第四十二講 救いの完成(九)
八章三一節以下

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 前講に説きしごとく、八章二十九節において、パウロは、~の主目的はキリストを多くの兄弟の中に嫡子たらせんためにして、キリストの榮化が主、信者の榮化は從であるとの奥義を説いた。次の三十節において、彼はいう、「またあらかじめ定めたるところの者はこれを招き、招きたる者はこれを義とし、義としたる者はこれに榮えを賜えり」と。これ~の、人を救う順序を述べたものである。これを二十九節と合わせて、第一は、あらかじめ知る事、第二は、あらかじめ定むる事、第三は、招く事、第四は、義とする事(キリストの十字架のゆえに罪を消除して義とする事)、第五は、榮えを賜う事すなわち榮化せしむる事である。このうち一より四までは、人の過去現在に關するものであるが、第五は、未來において與えらるるものである。しかしパウロは、未來の榮化があまりに確實であり、かつそれを望みて生くる現在の喜びがあまりに大なるがため、思わず知らず、「榮えを賜えり」と、これを既成の事なるがごとくしるしたのである。
 
 あらかじめ定めるという事は、「豫定のヘ義」と呼ばれて、普通にむずかしいものと思われてゐる。今これについて細説する時を持たぬが、「あらかじめ定むる」の原語プロオリゾー(προοριζω)は、あらかじめ境界を立てる、あらかじめはっきり定めておく等の意を有する語である。すなわち~がある人を救わんとして、前もつて定めておくというのである。これを卑近の例をもつて説明すれば、木曾の山中において「御~木」を得るために、十數年前よりある木を定めおきて、これに境界を立て、他よりは別して保護し、剪定(せんてい)し、修形して、その成育を助け行くがごときものである。これ~が人を救わんために前もつてなしたもうところである。これをヘ義として見て、理論上の困難あるにもかかわらず、クリスチャンの個人的實驗としては値高きものである。

 三十節までしるし來たつて、パウロの歡喜は絶頂に達した。救いの完成、全き勝利、限りなき生命、義の冠、榮光の体を與えらるる事、それは一點の疑いもなき確實の事となつた。今まで與えられしところすら、感謝測りがたきに、さらに義の冠は今や手を伸ばせば届かんと思わるるほどの近くに見える。ああ樂しき勝利の豫感よ、また勝利の實感よ!パウロのこのみなぎりあふるる心より、三十一節以下の大凱歌(だいがいか)はおのずから迸出(ほうしゅつ)したのである。まず初めの二節を見よ。
 
31さらばこれらの事において何をかいわん。もし~、われらを守らば、たれかわれらに敵せんや。
32おのれの子を惜しまずして、われらすべてのためにこれを渡せる者は、などか彼にそえて萬物をもわれらに賜わざらんや
 
「もし~、われらを守らば」は、「~もしわれらの味方たらば」と改譯すべきである。~はその大目的を達成するためにわれらを救うのである。さればよし全世界がわれらに反對して立つとも、この~がすでにわれらの味方たる上は、何の恐るるところがあろうか。たれか~を味方とする者に敵對し得ようか。竿(さお)をひっさげて天に達し得ぬ以上は、~を味方とする者にはとうてい敵するを得ないのである。そして~はそのひとり子なるキリストをさえ惜しまずして、われらすべて(信者全体)のために死に渡せしほどの~である。かかる~のことであれば、萬物をもキリストにあわせて賜わるに相違ない。最も貴きひとり子をさえ惜しまざりし彼は、それ以下の萬物を、少しも惜しむことなくして、彼の子たちに與えるに相違ない。−−かく、パウロは力あることばをもつて力ある希望を述べるのである。
 
 ここに「萬物」とあるは、何をさすであろうか。ある人は、われらの救いに必要なるすべての事實と見(サンデー)、ある人は、キリストにおいて與えらるるすべての恩惠と見(マイヤー)、ある人は、既説せしすべての恩惠と見(ゴーデー)、ある人は、われらにとりて善きすべての事と見(ビート)、またある人は、われらの幸bノ必要なるすべての事と見る(ジョン・ブラウン)。いずれも大同小異である。何々をさすと限定することは困難であるが、すべての恩惠をさしたものなることは明らかである。
 
 ~すでにわれらの味方である、たれかわれらに敵し得ん、~すでにひとり子をわれらに賜う、などが彼と共に萬物を賜わざらんやと述べたるパウロは、なお進んで勝利の確實を高く叫ぶのである。
 
33 ~の選びたる者を訴えん者はたれぞや。義とする~なるか。34 罪を定むる者はたれぞや。死にてまたよみがえり、~の右にありて、われらのためにとりなしたもうキリストなるか。35 キリストの愛よりわれらを離らせんものはたれぞや。患難なるか、あるいは苦惱か、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣なるか
 
 この三つの節は、そのおのおのが一つの質問である。しかし第三の質問たる三十五節の中には七つの質問が含まれてゐる。ゆえに全体で九つの質問があるのである。…たれぞや、…たれぞや、…たれぞやと、パウロはここに挑戰的態度をもつて質問を連發し、なし、なし、なしとの答えを言外に含ませてゐるのである。
 
 八章の初めにおいて、パウロは、「イエス・キリストにある者は罪せらるることなし」というた。そして~の恩惠の數々を擧げ、救いの完成の希望を歌いつつ、三十二節にまで來たつた。ここに至つて再び「罪せらるることなし」といわんは、彼に漲溢(ちょういつ)せる勝利の歡喜が承知しなかつた。よつて筆はおのずから挑戰的に動きて、「…訴えん者はたれぞや」「…罪に定むる者はたれぞや」…と、質問連發に出で、ノー、ノー、ノーとの強き否定を文字の中に含ませたのである。由來パウロをはなはだしく苦しめしは罪の問題であつた。いかにして~の前に義たらんか、いかにして審判において罪を定められざるようなり得べきか、これ彼を最も苦しめし難問題であつた。彼が少壯有爲のパリサイ學徒たりし時においても、これは彼を激しく苦しめた。のちキリストの聖姿を拝して信仰に導き入れられしも、この問題は依然として彼を強く惱ますものであつた。實にパウロを常に~の前に訴うる執拗(しつよう)なる敵があつたのである。いかにしてこの大敵を打ち破るべきか。いかにしてこの大敵の訴えを無效ならしむべきか。これが彼の長き年月の最大關心事であつたのである。ああ誠實眞摯(しんし)なる魂の苦闘よ!~は彼の惱みをあわれみて、ついに信仰と歡喜とをもつて彼を包んだ。彼を苦しむる敵は見事に打ち碎かれた。勝利の聲はおのずから揚がらざるを得ない。自己のおこないにたよりての勝利ではない。自己の意志をふるい起こしてのサタン征服ではない。かかる頼みがたきものをもつてして、いかで人力以上の大敵サタンを倒し得よう。幸いなるかな、~の子キリスト、われに代わりて蛇の頭を打ち碎いた。われ今やキリストに頼めば、勝利の連続と恩惠の雨下あるのみである。今まではサタンに攻められて苦戰に苦戰を重ねた。防禦戰のみじめさをしたたかに味わわせられた。しかしこれからはもう敗走する敵を追う追撃戰である。ゆえに「罪せらるることなし」ではない。「罪に定むるものはたれぞや…」である。逃ぐる敵のうしろより挑戰の矢を放つのである。

 追撃戰の愉快さよ。軍人として戰場に立たんか、苦戰力闘ののち勝ちて追撃戰に移る時ほど愉快なるはないであろう。ダンパーにおけるクロンウェルの蘇國兵追撃、義家の貞任(さだとう)追撃のごとき、いかに愉快なものであつたろうか。しかしながら、この世の戰いはどうでもよい。人生の最大戰争において、サタンとの決死の戰いにおいて、防禦戰の苦しさをしみじみと味わつていた者が、ある時、天より光明臨みて、敵はたちまち敗走し去り、これを後ろより追う戰いに移りし時の快さ、樂しさはいかばかりであろうか。パウロが人生の最大戰争において追撃戰に移りしが、すなわち三十三節以下である。この追撃戰の餘裕と快適とは實に勝ち得て餘りあるという状態である。されば三十七節にいう、「されども、われらをいつくしめる者により、すべてこれらの事に勝ち得て餘りあり」と。

 なお三十三 〜 三十七節について説明を加えておこう。「~の選びたる者を訴えん者はたれぞや。義とする~なるか」と三十三節はいう。たれが~の選んだ者を訴え得ようか。宇宙の絶對者たる~の選んだ者を、たれか~に訴えることができようか。(一國の主権者がゆるした罪人を、たれか訴える力を持ち得るであろうか)。人の中に訴え得る者はない。さらば~が~に訴えるであろうか。しかるにその~は罪人を「義とする~」ではないか。義とする~がいかにして訴え得ようか。ゆるす~がいかにして同時に罰し得ようか。不可能事、インポシブル、とてもあり得ぬ事、笑うべき事、ばからしき事、そんな事のあるべきはずがないのである。
 
 三十四節はいう、「罪を定むる者はたれぞや。死にてまたよみがえり、~の右にありて、われらのためにとりなしたもうキリストなるか」と。今やキリストにある者に向かつて罪を定むる者はどこにあるか。彼に滅亡の宣告を與うる者はたれであるか。それはキリストであるか。ああ不可能の事よ。キリストとは、われらを義とせんために死に、よみがえり、今や~の右に坐して、われらのためにとりなしをなしつつある者ではないか。この者がわれらを罪に定むるというがごときは考うることもできぬことである。そんな不合理な事がどうして起こり得ようか。
 
 パウロの追撃戰はまさにたけなわである。この大なるキリストの愛よりわれらを離らするものは何であろうか。患難であろうか。あらず(患難とは、外より襲い來たる苦しみである)。苦惱(くるしみ)であろうか。あらず(苦惱とは、内より湧きあがる苦しみである)。迫害であろうか。あらず(迫害とは、信仰のために受くるすべての困苦艱難をさす)。飢えであろうか。あらず(迫害の結果たる飢え − 生活の缺乏脅威をいう)。裸であろうか。あらず(迫害のために起こる衣服の缺乏)。危険であろうか。あらず(危険また危難である。コリント後書第十三章にある川の難、盗賊の難、同族の難……の類である)。剣であろうか。あらず(剣とは、殉ヘの死を意味する)。これらのすべての事はとうていわれらをキリストの愛より離らするを得ない。われより彼への愛ならば知らず、彼よりわれへの愛なれば、この愛よりとうていわれを離らし得ないのである。
 
「われら、ひねもす、なんじのために死に渡され、ほふられんとする羊のごとくせらるるなり」(詩篇四四・二二)
 
と、いにしえの詩人は悲痛の叫びをあげた。クリスチャンの實状は實にこれである。患難、苦惱、迫害、飢え、裸、危険、剣の連続である。パウロの時においてもちろんしかり。今においてさえ、何らかの形をもつて、信仰のための苦難は信仰の人を取り圍むのである。これに對して、ある人は忍耐をもつて、かろうじて勝つであろう。あるいは思慮によりて幸いに勝ち得たと安心するであろう。しかしパウロはいう、「われらをいつくしめる者により、すべてこれらの事に勝ち得て餘りあり」(三七)と。

 「われらをいつくしめる者」とは、~をさすかキリストをさすか、議論の存するところである。しかし三十五節に「キリストの愛」とあるを見れば、これをキリストと見る方、正しきごとく思われる(ゴーデー、マイヤー、サンデー、ビートら、優秀なる學者にして、これをキリストと見てゐる人が多い)。そしてキリストによりてこれらの事に勝ち得て餘りあるというのである。かろうじて勝つのではない。ただ勝つのではない。勝ち得て餘りあるのである。勝ちてなお餘力あり、餘裕しゃくしゃくたるありさまである。あたかも大人(おとな)が赤子の手をひねるごとく、らくらくと勝ち得るというのである。いかにして、かくもたやすくすべての患難痛苦に勝ち得るか。それは、自力で戰わないで、キリストの蔭に自己を隠し、彼に代わつて戰つていただくからである。努力奮闘は效ない。ただキリストに隠れよ。彼が代わつて戰うにまかせよ。さらば恐るべき強敵は自然とついえ去るのである。されば信仰の生涯において恐るべきものは一つもない。キリストに隠れさえすれば事はすむのである。ゆえに信仰を隠すなかれ。大膽に告白し、そして厳粛眞摯なる信仰生活に入れよ。しかるとき、迫害は種々の形を取つて來るであろう。しかしながら「われをいつくしめる者」の中におのれを隠しさえすれば、勝ち得て餘りあるのである。
 
 三十三、四節については、なおほかに第二の讀み方がある。邦語改譯聖書(註 − 大正譯)はこれに據(よ)つてゐる。英譯聖書も、欽定譯、改譯ともにこれを採つてゐる。ギリシャ原文は、文字上いずれにも採ることができるので、この二つのうち一つを定むることはやや困難である。しかし近代の學者は多く第二の方を採つてゐる。この第二によれば、左のごとく譯することになる。
 
 ~の選びたまえる者を訴えん者はたれぞや。義とする者は~なり。罪を定むる者はたれぞや。死にし者はキリストなり。しかり、彼はよみがえりし者、~の右にありてとりなしたもう者なり
 
 義とする~ある上はたれかわれらを訴え得ん、われらの罪のために死に、よみがえり、今~の右にありてとりなしつつあるキリストある以上、たれかわれらを罪に定め得んと。これこの兩節の意味となるのである。右のうち、第一を採るも、第二を採るも、言葉の趣意に相違はないが、第一は意味の上に一つの反語(アイロニー)、一種の諧謔(ユーマー)がある點において、第二よりおもしろいのである。

 最後にパウロは三十八、九節において偉大なる確信を發表していうた、「そは、あるいは死、あるいは生、あるいは天使、あるいは執政(つかさ)、あるいは力あるもの、あるいは今あるもの、あるいは後あらんもの、あるいは高き、あるいは深き、また他の被造物(つくられしもの)は、われらをわが主イエス・キリストによれる~の愛より離らすることあたわざるものなるをわれは信ぜり」と。三十一節より始まりし凱歌の結語として實にさかんなる語である。「死」は、肉体の死である。「生」は、生に伴う患難と誘惑である。「執政」は、天使の一階級にて、大天使ともいうべきものであろう。「力あるもの」は、地上における権力者をいうたものであろう。されば、天使、執政、力あるものと並べて、天上天下のあらゆる権能者を意味したのであろう。「今あるもの」は、現在あるすべての事と物、「後あらんもの」は、将來起こるところのすべての事と物をさす。「あるいは高き、あるいは低き」は、天界と地獄とにいかなる~秘、異象(いしょう)、無知の力が存していてもという意であろう。以上の何ものをもつても、われらを~の愛より離らし得ないとパウロは斷言するのである。しかして以上をもつてこの宇宙の事をいい盡くせしゆえ、さらにもし別の宇宙があつてそこに別の存在物があるとても、それらもとうてい~の愛よりわれらを離らし得ないというのである。すなわち「また他の被造物は…」とあるはこれである。
 
 右は、パウロ時代の宇宙觀を知つて讀むとき、そしてさらにこれを現代科學の與うる宇宙觀に照らして讀むとき、興趣の盡きぬものがある。天使の各階級の存在は、當時のユダヤ~學の信條であつた。また天上地上にいかなる~秘怪奇の力が存してゐるかも知れぬとは、當時の普通の考えであつた。しかるに今や分光器による天界の研究や、ラジュームの發見に因せる物質原素の新研究によりて、天にも地にも同一物質のみ存在することを知り、また物質はすべて單一の素より成るものなることが判明して、ここに天上天下すべて一つの力の發源なることがわかつた。されば~の愛よりわれらを離らする恐しき怪奇力はもはやどこにもないことがわかつた。實にパウロのここに述べたるクリスチャンの確信は、今やさらに幾倍かの強さを加えたのである。
 
 パウロはすべての事物を列擧せしのち、「…われらをわが主イエス・キリストの愛より離らすることあたわざるをわれは信ぜり」という。「信ぜり」は、信ぜしめられたりの意である。自分から信じたのではない。實驗上信ぜざるを得ざるに至つたのである。否應(いやおう)なく信ぜねばならぬようになつたのである。餘儀なく信ずるに至つたのである。實驗によつて信ぜしめられたのである。これは「信ぜり」というよりははるかに強い語である。

 パウロのこの雄偉なる聲に接して、ここに一つの問題が起こる。われら自身の罪は、われらをこの~の愛より離らすことはないであろうかと。他のすべての事物はもはやたしかに~の愛よりわれらを離らさない。しかし罪はいかに。わが罪が~の愛より離らすることありとせば、罪人たるわれらは不斷の不安の中に住まねばならない。さらば信仰生活は堪えがたき重荷である。しかしながら、今までの~の愛は、われらの罪もまたわれらをこれより離し得ないことを信ぜしめる。われを豫知し、豫定し、召し、義としたる~は、いかで最後に至つてわれを捨てるであろうか。「なんじらのうちに善きわざを始めし者、これを主イエス・キリストの日までに全うすべしと、われ深く信ず」(ピリピ書一・六)とはパウロの確信であつた。われはしばしば罪を犯した者である。しばしば聖旨にそむいた者である。そして今もしかり、後もしかるかも知れない。弱きわれのこととて、自己について何の保證をもなし得ない。しかしながら~の愛はわれを堅く守りて離れない。われの深き罪といえども、この愛よりわれを遠ざけないのである。
 
 さらば天上天下のあらゆるもの、過去現在末來のすべての事また他の宇宙のすべての事物も、またわれ自身の限りなき罪さえも、われを、キリストによる~の愛より離らし得ないのである。さらば、わが救わるることは今やあまりに確實である。わが救いの完成、わが勝利、われがキリストのごとき榮えを着せらるる事、それは今やあまりに確實なる事である。されば喜べ、人々、感謝せよ、人々、十絃(とおお)の琴に合わせて喜びの凱歌を高らかに歌え!
 
 
第四十二講 約   説

救いの凱歌(八章三一節以下)
 
 人の救わるるはおのれによらず、~による。おのれのためにあらず、~のためである。ゆえに救いは確實である。また安全である。その順序は、豫知、豫定、聖召、爲義、賜榮である。その目的は「その子を多くの兄弟の中に嫡子たらせんがため」である。「萬物は彼より出で、彼に椅(よ)り、彼に歸る」とある。人の救わるるは全然~中心である(二・三六)。
 「されば、これらの事について何をかいわん。~もしわれらの味方ならば、たれかわれらに敵せんや」(三一)。~ご自身が施したまいし救いなれば、何びともこれを奪うことができない。以下、左のごとくに解譯すべし。
 
おのれの子を惜しまずして(アブラハムがその子イサクを惜しまざりしがごとくに)、われらすべて(信者全体)のためにこれを(死に)渡せる者は、などか彼にあわせて萬物(救いに必要なる萬物)をもわれらに賜わざらんや。~の選びたまえる者を訴えん者はたれぞや。義とする者は~なり。罪を定むる者はたれぞや。死にし者はキリストなり。しかり、彼はよみがえりし者、~の右にありてわれらのためにとりなしたもう者なり。キリストの愛よりわれらを離らせん者はたれぞや。患難なるか、憂苦なるか、迫害なるか、飢えなるか、裸なるか、危険なるか、剣なるか。これ「われら、ひねもすなんじのために死に渡され、ほふられんとする羊のごとくせられたり」(詩篇四四・二二)としるされしがごとし。されどもわれらを愛したまいし者によりて、すべてこれらの事に勝ち得て餘りあり。そは、あるいは死、あるいは生、あるいは天使、あるいは執政(つかさ)、あるいは力あるもの、あるいは現在、あるいは未來、あるいは高き、あるいは深き、また他の被造物(つくられしもの)は、われらをわが主イエス・キリストにある~の愛より離らすることあたわざるをわれは信ぜしめらる(三五 〜 三九)。
 
 「キリストにある者は罪せらるることなし」といいて始まりし第八章は、「罪を定むる者はたれぞや」との挑戰的質問をもつて終わつてゐる。パウロが何よりも恐れた事は、最後の~の裁判において罪に定められる事であつた。しかしてこの事なきを保證せられて、彼は凱歌(がいか)を揚げざるを得なかつた。これ彼がここに十數囘にわたり挑戰的質問を連發した理由である。彼はここに長のあいだ彼を苦しめし敵を追いまくりながら、詰問の矢を放ちつつある。あだかも源義家が安部貞任(あべのさだとう)を追うの状である。「鎧(よろい)の袖はほころびにけり」といいて追い掛くれば、「年を經し絲の亂れの苦しさに」といいて逃げ去る。パウロはここに、人の子を~に訴うる者、すなわちサタンを追窮しつつあるのである。

 「執政」は、ギリシャ語のアルカイ、天使の一階級の名である(エペソ書一・二〇)。「力あるもの」というも同じならん。天使と執政と力あるものといいて、天使の三階級をさしていいしならん。あるいは「天にありては天使、大天使、地にありては力あるもの」との意なるやも知れず。天上天下の勢力を總括しての謂(いい)ならん。死の恐怖、生の誘惑。天上の勢力、地上の権威。既知の現在、未知の未來。天空の異象、地下の秘密。その他もし全然別種の世界ありとするも、これまたわれらをわが主イエス・キリストにある~の愛より…。キリストにある~の愛である。漠然たる~の愛でない。明白に指定せられたる~の愛である。義をもつて現われたる愛である。罰すべきを罰せずしてはゆるしたまわざる~の愛である。ゆえに貴き確實(たしか)なる~の愛である。正義によりて現われたる~の愛なるがゆえに、宇宙萬物何ものもこれをこぼつあたわず、またわれらをその愛より離らすることあたわずと、パウロはいうたのである。萬有は正義の上に立つ。萬有はこわれても正義はこわれない。しかして正義の上に立つ救いなれば萬有もこれを翻すことあたわずとパウロはいうのである。「わが主イエス・キリストにある~の愛」、彼を通して現われたる愛、自身罪なき者なるに、われらの罪となりて、われらに代わりて十字架の死を受けたまいし彼の愛、この愛より離らするもの、時間空間にあることなしというのである。
 
 さらば「わが罪はいかに」と問う者もあろう。天上天下、現在未來、われ以外の何ものも、われをキリストに現われたる~の愛より離らすることあたわずというも、われ自身の罪は、わが授かりし救いよりわれを離らするの危険なきか。「あり」と、ある~學者はいう。されども、もししかりとすれば、わが救いは最も不安である。たよりがたきものにしてわが心のごときはない。「心は萬物よりも僞るものにして、はなはだ惡し」(エレミヤ書十七・九)とある。もしわが救いが、わが決心、わが努力、わがたゆまざる注意によるものならば、われはなお危険(あやうき)においてある。天使よりも大天使よりも、死の苦痛と生の誘惑よりも危険なるものはわが心である。これが守られずして、その安全が保證せられずして、われは依然として危険にゐるのである。

 まことに安心はならないといえばいい得る。「なんじら常に恐れおののきて、おのが救いを全うせよ」とパウロはいうた。されども、かくいいてのち直ちに彼はいうてゐる、「そは、~その善き聖旨(みこころ)をおこなわんとて、なんじらのうちに働き、なんじらをして志を立て事をおこなわしむればなり」(ピリピ書二・十二 〜 十三)と。~はわがうちに働きて、わが救いを完成したもう。「なんじらの心の中に善きわざを始めたまいし者は、これを主イエス・キリストの日までに全うすべし」(同一・六)と、パウロは同じピリピ書においていうてゐる。われ求めざるにわれを求めたまいし者、われを知り、定め、召し、義とし、きよめたまいし者が、最後の瀬戸ぎわにおいてわれを見放したもうであろうか。
 
 His mercies in past
 forbid me to think,
 That He will at last allow me to sink,
 過去において現われたる彼の恩惠は、
 余をして思うことを禁ぜしむ
 彼はついにわれをして滅亡の淵に沈めしめたもうとは
 


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