第三十講 潔めらるること(三)
− 第六章十五節 〜 二三節の研究 −
〔參考〕テサロニケ前書第四章三節 〜 八節

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恩惠の支配
 
 この「潔めらるること」については、充分なる思考を加えねばならぬ。またきわめて重大なる問題なるゆえ、これを各方面より考究せねばならぬ。一面のみより見るときはとかく誤りにおちゐるのである。パウロは第六章前半においては、まず罪の支配よりはなるべきことを説き、後半においては、恩惠の下に己れを置くべきことを説き、さらに第七章に入つては、罪をさとらしむるも罪を除く力をもたぬところの律法を全然捨て去るべきを説き、そして第八章に入つては −− その四節以下において −− 聖靈の助けによりて潔めらるべきものなることを説くのである。いずれも重大なる問題にして、「潔め」の缺くべからざる各方面として深き注意を拂うべき事柄である。
 
 第六章十四節については前講に一言するところあつたが、さらにこの節について充分に考えたいのである。「そは汝ら恩惠の下にありて律法の下にあらざれば、罪は汝らに主となることなければなり」と言う。この語は不信者には到底理解せられぬものであつて、すこぶる難解である。それだけその革命的なる點においても著るしいのである。そもそも律法とは何であるか。これユダヤにおいては普通モーセ律を指す語である。モーセ律と言えば、その中に拝~の式典もふくまれてゐるが、その主たるところはむしろ道コである。すなわち人の踏むべき道、行うべき道である。ゆえにパウロのこの語を今の人にわかりやすくするために、その前半を「そは汝ら恩惠の下にありて道コの下にあらざれば」と改めることができる。クリスチャンは恩惠の下にあつて道コの下にあらぬと言うのである、すなわち道コの支配を脱してゐると言うのである。以てそのいかに革命的の思想なるかを知るのである。

 普通に「ヘえ」と言えば、多くは人の踏むべき道をヘえたもので、すなわち道コヘである。これこれのことはなすべし、これこれのことはなすべからずとヘうるものである。宗ヘと言うても、~または佛を信じて道コを守ることとヘえられて、とかく道コ中心であるように考えられる。然るにここにパウロはキリストヘを説明して、人をしてこの道コの支配を脱して恩惠の下に入れしむるものであると言う。まことに人の思いに過ぐる見方である。この見方の適否は別とするも、その革命的にして人の意表に出ずるものなるとともに、かくして宗ヘと道コとの別が判然と立てらるるということは認められねばならぬ。
 
 ある人は言うであろう、かく信仰は道コの支配を去らしむるものであるならば、道コはすでに用なきものである、然らば道コを守るという必要もなくなり、また不コを行つても毫もさしつかえないということになりはしないかと。現にかく考えて不コを行うに至つた信者が昔からすくなくなかつた。それほどはなはだしきに至らずとも、これに似た思念を抱けるため、その實生活において緊張味を失い、怠慢無力におちゐる者がすくなくない。これ實にパウロ思想の誤解から出たものであつて、悲しむべき事柄である。

 十四節後半「罪は汝らに主となることなければなり」の句を忘れてはならぬ。すでに律法の支配下を脱して恩惠の支配下に移りし上は、罪は決してクリスチャンの主となる −− 王となりて支配する −− ことなしというのである。すなわちクリスチャンはすでに罪という王の臣僕たらずというのである。かく罪てふものの支配を脱して、これと無關係の位置に入つたのであるから、罪をはなれてゐるというのがその常態であるべきである。罪をいかほど犯してもよいとか、いくらでも犯すようになる危険があるとかいうはずはない。十四節およびその前後を燕ラに讀んでみて、パウロの眞意を誤解するはずはないのである。
 
 パウロは第六章の最初に「恩惠の増さんために罪におるべきか」との問題を提出し、そしてバプテスマの式に論及して、これに答えてゐる。バプテスマを受けし者は、すでにキリストとともに舊き生命に死して新しき生命に復活した者である。罪について死し、~について生くるに至つた者である。かく罪に暇を告げて別の世界に入つた者が、罪におるべきはずはないではないか。ふるきエジプトを出た者が、そのエジプトにおるべきはずはないではないかと。かくパウロは説いた。彼は十四節において言い出でし「律法よりの脱出、恩惠の支配」を十五節以下において説明すべく、やはりこのバブテスマに論及してもよかつた。けれども彼は思想の豐かに、視界の廣い人であつた。ゆえに別のことをもつてその説明をなした。まず當時の奴隷制度によつてこのことを説明し、次ぎには第七章に入つて、結婚制度のことを借りて説明するのである。

 まず十五節において一の疑問を提出し、十六節よりこれに答える意味にて説明を進めるのである。十五節の意味およびこれと一節との差異については、前講において述べた。よつてここには十六節より説こう。まず十六節は左のごとくである。
 
なんじら身をささげ僕となり誰に從うとも、その從うところの僕たるを知らざるか。あるいは罪の僕とならば死におよび、あるいは順の僕とならば義におよばん。
 
 すでに身をささげて奴僕となつた以上は、その從うところの一人の主人の奴僕である。主人ではなくして、あくまでも奴僕である。奴僕でなくてはならぬ。そして人には、罪の僕たるか順の僕たるかの二つのうち一つがあるのみである。「人は二人の主につかうること能わず」、一人で兩者に同時につかうることはできない。そして罪の僕として一生を罪てふ主人につかえて終るものは死におよび、順の僕として一生を~に順(したが)いて送る者は義たるに至るのである。

 この節には「順の僕」とあり、十八節には「義の僕」とあり、二二節には「~の僕」とある。文字の意味に多少の相違はあるが、いずれもクリスチャンを指して言うたのである。第一の語は「不順の僕」と相對する意味にて、~に對して信順なる僕の意、第二の語は「罪の僕」に對する語にして、義に歩むを生涯の根本方針とするに至りし者の意、第三の語は「サタンの僕」に對する語にて、~という主人の奴僕となつた者を意味するのである。三語とも、意味を異にして同一の事を言うのである。

人には罪の僕たると順の僕たるとの二途がある。クリスチャンとは幸いにして前の途を悔いて後の途に移つたものである。十七節、十八節はこのことを言うのである。
 
然れどもわれ~に感謝す、汝らはもと罪の僕たりしかど、今はすでに授けられしところのヘえの範(のり)に心より從いて、罪よりゆるされ、義の僕となればなり。
 
 罪の僕たりしもの、悔い改めてiケに從い、罪をゆるされ、義の僕となるに至つた。僕たるにおいては同一であるが、主人を代えた點において、その變化は根本的である。感謝すべきかな。十九節前半「われいま人の言を借りて言えるは、汝らが肉體弱きゆえなり」は、汝らの靈的理解力弱きゆえ、この世の奴隷制度のことを借りて説明するという意味である。これ註記である。そして十九節後半より、また本論に入る。これを左のごとく、すこしく改めねばならぬ。
 
汝らその肢體をささげて汚穢(けがれ)の僕となり、惡より惡に至りしごとく、今またその肢體をささげ義の僕となりて、聖潔(きよき)に至るべし。
 
クリスチャンはすでに汚穢の僕たるを捨てて義の僕となつたものである。しかしながら、彼らのうち、このことを忘れて惡を犯して意とせぬ者がある。ゆえに全き獻身と聖潔に至るべき奪励とをここにうながすものである。
 以下パウロはさらにこの二つの生涯を對照するのである。二〇節、二一節は言う。
 
そはなんじら罪の僕なりしときには義につかえざればなり。汝らいま恥ずるところのことを行いしそのとき、何の果(み)を得たりしや。これらのことの終(はて)は死なり。
 
と。罪につかえいたるときの有樣をここに想起せよ。何の果を結びたるか。そはただ死を持ち來すのみではないか。然るに今にしてふたたびふるきエジプトを思う者あるは何ゆえぞ。義の僕たる者の状態および特権は、實に二二節のごとく、
 
されど今罪よりゆるされて~の僕となりたれば、聖潔に至るの果を得たり、かつその終は永生なり。
 
 ではないか。聖潔に至るの果を得、そしてついに永生を與えらるるものではないか。實に大なる特権、この上なき恩惠である。ゆえに我ら退きて沈倫(ほろび)におよぶべきものではない、信じて靈魂の救いを得べきものである。かくパウロはすすめの意味において説き來り、ついに二三節においては、罪の生活と義の生活とを一言にして對比して言うのである。
 
罪の價は死なり、~の賜物は、われらの主イエス・キリストにおいて賜わる永生なり。
 
 と。「罪の價」は、罪の給料と改譯すべきものである。罪という主人は、己れにつかえおる僕に給料を拂う。しかしそれは喜ぶべき給料ではなくして、實に「死」という忌まわしき怖るべき給料である。然るに~が己れにつかえおる僕に與うるものは、給料ではなくして「賜物」である。すなわちイエス・キリストにおいて賜わる永生である。~はかくのごとき良き賜物を賜わるのである。罪という主人は、その僕に對して死という給料を支拂い、~という主人は、その僕に永生という賜物を賜わると、實に意味深き語である。
 
 以上パウロの説くところを充分に味解せんためには、我らは想像を二千年の古にさかのぼらせて、當時のギリシア、ロマの世界に至り見ねばならない。そして記者たるパウロおよび讀者たるロマ人の環境の中に己れを立たせねばならぬ。當時は奴隷の數は獨立民の數に數倍していた。その奴隷というのは多く戰敗國の捕虜であつて、かならずしも未開または野蠻人種ではなかつた。すなわち當時は大抵の人は奴隷たりし時代であつた。大抵の人は自由民たるを得ざりし時代であつた。從つてクリスチャンの中にもまた奴隷が多かつた。かかる時代において、かかる人々にiケの根本義を説くために、それを奴隷制度になぞらえたというのは、きわめて自然のことであり、またもつともよく讀者に訴える道であつたのである。
 
 すなわちパウロは二つの主人を立てたのである。第一の主人は「罪」、第二の主人は「義」である。人はこの二つの主人のうちのいずれかに從わねばならぬ。そしてクリスチャンとは、罪という主人のもとを去つて義という主人につかうるに至つたものである。すでに主人を變えた上は、今さら如何ともすることができぬ。すでに甲を去つて乙に從うに至つた上は、全く甲のことを忘れて乙にのみ忠實熱心につかうべきである。ふるき主人は我をして自由に惡を行わしめ、その給料として死を與えた。新しき主人は我をして聖潔に至らしめ、ついに永生を與える。さらば我は全拐~をささげて新主人につかうべきではないか。ふるき罪は思うだに怖ろしとして、これを我より引きはなすべきではないかと。これパウロの説くところの拐~である。

 パウロが主人と奴隷のことになぞらえてこのことを説明したのは、當時の社會状態によつたものであるが、これは今日の我らにも充分あてはまることであると思う。實際罪の中に住む状態は罪というものの奴隷となつてゐる状態である。全く束縛の中にあつて自由のきかぬ状態である。自身は、道コより解放されてゐるとか、ふるき傳統より自由になつてゐるとか、何かもつともらしきことを言うてゐる。しかし解放でも自由でもない、全く罪にしばられて身動きのできぬ奴隷である。これをかざる言葉はいくらでもある。しかし事實は、何か他のあるものに引きずられて惡を犯す生活であつて、徹頭徹尾罪の奴隷たる生活である。然らばこの生活を捨てて信仰の生活に入つたのは全き自由に入つたのであろうか。否な、我らはやはり奴隷たる點においては前と同樣であつて、ただ主人を取りかえたにすぎないのである。信仰生活とは、多くの人の思うごとく、自己の意力をふるい起して克己奮闘、もつて惡に克ち善を行う生活ではない。あるものに引きずられて、惡がおのずから厭わしくなり、善がおのずから喜ばしく慕わしくなつて、行われる生活である。自分の意志によるのではなく、ある他の意志に支配されていとなむところの生活である。これすなわちある他のものの奴隷たる状態ではないか。すなわちクリスチャンは「義の僕(奴隷)」である。義の奴隷たるに至つて、信仰が眞の信仰になつたのである。

 今や人の厭う語にして「奴隷」という語のごとくはなはだしきものはない。何者にも從わず、何者をも主とせず、すべての権威を否認すという矯激なる思想は現代の流行物である。しかし我らは義の僕、~の奴隷たるをもつて理想とする。我らは全然己れをむなしゆうして~に隷屬してしまわねばならぬ。自分の意志が全くなくなつて聖意のままに引きまわされるのが眞の信仰生活である。一々の事件に對して我が意志を用いて判斷して處理するというのではない。自然の傾向としてまた習慣性として、惡が厭われ、善が慕われ、事の判斷が行われて行くのが、~の僕たるものの日常生活である。

 非戰問題のごときは、理窟はどちらにでも立つであろう。平和の貴いものであるとともに、戰争も必要のものかも知れない。しかし~の僕たる者にはキリストの心が宿つてゐる。このキリストの心は、到底彼をして戰争を是認せしめないのである。勞働問題と言いまたその他の難問題と言い、いずれも同樣である。~の僕たる者にはキリストの心が宿つていて、何が~の喜びたもうところであるかがおのずからわかり、その思想も行爲も自然とこれできまつて行くのである。
 
  「恩惠の下にありて律法の下にあらず」と言う。律法にしばられてゐるときは、かえつて律法に反抗して罪を犯してみたくなる。そして相當の罰を受けるのである。然るにこの律法の支配を脱して恩惠の下に移つたとせば如何。すでに人を恩惠の下に攝取せし上は、~はただ罪を問責したもうだけではすまない。すでに人を子として受け入れたのであるゆえ、親が子に對する關係のさらに深きものがその間(かん)になくてはならぬ。ゆえにただの責罰をもつて終るはずがない。かならず~は一人の罪を犯す者あらばそのために堪えがたき苦しみを味わいたもうに相違ない。すなわち恩惠の下にある者の罪に會いては、~は罰するよりもまず御自身において深き苦しみを嘗めたもうのである。これ實に親心である。律法の時代は、人の罰せらるる時代、恩惠の時代は、父がひとり心を痛めたもう時代である。

 そして今や實に恩惠の時代である。今や我らの犯すただ一つの罪、ただ一つの不信の言行が、いたく父を苦しめるのである。されば我ら罪を犯さぬようつとめねばならぬ。御心を痛め奉らぬよう心がけねばならぬ。我を愛する父はかくすれば喜びかくすれば悲しむと知りながら、父の喜びたもうことを捨てて悲しみたもうことを行うは不信の至りである。ゆえに、我ら罪を犯すべきでない。ますます聖潔に向つて進まねばならない。~の僕たる者はつねにかかる心を抱かねばならぬ。これ律法の支配を放して恩惠の下に取りおさめられし者において當然起るべき心である。かくして我らは罪より自由なるを得、すなわち~の奴隷となつて初めてサタンより自由なるを得るのである。~の奴隷たるは、實は本當に自主たる道である。

第三十講の約説

 信者は自主自由の身ではない、彼は何事も彼の自由意志をもつて決定してこれを行う者ではない、そう思うのは大なるまちがいである、信者もまた奴隷である、その點においては不信者と異ならない、信者と不信者の異なる點は、その隷屬する主人にあるのである。不信者は罪の奴隷であるのに、信者は~の奴隷である、人は何人も全然自由たる能わず、何者にかつかえざるを得ないのである、~につかえざれば惡魔につかえ、~につかえて初めて惡魔につかえざるに至る、而してキリスト信者というは別の者ではない、惡魔の僕たるを廃(や)めて、~の僕となつた者である、あたかも昔の日本武士のごとき者である、いずれかの諸侯につかえざるを得ない、つかうるの主なき者は浪人である、そのごとく、人は何人も何者かの僕となりて、惡魔に勝ち、罪に勝ち、肉に勝ち、自己に勝つことができるのである、彼は前(さき)に罪の、また汚穢(けがれ)の僕であつた(十六節、十七節、十九節)、然れども今や~の恩惠によりて、順(信仰)の僕(十六節)、義の僕(十八節)、また~の僕たるに至つた(二二節)、然れども依然として奴僕である、パウロは自己を稱してイエス・キリストの僕(奴隷)と言うた、而してキリストの奴隷たるは名譽の絶頂である、眞正の自由はここにある、~に救わるるは、彼の捕虜となりて彼の意旨(みこころ)のままに使わるることである。

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