかわるところ深きものであろう。ゆえに日本人の救いのために働くはまた全世界の救いのために働くことである。われら、iケのため、わが愛する日本國のため、また世界人類のために、日々に働かんかな。しかり、日々に働かんかな。
 

第四十三講 約   説

パウロの愛國心 (ロマ書九章一 〜 五節)
 
 パウロは、ギリシャ、コリントのガイオの家に客となりし間に、テルテオを書記として、この書簡を口授しつつあつた(十六・二二 〜 二三)。彼はたぶん一日にこの書簡を書き終わつたであろう。朝始めて、夜までには終わつたであろう。しかしてたぶん正午少し過ぎごろに八章を書き終わつたであろう。火山が溶岩を噴出するがごとくに、彼の張り裂けんとする靈魂はその大思想を吐露して、これを書記テルテオの筆にとどめた。人はいかにして救わるるか、これが第一に取り扱わるべき問題であつた。しかして説き來たり説き去りて第八章の終わりに至つて、彼は一種の安堵(あんど)を感じたであろう。あたかも旅人がけわしき峠を登りつめて、その頂に通して一息(ひといき)するがごとくであつたろう。彼は後(あと)を振りかえり、來たりし道を下に見て、大聲に勝利の凱歌(がいか)を揚げたのであろう。ここに口述はひとまず中止せられ、口授者と書記と、傍聽の特権にあずかりし主人ガイオとは、共に別室に退きて、昼食の卓についたであろう。

 休憩の後に、口授は再び初まつた。しかして凱歌を揚げし口授者の口より出でしことばは、贊美ではなくして、うめきであつた。うしろを顧みて歌いしパウロは、前を望みてうめいた。自分の救いは確實(たしか)である。救いにいたる道は明白である。されどもわが同胞はいかに。イスラエルはいかに。パウロのうめきは、夕なぎに遠く響く大洋のうなりのごとくであつた。
われはキリストにありて眞實(まこと)を語る。われは僞らず。わが良心は聖靈にありて共に證す、われに大なる憂いあることを。わが心に絶えざる痛みあることを。われは願う、わが兄弟、わが骨肉のためならんには、キリストより離れてアナテマたるも可なり。われはイスラエル人についていう、子とせられし事、榮光、盟約、律法を授けられし事、祭儀、約束、みな彼らに屬す。列祖は彼らの祖なり。キリストもまた肉体によれば彼らより出でたり。彼は萬物の上にありて世々あがめらるべき者なり、アーメン(九・一 〜 五)
 
 ユダヤ人はパウロについていうた、「彼は叛逆者である。イスラエルとその榮光(さかえ)たるモーセの律法を売りし者である」と。「しからず」と、パウロは答えていう、「われはわが國を思い、わが民を思う。彼らが救われんがためには、われ自身はのろわるるも可なり。わが堪えがたき憂慮と苦痛とは、彼らがiケをしりぞけてその恩惠(めぐみ)にあずからざることなり」と。パウロはここにおのが模範をモーセに取つていうたのである。モーセもまたイスラエルの罪のゆるされんことを祈求(ねが)いていうた。
ああこの民の罪は大なり。彼らはおのがために金の~を作れり。されど、ああ、もし聖意(みこころ)にかなわば、彼らの罪をゆるしたまえ。しからずば、願わくばなんじの書きしるしたまえる書(ふみ)の中よりわが名を消し去りたまえ(出エジプト記三二・三二)

と。これ以上の愛國心を考うることはできない。民が救われんがためには、自分は永久に滅びてもよいというのである。たれかいう、クリスチャンに愛國心なしと。最上の愛國心はキリストによつて起こるものである。ルーテル、サボナローラ、クロンウェル、ミルトン、「われにもし百の生命あらば、われはことごとくこれをわが國のために捨てん」といいし米國革命時代の愛國者があつた。八人の男子を生める母が、そのすべてを國にささげて惜しまなかつた南北戰争時代の米國婦人があつた。キリストヘは個人道コに長ずるも國家道コにおいて缺くるところ多しといい來たりしわが國多數のいわゆる「識者」は、歴史も、實際も知らざる者である。
 
 歎ずべき事は、救わるべき者が救われない事である。キリストを生みしイスラエルがキリストの救いにあずからないという事である。悲歎この上なしである。その理由のわかるまではパウロの煩悶はやまなかつた。同じ悲歎が日本人について起こるまいか。日本人は優秀の民でないか。強い宗ヘ心を持てる民でないか。あるいはユダヤ人の一派ではあるまいかとの説が立てらるるほどである。しかしてこの民に、過去六十年にわたり、ずいぶんと善きiケが傳えられた。第十九世紀のキリストヘ宣ヘ歴史において、日本に、少なからざる傳道的勇者が送られた。ヘボン、ブラウン、フルベッキ、監督ウィリアムス、監督ハリス、W・S・クラーク、彼らはいずれも偉人であつた。しかして彼らはその生命を日本人のために捨てて惜しまなかつた。されども日本人は國民として今なおキリストをしりぞけて、彼に從わないのである。佛ヘ徒は何千萬をもつて數えらるるに、キリスト信從は三十萬人に足らないのである。日本人は西洋宣ヘ師より西洋文明を獲(え)て、キリストのiケを獲んと欲しなかつた。またiケを受くる者はあつたが、長く固く信仰を持続する者はいたつて少數である。たいていは信仰を捨ててもとの不信者になるが常である。これを思いて、われらにもまたパウロのごとくに、「大なる憂い、絶えざる痛み」なきを得ない。最後の審判(きばき)の座において、キリストは日本人を訴えていいたまわぬであろうか、「ニネベの人はヨナの説ヘによつて悔い改めた。しかるにこれらの日本人は、ヨナよりも大なる者のヘえを傳えられて、これをかえりみずして肉欲文明にふけつた。彼らが罪に定めらるるは當然なり」(マタイ傳三・四一參照)と。
 
 しかしながらパウロは彼の同胞について失望しなかつた。彼はユダヤ人の最後の救いを信じた。「イスラエルの人ことごとく救わるるを得ん」(十一・二六)とは彼の結論であつた。われらもまた日本人について同一の信仰をいだくであろう。

 ここにキリストは~であるということが明白にヘえてある。「肉体によれば、キリストもまた彼らより出でたり。彼は萬物の上にありて、世々贊美を得べき~なり、アーメン」(五)と。パウロのこのことばにまぎらわしきところは少しもない。文法上ならびに言語學上より見て、その明白なる意味を變えることはできない。ただキリストの~たることを信ずるのはなはだ困難なるより、この一節に關し、古來幾多の解釋または讀み方が現われたのである。改正新約聖書欄外において、「萬物の上にありて」を前句より切り離し、これを別に~を贊美する言葉と見るがごときはその一つである。しかしながら個人の信仰問題を離れて、聖書の文字そのものについて見て、これはキリストを~なりとして示す明白なることばであることは疑うの餘地がないのである。

 しかしてキリストは~である、造物主であるということは、この個處に限らず、聖書の他の個處においても明らかに示さるるところである。ヨハネ傳一章一節がその一つである。「初めに言(ことば)あり。言はすなわち~なり」といいて後、「言、肉体となりて、われらの内に宿れり」としるしてある。ヨハネ傳記者はパウロのこのことばに裏書きしてゐるのである。ピリピ書二章六節には、キリストは「~の實体にてありしかども、みずから~とひとしくあることを捨てがたきことと思わず」としるしてある。~とひとしき者は~であることは明らかである。コロサイ書一章十六節には「萬物、彼(キリスト)によりて造られたり」とあり、同十七節には「萬物、彼によりて保つことを得るなり」と書いてある。キリストは宇宙の造り主であつて、またその支持者であるというのである。またテトス書一章三節においては、キリストを呼ぶに「われらの救い主なる~」なる名稱をもつてしてゐる。同二章十三節においては、信者は「大いなる~すなわちわれらの救い主イエス・キリストの榮えのあらわれんことを待ち望む」者としてしるされてある。その他、かく、はっきりとは示していないが、しかしながらキリストを大能の~として解するにあらざればとうてい解すあたわざる聖書のことばは枚擧するにいとまがない。

 しかしながら單に文字の問題ではない。信仰的實驗の問題である。キリストは~でなければならない。~でなければ罪をゆるすことができない。信者はキリストに罪をゆるされて、彼がまことに「大いなる~すなわちわれらの救い主イエス・キリスト」であることを知るのである。「人の子、地にて罪をゆるすの権あることを知らせんとて」、彼はしばしばふしぎなるわざをおこないたもうた。「子、もしなんじらに自由(罪よりの釋放)を與えなば、なんじらまことに自由を得べし」と彼はいいたもうた。これ~ならではいうあたわざるところである。しかして、かくいいてそのことばのおこなわるるを知つて、われらはまことに彼が「萬物の上にありて、世々贊美を得べき~」なるを知るのである。キリストが~でありたもうがゆえに、われらも世も彼によりて救わるるのである。
 

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