第三十四講 救いの完成(一)
八章の大意

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 ロマ書は十六章より成るがゆえに、分量的に見るも第八章はその中心である。これを一つの山にたとうれば、第八章は實に登りつめた處、すなわち絶頂である。そして九章よりは下りとなるのである。ロマ書は新約聖書の中心であり、その第八章はロマ書の中心である。ゆえにロマ書第八章は新約聖書の中心である。かのドイツ敬虔派の創始者スピーネルの言として傳えらるるところによれば、「もし聖書を指輪に比するならば、ロマ書はその寶石であり、第八章はその寶石の輝點(sparkling point)である」とのことである。實にこれ聖書の最高點である。近く天を摩(ま)せんとするところの絶巓(ぜつてん)である。
 
 今八章の第一節を見るに、「このゆえに、イエス・キリストにある者は罪せらるることなし」とある。そして八章の最終句は、「そは、あるいは死、あるいは生、あるいは天使、あるいは執政(つかさ)……また他の被造物は、われらをわが主イエス・キリストによる~の愛より離らすることあたわざるものなるをわれは信ぜり」とある。罪せらるることなしとは、たしかに恩惠である。しかしこれは恩惠の消極的方面であつて、ただ罪せられないというだけである。しかるに八章の終尾は、何ものをもつてするも、何事をもつてするも、キリストの愛(キリストがわれらを愛する愛)よりわれらを離らし得ないというのであつて、明らかに恩惠の積極的方面を説いたものである。恩惠はまず消極をもつて始まり、ついに積極の絶頂に及ぶのである。これをしるせしが第八章である。最初の句が恩惠、最後の句が恩惠であるがゆえに、その間にはさまる各節がことごとく恩惠をしるせしものである。ロマ書八章は實に「恩惠記」である。
 次に八章全体を見るに、そこにおのずから論述の順序というものがあるゆえ、これを數段に分かちて見ることは、解釋上に益するところが多いのである。そして註解學者はいずれも最上の分析をなさんと競うため、今日まで幾つかの分かち方が發表せられたのである。今、一々これを紹介するは益なきことであるゆえ、ここにはロマ書註解の最高権威の一人たるゴーデーのそれを用うることにする。ゴーデーは左のごとく五つに分けたのである。
 
  第一段 一節 〜 四節     罪よりまぬかるる章
  節二段 五節 〜 十一節    罪とその結果たる死とよりまぬかるる事
  節三段 十二節 〜 十七節   ~の子とせらるる事
  第四段 十八節 〜 三十節   世嗣(よつぎ)とせらるる事
  第五段 三十一節 〜 三十九節 大贊美
 
 ただし、くわしくいえば、ゴーデーは一節より十一節までを第一段と見て、それをまた二つに分けたのであつて、したがつて全体を四段に分けてゐるのであるが、ここには便宜上、彼の心を取つて、全体を五つに分けることにしたのである。
 第一段は、その節一節において「イエス・キリストにある者は罪せらるることなし」と斷定し、その根據として二、三、四節をしるしてゐる。「生かす靈の法」をもつて律法に代わるべきものと見て、聖書の働きに重きを置いたのがその特徴である。
 
 第二段は、罪の結果たる死よりまぬかれて永遠の生命を與えらるる幸b説く。これまた聖靈によるのである。「もしイエスを死よりよみがえらしし者の靈、なんじらに住まば、キリストを死よりよみがえらしし者は、そのなんじらに住むところの靈をもて、なんじらが死ぬべき体をも生かすべし」と十一節にあるとおりである。
 
 第三段は、聖靈によりて~の子とせらるることを主眼とする。「おおよそ~の靈に導かるる者は、これすなわち~の子なり」と十四節にあり、「聖靈みずから、われらの靈と共に、われらが~の子たるを證す」と十六節にある。人類はことごとく~の子であるとは、よく聞くところのことである。しかしながら、パウロによれば、ある特別の状態にある者のみが~の子である。それは人類の全部ではなくして、その幾部分である。すなわちキリストを信じて罪と死とよりまぬかるる特別の恩惠に接せし者のみが~の子である。この恩惠と幸bニに接しない者は、それがいかなる聖人哲人であつても、決して~の子ではない。それはただの人の子 − 人間である。~の子とは、普通の人より一轉して、全く別な、ある他の者となつた者をいうのである。
 
 第四段は、世嗣(よつぎ)たることを説く。「われらもし子たらば、また世嗣たらん」と十七節にいう。~の子たる者はまた世嗣たるに至るというのである。ただ~の子たる名稱と資格を得たというのみにとどまらない。ある實物を賦與(ふよ)せらるるというのである。~の子とせられし者は、~の子としてとどまる以上は、必ずある實物を~より與えらるるのである。すなわち「~の世嗣にして、キリストと共に世嗣たる者」である。さらば何を父より譲り與えらるるのであるか。答えていう、改造せられたる宇宙 − 全世界萬物 − を與えらるるのであると。別の語をもつていえば、全宇宙と共に救われて、その全宇宙の主人公となるのである。實に壯大なる希望ではないか。これ實に~の子たる者がキリストと共に世嗣となりて受けんとするものである。ここに至つてパウロの信仰、思想、希望は絶頂に達したのである。クリスチャンは復活して、榮光をまといて、改造完成せられたる全宇宙の主人公となるという。これがクリスチャンを待つところの最大の榮譽、また救いの完成である。ああ偉大なる思想よ。人類のいだき得る思想にしてこれ以上に出づることはとうていできないのである。
 
 ここに至つて第五段の壯麗なる贊美の歌はおのずからパウロのくちびるをついて流れ出たのである。流れ出でざるを得なかつたのである。これは決して作つた詩ではない。大希望大感謝のあふれみなぎれる心より自然と流れくだりし大歡喜のしたたりである。

 以上が第八章の大意であるが、ここになお注意すべき一つの事がある。それは、七章以前の全部と第八章との相違點である。七章までにおいてももちろん救いは説かれてあるが、これを八章のそれと比較するに、大体において外部的であるといわねばならぬ。もちろん救いのことであるから、これを靈魂に受くる點よりいえば内部的であるが、しかし八章のより内部的なるに比すれば、より外部的であると見ねばならぬ。すなわち七章までにおいて説かるる救いは、おもに人の外にある事を信ずるのである。すなわち十字架におけるイエスのあがないを信ずるのである。またイエスを仰ぎ見てそれを型としてきよめらるるのである。その他、いずれの點より見るも、信者の外においてある事を信受するというのである。これにて救いは全うせらるるであろうか。いな、さらにより内部的なる一事が必要である。~ご自身が聖靈としてわれらの内に下りて、われらの靈と合体し、もつてわれらを助け、われらの救いを完成したもう事、この事がぜひともなければならない。これ内部よりい救いであつて、實に第八章の主題である。~は内外よりわれらを救いたもうのである。外に~のみわざを示してわれらを救うこと − これ第七章までの主旨である。内に聖靈を働かしめてわれらの救いを完成すること − これ第八章の主題である。
 
 パウロはガラテヤ書三章一節において、「愚かなるかな、すでにイエス・キリストの十字架につけられたる事を明らかにその目の前に現わされたるガラテヤ人よ、誰がなんじらをたぶらかししや」というた。十字架のイエスを明らかに目の前に現わさるる事、この事によりて、人は自己の罪のゆるしを悟りて、魂の平安を得るのである。義ならざるに義とせらるる事を學びて、歡喜の人となるのである。また彼はコリント後書三章十八節において、「すべてわれら、顔おおいなくして、鏡に映すがごとく主の榮えを見、榮えに榮えいやまさりて、そのおなじ形に變わるなり。これ主すなわち御靈によりてなり」というた。これは、おのれの外にある主の榮えを常に仰ぎ見ることによりて、おのれもまたそれに似るというのである。義とせらるるという事、きよめらるるという事、これは共に重要なることであるが、自己以外のある者、ある事がその主要素となつてゐるのである。ゆえに、比較的にいえば外部的である。これがロマ書において七章までに説かれたることである。

 かく始まりし救いは内部的に完成せられねばならぬ。聖靈が内より信者を化さねばならぬ。これ八章の特にヘうるところである。その十六節に「聖靈みずから、われらの靈と共に、われらが~の子たるを證す」といい、また二十六節に「聖靈もまたわれらの弱きを助く。われらは祈るべきところを知らざれども、聖靈みずから、いいがたきの歎きをもて、われらのために祈り」ぬとあるごとき、共にこの章の特色を示す言葉である。聖靈が信者の心を占領して、内部より彼を動かし、励まし、ヘえ、力づけ、もつて外よりの關係を内的に完成、成就(じょうじゅ)するというのである。
 
 なお他の語をもつていえば、七章までは~と人の關係を説き、八章は~と人の合一を説いたものである。關係は關係だけにとどまつては未完成である。この關係の發展するところ、ついに合一、一致、融合にまで至らねばならぬ。そしてこの合一は實に靈と靈の合一をもつて起こらねばならぬ。まず靈と靈が合一すれば、相互の最も深き處において合一したのであるゆえ、その他の合一も當然實現さるるのである。そして~の靈はキリストの靈である。また聖靈である。この聖靈が信者の心に臨んでその靈と一致融合する時、いわゆる~人合一は實現せらるるのである。これを説きしものが第八章である。

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