第三十五講 救いの完成(二)
八章一節

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 ロマ書八章の大意は前囘において述べた。これより各節の研究に入るにあたつて、ロマ書全体の研究につきて一つの注意を與えたい。ロマ書を研究しつつここに來たつて、われらは同一の事を反覆し來たつたような感をまぬかれない。問題は「義とせらるる事」といい「きよめらるる事」というがごとき二、三にとどまつて、實に單純である。いな、單調である。いかにパウロが熱誠をつくして述ぶるとも、反覆と單調とはとうていまぬかれがたい。これを現代のごとき進歩せる複雑の社会にありて種々雑多の問題に圍繞(いじょう)せらるる者より見て、いかにも不調和の感をまぬかれない。世の思想と事業とがすべて退歩して複雑となれるに、信仰の事のみかく單純なるは、あまりに現代と没交渉ではあるまいかと。これ起こりやすき疑惑である。
 
 これについて思い起こすは、昨冬米、米國ワシントン府において開かれつつある「軍備制限会議」のことである。今や世界の視聽はことごとくこの会議に向かつて注がるるがごとき觀がある。ここに世界各國の第一流の政治家が会合して、於ヘを傾注して商議し、各國の新聞紙はその模樣を細大となく燕ラに報告してゐる。これ今や實に現下の世界最大の問題である。さらばこの会議の主題は何であるか。新問題か。新研究か。新發見か。いな、いな、いな、依然として舊き舊(ふる)き、人間社会の始まると共に起こりし問題である。しかもその問題は決して複雑ではない。きわめて單一、ただ一つの問題である。すなわち人と人との間、社会と社会との間、國家と國家との間にいかにせば正義がおこなわるるかの問題である。もしこの正義がおこなわれぬ時は、他のすべての良き事が一文明世界のあらゆる公益も便益も、むなしきに歸(き)せしめらるる危険がある。ゆえにこの正義がおこなわれぬときは、他のすべての良き事は有るも無きにひとしい。されば、いかにせば正義が人の社会におこなわるるかは、實に人間世界の最大問題である。

 他の多くの書がすたれつつある中に、聖書のみは何ゆえにすたれないのであるか。なぜロマ書は聖書の中心として常に信者の注意の焦點となつてゐるのであるか。これ人間社会における正義實行の問題をその深き根底において解くものは聖書ことにロマ書であるからである。けだし人間相互に對する正義實行の問題は當然さかのぼつて個人の正義實行の問題事となり、個人の正義實行の問題はまた當然さかのぼつて~の前に義たる道いかんの問題となるのである。何となれば、~の前に義たる人にして初めて個人として正義の實行者であり得、個人として正義の實行者である者にして初めて人間相互に對する正義の實行者であり得るからである、ゆえに、いかにせば人間社会に正義がおこなわるべきかの問題は、その究竟(きゅうきょう)においては、いかにして人は~の前に義たるべきかの問題に歸着するのである。
 
 ゆえに人類間の平和問題は、つまり~人間の平和問題である。人と人との間の正義の問題は、つまり~と人との間の正義の問題である。ワシントン会議においては、わが日本人がいかほどこの問題に心を傾けてゐるかが試驗せらるるのである。もとより会議に連なれる歐米各國人がことごとく篤信のキリスト信徒であるとはいわない。しかしながら、長年歐米民族を養い來たりし聖書は、彼らの感情と拐~とを今なお支配しつつあらぬとたれかいい得よう。先祖はいかに。傳統はいかに。彼らといえども自國の利益を思わないではないが、ほかに一種犯しがたき正大の公義的拐~を深く持てるは事實である。やはり問題は聖書の問題である。聖書の中心問題が彼らの心の深い處を動かしてゐるのである。しかり、ある意味において、聖書は依然として彼らを支配しつつあるのである。ワシントン会議が今の世界人類の第一問題であるのは、つまり聖書の問題が世界人類の第一問題であるのである。この意味において、聖書は依然として人類を支配してゐるといい得る。かつてある人のいうたことがある、「豫言者イザヤがイザヤ書において平和の豫言をなせし以來二千六百年間、人類世界は依然として戰いをやめないけれども、しかし、いかにかして戰いをやめたしという希願と理想とをいだきつつ來たつた」と。平和は實に聖書問題である。聖書の拐~は、平和實現の日を見ずばやまじというにある。人類を最も強く動かしつつあるものは聖書である。ゆえに人類が最も熱心に研究せねばならぬものは聖書である。
 
 ロマ書八章の骨子は、前講に述べしごとく、罪よりまぬかるる事、死よりまぬかるる事、~の子とせらるる事、世嗣(よつぎ)とせらるる事である。そして罪よりまぬかるる事は、一節 〜 四節の主題である。まず第一節を見よ。
 
  このゆえに、イエス・キリストにある者は、罪せらるることなし
 
とある。これを原文に忠實に譯せば、
 
  このゆえに 今や キリスト・イエスにある者は罪せらるることなし
 
と改めねばならぬ。
 
 語(ことば)はすこぶる簡單である。これを分析すれば、「このゆえに」「今や」「キリスト・イエスにある者」「罪せらるることなし」という四つの語句より成つてゐるのである。かく、語は簡單である。しかし意味は決して簡單でない。ことにこの一節を前後の意味との連絡上からながめれば、決して平易簡明ということはできないのである。「このゆえに」(ギリシャ語のara 英語therefore)は何を受けての語かが、まずむずかしい問題である。普通この語は一般にすぐ前の語を受けていう語であるから、七章の末尾を受けたと見るが自然である。しかしかく見るときは、七章の末節といかに連絡するかが問題となる。七章最後の語は「されば、われみずから、心にては~の律法に從い、肉にては罪の律法に從うなり」である。これを受けて「このゆえに」というたとは少しく不合理ではあるまいか。二重人格の状態においてあるゆえ、キリストにある者は罪せらるることなしとは、意味をなしてゐるであろうか。あるいは、肉は罪の律法に從うも心は~の律法に從うゆえ − 換言すれば、おこないの實際は低卑なれども理想だけは高遠なるゆえ − キリストにある者は罪せられぬという意味か。しかる時は、キリスト信者は理想だに高く持てば實状はいかようでもよいということになるのか。これはたれもがえんぜぬところであろう。

 かく「このゆえに」は七章末尾を受けしものと認められぬ以上は、どこか他に適當な處を見出ださねばならぬこととなる。これが明瞭にせられぬ時は、道コ的に見てもゆゆしき問題となるのである。ゆえに、わずかに一句の問題といいてこれを輕視することはできないのである。ゴーデーその他の註解者は、この語をもつて、七章六節を受けたものと見てゐる。しかるときは、七章七節 〜 二十五節の苦悶の告白は一つの挿入文(そうにゅうぶん)と見られるのである。もちろん挿入文と見るのは單に文法上の見方であつて、そのためにその意味を輕く見ることにはならぬのである。挿入文といえども、この個處のごときは、主文にまさるとも劣らぬ重要の處であることはいうまでもない。
 
 七章六節を見るに、「されども、今われらをつなげるものにおいて死にたれば、律法よりゆるされ、儀文の舊きによらず、靈の新しきによりて仕う」とある。これを、八章一節の「このゆえに」が受けたとすれば、意味の連絡はすこぶる合理的である。儀文は捨てて聖靈によりて仕うるに至りしゆえに、キリストにある者は罪せらるることなしといえば、だれにも意味が明瞭となるのである。由來、七章六節は前段の結論たる重き語である。この一語に、その前のすべての叙述が總括されたともいい得る。そして今や第八章に入らんとして、この語を受けて、まず「このゆえ」といいて、前との關係を保持しつつ、新問題は提供されんとするのである。義とせらるる道、きよめらるる道がすでに論ぜられ終わりしゆえ、それを受けて、八章との境界線の上に立ちて、「このゆえに」というのである。いよいよこれより救いの完成、全き榮化を論ぜんとする分水嶺上の「このゆえに」である。一つの小さい語であつても、その位置は決して小さくないのである。
 
 「今や」は、今においてはである。キリストすでにわれらの罪をにないて十字架にかかりし今は、キリストすでに復活して~の右に坐する今は、このキリストを信じて義とせられ、きよめらるるに至りしは今は…である。
 
 「キリスト・イエス」と改めねばならぬ。日本譯の「イエス・キリスト」は誤譯である。この兩語の間に区別があるであろうか。「イエス」といい、ことに「イエス樣」といえば、そこに一種の親しみが湧く。また「キリスト」といえば、何となく氣高く貴い感じがする。今「キリスト・イエス」といえばキリストという感じが先に立ち、「イエス・キリスト」と呼べばイエスという感じが強くなる。「キリスト・イエス」といえば、キリストという位に立つところのイエスを意味する。すなわち復活昇天して、今~の右にありて権能の位に坐するところの、しかしわれらに親しきところのイエスを意味する。しかるに「イエス・キリスト」といえば、われらの友なるイエスという觀念が第一となりて、権能者という觀念が第二となるのである。

 「キリスト・イエスにある者」とは何を意味するか。もちろんクリスチャンを意味する語ではあるが、キリストのしもべといわず、またキリストを信ずる者といわず、キリストにある者というたのには意味がある。これはキリストと信者との最も深き關係を語る言葉である。キリストを仰ぐとか、信ずるとか、またはキリストのしもべとかいえば、いまだキリストとおのれとを別に見たのである。キリストにあるというのは、おのれをキリストの中に入れてしまつた状態である。キリストの大なる靈の中にわが小なる靈がはいつて、二者一つとなつたことである。あたかも理想的の君臣、理想的の夫婦のごとく、乙が甲の心の中に飛びこんでしまつたありさまである。キリストにあるとは、キリストとの合体である。ゆえに信仰の最も徹底せるものである。キリスト信者はもちろんキリストを信ずる者であり、またキリストのしもべたる者である。しかしキリストとの最も深き關係を示す語としては「キリストにある者」である。實にうるわしき語である。
 
 「キリスト・イエスにある者は罪せらるることなし」という。罪せられぬということ、~より滅亡(ほろび)の宣告を與えられぬということ、罪の實(み)たる死滅を課せられぬということ、これ人たる者の最上の希願かつ努力でなくてはならぬ。ゆえに、キリストにある者は罪せられずというは實に大なるiケである。キリストにありさえすれば、罪の實たる罰をまぬかるるというのである。實に大なる特権、至大の惠みである。刑罰の恐怖は、眞實に~を思う者においてはまぬかれがたきところである。~の大法の~聖厳粛なるを知り、また自己の罪の深重夥多(かた)なるを知りては、良心の鋭敏なる者たれかこの恐怖なきを得よう。ゆえに罪せらるることなきを知りてこの恐怖の失(う)する時、いいがたき平安は人の魂にみなぎるのである。
 
 八章一節は、短けれども偉大なる言葉である。この語が實驗上の事實として味わわれ、心の底より自分の語として發せらるるは實に幸いなる時ではないか。何ものをもつてもわれは罪せられず、自己の深き罪をもつてしてさえ罪せられずと知りて、何らの幸いかこれに過ぐるものがあろうか。すでに~より罪せらるることなしとの聲を聞いたのである。されば、天上天下いかなる事がわれに起こり、いかなるものがわれを襲うても、患難、迫害、飢餓、危難、剣その他のあらゆる惡しき事が來ても、死が來てさえも、未來永劫(えいごう)罪せらるることなしとの確信が起こるのである。かのバンヤンが、キリストに身を隠せし者には刑罰の臨むはずなしと堅く信じて、~をさえ挑(いど)むの大膽に達せしごとき、まことにこの實驗の芳烈なるを語るものである。われらはロマ書八章一節を單にパウロの語として反覆するにとどまらず、またこれを研究してその貴さを知るにとどまらず、これを自己の實驗として体得し、自己の靈魂の聲として發し得るに至らなくてはならぬ。
 
 
第三十五講 約   説
罪よりまぬかるる事
 
 國家問題といい、世界問題といい、別の問題ではない。單純なる、廣く知れわたりたる正義問題である。去年(一九二一年、大正一〇年 − 編者)十二月十一日より、全世界凝視の中心となりて開かれ來たりしワシントン会議において、文明諸國最大の改治家たちによつて討議せられし問題は、哲學または科學または藝術の問題ではなくして、何びとにもよくわかる正義問題であつた。いかにして明白なる正義を國と國との間に實行せんか、これが大政治家の頭腦(あたま)を惱ます最大問題である。まことにマッシュー・アーノルドがいいしがごとくに「人生十分の九は正義である」。正義を發見し、正義を實行す。人生十分の九はこれにて盡きてゐるのである。
 
 聖書の貴き理由はここにあるのである。それは特に正義の書であるからである。聖書は第一に、~と人との義(ただ)しき關係についてヘえる。第二に、人と人との義しき關係についてヘえる。それゆえに聖書は永久的に貴いのである。しかして世界思想を支配するものは聖書である。ワシントン会議もまた聖書のヘえを國際的に實行せんがために開かれたにすぎないのである。今より二千七百年前に豫言者イザヤの發せしことば、すなわち「剣を打ちかえて鋤(すき)となし、槍(やり)を打ちかえて鎌となし、戰闘の事を再び習わざるべし」とのことばが今やその實現を見んとしつつあるのである。ゆえに聖書を知らずして世界はわからない。聖書を知るは、個人として、國家として、人類として最も必要である。われらは聖書を學んで閑問題を學びつつあるのではない。最も實際的の最大問題を研究しつつあるのである。

 ロマ書第八章は聖書の最高峰である。ゆえにその一言一句もゆるがせにすることはできない。その第一節にいわく、「このゆえに、イエス・キリストにある者は、罪せらるることなし」と。全章を紹介する辭として肝要なるものである。「このゆえに」は、前章末節を受けた辭として見ることはできない。そう見る場合には、心にては~の律法に從えども肉にては罪の律法に從う者は罪せらるることなしということになる。もちろん、しかありようはずはない。ゆえに「このゆえに」は、前章六節を受けたものと見るが正當である。しかして七章六節は五章一節以下の絮説(じょせつ)の結論であるがゆえに、「このゆえに」は、五章以下七章までの議論の結論を受けていうものと見るが當然である。すなわち信仰によりて義とせられ、キリストの死と復活とによりてきよめらるるがゆえに「このゆえに」というのである。ギリシャ語の小辭(パーチクル − gar)であるが、その解釋いかんによつて、信者の信仰上ならびに實践道コ上に大なる相違を生ずるに至るのである。
 
 「イエス・キリスト」は、改譯(大正譯)には原語のとおりに「キリスト・イエス」となつてゐる。それがほんとうである。しかしてキリスト・イエスというは、イエス・キリストというと少しくちがう。キリスト・イエスは、復活し、昇天し、今は聖父の右に座して、萬物の上にその大能をふるいたもう榮光のイエスである。すなわちキリストなるイエスである。しかも單に~なるキリストではない。~にして人なる、すなわちイエスなるキリストである。イエス・キリストという場合には人なるイエスが高調せられ、キリスト・イエスという場合には~なるキリストが強唱せらる。しかして信者が今仰ぎ頼む者は榮光の寶位(みくらい)に座したもうキリスト・イエスである。
 
 「キリスト・イエスにある者」 クリスチャンの何たるかを示したことばである。クリスチャンは單にキリストを信ずる者ではない。彼をあがめ、また拝む者ではない。「キリストにある者」である。キリストの内に自己を投げ込んだ者である。キリストと同体になつた者である。われ彼にあり、彼われにありという状態においてある者である。「人もしわれにおり、われまた彼におらば」とヨハネ傳十五章五節にいうその状態である。親密その極度に達したる關係である。キリスト信者というよりもさらに深い意味を含む名稱である。
 
 「罪せらるることなし」改譯(大正譯)には「罪に定めらるることなし」とある。罪をいいわたさるることなし、また罪を罰せらるることなし。罪とその結果とより全然釋放せらるとの意である。罪責(ギルト)ならびに刑罰よりまぬかるとのことである。キリストにある者には完全なるゆるしがあるとのことである。
 
 改譯(大正譯)にならい、「このゆえに」の次に「今」ということばを入れるの必要がある。~の恩惠を信じ、キリストの内に自己を投げ入れし者は、今や罪せらるるの恐怖なしとのことである。「今」は、不信時代の過去に對していうのである。

 「罪せらるることなし」という。これ何びとにとりても大恩惠である。救いの一面はたしかに罪の當然の結果たる刑罰の恐れよりの解脱(げだつ)である。この恐怖なくして、iケのiケたる理由はわからない。しかも近代人にこの恐怖がないのである。彼らは~は愛なりととなえて、彼が、罪を憎み、罪人の責任を問い、悔い改めざる罪人を罰したもうことを信じないのである。近代人は~の愛を誤解して、彼を恐れない。彼らは聖書に「生ける~の手におちゐるは恐るべきことなり」(ヘブル書一〇・三一)と讀んで、その恐ろしさを感じない。彼らがiケのありがたさを感じ得ない理由はここにある。彼らがまた宗ヘ的熱心を發し得ざる理由もここにある。パウロを始めとして、ルーテルも、クロンウェルも、バンヤンも、深い信者という信者はすべてこの恐怖を感じた。自身地獄に堕(お)ちたる實驗のあるダンテがかの「~曲」を著わし得たのである。しかしてこの實驗なき近代の宗ヘ家と文學者とは、『~曲』の藝術的方面を解し得るにとどまつて、その信仰的心髄はとうていこれを探り得ないのである。

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