第二十九講 潔めらるること(二)
〔參考〕マタイ傳第十二章二九節、
ヨハネ傳第二一章十八節

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僕役の生涯
 
 前述せしとおり、第六章の問題は「潔め」である。すなわちクリスチャンは奮励欲求して全き~の子たるべく進まねばならぬ、全き聖潔に達せんとの理想は、全き聖潔を與えらるる時あるべしとの希望と相結ばねばならぬ、ただ義と見なされしのみにて滿足するは怠慢であるというのである。信仰は勿論第一に必要である。そしてこの信仰は、希望をともなつて生きてくる。しかしこれにとどまつてはならない。このほかに、さらにキリストの靈化に浴して次第に彼に化せられるという實驗がなくてはならぬ。~に祈り、聖靈の恩化に浴して、聖潔に向わんとする欲求は、つねに信者の信仰生活を生き生きせしむるものである。これがないときには、信仰は生氣を失し、ついには有るか無きかの有樣に立ち至るものである。贖罪の信仰、永生の希望のみにては足らぬ。その上にこの「潔め」の欲求および實驗を必要とする。ゆえにこの「潔め」は、往々一方においては極端にまた偏して強調さるることあるにもかかわらず、また他方においては全然輕視または無視さるるにかかわらず、その健全なる姿においては、いかなる信者にも缺くべからざるものなることを認めねばならぬ。
 
 イエスは山上の垂訓においてヘえたもうた「心の清き者は幸(さいわい)なり、その人は~を見ることを得べければなり」(マタイ傳五章八節)と。パウロはテサロニケ前書において「また願う、主、汝らの愛を増しかつ滿たしめ、汝らをして、たがいに愛しすべての人を愛すること、われらが汝らを愛するごとくならしめて、汝らの心を堅くし、われらの主イエス、そのすべての聖徒とともに來らんとき、汝らをして、われらの~なる父の前に、潔くして責むべきところなからしめんことを」(三章十二節、十三節)と。またへブル書には「なんじら、すべての人と和(やわら)ぐことをなし、みずから潔からんことをつとめよ。人もし潔からずば、主に見ゆることを得ざるなり」(十二章十四節)とある。信仰の生活は、サタンとのかぎりなき闘争の生活である。サタンをしりぞけ、罪に打勝ち、聖潔を成し遂ぐる努力の連続が、信仰の生涯である。「汝ら罪と戰え、勝て、聖潔に至れ、~はその聖靈をもつて充分に汝らの努力を助けたもう」と、これロマ書第六章、第七章の拐~である。

 このあたりのパウロの筆はかなりむずかしくして、これを解せんとする者をすくなからず苦しめる。ためにある人は疑う、あるいはパウロ自身がこのことについてまだその思想が熟していなかつたのではないかと。しかしこれ大いに誤つてゐる。彼はもとよりこのことが充分にわかつていた。ただ彼の苦しんだことは、いかにしてこれを簡單に説明せんかにあつたのである。彼は説くべきことを數かぎりなく持つていた。彼の信仰の經驗はあまりに豐かであり、彼の思想の嚢はあまりに多き内容をもつてはちきれんばかりであつた。されば一の問題について懇切丁寧なる説明をなすことは到底彼においてゆるされなかつた。彼は次ぎより次ぎへと新しき問題に移りゆかねばならぬ。ゆえに一の問題については簡單に述ぶるよりほかなかつたのである。これ彼の筆に難解のところ多く、ロマ書のごとき、大問題の続出するものにおいては、ことに然る處以である。我らは塩ァなる注意と深き思考とをもつて彼の筆に對さねばならぬ。
 第六章十五節より問題はすこしく變つてくる。まず十五節を見よ。
 
 然らば如何、われら恩惠の下にありて律法の下にあらざるがゆえに、罪を犯すべきか。
 
との設問がある。パウロはすでに第六章一節において「然らばわれら何を言わんや、恩惠の増さんために罪におるべきか」との疑問を設けて、「然らず」とこれを否定し、かつその理由を述べた。然るにまたここに同じような疑問を出したのは何ゆえであるか。答えて言う、一節と十五節は同一の疑問ではない。仔細にこの二つの節をくらべて見るに、明らかに二つの相違がある。一節には「恩惠の増さんために」とあり、十五節には「恩惠の下にありて律法の下にあらざるがゆえに」とある。すなわちこの兩節は、その疑問の理由において相異なつてゐる。次ぎに一節の疑問は「罪におるべきか」であつて、十五節のそれは「罪を犯すべきか」である。文字の上にかく明らかに相違があるのは、この兩節が意味において相違せるがためである。
 
 信者となることは大なる變化を受けることである。心に根本的の革命を起すのが信仰である。東が西となり、天が地となるのが信仰である。~より來る生命は、これだけのことを人の魂になさんとするのである。しかしながら、人はその受くる變化のあまりに革命的なるに今さらのごとく喫驚する。かくてはわが生活が根底より破壊されるであろうと思う。そしてなるべくこの變化より逃れようとする。それでも恩惠だけは受けたいと思う。すなわち變化は受くることなく、ふるき生活をつづけしままにて、恩惠だけはますます多く受けたしと願う。これ堕落せる人間の特徴たる自己本位の心持である。この心持をあらわしたものが一節である。「恩惠の増さんために罪におるべきか」と言う。すなわちふるき罪の生活をつづけて、恩惠だけはますます多く受けんとの願いである。

 これと十五節とのあいだには明白なる相違がある。一節は「罪におるべきか」である。罪の生活をつづけるべきかとの疑問である。十五節は「罪を犯すべきか」である。個々の罪を犯すべきかである。罪の舊生活を捨てて義の新生活に入つたのではあるが、しかし一つや二つの罪を犯してもよいではないかとの疑問である。「われら恩惠の下にありて律法の下にあらざるがゆえに」とある。すでに信仰によつて義とせられて、今や我ら全く恩惠の下にある。今ははや律法は我らをしばらない。我らは律法の支配を受けてはいない。~は今や恩惠の中に我らを置きたもう。その愛は我らを取りかこんでゐる。ゆえにすこしぐらいは罪を犯してもよいではないか。~が、ゆるす~である以上、われらすこしは罪を犯すも、ゆるさるるはずである。まして今日のごとき腐敗をきわめたる社会にありて、強き誘惑にかこまれてゐる者が、そして罪の遺傳を受けてゐる者が、潔き生活を送るというは不可能のことである。遺傳と境遇とは我らをして必然的に罪を犯さしめる。これ實にやむを得ないことである。然る上は、我らふるき生活を捨てたとて全然新しくなる必要はあるまい。ふるき生活においてなしたる罪を、すこしはつづけてもよいではあるまいか。全く潔き生活を理想として努力奮進するごときは、むしろ不可能を試むるがごときではあるまいかと。これ十五節の意味である。

 パウロはこの疑問に對して、まず「然らず」と答え、そして十六節よりその理由を説明するのであるが、順序として、まず前に歸つて十二節より解釋せねばならぬ。
 
 このゆえに、汝ら罪を死ぬべき肉體に王たらしめてその欲に從うなかれ。
 
 と十二節は言う。罪を肉體に王たらしむるなかれ、罪をして肉體を支配せしむるなかれ、肉體をして罪てふ王の臣僕たらしむるなかれという意味である。實際罪の支配の下にないものが信者であつて、罪の支配の下にあるものが不信者である。罪を王として僕役の生活を送つてゐるものが不信者であつて、義を主として僕役の生活を送つてゐるものが信者である。ともに支配さるる生活であるが、支配する者が全くちがうのである。信者になつたとてあまり變らぬではないかと、世はクリスチャンを批評する。クリスチャン自身もまたあまり變つたように思われぬことがある。しかしここに根本的の變化があつたのである(もし信者が眞の信者であるならば)。不信者のときは、罪が王となつて我を支配していたのであつて、信者となつたというのは、この支配を脱したことである。
 
 これについて見るべきは二〇節である。「そは汝ら罪の僕なりしときには義につかえざればなり」とある。これ罪をして王たらしめていた不信者時代のことを言うたのである。「義につかえざればなり」は、原文を直讀すれば「義より自由なりき」とある(英譯聖書參考のこと)。義より解放せられおる生活が不信者の生活 −− 罪をして王たらしめてその支配の下にある生活 −− である。義より自由であるというのは、義の支配下におらぬこと、全然義よりはなれおることである、これすなわち不信者の生活である。不信者と言うても種々の程度の人があるけれども、彼らの生活原理を見るときは、かく言わざるを得ないのである。これに反して、信者は義の支配下にあつてすでに罪の支配を脱した者である。罪をして王たらしめていない者である。ヨハネ第一書第三章六節に「およそ彼(キリスト)におる者は罪を犯さず、およそ罪を犯すものはいまだ彼を見ず、いまだ彼を知らざるなり」とあるは、すなわちこの意をあらわしたもので、その意味するところは、個々の罪を一も犯さずというのでなくて、習慣性として罪を犯さず、すなわち罪に歩むことを生活の原理とせずというのである。まことにキリストにある者は、罪を王としてその支配を受けていないのである。罪の僕役たる生活を捨てて、義の僕役たる生活に入つたのである。
 十三節は十二節とつづけて讀むべき語で、その拐~は全くひとしいのである。
 
また汝らの肢體を不義の器となして罪にささぐることなかれ。死よりよみがえりし者の如く、己れを~にささげ、また肢體を義の器となして~につかうべし。
 
とある。肉體を罪の奴僕たらしめざるのみならず、また肉體を不義の器として罪にささぐるなかれ、己れを~にささげ、肢體を義の器として~にささげよというのである。そして十四節には左のごとくある。
 
そはなんじら恩惠の下にありて律法の下にあらざれば、罪は汝らに主となることなければなり。
 
 その意は、クリスチャンはすでに恩惠の下にあつて律法の下にないゆえ、罪が彼らを支配する − 罪が彼らに王たり、彼らが罪の奴僕たる − ことは全然ないのであるというにある。
 
 今この十四節と、十二節および十三節とを比ぶるに、そこに明白なる矛盾があるように見える。もし十四節に言うごとく、信者が罪に支配せらるることないものであるならば、十二節、十三節のごとく、罪をして王たらしむるなかれというようなすすめをする必要はないはずである。これはすでに然(し)かある者に向つて然かあれと命令することで、あたかも男に向つて男たれと言い、女に向いて女たれと言うごとく、無用のことであると思われる。しかしながら、努力をすすめ、また原理を示すは決して前後矛盾ではない。たとえば男に向つて「男らしかれ、汝はすでに男なればなり」と言い、また女に向つて「女らしかれ、汝はすでに女なればなり」と言うがごときはこれである。これ決して不合理でも前後矛盾でもなく、かえつてすこぶる有力なるすすめの道たるのである。
 
 罪の僕たるなかれ、汝らは罪の僕にあらざればなりというはこれである。~は命令を下すとともに、これを實行し得る状態に人を置きたもうのである。ただの命令ではない、命令に實現がともなうのである。潔くならんとつとめよ、~はかならず潔くならしめたもうというのである。これほど力あるすすめがどこにあろうか。サタンと戰いて勝つべし、勝利はかならず汝らのものなりと告げられて、誰か勇氣百倍以て強敵に當らんとの勇猛心を奮い起さぬ者があろうか。これに反し、サタンと戰いて勝たんとつとめよ、あるいは汝は負くるならんと言われんか、これ勇氣をいたく沮喪せしめらるることである。ただしつとめよと言うも、勿論單なる自力ではない。~が我らに命令しかつ實行せしめたもうのである。すなわち命令するとともに力を賜わるのである。このことを知らざるときに、あるいは事の難きに失望し、あるいはわずかの成功に高ぶるに至る危険があるのである。
 
 ~の我らに對しての要求は、全く潔くなれである。すべてをささげて~につかえ、義の僕たれである。そしてこれ不可能を要求するごとく見ゆれど、この命令に添えて、聖靈をもつて實行力を賜わるのである。彼はあらゆる道をもつて我らを助けたもうのである。されば我らつとむべし、はげむべし、努力奮進すべし。~はかならず我らの志すところを遂げしめたもうのである。
 
 ただ義たれ義たれと命令するはこの世の道コである。これはただ命令するのみで、力はすこしも供給しないのである。まず義ならざる人を義として攝(おさ)めとり、その罪の苦しみを除き、心によろこびをみなぎらしめて、みずから義たらんとの志を起さしめ、聖靈を賜うてその實現を助くるというのがiケである。
第二十九講の約説
 
 信者は罪の内にいてはならない、すなわち罪をその習慣性となしてはならない(六章一節)、罪より全く脱出しなければならない、而して救いの第一歩は罪の統治権より脱することである、彼にありて、罪は弱くなり義は強くなることである、彼は斷然罪の配下よりはなれて、義の生涯に入るべきである(十二節、十三節)、而してこれ彼のなし能うことである、そは彼は信者となりて、恩惠の下にありて律法の下にあらざるがゆえに、罪は彼の上に主権をふるうことができないからである、その理由はのちに明らかである。
 
 信者は罪の支配より脱せねばならぬ、而してさらに進んで完全の人とならねばならぬ、罪は痕跡だもとどめぬ者とならねばならぬ(十五節)、彼は恩惠の下にあればとて、いかなる罪といえどもこれを犯すべくゆるされないのである(マタイ傳五章四八節、ピリピ書二章十五節參考)、而してこのことたる、~が信者より要求(もと)めたもうことであつて、また彼にありてなしたもうことである、~は命令を發したもうと同時に能力を供給したもう、彼の命令に、かならず實行可能の約束がともなう、何々するなかれ、何々すべしと言いて、單に實行をせまりたもうのではない、「罪は汝らに主たることなければなり」と言いて、命令執行の可能を肯定したもう、ゆえに信者は~の完全要求に對して失望落膽してはならない、「~の御旨は汝らの潔からんことなり」とある(テサロニケ前書四章三節)、これ~が、信者がなさんことを欲したもうことであつて、同時にまた~が彼にありてなしたもうことである、聖書を讀むにあたつて、~の命令(imperatives)とともに彼の肯定(affirmatives)あるを忘れてはならない。

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