第三十八講 救いの完成(五)
八章十四 〜 十七節

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 ロマ書研究の困難なるは、われらがパウロの心持に入ることの困難なるに基因する。もし彼のおる立場にわれらも立ち得れば、彼の思想は決して了解しがたくない。しかるに、いつとはなしに自己の舊き立場に歸りて、そこから彼をながむるゆえ、不可解となるのである。されば時々既説せしところを振りかえりつつ前に進むを必要とする。第八章の研究にあたりては、われらは時々七章までの論述を想起し反覆すべきである。
 
 今ここに「罪」という問題について既説せしところを想起したい。普通、個々の惡の實行を罪と考える者が信者にも多い。しかしながら、パウロをしていわしむれば、またキリストヘをしていわしむれば、罪とは、甲の惡事、乙の不コの問題ではない。~を離れてゐる事、これがすなわち罪である。すなわちキリストヘにていう罪とは、道コ的ではなくして宗ヘ的である。人と人の間の善惡の問題ではない。もつぱら~と人との關係の上に成り立つ事である。舊約聖書を讀むとき、われらは常にこの事を忘れてはならない。そこにおいては、罪とは常に~よりの離絶であるがゆえに、罪を犯せし際はいかにして~に立ち歸るかということが問題となるのである。この見方よりする時、レビ記に記載されある各種の祭事のごときはすこぶる有意味となる。何となれば、これらは實に~と人との離隔を除きて二者の關係を復舊せんための企てであるからである。實に~に立ち歸ることが第一の問題である。いわゆる道コ的の善惡問題は第一問題ではない。
 
 電球はそのままにては何らの光を放たない。これを電線につなぎて初めて光を放ち得る。人は電球のごときものである。ひとりありては暗々黒々たるのみである。これすなわち罪であり不信である。ゆえに、~につながりさえすれば、あたかも電球が電線につながりしごとく、即座に光を放ちて周圍を照らすのである。電球は電線を離れていては、いかにひとりで努力し工夫(くふう)しても、光を放ち得ない。人が~を離れての努力、修養、工夫は、いかに積もり重なるとも、零の加重である。われらは自己いっさいの考量、工夫、計策、努力を捨てて、ただ生命の源なる~に歸ればよいのである。これ、悔い改め、復歸である。罪を離れる事である。かくすれば、線につながれし電球のごとく、求めずして光を放ち得るのである。

 日に三たびおのれを省るという。それは普通道コとしては貴いことでもあろう。けれどもキリストヘにおいては無效である。反省といい修養といい自己改善という。これを毎日毎時続けても無效である。あたかも汚れし水の沼より清水を得んとするがごとく無效である。一たびこの迷いを捨てて~に歸(き)するに至れば、これ生命の本源につながつたのであるゆえ、どこからともなく新しき生命と光明とのわれに臨み來たるを感知するのである。~におのれをまかせまつり、キリストを仰ぎてわれの「義」となすが、最上の、最大の、最初の事でなくてはならない。人は自立しては暗黒と死滅あるのみ。ゆえに、今も後も永遠の未來までも~に從いおらずば光を放ち得ない。來世においての完成といい榮化というも、それは決して~を離れて自立する意味においての完成榮化ではない。~はとこしえに光と生命の本源である。ここに造物者たる~の榮えがある。人は永久に~に從いて、この光と生命とにあずかるのである。ここに被造物たる人間の榮えがある。かの、反省、修養、努力をもつて信條となす者のごときは、この簡單なる一事を忘れて、人は自立して光と生命とを發し得べしとの思念にとらわれし人々である。すなわち被造物たる人間の位置を忘れて造物者の位置におのれを高めんとすることである。これ道コの範圍においては善であるかも知れぬが、宗ヘ的にいえば、不孝にして「無謀」の名をもつて稱するほかないのである。悔い改めて~に歸するに至ればすなわち「~の子」となつたのである。「われら、~の子たり」と、ヨハネ第一書にある。「おおよそ~の靈に導かるる者はこれすなわち~の子なり」と、ロマ書八章十四節はいう。さらば~の子となるの道いかに。ヨハネ傳一章十二節にいう、「彼を受け、その名を信ぜし者には、力を賜いて、~の子となせり」と。イエスを受け、彼を~のひとり子として信受せし者には、その信仰に應じて聖靈を賜うて、これを「~の子」となしたもうのである。しかしながら、かくなりし者といえども、一たびキリストとの連結絶ゆる時は~の子でなくなるのである。彼は~のひとり子なるキリストに連なつてゐる限りにおいて~の子たるのである。すなわち人は、~のひとり子にありて、~の子たるのである。ヨハネ傳十五章のぶどうの木のヘえがよく示すごとく、~の子とは、幹なるひとり子の枝たる事である。そして幹に滿つるところの生命の液汁を受け、幹と同体となりて生長する事である。これ~の子たる者の性質である。ロマ書第八章十四節以下を學ぶにあたつて、この事をあらかじめ知つておかねばならない。
 
 キリストヘとは、人類のみな~の子なる事、從つて人類がみな兄弟姉妹である事をヘえる宗ヘであると思つてゐる人がある。その傳道者と稱する人々の中にすら、かく説く人が多い。しかしながら聖書は、生まれながらの人を決して「~の子」とは呼ばない。ただ「人の子」といい、また「アダムの裔(こ)」といい、また「この世の子ら」という。そしてキリストを信じ~に歸屬して~の國に入るに至りし者のみを「~の子」という。すなわち「~の子」とは、人類の全部をささずして、その小部分をさしていう語である。かくいうたとて、人類の小部分のみが~の愛の中に住み、他はことごとく~に憎まれてゐるというのではない。ただ聖書にしるさるる文字の意味を明らかにしたのである。

 少しく前に歸つて第八節を見るに、そこに注意すべき語句がある。「もし~の靈、なんじらに住まば、なんじらは肉におらで靈におらん。おおよそキリストの靈なきものはキリストに屬(つ)かざるものなり」とある。ほかに「聖靈」なる語が、十六節、二十三節、二十六節その他に幾度も用いられてゐる。すなわちここに、~の靈、キリストの靈、聖靈の三つがある。しかしながらこの三つは別々のものなるがごとく、また同一者をさせしがごとくに見える。コリント前書十二章にも「賜物は異なれども靈は同じ。務めは異なれども主は同じ。また働きは異なれども、すべての事をすべての人の中におこなう~は同じ」(コリント前書十二・四 〜 六)とありて、ここに、聖靈、キリスト、~の三者がふしぎに並べられてゐるのである。~は一にあらずして、父、子、聖靈の三つより成るといういわゆる三位一体のヘえがここに示されてゐるのである。ヨハネ傳十四章に「イエスいいけるは、もし人、われを愛せば、わがことばを守らん…‥われら來たりて彼と共に住むべし」とある。これは三位(さんみ)の~が信者に宿ることを意味したものと見るほかに見方はないのである。

 ロマ書八章によつて見るに、人の救わるるは實にこの父なる~とキリストと聖靈との共同事業である。換言すれば、三位一体の~のわざである。なぜ三が一であるのか、一が三であるのか、その理論的説明はできない。これの比論(Analogy)を天然界より取ることはできるであろう。またその他に了得を助くるための多少の説明は供し得よう。しかしながら問題は要するに實驗の上の事實であるということである。これは~の力を味わい、主の導きを知り、聖靈の助けを感じた者の靈魂において實得せらるる眞理である。實に自己の救いがこの三者の共同の上に成り立つを實驗し、そして、三というも、實は一の中の三であることを實感せる者にむかつては、三位一体というヘ義ほど滿足を與うるものはないのである。父は上より、ひとり子は側(そば)より、聖靈は下より働きて、人の救いは成る。すなわち甲は召し、乙は助け、丙はもたげるのである。これが人の救わるる唯一の道である。

 ここに一つの家族ありて、その中の一子が家を去りてあらぬ道を走りしとしてみよう。その時は家中總がかりでこの子を家に取りもどさんとする。父は威厳をもつてする愛、母は慈悲をもつてする愛、兄は同情をもつてする愛によりて、三方面よりの共同働作をもつてその手を救わんとする。かかる三者共同の愛あらんか、頑硬なる不幸兒といえども、ついには悔いて立ち歸らざるを得ない。~は人の弱きを知りたもう。人は、三方面よりの愛の包圍攻撃に会せずしては、容易に~に歸り得ないのである。ここに、~の靈が父のごとく、聖靈が母のごとく、主キリストの靈が兄弟のごとくにして、上より、下より、側より共働して、初めて人を救い得るのである。あたかも人の肉体に病患あらんか、全肉体が總がかりにてこれを癒やさんとて大活動をなすがごとく、一人の迷える子の救いのためには三位の~の全体的活動を要とするのである。かくてこそ、人は~の子とせらるるのである。もつて~の子たるの特権と榮譽と幸bニ恩寵とを知るべきである。そしてこの三つは三つにして一つであるというのが三位一体のヘえである。
 
 三位一体とは、理論の上には容易に理解しがたきことである。しかしながら、この理由をもつてこのたいせつなる眞理を否定せんとするは大なる愚である。すべて眞理というものは − ことに宗ヘ的眞理は − 頭腦でわかつたからとて眞にわかつたのではなく、頭腦でわからぬからとて眞にわからぬのではない。頭腦はただ理論という表面のことを知るだけの作用しか表わさない。靈魂において實得するというのは、これとは大いに異なる事である。靈魂の求むるところは理論ではない。實感である。三位一体というがごときも、理論の説明は充分にできない。頭腦では容易にわからない。しかしながら~の子とせられた者は、實驗の上にこの眞理を味得するのである。

 ~の靈に導かるる者は~の子である(十四)。この靈は、アバ父よと呼ぶ靈である(十五)。聖靈はわれらが~の子たることを證する(十六)。かく、すでに~の子とせらる。さらば子として何か譲り受くる嗣業があるか。十七節にいう、「われらもし子たらばまた後嗣(よつぎ)たらん。すなわち~の後嗣にして、キリストと共に後嗣たる者なり」と。~の子とせられし者はキリストと共に後嗣とせらるという。さらば嗣業として何を賜わるのであるか。答えていう、嗣業は、改造せられたる宇宙萬物であると。~の子は、改造せられたる体を與えられて、改造せられたる全宇宙を嗣業として受けるのである。これが~の子の特権であり榮光である。全宇宙を改造して、これを彼を信ずる者に與えんとするが、~の聖意である。三十二節に「おのれの子を惜しまずして、われらすべてのためにこれを渡せる者は、などかこれにそえて萬物をもわれらに賜わざらんや」とあるを見よ。萬物という。われらは宇宙萬物の下賜を事實において望んでゐるか。われらの希望というのはどれほどの希望であるか。われら人間は實につまらぬものを最大の望みとしてゐるではないか。あたかも小兒が小さき玩具を與えられて滿足し、親がさらによきものを與えんとの心を持つも、これを知らぬがごとく、人類は狭き地上における小地位、小名譽、小資財を得んために営々努力して、~が全宇宙を與えんとして待ちたもうに氣がつかない。小玩具を得て全き滿足を感ずる子を見て、親がそれをあわれむごとく、~は小さきものを得て得意げに滿足する人間をあわれみたもうのである。實に全宇宙を賜わる光榮が人類の前にあることを知らずして、はるかに小なる地上の一得一失に悲喜哀苦することの愚かさよ!
 
 改造されたる宇宙萬物の賦與(ふよ)、これが~の側(がわ)より見たる人の救いである。救いとはこれ以下の事ではない。~の子とせられたのは、すなわちクリスチャンとせられたのは、これを與えられんがためである。罪より救い、死より救い、ついに全宇宙を賜いてそこに限りなき生命を付與する事、これすなわち救いである。~の心は常にこれである。しかるに人はここまでいたらない。クリスチャンと稱する者さえも、多くは、小さき修養、道コ的改善、社会奉仕、淺薄なる愛の實行をもつて滿足せるありさまである。これ實にクリスチャンたることの意味を知らざること、~が人を~の子とせしみ心を知らざることである。われら、はたしてこの大希望をいだきてそのために聖書の研究をしてゐるか。小道コや小改善や社会救濟ぐらいを目的として聖書を研究してゐるか。われら深く省察すべきである。

 「~の後嗣にして、キリストと共に後嗣たる者なり」といいて、パウロの心は右のごとき大希望におどり立つたに相違ない。そしてみずからえがきし天國の榮光にかえつて目くらまんとするごとく感じたに相違ない。光の大なるは、人をして眩惑(げんわく)せしめる。そして夢よりさめしごとくに、クリスチャンのこの世にて受くる苦しみを想起して、彼はいうた、「われら、もし彼と共に苦しみを受けなば、彼と共に榮えをも受くべし」(十七後半)と。この世においてキリストと共に苦しむは、クリスチャンの當然の運命である。今の苦難、後の光榮、これは連続せる一事の前と後とである。またこの苦難はかの榮光の反面であるということもできる。ゆえに、苦しみを訴えて哀聲を放つのではない。榮光の反面としての苦しみを思うのである。そしてこの「苦しみ」たる、クリスチャン特有の苦しみである。この「歎き」たる、クリスチャン特有の歎きである。あまり大なる榮光なるがため、歎きが伴うのである。ゆえに宇宙と共に歎く悲歎(なげき)、~と共に、キリストと共に、聖靈と共に歎く悲歎である。かかる深刻壯大なる歎きが他のいずこにあろうや。いかなる文學者か、この大悲歎を筆にし得べき。深くして大、とうてい筆にも言語にも表わしがたいものである。

 さりながら「われ思うに、今の時の苦しみは、われらにあらわれん榮えにくらぶべきにあらず」と十八節にある。すべてのクリスチャンの苦しみも、後に賜わらんとする榮えに比してはあまりに小であるのである。それほどに、賜わらんとする榮えは大であるのである。ああ、たれかこの榮えに心おどらざるべき。たれかこの榮えの約束に歡喜の膏(あぶら)全心をうるおすを禁じ得べき。大歡喜の歌は口をついて出でざるを得ないのである。

第三十八講 約   説
~の子とその光榮
 
 「おおよそ~の靈に導かるる者は、これすなわち~の子なり」(十四)という。いかにして~の子たるを得んか、これ先決問題である。この事を明らかに示すものはヨハネ傳一章十二節である。いわく「彼を受けその名を信ぜし者には権(ちから)を賜いて、~の子となせり」と。~のひとり子なるイエスを迎え、彼を、すべての人を照らす眞(まこと)の光(九)、すなわち彼が自己について證したまえるその聖言(みことば)のままに信ずる者には、~はその信仰に應じて権能を賜いて、~の子となせりという。すなわち、まず信じ、信仰に應じて権能=~の靈=聖靈を與えられ、しかして~の子となるのである。されども~の子となつてしまつたのではない。~のひとり子に連なりて、彼にありて~の子となつたのである。人は、信仰をもつてイエスと連なる間だけ、~の子であるのである。一朝(いっちょう)その連結が絶たるる時には、再びもとの不信者になるのである。「われは眞のぶとうの木、なんじらはその枝なり。人もしわれにおり、われまた彼におらば、多くの實(み)を結ぶべし。そは、なんじらもしわれを離るる時は何事をもなしあたわざればなり」(ヨハネ傳十五・五)とイエスがいいたまいしがごとくである。子となるとは、子に連なることである。幹の枝となることである。しかして幹に充實する樹液(サップ)を受けて、同体となりて成長することである。人が信仰をもつて~の子イエスと連なる時に、イエスに充實する~の靈は彼に傳わりて、彼もまたイエスがあるがごとくに~の子となるのである。この心をもつてロマ書八章十四節以下を讀みて、その意味は明瞭になる。
 
 ~は三位である。父と子と聖靈である。しかして人の救いは三位(さんみ)の~の共同事業である。その事が明白にこの章において示されてある。信者の靈に三位の~の靈が宿りたもうのである。第十一節に「イエスを死よりよみがえらしし者の靈」とあるは、父なる~の靈をさしていうのである。「キリストの靈」といい、「子たる者の靈」というは、子なる~の靈である。しかして聖靈、聖靈、聖靈と繰り返していうは、聖靈の~をさしていうのである。かくして三位の~の靈が信者の靈に宿りて、その救いをおこないたもうのである。ヨハネ傳十四章二十三節に「イエスいいけるは、もし人、われを愛せば、わがことばを守らん…われら來たりて、彼と共に住むべし」とあるは、この事をいうたのであろう。イエスお一人(われ)ではない。父と子と聖靈と(われら)が信者の靈に永久に宿る(住む)べしとの事である。事は~性の奥義に關し、人の理知をもつて説明することはできない。しかし信者の靈的實驗に照らし合わせて了解することのできない事ではない。~が總がかりとなりて人を救いたもうのである。父は上より、子は側(そば)より、聖靈は下より、信者を助けたもうのである。~は唯一なりといいて、單一の~が救いたもうというよりは、はるかに深い、かつ情(じょう)のこもりたる救いの方法である。(第九節ならびに第十四節において「~の靈」とあるは、三位の~の靈全体とも、あるいは父なる~の靈とも、解することができる。しかし、後者すなわち父なる~の靈と解する方が、全章の意味をさらに明瞭ならしむると思う)。
 第十四節以下三節を左のごとくに解釋して、意味のいっそう明瞭になるを見る。
 
おおよそ父なる~の靈に導かるる者はすなわち~の子なり。なんじらが受けしは、奴隷たる者の靈、すなわち再び恐るる靈にあらず、子なる~の靈を受けて、子とせられて、われらはアバ父よと呼ぶなり。聖靈みずから、われらの靈と共に、われらが~の子たるを證す。
 

 ヨハネ第二書五章八節に「證をなす者は三つなり。すなわち靈と水と血なり。その歸(き)するところは一つなり」とある。靈はもちろん聖靈である。しかして血はもちろん子なる~が流したまえる贖罪(しょくざい)の血である。しかして水を、父なる~が注ぎたもう聖靈と解して、この一節をもつて、以上三節の約説と見ることができる。
 
 子に嗣業なかるべからず。~の子の嗣業は、改造されたる宇宙である。改造されたる靈を宿すに改造されたる体をもつてして、改造されたる宇宙を賜わる。~の子の特権と榮光とはここにある。「おのれの子を惜しまずして、われらすべてのためにこれを渡せる者は、などかこれにそえて萬物をもわれらに賜わざらんや」(三二)とある。~はおのが子に與えんとて萬物すなわち宇宙を造りたもうたのである。
 
 光榮は至大である。されども光榮に苦難(くるしみ)が伴う。キリストと同体になりて、彼の榮辱を分かたざるを得ない。苦難は光榮の影である。レンブラントの絵畫におけるがごとくに、クリスチャンの生涯において、光明の強きだけ、それだけ暗黒は濃くある。ゆえに信者の光榮は苦難を離れて説くことができない。しかり、信者はおのれに臨む光榮の大なるを知るがゆえにかえつて苦難を喜ぶのである。「患難にも喜びをなせり」(五・三)とパウロはいう。「兄弟よ、もしなんじら、さまざまの試み(患難)に会わば、これを喜ぶべきこととすべし」(ヤコブ書十・二)と使徒ヤコブはいうた。「今しばらくさまざまの艱難(なやみ)に会うて憂えざるを得ずといえども、かえつて喜びをなせり」(ペテロ前書一・六)と使徒ペテロはいうた。あえて艱難を訴えて同情を得んとするのではない。艱難を光榮の一面と見て、かえつてこれを誇るのである。クリスチャンはキリストである。キリストに艱難があつた。これに類する艱難が信者にも臨まねばならぬ。しかして信者が感受するところの艱難は、淺い肉体の難難ではない。廣い宇宙的の難難と、深い靈的の艱難である。宇宙はクリスチャンと共に苦しみ、聖靈もまたクリスチャンと共に歎くのである。

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