第四〇講 救いの完成(七)

八章二二 〜 二七節

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 ロマ書八章のごときはその各節が大思想の壓縮であつて、おのおのの一節が優に一囘の講演の項目たり得るものである。ことに今日研究の個處のごときはその感を強うする處である。しかしながら今日は「三つのうめき」という事だけを主題としてパウロの心を探ることにする。これにて、彼のいうところが全部はわからないまでも、かなりの度合いまではわかるのである。今、左の聖句に注意したい。
 
 22よろずの被造物(つくられしもの)は、今に至るまで、共に歎き(うめき)、共に苦しむことあるをわれらは知る
 23ただこれらのもののみならず、聖靈の初めて結べる實を持てるわれらも、みずから心の中に歎きて(うめきて)、子とならんこと、すなわちわれらの体の救われんことを待つ
 26聖靈もまたわれらの弱きを助く。われらは祈るべきところを知らざれども、聖靈みずから、いいがたき歎きをもて(うめきをもて)、われらのために祈りぬ
 
「歎き」と譯するよりも「うめき」と譯すべきものである。二十二節と二十三節には動詞、二十六節には名詞を用いてあるが、三つとも「うめき」である(英語聖書 groan; groanings)。すなわちここに三つのうめきが説かれてゐるのである。第一は萬物のうめき、第二はクリスチャンのうめき、第三は聖靈のうめきである。「よろずの被造物」のうめきについては、前講にも述べたとおり、實に偉大なる天然觀である。二十二節の「苦しむ」は、産みの苦しみをなす意味である。大なる母たる宇宙萬物は、うめきて、産みの苦しみをなしてゐるというのである。何のための呻吟(しんぎん)痛苦ぞ。いわく、救われて榮化せられた~の子たちを生まんためであり、それと同時に自身もまた救われて復興完成せんためである。われら今この大なる母の胎内にいだかれて、自己の出産を待ちつつ、母の苦悶の聲を耳に受けてゐるのである。かくのごとき心持ちにてパウロはこの言をなしたのであろう。げに雄大なる思想、深奥壯美の天然觀というべきである。天然の奥ふかく分け入りて、そこに痛切なる苦悶の叫びを耳に受け、しかもその苦悶が絶望のそれならで希望のそれなることを認む。その深さよ!そのうるわしさよ!

 しかして近時の自然科學もまた、萬有は自己のために存せずして、ある大なる目的のために存するものであるとのことを認めはじめたのである。萬物は必ずしも自己のためにのみ存せず、おのおの他を助くる意味にて存在し、かつ働く。そして相協力しつつ、ある共通の目的に向かつて進みつつあると。これ近時の改造せられたる自然科學のヘうるところである。ゆえにパウロのここに説くところの萬物完成の希望は、必ずしも一宗ヘ熱心者の夢としてしりぞくべきものではない。近ごろの科學が、それに裏書きこそすれ、決してそれをしりぞけようとはしないのである。われらもしパウロのこの心をもつて天地萬有に對せんか、そのうめきの、「産みの苦しみ」たるを知りて、春待つ人の心のごとく、いいがたき希望の樂しさに心おどるであろう。しかるときは、野に咲く一茎の野花にも、空にひびくひばりの歌にも、希望の色と歌とを強く強く味わい得るであろう。

 第一のうめきは天然萬物のうめきである。第二のうめきは信者のうめきである。これをしるせしが、右に掲げし二十三節である。「聖靈の初めて結べる實(み)を持てるわれら」は、「御靈(みたま)の初の實を持てるわれら」と改譯すべきである。この語がクリスチャンをさすものであることは明らかであるが、それが初代信者をさしたのか、あるいは一般的にすべての信者をさしたのかが問題である。エラスムスを初めとし、オルスハウゼン、マイヤーらの、甲説を採る學者も少なくなく、クリソストムを初めとし、カルビン、トルック、ゴーデーら、乙説を採る學者もまた多いのである。甲説に從う時は、「御靈の初の實」とは、初代ヘ会にくだりし恩惠を、後世のそれと對比してさしたものとなり、乙説に從う時は、信者のこの世にて受くる恩惠を、後に受くべき恩惠と對比してさしたことになる。永久的眞理を説くを主眼とせしパウロの心に訴うる時は、乙説の方、有力なりと思われる。

 このクリスチャンが、心の中にうめきて、子とならんこと、すなわちわれらの体の救われんことを待つというのである。「子とならんこと」とは、天つ御國(みくに)に迎えられて、~の子としての實を備うに至らんことである。今すでに~の子ではあるが、さらに名實共に備われる~の子とならんこと、すなわちキリストに似んことである。そしてこの事をいい直せば、「われらの体の救われんこと」である。体まで救われて、全部救われるのである。われらの苦しみ、われらの歎くことの最大原因は、この弱き肉体の中に靈魂が閉じこめられてゐることである。「それ魂には願うなれど、肉体よわきなり」(マタイ傳二六・四一)である。この体まできよめられずしては救いは完成したのでない。かくパウロも考え、われらも考える。彼には罪の歎きあり、また体の歎きがあつた。ゆえに彼はすでに完全に救われたとは決していわなかつた。「信仰の初めより、さらにわれらの救いは近し」(ロマ書十三・十一)といいて、ひたすらに救いの全く成る日を待ち望んだ。その時、体もまた救われる、すなわち榮光の体を與えられると、彼は確信して疑わなかつた。
 
 この復活体を與えらるることを望みて、うめく。これクリスチャンのうめきである。復活に關しては、科學的にあるいは反對があるかも知れぬ。しかしながら、この不自由なる体に圍まるる人の魂に深きうめき − 歎きのあることは事實である。このうめき、歎きは何を意味するか。これ体もまた救われ、榮化し、もつて身も魂も完全に達せんことを哀求しつつあるところのうめきではないか。げに魂は、永久に朽ちざる幕屋、榮光の体を與えられずば滿足しないのである。ゆえに、われらはキリストの復活を信じ、かつ彼にある者の復活を信ずる。そして、うめきつつ忍耐してその日を待つ。悲歎のうめきではない。産みの苦しみのうめきである。希望におどりながら苦しむところの苦しみである。ゆえに、うめきつつ待つのである。されば二十四、五節にいう、「われらが救いを得るは望みによれり。されど望みを見ば、また望みなし。すでに見るところのものはいかでなおこれを望まんや。もしわれら、いまだ見ざるものを望まば、忍びてこれを待つべし」と。「忍び」とは、迫害の中にありて變わらず、かつ堅く信仰に立つことを意味する(サンディ)。この忍びをもつて、ひとえにその日をうめきつつ待つのである。

 天然のうめきあり、信者のうめきありて、さらに聖靈のうめきがある。これ第三のうめきである。上掲の二十六節はすなわちそれである。聖靈もまたわれらの弱きを助ける。そしてわれらは祈るべきところを知らないが(いかにして何を祈るが其の祈りなるかを知らずして、祈るべからざるを祈つたり、また祈るべきを祈らなかつたりしてゐるが)、聖靈みずから、いいがたきのうめきをもつて、われらのために祈るというのである。何たる深き言葉、何たる大なる思想ぞ。筆舌をもつてこれを説明することはできぬ。ただこの言葉をわれらの現において味わわんのみである。

 そもそも「うめき」とはいかに。うめきとは、いいがたき感情の發露である。文法上、間投詞(interjection)といわるる「アア」「オオ」の類はすなわちうめきである。人の外に發するもののうち最も深きものは雄辨ではない。「うめき」である。死の場合、生の場合、その他、一大事の場合、大感情に打たれし場合、大思想の湧起(ゆうき)せし場合、大希望に心おどる場合、すべてかかる時においては、言語は心の發表をなし得ずして、ただうめきの間投詞のみが役だつのである。すべて言語に移し得ざる場合、すなわち口にいい盡くされぬ場合に「うめき」が出てくるのである。うめきとはかくも深きものである。このうめきを天地萬有が發し、クリスチャンが發し、聖靈もまた發するという。崇高のきわみ、壯大たぐいなしというべきか。

 「聖靈みずから、いいがたきうめきをもて、われらのために祈る」と改譯すべきである。われらは何を祈るべきか知らない。祈りても眞の祈りとならぬことが多い。この足らざるを聖靈が補いたもう。この場合の「祈る」は、原意「とりなす」である。聖靈は、信者の弱きゆえにこれを助け、その祈りの足らざるゆえに、彼のために父にとりなすのである。これ實に信者の心においての深き實驗である。聖靈わが内にありてわれの弱きを助け、われの祈りの足らざるゆえに、われのために父にとりなす。われの罪のために父に謝し、われの救いのために父に乞(こ)い、いいがたきうめきをもつて、父に向かつてわれに代わりて祈る。かかる時の祈りはもちろん「うめき」である。ただのうめきである。しかし數萬言にまさるうめき、無量の思いをこめたるうめきである。この聖靈が、うめきつつ、われらの内にありて祈り、かつとりなす。實に~ご自身がわれを救わんとして常にわれと共にありて働くのである。かく知つて、われら何をもつてか感謝しよう。ただ感謝のうめきのみ。しかり、感謝のうめきのみ!
 
 二十七節にいう、「人の心を察(み)たもう者は聖靈の思いをも知れり。そは(聖靈は)~の心に從いて聖徒のために祈ればなり(とりなせばなり)」と。「人の心を察たもう者」とは、~をさしていう。詩篇七篇九節に「ただしき~は人の心と思いとを探り知りたもう」とある。この~はもちろん「聖靈の思い」をよく知りたもう。信者を助けてその足らざるを補う聖靈の思い、聖靈のうめきの意味は、彼はよく知りたもう。われらのためのそのとりなしはまさしく彼のもとに達するのである。もともと聖靈はただ自身の心のみをもつて聖徒のために祈るのではない。實に「~の心に從いて」聖徒のために祈るのである。すなわち聖靈がうめきて信者のためにとりなすのは全く~の聖意(みこころ)に從つてのことである。されば、その祈り、そのとりなしの限りなき效果をわれらは思わざるを得ないのである。
 
 眞の祈りはただの祈りではない。一種の豫言である。すなわち必ず成就すべき事を前もつて語に表わすことである。「~の心に從いて祈る」という祈りはこの種の祈りである。さらばことさらに祈りて祈願の意を表する必要はないではないかとの反對が起こるであろう。しかしながら眞の祈りは、祈願といいてある事を願い求むることではない。これは實に靈魂の呼吸である。萬感滿ちてそれがおのずと外に表われしだけのものである。いたずらに長き語を連ねて幾つもの事柄を數え立てるのが決して眞の祈りではない。宗ヘ的堕落におちいりいたるパリサイ人は「いつわりて長き祈りをなす」(マタイ傳二三・十四)をもつてその特徴とした。また眞の~を信ぜざる異邦人は重複語(くりかえしごと)をいうて祈つた(同六・七)。これは共に主のきらいたもうところであつた。僞りの信者と偶像信者とは、共にいわゆる熱心なる祈りをなす者である。同一の事を反覆し反覆して、長き時を人の前に祈るものである。これ「ことば多きをもて聞かれんと思」(同六・七)うからである。祈りというものの本質を全く誤解して、祈りとは、人間的熱心をもつて~の心を動かしてわが願いをかなえてもらうものと思うからである。かくのごときはいわゆる「ご祈祷」である。決して祈りではない。眞の祈りは~の心に從いての祈りである。成就すべき事の豫言である。祈りの聞かれたというのは、成就さるべき事を祈つただけのことである。聖靈が人の内にありて、その人に代わりて~のみこころにかないて祈ること、これが眞の祈りである。三つの大なるうめき − それは三つの大なる豫言の聲である。成就するかせぬか不定なる事を希願してうめくのではない。必ず成就すべき大完成の日を、宇宙と信徒と聖靈とが、うめきつつ待望してゐるのである。確信をもつて、あたかも厳冬において誰も後に必ず春の來たるを確信して待つがごとく待つのである。大完成の日、しかり、大完成の日、宇宙の完成、人類の完成、新天地出現の日、その日を、全天然とクリスチャンと聖靈とが、確信をもつて、うめきつつ待望するのである。これ現下の状態である。さかんなるかな、この事!
 
第四〇講 約 説
三つのうめき
 
「よろずの被造物(つくられしもの)は、今に至るまで、共に歎き共に苦しむことあるをわれらは知る」(ロマ書八・二二)とある。「歎く」とは、「うめく」または「うなる」の意である。「苦しむ」とは、「産みの苦しみにある」との意である。宇宙萬物は今やうめきつつ産みの苦しみにおいてあるとのことである。大なる母宇宙は、完全なる宇宙を産出して完全なる救いを施されたる~の子たちを迎えんと、今やうめき苦しみつつあるという。實に雄大なる思想である。虚空(こくう)に渦(うず)を巻いて新宇宙を造らんとしつつある星雲、地獄の釜のごとくに溶岩をもつて沸騰(ふっとう)する噴火口、肉食獣の襲撃に会うて悲鳴を擧げてうめく鹿とやぎ、いずれも宇宙のうめきならざるはない。されども希望なき無益の勞苦ではない。希望に滿つる産みの苦しみである。そこに聖書の天然觀のうるわしきところがある。

 宇宙の歎き、すなわちうめきがある。これに應じて信者のうめきがある。聖靈の初めて結べる實を持てるわれらクリスチャンもまたおのが内に歎きて(うめきて)、子とならん事すなわちわれらの体の救われんことを待つ(二三)。宇宙のうめきに應じて信者のうめきがある。うめきに應ずるうめきである。しかして信者のうめきは体の救われんがためのうめきである。その靈魂はすでに救われた。いまだ救われざるはその体である。しかして体が救われずして靈魂は完全に救われないのである。あだかも妻が救われずして夫は完全に救われないと同然である。ゆえにクリスチャンはその体の救われん事を願い、これを望みてうめくのである。「ああわれ、なやめる人なるかな、この死の体よりわれを救わん者はたれぞや」といいて歎き、「われに死なざる榮光の体を賜う者はたれぞや」といいてうめくのである。しかもこれまた希望なき無益の苦しみでない。宇宙の苦しみと同じく、希望ある産みの苦しみである。~はすでにキリストの体の復活によりて、彼を信ずる者の体の救いを保證したもうたのである。

 さらになお一つのうめきがある。それは聖靈のうめきである。「聖靈もまたわれらの弱きを助く。われらは祈るべきところを知らざれども、聖靈みずから、いいがたきの歎きをもて、われらのために祈る」(二六)とある。「歎き」は、前の場合におけるがごとく「うめき」である。宇宙はうめき、信者はうめき、聖靈もまたうめくという。實に著しき言葉である。

 そもそも、うめきとは何ぞ。うめきは、いい盡くされぬ感情の發表である。「アー」というがごとき、「ウーン」というがごとき、「オー」というがごとき、「アラス」というがごとき、文法にいわゆる間投詞または感歎詞をもつていいあらわさるる事柄である。マタイ傳二十三章にある、キリストが學者とパリサイの人を責めたまいし時に使われし言葉は、この種の言葉であつた。すなわち、うめきであつた。「ああ、わざわいなるかな」と譯せられしは、單に「ウーアイ」という間投詞であつた。「ウーアイ學者とパリサイよ」と彼はいいたもうたのである。「言語に絶したるなんじらよ」というと同じである。しかして人生最も深きものは言葉ではなくしてうめきである。死の苦痛(くるしみ)、産みの歡喜、いずれも言葉以上である。わららは「アー」といい、「オー」と叫びて、われら最深の情をいいあらわすのである。パウロは「そのいい盡くされぬ~の賜物(たまもの)によりて、われ、~に感謝するなり」(コリント後書九・十五)といいて、恩惠も感謝も言葉に絶せりというたのである。まことに沈黙は最大の雄辨であるというが、多くの場合において、うめきまたはうなりは言葉以上の言葉、美文以上の美文である。しかして宇宙はうめき、信者はうめき、聖靈もまたうめくといいて、パウロはここにいい盡くされぬ深き事を述べてゐるのである。

 「聖靈みずから、いいがたきのうめきをもて、われらのために祈る」という。「祈る」は「とりなす」である。深い實驗の言葉である。わが祈祷は低い淺い祈祷である。人は自分で自分の事を知ることができない。ここにおいてか聖靈ご自身が人に代わつて祈りたもうという。しかも信者の外にありてではない。内にありて、彼の靈と共にありて、彼と同体同靈となりて、彼に代わつて祈るという。その場合において、祈祷は言葉でない。うめきである。アーまたはオーの連続である。語るにはあまり深くある。イエスのゲッセマネの園における祈祷はかかる祈祷であつたに相違ない。言葉はあつても短い。血の汗は流るる。「父よ、みこころにまかせたまえ」と。ヘブル書の記者がこのありさまをしるして、「彼、肉体にありし時、悲しみ叫びて涙を流して祈れり」といいしは、まことにそのとおりである。

 熱信なる母の祈祷の伴う子供は安全であるというが、信者には~ご自身すなわち聖靈の祈祷が伴うのである。しかして信者の祈祷の聞かれないことはあるが、聖靈の祈祷の聞かれないことは斷じてない。「人の心を見たもう者は聖靈の意(こころ)を知る。そは~の心に從いて聖徒のために祈ればなり」(二七)とある。眞(まこと)の祈祷は豫言である。これ必ず成就さるべきものである。信者は聖靈によりて、事實となつて現わるべき事を祈求(ねがい)として、あらかじめ~に求むるのである。三つのうめきは三つの大なる豫言である。宇宙と信者と聖靈とは、いいがたきのうめきをもつて、萬物の完成、~の子の出現、天國の建設を豫言しつつあるのである。しかしてこの三大豫言ありてわれら何をか疑わん。よし地は動き海は鳴り山は海原(うなばら)の中に移るとも、われらいかでか恐れん。天地萬物と、わが靈魂と、~ご自身とが、わが信仰の證明者である。ハレルーヤー。
 

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