第三十六講 救いの完成(三)
八章一 〜 十一節

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 八章の一節より十一節までを研究するについて、まず一言すべきは、その各節について塩ァなる研究をすることのほとんど不可能であるということである。優秀なる幾多の學者が、各節各語の解釋について、種々の異なつた意見を提出してゐるありさまである。その中の一つを採るということはかなりむずかしくあり、さらに別に独創的の解釋を提出するということはなおさら困難である。しかし聖書のことばである以上、信仰をもつて見れば、その大樣の意味はだれにでもわかるのである。また各節がたいせつなる深き眞理を語つていて、一節として重要ならぬはない。あたかも寶石の山に入りしがごとくである。もしわれらがパウロの心をわが心として、彼の立場に立つてながむる時は、どの節を取りて究(きわ)むるも、彼の思想の中心に達することができ、もしかく一節をよく究むれば、他の節も自然と、わりあいにたやすく理解せらるるのである。フィリップ・ブルックスの言として、「地上いずれの點より掘るも、垂直に掘れば、地球の中心に達す」という語がある。この個處のごとき、いずれの一節を取りても、これを深く深く掘れば、パウロ思想の中心に達するのである。
 
 第一節の意味は、前講において説いたとおり、すこぶる重要である。キリストにある者は罪せられずというは實に大なるiケ的眞理である。次に、二節三節四節…と十一節まで、順次に各節について考えよ。各節ともに、半ばわかりしごとく半ばわからざるがごとき感をまぬかれない。そこに眞理は隠見するけれども、その本体を明確につかんだという感じが起こりにくい。しかしながら、パウロの心をわが心としてまじめなる思考を加え、かつ自己の實驗に照らしてこれらの各節を解せんと努むる時は、その大意をつかむことは決して不可能ではないのである。
 
 比較的解しやすき節としては第五、六節のごときがある。まず五節には「肉に從う者は肉のことを思い、靈に從う者は靈のことを思う」とある。各語の正確なる意味については諸説あるとするも、その大意はだれにもほぼ明らかである。實に肉に從う者は肉のことのみを思う。今や世の問題はおおむね物質上の問題である。社会改造の問題といい、經濟政策の問題といい、文化生活の問題というも、おおむねこれ衣食住の問題である。しかしながら、國家としてもまた個人としても、肉のことをのみ思うは、死 − 滅亡 − を引き起こすことである。史上の國にして、何ら國家に大拐~、大理想なくして、ただ富國強兵等の物質的方面にのみ走りしものは、いずれもついに亡滅もしくは衰頽(すいたい)の悲運を招かぬはない。

 強固なる主義、正大なる拐~なくして、國は興りまた立たぬのである。個人もまた同樣である。ゆえに六節にあるがごとく「肉のことを思うは死なり。靈のことを思うは生(いのち)なり、平安なり」である。靈のことを思うて、生命と平安とはおのずから充盈(じゅうえい)し來たるのである。國家しかり。社会しかり。個人しかり。これ史上の事實、また個人實驗上の事實である。

 次に十、十一節のごときを見よ。そのいかに崇高なる眞理の提示なるかは一讀して明らかである。「もしキリスト、なんじらに住まば、体は罪によりて死し、靈魂は義によりて生きん」とある。キリストの靈、われらに住まば、肉体は罪のゆえに死するも、靈魂はとこしえに生くるというのである。しかも十一節に至れば、説明は一歩進みて、~はその靈をもつて「なんじらが死ぬべき体をも生かすべし」という。すなわち復活である。これみなクリスチャンに宿る聖靈の働きによるのである。永遠の生、永生への復活 − それをパウロは確言し、主張し、高唱するのである。げに貴重なる眞理の提示というべきである。
 
 その他の各節を解するにあたつて注意すべきは、パウロの言が論理的でなくして重畳的であるということである。近代人の文は論理と分析を特色とし、すべて正しき連絡を保ちてしるされる。しかるにパウロやヨハネは理論に頓着せずして、心中に潜む眞理を続々として累積的に注ぎ出す。乙は甲の上に重なり、丙は乙の上に重なり、層々相重なりて、見る者をしてまばゆからしむる。これ聖書において初代ヘ会の偉大なる文字に接するときに忘るべからざることである。
 
 第一節には二つの大きい觀念がある。第一は、キリスト・イエスにある事、すなわちキリストと合体する事、第二は、かかる人は罪せらるることなしとの事である。ある意味において、八章全体はこの二大觀念の敷衍(ふえん)であるともいい得る。キリストにある事といえば、すなわちキリストの靈(聖靈)が信者に宿れる事である。そして聖靈の信者にありての働きは實に八章の力をこめて説明する主眼點である。また罪せらるることなしとは恩惠の消極的半面ではあるが、消極は當然進んで積極に至るべきものであつて、この消極より積極への恩惠の進展はすなわち八章の主題であるともいい得る。ゆえに八章全体は實にその第一節を引きのばしたものであるともいい得る。從つて二節以下の各節はすべて第一節の證明であるともいい得るのである。

 まず第二節の意味はいかに。「そは、生かす靈の法(のり)は、イエス・キリストによりて、罪と死の法よりわれをゆるせばなり」という。これ第一節の「キリスト・イエスにある者は罪せらるることなし」の理由として掲げられし語である。されば第一節の語に對しては、前講のごとく七章六節が理由となつてゐると共に、この第二節もまた理由となつてゐるのである。「罪と死の法」という。法とは何をいうか。この場合は律法の意ではなく、一つの法則、一つの原理を意味するのであるが、今これを権能と見るが、解釋上には最も便利である。罪と死との権能ほど、人を力強く把握(はあく)してゐるものはない。人の生涯は、罪を犯しつつ死を前に望む恐怖の生涯である。罪の苦悶と死の恐怖と、この二つは、人が墓まで携え行くべき道ずれである。まぬかれんとしてまぬかれ得ざる恐るべき運命よ!げに「罪と死の法」は人をしかと押えて身動きもできぬようにしてゐるのである。この恐るべき法、この拂いのけがたき権能、これよりまぬかるる道がどこかにあるであろうか。罪を脱し死をまぬかるる道あるか、いかに。これまことに人生の至難なる問題である。

 しかしてこの問題に對して第二節は答えを與えてゐるのである。「キリスト・イエスにある生命(いのち)の御靈(みたま)の法は、なんじを、罪と死との法より解放したればなり」(改譯聖書 − 大正譯)と。現行譯よりは改譯の方が正確である。ただしこの文の目的格を、「なんじを」とすべきか、「われを」とすべきかは、原本によつて相違せるため、容易に定めがたいのである。しかし「なんじを」でも、「われを」でも、「われらを」でも、この節の主意にはべつだんの影響はない。注意すべきは、パウロが、「解放したればなり」といいて、これを過去の事としてしるせる點である。パウロはここにわれ(または人)の實驗としてこの事をしるしたのである。罪と死との権能よりまぬかるるは、ただ「キリスト・イエスにある生命の御靈の法」による。この御靈の法が、われ(または人)を、死と罪との法より解き放つたというのである。
 
 實驗の語を理解するには實驗に訴えるを最上の道とする。余はかつて罪と死との苦悶の中に懊惱(おうのう)の幾年月かを送つたものである。罪と死とは放たじと余を押えていた。しかるについにキリストの十字架を仰ぎ見るや、ふしぎにこの恐るべき罪と死との権能よりまぬかれた。苦悶は失(う)せ、罪と死との壓迫は去り、歡喜と自由は一身にみなぎるに至つた。その理由は充分に解しがたい。しかしその事實は空に日の照るごとく明らかである。この實驗に照らして第二節に對する時は、べつに何らの思考を要せずして、その語がそのままに自然と味得せらるるのである。
 
 しかり、キリストの十字架の贖罪力(しょくざいりよく)に觸るる時、人はだれも罪と死とよりの釋放を味わうのである。しかしながら「キリスト・イエスにある生命の御靈の法」とありて、ここに聖靈の働きがしるされてゐるのに注意せねばならぬ。聖靈はすなわちキリストの靈である。また生命の御靈である。このキリストの靈が人の心に入るや、罪と死の権能は如實に心中より駆逐せられる。これ實驗上の事實である。美しき情感、けだかき思想を傳うるところの詩文を讀むとき、人は一時なりとも感激に心の浄化せらるるを感ずる。この世の詩人文士の靈すら、一時なりとも人をきよめる。ましてキリストの靈の人に及ぼす力幾ばくぞ。彼の靈、一たび人の心に入るや、聖浄(きよめ)の靈なるがゆえに罪の法を排除し、生命(いのち)の靈なるがゆえに死の権能を駆逐する。ああ人よ、キリストの靈を受けよ。さらばわれを押さえいたる罪の力はもはやわれに對する支配力を失い、われを脅かしいたる死の権能は失せて、とこしえの生命の、わが前途に無限に展開せるを感ずるであろう。蘇國の~學者チャルマズは「新しき愛の排逐力」(Expulsive power of new affection)なる語を用いた。新しき愛が入れば舊(ふる)き愛はおのずと排逐せられる。この世とその物とに對する愛欲が人の心を占領して、彼をして罪と死との法に服せしめてゐる。そこにキリストの靈來たれば、新しき~の國の愛はこの罪の愛を排(お)ししりぞける。これ自然の順序である。ゆえにいう、「キリスト・イエスにある生命の御靈の法は、罪と死との法よりわれ(またはなんじ)を釋放したり」と。

 「それ律法は肉によりて弱く、そのあたわざるところを~はなしたまえり」と三節前半はいう。律法そのものは聖かつ義ではあるが、肉が人を押さえおるゆえ、律法の義はおこなわれない。すなわち人が肉に妨げられおるゆえ、律法は無力たらざるを得ないのである。ここにおいて、~は律法のあたわざるところを他の方法をもつてなしたもうたのである。さらばいかなる方法ぞ。三節後半はいう、「すなわち、おのれの子を罪の肉の形となして罪のためにつかわし、肉において罪を罰しぬ」と。これ彼がそのひとり子を人の形となして世につかわし、人の罪を罰する代わりに彼を罰し、もつて人の罪を處分し、彼の死をもつてあがないとなし、しかして人はただ彼を信じ彼を仰ぎさえすれば罪をゆるされて義とせらるるの道を開きたもうたことをいうのである。これロマ書が三章、四章、五章等において極力主張した十字架のiケの反覆である。
 
 しかしながら十字架の受難は單なる贖罪のためのみではない。彼の死と復活と昇天とありて、聖靈、人に臨むに至り、人はこの聖靈を宿すために、われのゆえならで聖靈のゆえに力を得て、律法の義をおこない得るに至るのである。されば、ひとり子の受難は人をして義を實現せしむるの道をひらいたのである。これ第四節のいうところである。すなわち「これ肉に從わず靈に從いて歩むわれらの中に律法の義の全うせられんためなり」(改譯聖書 − 大正譯)とある。げに「靈に從いて歩む生活」(聖靈を心に宿して、その力に導かれて歩む生活)は、主の十字架を源として流れ出でしものである。

 以上をもつて、一節より四節までの研究を終わる。さてここに一言すべきは罪の問題である。外に現わるるは個々の罪のおこないであるが、その源は心の底に深く横たわる汚敗である。後者ありての前者である。前者ありての後者ではない。しかるに普通の人は、罪のおこないが源であつて、それを重ねし結果、心に汚敗が臨んだという。これに對してパウロは、心の底に横たわる汚敗が罪のおこないの源であるという。そしてこの汚敗の源は、~よりの離絶であるという。別言すれば、~よりの離絶があるゆえ、心の汚敗があり、心の汚敗があるゆえ、罪のおこないがあるのである。まことにかつてある人のいいしごとく、まず disruption(分離 − ~よりの分離)ありしために corruption(汚れ、心の腐敗)が起こり、corruption 起こりしために eruption(爆發 − 罪の煤發 − 心の汚れが出口を見出だして外に爆發せしもの、すなわち個々の罪)が起こるのである。
 
 ゆえに人を罪より救う道は、その源にさかのぼつて~との離絶を囘復して、まず~と和らがしむるにある。しかる時は自然と心の腐れが癒やされ、心の腐れが癒やさるる時は自然と罪のおこないより遠ざかるのである。iケの救濟法は實にこれである。末に走つては努力奮闘も效果がない。源に至つて初めて事績は擧がる。人に~を示し、人をして~との離絶を囘復せしめ、人をして~に和らがしむるがiケの救濟である。ゆえに最も有效なる、最も徹底せる救濟である。何ゆえキリストは十字架に死するの決心をなせしか。何ゆえ~はそのひとり子を世にくだしてこれを十字架の犧牲(いけにえ)とせしか。そは、かくしてのみ、~と人とが和らぐに至るからである。十字架を通してのみ、人の~よりの離反が癒されるさるるからである。そしてこの源を正すことによつてのみ、末なる罪が除かれるからである。人が~に立ち歸るため、人と~とが一致するため、聖靈が人にくだるため、すなわち罪が除かれ人が救われんためには、この十字架の狭き道よりほかに道はないからである。しかるに世人は、この最も根本的なる救濟を捨てて、いたずらに末にのみ走つてゐる。しかしながら、十字架の源をもつてせずしては、とうてい人は救われないのである。

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