第三十二講 潔めらるること(五)
− 第七章七節 〜 十四節の研究 −

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律法の性質
 
 第七章七節においてパウロは言う。「然らばわれら何を言うべきか、律法は罪なるや、然らず、律法によらざれば、われ罪の罪たるを知ることなし…」と。かく彼はこの節より「われ」なる語を用いて、この章の最後にまでおよんでゐる。見よ、七節より二五節までにおいて「われ」または「わが」なる語を用うること實に三十八囘の多きにおよんでゐる。彼はここに何らかくすところ、はばかるところなくして、自己をありのままにさらけ出してゐるのである。實にこれ彼の特徴として注意すべきところである。
 
 今この箇處を學ぶに當つて、順序上、前講の大意を復習する必要がある。第七章一節 〜 六節には二つの重要なことがふくまれてゐる。第一は律法が死せしこと、第二は、我らが罪に死せしため、律法に對して死せしことである。第一と第二とは是非ともなわねばならぬ。第一の律法廃棄のみにては危険である。道コ不用となりて自己が罪に死せざるにおいては、罪をしてますます跋扈せしむることとなる。ゆえに律法がおのずから不用となるように、我ら自身が罪に對して死なねばならぬ。我ら自身が罪に死ねば、律法は自然不必要となりて存在の要なく、從つて我らが「律法について殺されしもの」となるのである。眞の生活に入れば、律法はおのずから不用となる。ゆえに律法不用は眞の生活の缺くべからざる要素である。

 このことは、今日に至つてさえキリストヘ會においてまだ充分に了得せられない。ましてユダヤ人のあいだにおいては、パウロは律法の敵、~の敵として詛われてゐる。今日においてなおこの有樣である。彼が初めてこのことを唱道した當時において、ヘ會の内外に潮のごとき敵を起せしは當然のことである。もともと律法とは、ユダヤ民族の國祖モーセが、シナイ山にてエホバ~より與えられたものである。これはそれほど~聖なものである。然るにパウロはあえて大膽にそれの廃棄を高唱した。以てそのいかに革命的なりしかを知るのである。かつまた彼に無數の敵のありし理由を知るのである。
 
 しかしながら、彼の主張は單なる律法廃棄ではなかつた。律法のみにつかえてはかえつて律法を行うことはできぬ。律法を廃棄してiケに從うに至つて、初めてかえつて律法の眞拐~を充たしかつ行うことができると彼は主張する。すなわち、捨つるはむしろ拾う道であり、破るはかえつてこれを充たす處以であると彼は言う。律法のみならず、すべての宗ヘ道コに對して、彼はこのことを言わんとするのである。捨つるはすなわちそれを實現する道である。すべてiケに從いキリストにつかうるに至つて他のヘえを全く捨つるとき、人は他のヘえを事實的に行うことを得る。iケを信ぜずして他の道コや宗ヘに從いおるときは、かえつてこれを行うことができない。後者を去つて前者に從うとき、初めて後者をも充たし得ると彼は主張するのである。

 さて七節後半を見るに「律法によらざれば、われ罪の罪たるを知ることなし。それ律法にむさぼるなかれと言わざれば、われ貪欲(むさぼり)の罪たるを知らざるなり」とある。そして以下パウロは自己の罪惡感の告白をなしてゐる。「むさぼるなかれ」とは、人も知るごとく十誡の第十條である。彼はこの誡めによつて貪欲の罪なることを知つたというのである。ここに問題となるのは、なぜ彼がここに貪欲の罪のみをあげて、他の罪に言及しなかつたのかという事である。ある人は答える、これパウロがことに貪欲の心の強い人であつたからであろうと。しかしながら、これいたずらに彼を惡しく見る偏頗心にとらわれしものである。八節以下において、我らが彼の深刻痛烈なる罪の告白に接するとき、そして彼が既往千九百年間最大のキリスト信者であることと思い合せるとき、彼の誠實なる人格と偉大なる靈魂に對して深き敬意を拂わざるを得ない。ある人はパウロを罪の人としてさげすみ、ある人はパウロにかかる苦悶を與えしキリストヘを力弱しとして貶するであろう。しかしながら、我らは彼のごとき偉大なる人物にこの深き苦悶ありしを知りて、同じ苦悶の中にも大なるなぐさめを感ずるのである。罪に苦しむこと、これ決して~に捨てられしことではない。否な、これこそ人が~の國に収めらるる前提であつて、これを通過して初めて眞の平安と歡喜の中に入るのである。彼パウロのごときすら、貪欲の罪に深く苦しみしということは、種々の意味において強く我らをなぐさめるものである。

 そもそもモーセの十誡中、その第十條はすこぶる注意すべきものである。「汝むさぼるなかれ」とは、實に人の内心に關する誡めである。人がその心において他人の物をほしがること、これがむさぼることである。これが外部にあらわれて、場合により、種々異なつた行爲となるのであるが、ただ心の中だけで欲心を抱くのが貪欲である。十誡はその第十條に至つて、人の内心の欲を強く誡めて、十誡全體の根元に横たわる内部的性質を表示するのである。外にあらわるるもろもろの罪を誡めることは、要するに内にひそむ貪欲を誡めることである。貪欲はすべての罪惡の源である。そはすべての罪と惡の行爲は、みな心中の惡念から起るからのことである。十誡第十條「汝むさぼるなかれ」は、實にこの意味における誡めである。(内村著「モーセの十誡」參照)

 パウロはモーセの十誡をもつてつねにその心を照しつつあつたであろう。青年にして熾烈なる宗ヘ心および道コ心を抱きし彼パウロが、十誡の各條と相争いし有樣は悲壯をきわめたであろう。そして彼は多分第一條より第九條までは守り得たりとの確信に達したかも知れぬ。しかしながらそのとき第十條「汝むさぼるなかれ」の一句が恐しき力をもつて彼の面前にせまり來つたであろう。そして彼の心の醜さを摘出する恐るべき解剖刀のごとくはたらいたであろう。そして第九條までは守り得との確信にありし彼の心の堅城を物の見事に打碎いたであろう。彼はこの第十條の鋭き攻撃に會いてはついに降參するほかはなかつたであろう。そして「われは罪人のうちの首(かしら)なり」と數多(あまた)たび叫び、また「この死の體よりわれを救わん者は誰ぞ」と、幾度も幾度も哀求したことであろう。
 
 「殺すなかれ」との誡めは守り得ると言う、また「姦淫するなかれ」との誡めは守り得ると言う、然り、まことにそうである。さりながら心の中において惡念の生起するは如何ともすることができない。そしてすでに心中に惡念の生起する上は、心の中においては明らかに殺しあるいは姦淫したのである。かく考うれば、「むさぼるなかれ」との誡めが守り得ぬ以上は、他のすべての誡めを守り得るとも、それは外部的だけのことであつて、内部的にはすべての誡めを犯したことと同樣になるのである。ゆえにこの第十條をもつて責めらるるときは、誰人といえども言い逃るるを得ない。キリストを除いた他のすべての人は、狂人ならざるかぎり、ここに自己の罪を認白せざるを得ないのである。アウガスチンもそうであつた、ルーテルもそうであつた、バンヤンもそうであつた。十誡第十條をもつて自己を照すとき、誠實の士にして誰か自己の罪をさとらぬ者があろうか。さればパウロはこの場合、彼一人特有の貪欲罪について言うてゐるわけではない。むしろ萬人の心に巣喰うむさぼりの罪惡ついて、自己を活ける實例の一として提出したのである。すなわち彼は萬人の罪人であることを言外にふくませて、自己の罪人なることを告白し、そしてすべての罪惡の根源なる貪欲の罪を擧げて、すべての罪を代表させたのである。

 パウロは八節よりますます明らかに自己の經驗をしるすのである。八節前半には「而して罪は誡めの機に乘りて、わがうちにさまざまの貪欲を起せり」とある。むさぼるなかれとの誡めは、貪欲の罪なることを明らかに示すけれども、しかしパウロの心は禁ぜられてかえつて刺戟を受くるがごとく、かえつてますます貪欲の罪を行うに至つた。もとより誡めが罪の起因ではない。心の底にひそんでゐるさまざまの貪欲が、この誡めに會いて明らかに臺頭しはじめたのである。ゆえに誡めがないとすれば、罪はあつても眠つてゐるのである。これを、パウロは八節後半において説いて言う、「律法なければ罪は死ぬるものなり」と。罪は死ぬるとは、全然罪を犯さないというのではない、罪が眠つてゐるというのであり、また罪を犯してもそれが罪として意識せられないというのである。實に律法なきときは罪は死ぬるものである。
 
 パウロは進んで九節において「われむかし律法なくして生きたれど、誡命來りて罪は活きかえり、われは死ねり」と言うて、その年少(わか)きときを囘顧した。彼が年少にしてまだ律法を知らなかつたときは、何ら罪の意識の彼を苦しむるなくして、溌剌(はつらつ)たる生氣が彼の小さき心の内に充ちていた。しかし長じて律法を學び誡めを知るに至つて、罪は明らかに心の意識にのぼつて來た。そしてこの罪の自覺は烈しき苦悶をもつて彼を撃ち彼を殺した。彼は生くれども死せるがごとき人となり、ただ茫々乎として日を送るのみであつた。「かくて人を生かさんための誡めは、かえつてこれわれを死なしむるものとなれり。いかにとなれば、罪は誡めの機(おり)に乘りてわれを誘(まどわ)し、その誡めをもてわれを殺せり」と、パウロはさらに一〇節、十一節において言うた。これ反復でありまた結論である。その意味は、上來しるすところによつておのずから明瞭であると思う。

「律法と言い「誡め」と言う。律法この場合狭義に用いられて十誡だけを指したものであろう。誡めは十誡の各條を指したものであるが、ここでは單數を以てしるされてゐるから、前後の關係上、その第十條のみを指したものと思われる。

 
 以上において、パウロは律法の性質および律法と罪との關係を、自己の實驗としてしるしたのである。誡めが眠れる罪を誘起するものであることは、明確なる心理上の事實である。誡め、すなわち道コの命令があれば、それに反抗してみたくなるのが人の心である。権威あり命令あれば、反抗心は自然誘起さるるのである。今日の世界を見よ、反抗的過激主義は到る處に瀰漫してゐるではないか。すべて権威というものを否認せんと欲し、いまあるところの権威にはあくまで反抗せんとするのが現代の風潮である。これ律法が罪をおさえずしてかえつて眠れる罪を誘起することの好き證明である。たとえ善き命令なりとも、貴き道コ的誡律なりとも、権威をもつて強いらるるときは、これに反逆したくなるのが人間固有の惡しきくせである。ここに人間の罪の深さが見える。これが人類堕落の證據の一である。
 
 律法のあるところ、かならず罪は多く行わるるのである。道コ的ヘ養の盛んなる社会は、然らざる社会よりかえつて罪が多く行われる。文明人はかえつて野蠻人以上の罪惡敢行者なることは事實である。これをわが國において見るも、現代ほど國民道コ−−忠君愛國の道−のヘえられたときはない。然るに忠君愛國を強く強くヘえられしのちの日本人間(かん)におけるその心の減退を見よ。これ誰人にも明白なことではないか。愛國のヘえをもつて育てられし現代の中年者、青年者のあいだに果してどれほどの愛國心があるか。いまや愛國心の衰退の著るしきは誰人も知るところの明白なる事實である。國を愛せよと道コをもつて命ぜられて、人はかえつてこの命令にそむくのである。ここに人の罪の底知れぬ深さが見える。ゆえに律法は人の罪を顯明にするものである。心の底にひそんでゐる罪を、心の表面まで浮き上げるものである。すなわち「誡めによりて罪のはなはだしきことはあらわるる」(十三節)のである。律法によりて罪の意識が生るるのである。これ律法のはたらきである。律法はこれだけのはたらきをする。しかしこれ以上のことをはたらき得ないのである。
 然らば律法とは惡しきものなるか。否な、「それ律法は聖し、誡めも聖く正しくかつ善なり」(十二節)である。律法は人を救わない、しかし人を救う準備をする。何となれば、人は救われんためには自己の罪を痛切に認めねばならず、そしてこれを認めしむるが律法であるからである。人は律法によりて罪に定められる。そしてキリストによりてこの罪より救われる。救者(すくいて)は勿論主イエス・キリストである。彼のほかに人を救うものはない。さりながら、彼の來る前に、まずバプテスマのヨハネが來らねばならぬ。もつぱら道コ的命令をもつて、人々の眠れる心を打ち醒ます彼ヨハネが來らねばならぬ。ヨハネは道コをもつて人々を責め、人々をして己れの罪を認白(いいあらわ)さしめる。然るのち、キリストはその救いの御業をなすのである。かさねて言う、律法は人を救わない、しかし人を救う準備をする、そは律法は人をして罪を意識せしむるものであるからであると。これが律法 − 誡め − 道コというものの本性である。

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