第三十七講 救いの完成(四)
八章五 〜 十三節

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 ロマ書八章の一節より十三節までを讀みて、たれにも明らかなることは、「肉」なる文字の多いことである。この語は第三節より出はじめて、十三節までに、實に十三囘の多きに達してゐる。パウロは何ゆえに、かく數多くこの語を用いたのであるか。それは、靈の反對は肉なるゆえに、肉について知るはすなわち靈について知るゆえんであるからである。換言すれば、靈の事を明白ならしめんためには肉について知るを要するからである。
 
 なお注意すべきは、ロマ書八章を研究する時の心得である。この章は救いの完成について説いたもので、パウロの信仰の絶頂であり極致である。從つてこれを理解することは容易でない。しかもパウロは今までとちがつて、これに數章を費さずしてわずかに一章を用いたのみであるゆえ、文字はすこぶる壓縮(コンデンス)されており、理解はいっそう困難となるのである。理解に難(かた)きものを人に向かつて解釋し説明せんとするはなおさらに困難である。また解釋を聞いたとて、それだけでわかるものでない。かかる大文字に對しては、聖靈の指導により、信仰の實驗を重ねて味解するよりほかに道はない。すなわち説明や解釋を經ずして、ただパウロの文字そのままが心に味得せられる時を待つほかはない。しかしこの時を招來するために二つの豫備行爲を要する。第一は、このままこの章を暗記しておくことである。これはこの文字をそのまま味わう方法である。第二は、誤解することなきように、誤解しそうな個處について注意をしておくことである。

 本講は、この意味において「肉」なる語を説明し、これについての誤解をただすを目的とする。われらはまず左のごとき語に注意する。
 
  肉のことを思うは死なり(六)
  そは肉のことを思うは~にもとるがゆえなり(七)
  肉におるものは~の心にかなうことあたわず(八)
  もし肉に從い仕えなば、死ぬべし(十三)
 
 人はこの世にありて肉体に包まれて生きてゐる。最も貴しといわるるその靈魂さえも肉体の中に宿つてゐる。肉体を保持するためには、飲食、衣服、住居の必要がある。もし肉のために計ることが惡いというならば、人は一時も生存してゐることができぬ。さらばパウロの右の語は、あたかもわれらに向かつて「自殺せよ」というと同じではあるまいか。もし、しかりとせば、これ人に向かつて不可能をしゐることであるといわねばならない。

 單に右の語のみにとどまらない。聖書中には禁欲主義を奨励せし語と思わるる處が他にもずいぶん多い。まずイエスの語について見るも、山上垂訓中に、「命のために何を食らい何を飲み、また体のために何を着んと思いわずろうなかれ」(マタイ傳六・二五)の語があり、肉の生命を捨つることを勧めしごとく思わるる語としては、「わがためにその命を失う者はこれを得べければなり」(マタイ傳十六・二五)のごときがあり、また独身生活を奨励せしごとく思わるる語として、「天國のためにみずから成れる寺人あり」(マタイ傳十九・十二)のごときものがある。その他、一々擧げがたい。またイエスのヘ訓以外にもこれに類するものかなり多く、そのうちパウロの語たる「なんじらの地にある肢体を殺すべし」(コロサイ書三・五)のごときは明らかに禁欲奨励の語なるがごとく思われやすいために、キリストヘを禁欲主義の宗ヘと考える人々がある。かかる人々は、右のごとき聖語を引用して、自己の處信の裏書きとするのである。
 
 かく、キリストヘを禁欲主義、隠遁主義(いんとんしゅぎ)のヘえと見る人を大別して二極とすることができる。第一種の人は不信者の中にある。彼らはキリストヘを禁欲隠遁のヘえと斷じ、とうてい實行不可能なりとし、ゆえにとうてい信受することあたわずという。彼らはキリストヘをもつて、天然の法則を無視し存在の根本を脅かすものと考うるのである。また一たびこのヘえを信受せし者にして、かく考えてこれを捨て去りし者が多い。彼らはいう、キリストヘは禁欲主義にして、とうてい實行できぬヘえである、ゆえにその信者と稱する者ももちろんこれをおこなつていない、おこなうことができないのである、從つて信者となるは僞善者となることである、おこない得ぬ事を信じてこれをおこなつてゐるような顔をすることである、これ明らかに僞善者である、かかる僞善の生活に堪えずして、われらはこのヘえを捨てて自然人となつた、われらは今自然人となつて自然のままの生活をしてゐる、かの僞善者輩はわれらを卑しめるが、僞善者としておのれを欺き人を欺くよりも自然人たる方がはるかに正直であると。かくいいて彼らはキリストヘを貶(おと)し、もつて自己の立場を擁護してゐる。
 
 キリストヘを禁欲の宗ヘと見る第二種の人は、信者中のある者である。これは昔より今に至るまで、一つの流れをなして歴然として存してゐる。キリストヘの歴史を見れば、時を異にし處を異にして禁欲的傾向の出現するを見る。實にキリストヘを禁欲のヘえと解して禁欲實行にその心身をゆだねた人は古來ずいぶん多いのである。中世紀にこの傾向のいかに著しかつたかは、人の知るところである。砂漠に隠遁して難業苦行に從いし人の多かりしこと、僧院の盛んなりしこと、いずれも著しき事實である。そして多くは痛ましき破船の歴史を好きヘ訓として後世に残せしにもかかわらず、今なお禁欲的生活に從うをもつて聖意(みこころ)をおこなう事となす人が少なくない。現に今日米國においてさえ、シェーカー派なる禁欲主義の一派があり、また舊ヘにおいては僧職は独身者に限るほどである。そして單にキリストヘにおいてのみではない。佛ヘの歴史を見ても、また囘ヘの歴史を見ても、禁欲厭世(えんせい)の色彩は必ず伴つてゐる。個人として禁欲生活に没頭せし者もすこぶる多く、また一つの宗派としてこれを重んぜしものも少なからず現われた。およそ宗ヘという宗ヘにはこの傾向はまぬかれざるものと見える。

 しかしながらキリストヘははたして禁欲隠遁の宗ヘであろうか。パウロがしりぞけしところの「肉」なる語の意味はいかように解すべきであろうか。これ明らかに一つの問題である。まず注意すべきは、キリストヘの根本拐~が決して禁欲厭世にないことである。キリストがしばしば婚姻の例を引きて、自己を花婿にたとえたるは周知の事實である。「花婿の友、その花婿と共におるうちは悲しむことを得んや」(マタイ傳九・十五)といいて、自己を花婿にたとえ、また自己の再臨を花婿の入來(にゅうらい)にたとえた(マタイ傳二五−二六章)。キリストは花婿であつて、信者は花婿の友であり、あるいは花嫁であるというのである(パウロがコリント後書十一章二節において、「われ、なんじらを一人の夫に婚約せり。これなんじらをきよきおとめとしてキリストにささげんとするなり」といいしを見よ)。またイエスはその實際生活において、ヨハネの禁欲生活と對照せられて、「食をたしなみ酒を好む人」といわれたほどであつた。またヨハネの弟子やパリサイの人の斷食するに對して、彼の弟子は斷食しなかつたとある(マタイ傳九・十四)。彼の生活には何ともいいがたき、一種のうるわしき自然さがあつた。それは斷食その他の禁欲的行爲をもつて宗ヘの要諦(ようてい)と考えていたパリサイの輩と著しき對照をなした。イエスのヘ訓と生涯とを見て、キリストヘが禁欲の宗ヘならざることは明らかである。

 キリストヘは禁欲主義の宗ヘでないのみならず、かえつて禁欲主義を排斥する宗ヘである。パウロは、晩年において、キリスト信徒の間に禁欲的傾向の起こつた時、これを誡めていうた、「なんじら、もしキリストと共に死にてこの世の小學を離れしならば、なんぞ世にありて日を送る者のごとく人の誡めとヘえとに從い、さわるなかれ、味わうなかれ、觸るるなかれという律法の下にあるや……」(コロサイ書二・二〇 〜 二一)と。これ禁欲を主とする舊き律法の下にあるを非難せし語である。また彼は結婚を禁ずる一派を異端として排した(テモテ前書四章)。「めとることを禁じ食を斷つことを命ずる」ヘえを「人を惑わす靈と惡鬼のヘえ」となして排し、「それ~の造りしものはみな美(よ)きなり。感謝して受くるときは捨つべきものなし。そは~のことばと祈祷によりてきよくなればなり」とヘえた。さればパウロを禁欲主義の主張者のごとく見るは、彼の片言隻語をとらえて誤讀せし結果である。
 
 キリストヘは禁欲主義のヘえでない。さりとてその正反對なる放縦主義のヘえでもない。キリストヘは主義ではない。生命である。すなわち死せる原理や律法ではない。生ける一つの生命である。生命なるがゆえに、固形した規則や主義法則はない。常に溌剌(はつらつ)として動くものである。いまロマ書八章十三節を見るに、「もし肉に從い仕えなば死ぬべし。もし靈(聖靈)によりて体の働きを殺さば生くべし」とある。生命の動くところ、まことにかくのごとくである。まことに自力をもつて肉を殺すのではない。律法として肉が禁ぜられるのではない。聖靈の力をもつて適當に肉を處分するのである。「体の働きを殺す」とあるも、人としての固有の欲を禁壓してしまうという意味ではない。肉をして人を支配せしめないようにすることである。すなわち肉の支配を脱することである。聖靈の力をもつて肉の支配を脱し、聖靈の指導の下に適宜に欲を處理して行く。これがパウロの意味するところである。「靈(聖靈)によりて」という一句に深い意味がある。この句がなければ、パウロも普通の禁欲的信者と選ぶところがない。この一句にキリストヘの特殊的性質が含まれてゐるのである。
 
 聖靈は、キリストを信じキリストを仰ぎ見る結果として與えらる。この聖靈を與えられて、その指導と力の中におのれをゆだねる時、人は肉に支配されないで、肉は適當に支配される。禁欲という一方の極端に行かず、放縦という他方の極端に走らずして、よろしきにかなうに至るのである。聖靈をもつて肉を支配してゆく道は、第一には、有效的であるという長處がある。自力によらず聖靈の力によるのであるゆえ、自力のごとく失敗に終わるおそれがない。これすなわち有效的なるゆえんである。そして第二の長處は、この道による時は自然にして無理なくまた見苦しからぬという點である。いわゆるよろしきにかないておのずから則(のり)を超(こ)えずである。この二つは明らかにその長處である。

 ゆえにキリストヘはいわゆる「特別にきよき事」(形の上にきよきをおこなうこと)を要求しない。特別に、あるきよい生活 − 普通の人のそれと形を異にしたところの生活 − たとえば独身隠遁等の生活を営む必要は少しもない。普通人の普通生活を送ればよい。ただ信仰をもつてこれを美化することが要求されるのちがいがある。これすなわち聖靈の下にある生活にして、眞のきよきはかえつてこの生活の上に存するのである。かの形の上のきよきを貴ぶ禁欲隠遁のいわゆる修道生活が、人をきよくするあたわずして、かえつて大腐敗を持ち來たせしは、佛ヘ、囘ヘ、そしてキリストヘの歴史にも顯著なる事實である。人はいかなる禁欲的の難業苦行に從うとも、とうていその欲を滅ぼし得べき者ではない。この不自然に訴える者はかえつてさ惨憺たる失敗を招くのである。聖靈を受け聖靈の指導をもつて適宜に肉を處分してゆくよりほかに、人が肉に勝つ道はないのである。
 
 さらば欲はいかがの程度において制限すべきか。答えていう、自己を義とせざる範圍においておこのうべしと。たとえば慈善は、自己のある物を捨てたのであつて、一種の制欲である。この慈善をなして、自己を義としてきよしとし、美(よ)き事をなしたりと誇るようでは誤つてゐる。誇り得ざる程度内にて施すべきである。自己をきよしとせざる程度において、すなわち自然にできる程度において施すべきである。ただし聖靈の指導の下にありておこなわねばならない。ゆえに時に從つて變化があり増減がある。聖靈ゆたかに下らば、施しの度もまたゆたかとなり、聖靈の力を感ずること小なる時は、施しの度もまた小となるのである。

 規則ではない。主義ではない。鞭撻(べんたつ)ではない。聖靈に導かるる生活である。ゆえに、禁欲というも、普通の禁欲ではない。禁酒禁煙というがごときも、われらは主義や律法としてこれに支配されておこなうのでない。靈が滿たされて、心に平安滿悦を味わう自然の結果として、おのずから酒やたばこが不用となつたのである。これがキリスト信者の禁欲(もし禁欲といい得べくば)である。
 
 
第三十七講 約   説
禁欲と靈化
 
 聖書のことばはそのままにて眞理である。これに註節を付するの必要はない。註解を付してかえつてその意味をそこなうのおそれがある。詩人ホィットマンが自分を歌うたことばにいわく、
 私は知る、私の尊厳なるを。しかし私は自分を説明し、また諒解(りようかい)してもらおうと思わない。思うにこの根原の法則は解釋に絶することを。私は在(あ)るがままに在る。それで充分である。だれも私を知つてくれなくも滿足である。そしてみなが、また残らずの人が私を知つてくれても、同樣に滿足である

 このことばは詩人においてよりはむしろ聖書のことばにおいて眞理である。聖書は靈魂の根原の法則について語るものであるから、これは解釋に絶するのである。聖書は在るがままに在る。人が誤解すればとて、自分のためには悲しまない。また強(し)いて自分を説明し、世に諒解してもらおうとは思わない。
 
 「肉のことを思うは死なり。靈のことを思うは生命(いのち)なり、平安なり……肉のことを思うは~にもとる(敵する)事なり‥…肉におる者は~の心にかなう(~を喜ばす)ことあたわず」(ロマ書八・六、七、八)という。これは聖書のことばであつて、そのままが大眞理である。これに説明を加うるの必要はない。これは尊厳にして犯すべからず、~のことばとして信受するまでである。しかして今日諒解することができないならば、これを記憶にとどめて、聖靈の働きによりわが實驗となりて現わるるまで待つべきである。「肉のことを思うは死なり」という。強いことばである。しかしながら明白なる深い眞理である。人生その七分は性欲であり、三分は食欲であるという。すなわちその全部が肉欲であるというのである。しかしてこれに苦悶と恥辱と死と滅亡との伴うは、いわずして明らかである。個人と社会と國家との注意を肉より靈に轉じて、そこに生命と平安とがあるのである。「靈のことを思うは生命なり、平安なり」と。人生の偉大という事はすべて靈界においておこなわるるのである。偉人とは靈の人、大國民とは靈的に偉大なる國民である。富豪はその有する富のゆえに偉大ならず。強國はその領土の廣きがゆえに偉大ならず。大宗ヘと、大思想と、大文學と、大美術とを有するものは、小なりといえども大である。弱しといえども強くある。
 
 聖書のことばは在るがままにて大眞理である。人はこれに説明を加えてヨリ大なる眞理となすことはできない。純金は鍍金(メッキ)するに及ばない。太陽を照らすに足るの燈火はない。されどもわれらは聖書のことばの誤解または濫用を防ぐことができる。この事たる、もちろん聖語(みことば)そのもののためには必要でない。しかしながら聖語に接する人のために必要である。われら、聖語に接して、時に眩惑(げんわく)せらるる危険があり、また焼き盡くさるるのおそれがある。ここにおいてか、聖書註解といわんよりは、むしろ聖書辨證と稱すべきものの必要が起こるのである。~學の一科として辨證學あるはこれがためである。

 「肉のことを思うは死なり」といい、「~にもとる」事なりといい、「肉におる者は~の心にかなうことあたわず」という。もしこのことばを文字どおりに解するならば容易ならぬことになる。すなわち生きていてはならぬということになる。肉のことを思うは罪、その結果は死、~に逆らう事、~に喜ばれざる事であるというならば、信者は肉を殺しこれに死すべく努めねばならぬ。しかして同じ事をヘうるように見える聖書のことばは他にもあまたある。キリストの聖言としては「われ、なんじらに告げん、(肉の)命のために何を食らい何を飲み、また体のために何を着んとて思いわずろう(注意を配る)なかれ……」(マタイ傳六・二五)と。また「もしわれに從わんと欲する者は、おのれを捨て、その十字架を負いてわれに從え。そは、その命を保全(まっとう)せんとする者はこれを失い、わがためにその命を失う者はこれを得べければなり」(同十六・二四 〜 二五)と。またイエスが独身生活を奨励するがごとくに見ゆることばとしては、「それ母の腹より生まれつきなる寺人あり。また人にせられたる寺人あり。また天國のためにみずからなれる寺人あり」(同十九・十二)というがごとき、その他、枚擧するにいとまがない。ことに「なんじらの地にある肢体を殺すべし」(コロサイ書三・五)とのパウロのことばのごときは、最も明白に肉の生命そのものを拒否するがごとくに見える。
 
 さればキリストヘは禁欲主義であるか。またはさらに進んで遁世主義(とんせいしゅぎ)または殺我主義であるか。多くの人はそうであるという。しかして彼らは彼らの主張を證明するにあたつて聖書よりあまたのことばを引用することができる。しかしてかく唱うる人に二種ある。第一種はキリストヘに反對する人であつて、第二種は禁欲主義を實行する人である。第一種の人はいう、キリストヘは明白に禁欲主義である、ゆえにとうていおこのうべからざるものである、天然の法則を無視し、存在の根本をこぼつものである、ゆえに信ずべからず、しりぞくべしと。かくいいてキリストヘを去つた者が多くある。よし公然とかく唱えざるも、キリストヘをかくのごとくに解釋して、その厳格なる要求に堪えずして、これを去つた者は少なくない。

 第二種の人は、キリストヘを禁欲主義なりと解して、そのとおりに實行した人である。かかる人のあつた事、また今ある事について、くわしく述ぶる必要はない。ローマ天主ヘ会において、ヘ職はすべて独身者なる事、キリストヘ会において、早くより禁欲主義の起こりし事、Encratite の一派ありて、結婚と飲酒を厳禁せし事、有名なる聖シメオンありて、砂漠に高き柱を立て、その上に座して、風雨に身をさらしながら、三十年の長き生涯を送りし事、現今もなお、享樂主義の盛んなる米國においてすら、シェーカーの一派ありて、中古時代の禁欲主義の下に共産生活を営む事、これみな周知の事實であつて、ここにこれを反覆(くりかえ)す必要はない。しかしてキリストヘに限らず、宗ヘという宗ヘにすべてこの傾向ある事、佛ヘにおいても囘ヘにおいても、禁欲主義のヘ派のある事、これまた知れわたりたる事實である。
 
 スエーデン國の有名なる探驗家スパン・ヘジンがチベット國において實見せし極端の殺欲的生活、わが國の宗ヘ歴史においては、法然の弟子として武藏の國の住人津戸の三郎爲守の有名なる自害往生(じがいおうじょう)があつた事(法然上人行状畫圖第二十八を見よ)、その他、焼身往生、入水(じゅすい)往生、斷食往生等の例があつた事……禁欲主義はキリストヘに限らない。熱心なる宗ヘ的信仰のあつたところには必ず禁欲主義があつた。

 キリストヘははたして禁欲主義であるか。しからずである。ある方面より見てそう見ゆるなれども、その根本的拐~を究(きわ)めてみて、決してそうでないことがわかる。キリストは常にご自分を花婿にたとえていいたもうた。ヨハネの弟子、彼に來たりて、われらとパリサイの人はしばしば斷食するに、なんじの弟子の斷食せざるは何ゆえぞと問いしに答えて、彼はいいたもうた、「花婿の友、その花婿と共におるうちは悲しむことを得んや」(マタイ傳九・十四以下)と。またいいたもうた、「人の子來たりて、食らうことをし、飲むことをなす」(同十一・十九)と。キリストは花婿であり、信者は花嫁であり、待ち望まるる救いは小羊の結婚であるとヘうるキリストヘが、禁欲主義の宗ヘでありようはずがない。ゆえにパウロが晩年に至り、彼のことばの誤解せられて、彼の弟子の内に禁欲主義の兆候を發見せしや、彼は痛烈にこれを非難攻撃し、彼らのこれに惑わされざるように誡めた。いわく、
 
なんじら、もしキリストと共に死にて、この世の小學を離れしならば、なんぞなお世に生ける者のごとく、人の誡めとヘえとに從いて、「さわるな、味わうな、觸るるな」という規(のり)の下にあるか。これらの誡めは……知惠あるごとく見ゆれど、實は肉欲のほしいままを防ぐなし(コロサイ書二・二〇以下)。
 

彼はまた強剛側に結婚を禁ずるの異端を責めていうた、
 聖靈明らかに、ある人の、後の日に及びて、惑いの靈と惡鬼のヘえとに心を寄せて、信仰より離れんことをいいたもう……彼らは良心を焼き金にて焼かれ、婚姻するを禁じ、食を斷つことを命ず。されども食は~の造りたまえる物にして、信じかつ眞理を知る者の感謝して受くべきものなり。~の造りたまえるものはみな善し。感謝して受くる時は捨つべきものなし。そは~のことばと祈りとによりてきよめらるるなり(テモテ前書四・一以下)
 
 キリストヘは禁欲主義にあらず。もちろんその反對に放縦主義にあらず。しかり、死せる主義にあらず。生ける生命である。肉の生命に代うるに靈の生命をもつてする道である。肉におらず、その支配を受けず、これをして自己の上に王たらしめざるヘえである。しかして肉を殺すに律法の誡めをもつてせず、靈の権能(ちから)をもらつてする。ゆえにいう、「もし靈により体の行爲を滅ぼさば生くべし」(ロマ書八・十三)と。患難苦行してではない。「靈によりて」である。
 
 この道たる、決して曖(あいまい)不徹底なるものではない。最もよく常識にかない、有效的にして永続する道である。常に信仰によりてイエスを仰ぎ見て、その報賞として聖靈を賜わり、その指導に從つて歩む。かくのごとくにして、肉は適宜に支配せられ、一方には禁欲に至らず、他方には放縦に流れない。~は、われらが肉に宿る間は、世のいわゆる「特別にきよき事」を要求したまわない。クリスチャンにもまたうるわしき自然の道がある。われらは人の誡めとヘえとに從い「特別にきよき」を稱して、信仰の奥義に達せりと稱すべきでない。聖靈の働きを信じて滿足すべきである。
 
 しかしてこの道をふみて多くの清き生涯が営まれた。禁欲主義のおこなわるる處は決して清き處でない。ルーテルは結婚を斷行して、歐洲ヘ職階級の道コを數段高めた。最もうるわしき家庭生活は清ヘ徒(ピューリタン)によつて営まれた。新英洲(ニューイングランド)文學は最も健全なる文學である。ホィッチャーの『雪籠り(スノーバウンド)』、ロングフェローのエヴァンジェリン、その他ブライアント、ローエルらの作はみな清ヘ徒の自由にして貞淑なる空氣を呼吸するものである。高貴(ノーブル)にして清潔なる思想と實行とは、「靈によりて体の行爲を滅(ころ)す」ことによりて生まるるものである。
 
 欲の制限の程度いかに。自己を義とせざる範圍においておこのうべし。喜んで正當と思う程度において施すべし。自己に奉ずるにもまたこの法則に從うべし。ただし靈の量に増減あるを忘るべからず。~はその子の祈頑に應じて靈を賜う。多く求むる者に多く賜い、少なく求むる者に少なく賜う。「~はこれに靈(みたま)を賜いて限りなければなり」(ヨハネ傳三・三四)とある。しかして欲の制限の程度は、賜わる靈の多寡によつて異なる。今日喜んで一圓を獻じ得る者は、明日は同樣に十圓を獻じ得るに至る。喫煙、飲酒、觀劇のごとき、これを罪責と稱することはできない。しかしながら、もし豐かにキリストの靈の宿るところとならんか、みずから努むることなくして、その趣味を絶つに至る。ペテロいわく「ますますわれらの主なるイエス・キリストの恩寵(めぐみ)に進め」(ペテロ後書三・十八)と。しかして恩寵に進めば進むほど肉の欲は少なくなる。これがほんとうの減欲法である。何事をなすにも聖靈の指導に從う。聖靈を離れて律法と規則と鞭撻(べんたつ)の下におこないて、行爲(おこない)に無理が生じて、~をも人をも喜ばすことができない。使徒たちいわく「聖靈とわれらとは左の事をよしとせり」(使徒行傳十五・二八)と。道はここにありである。
 
付言 肉とは何ぞや
 
 肉といい、体といい、肢体といい、同じ事をいうのである。その肉というは何であるか。その事を知るは、聖書研究上最も肝要である。道コ的に見たる肉とは肉欲であるとは何びとも思うところである。食欲、性欲、その他すべて生きんと欲する欲、それが肉欲すなわち肉であるとは何びとも氣の付くところである。しかしてこの見方たる、大体において誤りなきは、いわずして明らかである。
 
 しかしながら肉欲すなわち肉なりといいて、肉を罪と同視することはできない。食う事、生む事は決して罪ではない。生命は~より出でしものであつて、これを維持しまた継続することが罪であるはずはない。ゆえに「肉のことを思うは死なり。~にもとる事なり……肉におる者は~にかなうことあたわず」(ロマ書八・六 〜 八)といい、「体の働きを殺さば生くべし」(同八・十三)といい、「なんじらの地にある肢体を殺すべし」(コロサイ書三・五)といいて、肉と共に肉欲を殺すべしということでないことは明らかである。そは、もしそうであるならば、~が萬物を造り、これを人に賜いて、「生めよ、ふえよ、地に滿てよ……全地のおもてにあるすべての草とすべての木とはなんじらに與う。これなんじらの糧(かて)たるべし」との~のことばが無效に歸(き)するからである。生命が惡事でありようはずがない。肉の生命もまたしかりである。「~、その造りたまえるすべての物を見たまいけるに、はなはだ善かりき」とある。しかり、「善かりき」である。惡しくありようはずがない(創世記一・二八以下參照)。

 さらば、~にもとるもの、殺すべきもの、肉と稱し退治すべきものは何であるか。それは肉そのものではなくして、肉が靈化せしもの、肉の主たるべき靈がその奴隷となりしもの、それがすなわち肉である。憎むべき殺すべきものは、この意味においての肉である。肉化せる靈、あるいは肉的の靈、それが肉である。ゆえに、肉と稱して、解剖學上または生理學上の肉ではない。道コ上または拐~上の肉である。~にそむきたる靈が、節制なき肉の欲として現わるるがゆえに、これを短縮(つづめ)て肉と稱するのである。「肉」は靈である。その事を忘れてはならない。
 
その事を最も善く證明するものは、ガラテヤ書五章十九、二十、二一節である。いわく、
 
それ肉のおこないはあらわなり。すなわち不品行、汚れ、好色、偶像禮拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、黨派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴樂など
 
と。以上はいずれも誤れる靈が肉にあらわるる行爲であつて、肉そのものの行爲ではない。ことにそねみ、黨派心、分裂、分派、ねたみ等に至つては純然たる靈的行爲である。しかしてこれ~にもとるもの、滅ぼすべきもの、殺すべきものであるは、いわずして明らかである。また同じ事を證明する聖語として、コロサイ書三章五節があるり いわく、
 
 このゆえに、なんじらの地にある肢体すなわち不品行、汚れ、情欲、惡欲および貪欲を殺すべし。貪欲はすなわち偶像禮拝なりと。この場合において、殺すべきものは肢体すなわち肉体ではない。不品行、情欲、貪欲等の意念である。正當なる肉の要求ではなくして、不正なる肉欲の濫用である。ヘブル書十三章四節は、この事に關する善き註解である。
 
 ここにおいてか肉の何たるかは明らかである。肉は食う事ではない。結婚する事ではない。肉の生命を維持し、その正當の發達を計る事ではない。いわゆる「肉」は、自己を中心として萬事萬物を私用せんとする事である。ゆえに、憎む事、ねたむ事、盗む事、へつらう事、他人の名譽をそこなう事、これみな肉である。この意味において、罪はすべて肉である。多くの場合において、肉とは何の關係もなきように見ゆる罪もまた明白なる肉である。

 肉といえば、普通に食欲性欲に限られてゐるように思われてゐる。宴樂、泥酔、不品行、好色といえば、肉の行爲を盡くしてゐるように思われてゐる。されども、争闘も肉であれば嫉妬も肉である(ロマ書十三・十三參照)。しかして最も憎むべき肉は靈化されたる肉である。税吏と娼妓を肉の人の模範と見るは淺い見方である。肉の人の模範はむしろ學者とパリサイの人である。~學博士とヘ会信者である。ゆえにイエスはこれらのヘ会者に告げていいたもうたのである。いわく「まことになんじらに告げん、税吏および娼妓はなんじらより先に~の國に入るべし」(マタイ傳二一・三一)と。マタイは一たび利欲のために國を売り、異邦ローマの官吏となりておのが私腹を肥やせしといえども、キリストに召されて、悔い改めてその使徒となることができた。マグダラのマリヤは貞操を売りて汚れの淵に沈みしといえども、主に救われて、その聖き婢(しもめ)となることができた。彼ら、いずれも肉の人であつた。しかしながら、主のおん目より見て、比較的に輕い罪人であつた。しかして學者とパリサイの人とは、税吏と娼妓よりもはるかに重い罪人、はるかに惡い肉の人であつた。彼ら、あるいは酒を飲まず淫にふけらざる點において、靈の人として世に迎えられたかもしれない。しかしながら彼らはその内心において純然たる肉の人であつた。彼らは「あまねく水陸を巡り、一人をもおのが宗旨に引き入れんとして」(マタイ傳二三・十五)充分に彼らの肉欲を發揮したのである。まず除くべきはパリサイのパン種である。これはまことに肉素と稱すべきものである。宗ヘ的嫉妬心 Odium Theologicum(~學者の惡意)、これが堕落せる肉の奄ナある。何よりも憎むべきもの、いとうべきものはこれである。肉は特にパリサイのパン種である。

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