第四十一講 救いの完成(八)
八章二八 〜 三〇節

《目次へ》《前講》《次講》

 
 萬物とクリスチャンと聖靈とは、同一のある一事を待望してうめく。うめきつつ、ある一事を待望する。ある一事とは、救いの完成である。換言すれば、クリスチャンの救いの完成を望みてのうめきは、天然と聖靈とのうめきによつて助けられる。かくてわれらの究極に向かつての歩みは力づけられるのである。さればパウロは次の二十八節において、おのずから左のごとくいうに至つたのである。
 
またすべての事は、~の旨によりて招かれたる~を愛する者のために、ことごとく働きて益をなすをわれらは知れり
 
 これを完全なる譯ということはできない。しかしながら、わが國人が邦譯の聖書を讀み始めしより數十年、すでに若干の聖語はわれらに親しきものとなりて、それを改譯せぬ方がかえつてわれらに力を與うるのである。この節のごときはすなわちかかる聖語の一つである。

 「~の旨によりて招かれたる~を愛する者」とはキリスト信者のことである。パウロは單にキリスト信者といわずして、多くは別の語をもつてこれをいうた。これ彼の特徴の一つである。あるいは「~にいつくしまれ、召しをこうむり、聖徒となれる者」(ロマ書一・七)といい、あるいは「イエス・キリストにある者」(ロマ書一・八)という。その他種々ありて、いずれも意味深き稱呼である。いま二十八節のこの語を原語の順序に從いて譯せば、「~を愛する者、(すなわち)~の旨によりて招かれた者」となるのである。クリスチャンは「~を愛する者」である。けれどもこれは、われらからまず發心して~を愛するに至つたのではない。まず~がその旨によりてわれらを招き、キリストにありてわれらを義とし、われらを~の子とするの恩惠を加えたもうたのである。この愛に感激して~を愛するに至つたのである。すなわち彼のわれらに對する愛が前(さき)であつて、われらの彼に對する愛は後(のち)である。たれもみずから努めて~を信じ~を愛することはできない。~まずわれらを召し、その愛をもつてわれらの不信頑迷なる心の岩を打ち碎くがゆえに、そこより~を愛する生命の水がこんこんとして迸出(ほうしゅつ)するのである。かく~に招かれてかく彼を愛するに至りし者がクリスチャンであると、パウロはここにいうのである。

 かかる者のためには「すべての事が働きて益をなす」という。「すべての事」は、萬事萬物である。世のいわゆる良き事のみではない。惡しき事ももちろん含まれてゐる。そのすべての事(all things)が信者のために働きて益をなすというのである。「を、われらは知れり」と、パウロはこの事を自分の確實なる知識として述べたのである。實に驚くべき大なる確信であるといわねばならない。

 しかしながら、これは必ずしもパウロ一人の確信ではない。今日まであまたのキリスト信者がその生涯の實驗としてこれを知つたのである。確實なる信仰生活を長年つづけたる者は、たれといえども、この事を知るのである。これは實驗上の事實であつて、理論のいかんには全く關係がない。普通人の考えは理論的にはすこぶる合理である。すなわち友はわれを助けるもの、敵はわれを妨ぐるもの、成功はわれを助け失敗はわれを妨ぐるもの、幸運はわれを助け災禍はわれを妨ぐるものと考う。ゆえに、敵と失敗と災禍とは彼らの極度に嫌忌(けんき)するところである。しかしクリスチャンにとつては、友も敵も、成功も失敗も、幸運も災禍も、ことごとくおのれを助くるものである。陰険なる敵の襲撃に会いし時は、たれといえども心持ち惡しきものである。しかし後に至りて見れば、彼もまたわれを助けしもの、~よりわれを助くべくつかわされしもの、彼ありたればこそかえつてわれは助かつたのであると感悟せざるを得ない。また失敗困窮苦難に会しては憂悶やるかたなく、ひとえに孤独無援の身をうらむも、後に至りみれば、これ~の愛のおとずれにして、これありてこそわれの天國への歩みは幸いに続き來たつたのであると思うに至る。また愛する者を失う悲痛のごとき、とうてい筆舌に盡くしがたく、この祈りにして聞かれずばむしろ全宇宙が破壊されよと思うほどの熱烈なる祈りも效なくして、絶望哀苦が離れじとわが心臓に食い入るのである。しかし後に至つて靜かに思えば、この悲痛ありしために現在の信仰の喜びがあり、この哀苦ありしゆえにわが靈は天國につながれて離れないのである。實に~を愛する者にはすべての事動きて益をなす。世のいわゆる惡しき事が來たれば來たるほど、~の恩惠は多く加わるのである。

 以上の説明をもつて二十八節の大意は明らかであるが、さらにこの節を燕ラに調ぶれば、パウロの意味のなおいっそう深きを知るのである。まず「すべての事」が働きて益をなすというが、「すべての事」とは何を意味するのであろうか。原語 panta(パンタ)は「すべて」を意味する。ゆえにその内容として、あらゆる事とあらゆる物とを含み得る語である。從つて前後關係の上からその含む内容を推定するほかないのである。しかしゴーデーの説明のごときは最も當を得たものであると思う。彼はこの語を註解していう、「われらの上に起こり來たるいっさいをさす。ことに今の世の不完全と世人の罪との結果として起こる痛苦のいっさいをさす」と。「すべて」は萬事で、善惡ともに含まるる語であるが、この場合は、世のいわゆる惡しき事の方がおもに筆者の心を占めていたと推定さるるのである。

 このすべての事が「ことごとく働きて益をなす」という。「ことごとく働きて」は誤譯である。「共に働きて」と改譯すべきである(原語 sunergo 英語 work together)。すべての出來事の一つ一つが働きて益をなすのではない。すべての出來事が共同して一つの目的のために働くのである。信者の益のために、すべての事が − ことに世人の災禍苦痛と稱する事が、協同して働くのである。すべての事は、~がわれらの益のために備えたもうたのである。患難も痛苦も災禍も迫害も…‥すべてわが腸(はらわた)をしぼるがごときいっさいの事は、彼がわれの益のために備えたまいし貴き設備である。かくパウロはあえていうのである。かくわれらの實驗はあえて叫ぶのである。

 ~を愛する者のために、すべてが共に働きて「益をなす」という。これはむしろ「善をなす」と譯すべきところである(原語 ειs αγαθον 英語 for good)。ここにおいて、たれの善をさすかが問題となるのである。もちろん信者の善のためにという意味を含んでゐるには相違ない。しかし、はたしてそれだけであろうか。もし信者の善のためとのみいうては、信者を不當の誇りに導くおそれがある。信者は宇宙の主権者ではない。また宇宙の中心ではない。また信者の救いが~と宇宙の全目的ではない。萬物はクリスチャンのものであるが、クリスチャンはキリストのものである(コリント前書三・二二 〜 二四)。ゆえに人間中心ではない。~中心である。されば「善をなす」の句においてわれらは~の善を考えねばならない。~の目的の成就これすなわち善であると考えねばならない。

 この意味において、われらはこの節の最後の句(原文においての)に注意する。原文においては最後の句は、「~の旨によりて招かれたる者には」である。「旨」は目的である。原語においてこれを προθεσιs(プロセシス)という。すなわち~のあらかじめ定めたまいし目的をさす。信者はこの聖目的によりて召されたものである。この聖目的はすなわち善である。すべてがこの~の目的のために働くのである。ただ信者だけの善ではない。~はそのあらかじめ定めたまいし善き目的のためにすべてを働かするのである。これすなわち萬事が善に向かつて働くのである。~の大なる善き目的の中に人の善も含まれてゐる。すべてが~の大なる善のために働く時、それはクリスチャンのためにも善に向かつて働いてゐるのである。

 さらば~のこの善なる目的(プロセシス)の内容いかに。テモテ後書一章九節、ロマ書三章二十四節、エペソ書一章三 〜 十一節等、いずれもこの~の目的の説明であるが、ここでは次の二十九節がこの目的を説明してゐるのである。すなわち「それ~はあらかじめ知りたもうところの者を、その子の形にならわせんと、あらかじめこれを定む。こはその子を多くの兄弟の中に嫡子たらせんがためなり」とある。これ~のあらかじめ定めたる計畫、目的、すなわちプロセシスである。萬事萬物は~のこの大目的に向かつて共に働くのである。~はあらかじめ知るところのある人々を、その子キリストに似る者とせんとして、すなわち完全なる救いに達せしめんとして、あらかじめ定める。その目的は、そのひとり子キリストを、多くの彼に似たる者の中に嫡子たらせんとするにある。すなわち~の主目的はキリストの榮化であつて、信者の榮化ではない。~はキリストを嫡子たらせんことを主とし、その從として信者を救うのである。これが~のプロセシス、世の創始(はじめ)より立てたまいし~の目的である。この~の善なる目的に應じて、信者は召され、義とせられ、きよめられ、そして榮化せしめられるのである。信者の救わるるのは~のこの聖目的のため、またキリストの榮えのためである。徹頭徹尾キリストが主であつて信者は從である。信者は聖國(みくに)においてキリストという王の民たるべく救われるのである。すなわちキリストの榮えのために信者は救われるのである。されば三十節もまたこの意味において讀むべき語である。いわく「またあらかじめ定めたるところの者はこれを如き、招きたる者はこれを義とし、義としたる者はこれに榮えを賜えり」と。

 かくいえば、~は独裁君主のごとく、人はただその器械として利用さるるにすぎぬごとく思われる。しかしながら、宇宙の主宰者にして絶對者たる彼に独裁権がなくしては、宇宙は壊亂におちゐるに至る。そして信者は~の立てたまえるこの大目的のために救わるるがゆえに、その救わるる事が確實なのである。換言すれば、自己のために救われるにあらずして、~のためにまたキリストのために救わるるがゆえに、その救いは確實なのである。もし救いはただ信者を目的とするものであり、そして萬事萬物がそのために協力しつつあるというならば、それは自己の無價値をよく知れるわれらにとつては受けいれがたきことである。よし受けいれ得ても、自己の無價値と罪意深重とを思うごとに、深き不安が必ず襲い來たる。そして自分のごとき者はとうてい救われずとの絶望的結論を下すに至る。これ良心の鋭敏なる者においては當然のことである。しかるに自己の救いは自己のためでなく、~はキリスト王國の民を得んために特に罪人を招きて救うと聞きて、われらの歡喜、安心、感謝はいやますます高まるのである。クリスチャンの眞の安心はここにある。その安心の深くして大なる理由はここにある。おのれの救われし理由を少しもおのれにおいて發見せずして、~の聖なる目的において見る。かくしてわが救いの絶對性を知るのである。

 さらば~は独裁君主として全く自己本位であるか。いな、しからず。おのれを捨つる大犧牲の拐~は彼の特徴である。彼はその唯一のひとり子を賜うほどに世の人を愛し、ひとり子は人を救うためにおのれを十字架につけ、この大なる~とひとり子との犧牲の愛に感激して、人は、~のためまた世のためにおのれを犧牲にせんとする。「われら、~を愛するにあらず、~、われらを愛し、われらの罪のために、その子をつかわして、なだめの供え物とせり。これすなわち愛なり。愛する者よ、かくのごとく、~、われらを愛したまえば、われらもまた互いに相愛すべし」(ヨハネ第一書四・一〇)とあるとおりである。また他の方面より見れば、~はひとり子のため、ひとり子は人のために、その全愛を注ぎ出だすがゆえに、人はこれを受けて、また~のためにその全愛をささげる。~はまたこれを受けて、ひとり子におのれを渡し、ひとり子は人におのれを渡し、人は~におのれを渡す。かくして愛の流れは上より下に及び、下より上に行き、絶えず環(わ)をなして循環(じゅんかん)する。これ愛の環であり、恩惠の循環である。實に天と地とを貫くうるわしき靈的關係というべきである。

 以上のごとく、パウロは救いの眞意味を示されて、いいがたき大安心をその心靈においていだきたるがゆえに、感謝と歡喜は心に充盈(じゅうえい)して、ついに力強く外にはとばしり出づるに至つたのである。これ三十一節以下にしるさるる大勝利の凱歌(がいか)である。
 

第四十一講 約 説

救われし理由(八章二八 〜 三○節)
 
 「またすべての事は、~の旨によりて招かれたる~を愛する者のために、ことごとく働きて益をなすを、われらは知れり」(二八)という。この舊(ふる)い日本譯によるも、パウロのこのことばは實に著しいことばである。信者を稱して「~の旨によりて招かれたる~を愛する者」という。キリスト信者の定義としてはなはだ深いものである。信者は元來みずから進んで~を信じてキリストの弟子となつた者ではない。~に招かれた者である。聖召(みまねき)は~をもつて始まつたのであつて、信者はただこれに應じたまでである。しかして聖召の恩惠にあずかりし結果として、感恩のあまり、~を愛せざるを得ざるに至つた者である。かくて信者の信も愛ももともと自分から出たものでない。~から出たものである。信者は徹頭徹尾~の恩惠の産(さん)である。しかしてかかる者には萬事がことごとく働きて益をなすという。「萬事が」である。善き事のみならず惡しき事も、成功のみならず失敗も、名譽のみならず恥辱も、健康のみならず疾病も、利得のみならず損失も、萬事がことごとく働きて害をなさずして益をなすという。實に驚くべき事柄である。世にそんな事があろうか。そんな人があろうか。「あるとわれらは知る」とパウロはいうのである。パウロの信仰がこの事を彼に示し、彼の實驗がその示しを確かめたのである。
 
 しかしながらパウロのことばは日本譯に現われたる以上に意味深長である。今これを左のごとくに改譯する。
 
 またわれらは知る、~を愛する者にはすべてが善に向かつて共に働く。聖旨(みこころ)に從いて召されたる者には
 
と。信者は~を愛する者である。しかしながら彼が~を愛するは、~まず彼を愛したまいしによる。彼は聖旨に從いて選まれて召されたる者である。パウロは信者の~に對する愛を語る時に、これにまさる~の愛を述べざるを得なかつた。もつてパウロの信仰の性質を窺(うかが)うことができる。「すべて」は何か。萬事のほかに萬物をも含まざるか。または「すべての困難(くるしみ)」の意なるか。すべての恩難、悲痛(かなしみ)、試みをさしていうと、M・スチュアートはいう。「共に働きて」である。舊(ふる)い譯(註 − 明治譯)の「ことごとく働きて」ではない。萬事萬物は相關連し、相共同し、一大機關となりて、信者の益のために働くというのである。あたかも名将が諸軍を指揮して一つの目的に向かつて進むがごとくである。しかしてその目的は「善」である。だれの善か。信者の善か。~の善か。パウロはこれを指名しない。ただ「善に向かつて」、または善を目的(めあて)に働くという。しかしてその善の何たるかは次節において明らかである。信者は~の愛の目的物なれども、彼は萬物の中心ではない。萬事萬物は信者の善を目的に働くといいて、信者を貴く見すぎるの誤りにおちゐる。「萬物はなんじらのものなり」といいしパウロは、さらに付加していうた、「なんじらはキリストのもの、キリストは~のものなり」(コリント前書三・二二 〜 二四)と。キリストヘは人間中心主義でもなければ信者中心主義でもない。~中心主義である。クリスチャンには、萬事萬物は善を目的に働く。必ずしもおのが善のためではない。至上の善たる~の善き聖旨(みこころ)の成就を目的として働く。ゆえに彼は喜ぶ。~の善、萬物の善が彼自身の善であるからである。

 「それ~はあらかじめ知りたまいしところの者を、その子の形にならわせんとて、あらかじめこれを定めたまえり。こは、その子を多くの兄弟の中に嫡子たらせんがためなり」(二九)と。萬物の目的はここにある。その子キリストを、多くの兄弟の中にありて、嫡子たらしめんためである。~がわれらを招きたまいし第一の目的は、われらを救わんがためにあらずして、その子キリストのあがめられんためであつた。人間の社会においても、最も善き家庭は子供本位の家庭である。三位の~の聖家庭においても、その中心は聖子である。「萬物は彼(愛子キリスト)によりて造られたり。かつその造られたるは彼がためなり。彼は萬物より先にあり。萬物は彼によりてたもつことを得るなり」 (コロサイ書一・十六 〜 十七)とある。しかして信者も萬物の一部分であつて、彼が救われしもまたキリストのためである。彼が、その兄弟すなわちその聖き姿にならいし者の中にありて嫡子たらんがためである。國王に國民が必要であるがごとくに、聖國(みくに)に王たるべきキリストにもまた救われたる聖き民が必要である。かくて信者は、自分のために選まれ、招かれ、義とせられ、きよめられ、ついに榮光を着せられるのではない。王キリストの榮光にさらに榮光を加えんためである。~のための救いである。人間のための救いではない。
 
 それゆえに信者の救いは確實なるものである。もしわれらのための救いならば、われらは第一に、これを信ずることができない。第一に、よし救われたりとするも、不安に堪えない。自分さえあきれる者が、~が自分についてあきれたまわずとの理由を發見することができない。しかしながら~ご自身のための救いであると聞いて、われらは安心してこれにあずかることができる。~が、その子の救いの能力(ちから)をあらわさんがために、特別に罪人を選みてその救いにあずからしめたまえりと聞いて、少しもふしぎでない。またわれらごとき者の救われんがために、萬物は外にありて、聖靈は内にありて、うめき歎くと聞いて、われらは驚かない。その聖子の善き臣下を造らんがために、~が萬物をして互いに相働きてわれらい救いを完成(まっとう)したもうと聞いて、少しも怪しまない。自分のために施されたる恩惠は、たよりがたき恩惠である。されども~ご自身のために施されたる恩惠なるがゆえに、これを失うの危険がないのである。クリスチャンの安心の基礎はここにある。彼は、おのが救われし理由を、~の變わらざる聖旨において見るからである。「父よ、しかり、かくのごときは聖旨にかなえるなり」(マタイ傳十一・二六)である。
 
 

《目次へ》《前講》《次講》