第二十八講 潔めらるること (一)
− 第六章一節 〜 十四節の研究 −

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バプテスマの意義
 
 第六章一節 〜 十四節は決して解しやすい箇處ではない。さりとて全然不可解の處ではない。大體の拐~をつかむことは、すこしく注意すればでき、すでに大體の拐~がわかれば、各句、各語の意味もまたおのずからほぼ理解せられるのである。そしてそのためには、我らはまず前後の關係を見て、パウロの思想排列の順序を探らねばならぬ。
 
 そもそも第六章と第七章は何を記すを主眼とするのであるか。かつて説きしごとく、ロマ書の三大問題の第一たる「個人の救い」は、(第一)義とせらるること、(第二)潔めらるること、(第三)救わるることの三項に分ちて述べられてゐる。このうち第一の義とせらるることは、第一章後半より第五章に至るまでの主題であつて、我らは今までにそれを見來つたのである。その主眼は、人の義とせらるるは決して行いの義によらず、~より言えば恩惠、人より言えば信仰によるというにある。そして「ただイエス・キリストのあがないによりて、~の恩惠をうけ、功(いさおし)なくて義とせらるるなり」(三章二四節)とあるごとく、この大なる特権は、ひとえにキリストの十字架によると言うのである。これたしかにiケである。

 しかしながらここに一の疑問が當然起る。もし行いによりて義たる能わず、信仰によりて義とせらるるというならば、行いはどうでもよいこととなる。換言すれば、信仰が、義とせらるることの唯一の條件であれば、行いはいかにあつても問題とならぬ。何をしなくともよいとともに、また何をしてもよいことになる。然るときは、信仰至上主義のヘ義は、實際道コの上に大なる危険をもたらすではないかとの疑問である。パウロはこの疑問を假想して、第六章一節において「然らばわれら何言わんや、恩惠の増さんために罪におるべきか」と言うのである。罪のあるところに惠みが加わるならば、惠みをますます受けんためには罪の中におるをよしとすべきではないかとの疑問である。パウロは第二節において、この疑問を一蹴し去つて言う、「しからず、我ら罪において死にし者なるに、いかでなおその中において生きんや」と。我らすでに悔い改めて赦罪の惠みに浴せし者、罪において死にし過去の惨状は想起するだに恐ろしきものである。然るに今に至つて、惠みの増さんためとてふたたび罪の中に死の生活をつづけんとするごとき、到底思い得ぬことであるとパウロは言う。斷乎として、愚かなる疑問をしりぞける彼の態度は、例によつて強烈である。
 
 この一語は、愚かなる疑問を一蹴し去るには充分である。しかしパウロはこれを機として、信仰生活の特徴たる「潔(きよ)め」の問題に入るのである。これ三節以下である。もし彼がこの問題に入る必要がなかつたならば、二節において疑問を一蹴し去つてただちに第八章の「救い」の問題入るべきであつた。しかし彼は「潔め」のことを説明するを必要とした。ゆえに第六章、第七章においてこれを説いたのである。何ゆえに彼はこれを説かねばならなかつたか。そは「潔めらるること」が信仰生活上に不可缺のことであるからである。「義とせらるること」とは、人の罪がゆるされ、~と人のあいだのへだてが失せ、義として~に受けらるるに至つたことである。あたかも家をはなれてさまよいおりし子が父の家にもどるに至つたというだけのことである。~の子とせられたのである、けれどもまだ名實そなわる~の子となつたのではない。これからは名實ともにそなわる~の子とならねばならぬ。これすなわち「潔めらるること」である。これ眞の~の子になるために是非ともなくてはならぬことである。

 これをたとえて言えば「義とせらるること」というのは、あたかも王家をはなれて永くさすらいの旅にありし王子がふたたび王家にもどり來つたというだけのことである。彼は名だけ王子となつたのであつて、まだ王子たるの實をそなえていない。永き放浪は彼をして庶民のごとくならしめた。彼が王子たる品性と威厳を囘復せんには、その上なお幾歳月を要するのである。クリスチャンは、義とせられ~の子とせられたのち、さらに~の子たる實に向つて進みゆかねばならぬ。これすなわち「潔め」である。さらにもう一つの比喩をもつてせば、重病を癒されたものがただちに健康者となることはできぬ。病の去りしは事實であるが、まだ衰弱は残つてゐる。ある月日を經てのち、この衰えが失せて健康囘復し、初めて健全者となるのである。この健康囘復の經過がすなわち「潔め」に相當するのである。義とせられし者は、義と見なされただけで、まだ義となつたのではない。これからは眞に義となるべきである。されば信者は~の子の完全を志して進むべきである。小キリストとならんとの努力、これが信仰生活のつねの姿でなくてはならぬ。このことを知らずして、ただ悔い改めしこと、ただ義とせられしこと。ただ洗禮を受けしこと、これだけをもつて滿足する者が多い。キリスト信者の無力、キリストヘ會の腐敗はおおむねここにもとづくのである。これを至難のこと不可能のことと見る人があるかも知れぬ。しかし至難であるか不可能であるかは別問題として、これクリスチャンに缺くべからざることであり、かつまた信仰の與うる歡喜も希望もこれがなくては充分なるを得ないのである。然り、得られないのである。

 この潔めのことを説明するために、パウロは三つの例を引いたのである。第一はバプテスマのこと(一節以下)、第二は奴隷のこと(三節以下)、第三は婚姻のこと(七章一節以下)である。バプテスマは、初代ヘ会においては全身を水に浸す式であつた(今日浸禮ヘ会にてなすごとく)。これには意味がある。すなわち全身を水に埋めるのは、キリストとともに死して葬られしことを象徴し、そして水より引き出さるるのは、彼とともに復活したことを象徴したのである。ゆえにバブテスマを受くるに當つて必要なものが二つあつた。第一は、キリストの死(勿論贖罪の死)と復活とを信ずることであり、第二は、自身またキリストとともに罪に死にて義によみがえりしことを實驗することであつた。この第二の實驗を形にあらわしたのがバプテスマであるがゆえに、自然バプテスマはまた第一の信仰をも表白するものとなるのである。何となれば、第一の信仰なくしては第二の實驗は起り得ないからである。バプテスマとはかくも意味深きものであつた。キリストの復活という客觀的事實を認むるとともに、彼とともに死し彼とともに復活せしてふ主觀的經驗を象徴したものであつた。かくも意味深きバプテスマが、今日輕きこととして行われおるは痛歎の至りである。

 右のことを知りし上にて三節以下を讀むときは、意味は大體において明瞭となると思う。まず三節 〜 五節は左のごとくである。
 
3 イエス・キリストに合わんとてバプテスマを受けし者は、すなわちその死に合わんとてこれを受けしなるを汝ら知らざるか。4 ゆえにわれらその死に合うパブテスマによりて彼とともに葬らるるは、キリスト、父の榮によりて死よりよみがえらされしごとく、われらも新しき生命に歩むべきためなり。5 もしわれら彼の死の状にひとしからば、またかれの復活にもひとしかるべし。
 
 我らはすでにバプテスマを受けた。想起せよ、我らがこの式にあずかつたのは、キリストとともに死し、キリストとともによみがえりし實驗を象徴したものであることを。我らが信仰生活に入つたということは、キリストとともに新しき生命によみがえつたことである。生れ變つて「新しき生命に歩む」こと、これすなわち信仰の生涯である。然らばいかにしてふるき罪の生涯をつづけることができようか、いかにして「罪の中に生きる」ことができようかと、パウロは言うのである。さらに六節には言う、
 
われらのふるき人、彼(キリスト)とともに十字架に釘けらるるは、罪の身滅(すた)りて、今より罪につかえざるがためなるをわれらは知る。
 
と。我らのふるき人はすでに主とともに十字架にて死した。これ罪の身亡びて、以後は罪につかえることなきためである。クリスチャンはすでに罪という舊主人のもとを辭して、これにつかえぬものであるというのである。さらに九節 〜 十一節を見よ。
 
9 キリスト死よりよみがえりてまた死なず、死もまた彼に主とならざるを知れり。10 これその死にしは、罪についてひとたび死にしなり、その生くるは、~について生くるなり。11 かくなんじらもわれらの主イエス・キリストにより、罪についてはみずから死ぬる者、また~については生ける者なりとおもうべし。
 
 キリストとクリスチャンの靈的合致はここにしるされてゐる。すでにバプテスマを受けてキリストとともに死し、ともによみがえりしという實驗あらば、彼が罪について死せしごとく我らも罪について死せる者、彼が~について今生けるごとく我らも~について生ける者であるべきはずである。我らはすでに罪とサタンにつかえる生涯を捨てて義と~とにつかえる生涯に入つたものである。然り、たしかにそうである。しかしながら、この一義を人は往々にして忘れんとする。この潔めらるることを忘れて、ただ義とせられし恩惠の甘夢をむさぼるべく午睡をつづけんとする。ゆえにパウロは十二節、十三節において、すすめの語を述べたのである。このゆえに、汝ら罪を死ぬべき肉體に王たらしめてその欲に從うなかれ。また汝らの肢體を不義の器となして罪にささぐることなかれ。死よりよみがえりし者のごとく、己れを~にささげ、また肢體を義の器となして~につかうべし、罪をして肉體を支配せしむるなかれ、肢體を罪てふ主人にささげて不義の器としなすなかれ、キリストとともに死よりよみがえりて新生涯に入りしものなる以上、己れを全く~にささげ、肢體はこれを義の器となし、もつぱら~の僕として義に奉仕する生活を営むべしと。これパウロが全力をこめてここにすすむるところである。

 信仰とはキリストと合致することである。ゆえに彼とともによみがえることである。罪に死して義によみがえることである。すべてをもつて~に從い義につかうる生涯、これが潔めらるる生涯、これが潔めらるることである。パウロはコリント後書第三章十八節において言うた、「すべてわれら顔覆いなくして鏡に照すがごとく主の榮えを見、榮えいやまさりて、その同じ像(かたち)に化(かわ)るなり、これ主すなわち靈(みたま)によりてなり」と。キリストを仰ぎ、ながめ、信ずる生涯は、次第に聖化せられてキリストと同じ像(かたち)のものとなる。そしてこれは自力によるにあらず、全く聖靈によるのであると、パウロはここに言うのである。かく聖靈によつて化せられて、次第にキリストに似たるものと成り進むが「潔めらるること」である。健全なる信仰生活はつねにこの種の生活である。赫々(かくかく)たる光明の希望に生くる生活にあるべき我ら、いかでふるき罪の中に生くるを得ようか。いかでふるきエジプトに歸りゆくを得ようか。ただ義とせられしことのみにて晏如(あんじょ)たり得ようか。否な否な、我らはますます潔めを聖靈によつて實現せらるべく祈りかつ求めなくてはならないのである。
 
附 言
 バプテスマの意味は前述せしとおりである。ただ問題となるのは、かかる新生に入つたものにバプテスマの式の必要あるかなきかということである。ある人は有りと言い、ある人は無しと答える。いずれにしてもこれは根本問題、主要問題、第一義的問題ではない。そして我らの主張は、かならずしも形の上の儀式を受くる要なし(あるいは受けた方がより良いかも知れぬが)というのである。「無くてかなうまじきものは一」である。他は有るもよし無くもよしである。しかしこれをほどこす以上は、充分にこれをほどこさるるだけの資格ある者に對してのみ、なすべきである。輕々しくこれをほどこすは、今日の大なる弊風である。
 

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