第二十七講 アダムとキリスト (二)
− 第五章十二節 〜 二一節の研究(下)−

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 前囘に引きつづき、第五章十二節 〜 二一節の研究であるが、この場處は短き語の中に無量の眞理をふくませた處であるゆえ、文章としては不備の點多く、全部を正確に了得することはなかなか困難である。邦語改譯聖書は在來の譯より正確であるゆえ、これを參考とすることは少なからず理解を助けるのである。また前囘に説きしごとく(第一)人類の一體なること(第二)~は人類に對するにその代表者をもつてしたもうこと、この二つの眞理はまず心に貯えておかねばならぬ。
 十四節の最後に「アダムはすなわち來らんとする者の模(かた)なり」という句がある。「來らんとする者」とはキリストを指す。すなわちアダムとキリストとが人類の二大代表者であるというのである。~は人類中の最上なる者をその代表として選びたもうたのである。そしてパウロのここに説くところは、大體において左の二つに分つことができる。
 
 第一、アダムはキリストの模(かた)である。アダム一人の堕罪より人類に罪と死がおよんだ。同樣に、キリスト一人の義により、義と生とが人類におよんだ。甲は死の源であり、乙は生の源である。この意味において、二人の人類に對する關係は酷似してゐる。
 第二、しかしながら、この二人の對人類關係において相異なる點もまたある。その相違を擧ぐれば、おおよそ左の三項である。
 
 (イ)アダムは純然たる人である。然るにキリストは、~がその獨り子を人の容(かたち)において世に降したものである。
 (ロ)アダムによる人類の死は、~の審判より出でたものであるが、キリストによる人類の救いは、~の憐愍(れんみん)より出でたものである。
 (ハ)アダムのために人類に臨んだものは死であるが、キリストのために人類に臨んだものは永生である。
 かく、アダムとキリストとは似ておつてしかも大いに相違してゐる。そしてその相違は實に根本的の相違である。甲より出で來つたものは罪と死 − とこしえの詛いである。然るに乙より出で來つたものは、この永久の詛いを打破る義と、生と、永久の祝bニである。似ておるがゆえに、前者を眞理として受くる者は、後者をも眞理として受けねばならぬ。また相違せるがゆえに、甲による我らの死が、乙による生において打碎かるるに相違ない。されば我らの救いは確實である。
 人々よ、早く來つてこの救いを受けよとパウロはすすめるのである(右の第一の類似點を説くが十二節 〜 十四節、第二の相違點を説くが十五節 〜 二一節である)。
 これはパウロ~學なれば、我らの關するところにあらずと言う人がある。しかしそれは大なる誤りである。まず我らは舊約聖書において左のごとき語に接するのである。
われエホバ、汝の~はねたむ~なれば、われをにくむ者に向いては、父の罪を子に報いて三、四代におよぼし、われを愛しわが誡命(いましめ)を守る者には、恩惠をほどこして千代に至るなり(出エジプト記二〇章五節、六節)。

エホバを畏るる者にエホバの賜うその憐憫は大いにして、天の地よりも高きがごとし、そのわれらより愆(とが)を遠ざけたもうことは、東の西より遠きがごとし(詩篇一〇三篇十一節、十二節)。

エホバに感謝せよ、エホバは恩惠ふかく、その隣愍はとこしえに絶ゆることなし(詩篇一一八篇一節)。

その怒りはただしばしにて、その惠みは生命とともに永し、夜は夜もすがら泣き悲しむとも、朝には喜び歌わん(詩篇三〇篇五節)。

われしばし汝を捨てたれど、大いなる憐愍をもて汝をあつめん、わが怒りあふれてしばらくわが面を汝にかくしたれど、とこしえの恩惠をもて汝をあわれまんと。こは汝をあがないたもうエホバの聖言なり(イザヤ書五四章、七節、八節)。
 
 以上の五つは、もつとも代表的なものであるが、他にもこれに類似せる語句は無數にある。ヤコブ書第二章十三節の語をもつてすれば、これ「憐憫は審判に勝つなり」である。審判はもとより無くてはならぬ。しかし憐憫は審判以上に在る。審判は三、四代におよび、恩惠は千代におよぶ。怒りは暫時にして、憐憫は永久である。~はもとより怒りと罰を與えたまわねばならぬ。しかし彼は怒りと罰に熱心ではなくして、これやむを得ざるに出でしもの、そして憐憫と恩惠については、眞に燃ゆるがごとき熱心を起したもうのである。これ舊約時代よりの明らかなるヘえである。
 
 ~のこの心は今の人間の心と正反對である。怒ること、責むること、毀(こぼ)つことには全於ヘをつくすも、ゆるすこと、忍ぶこと、建つることには充分の力を用いない。すべての惡に對しては熱心を燃やすも、善に對してはもつとも冷淡である。これ人類堕落の有力なる證據ともいうべきものである。かくのごとく、人の心と~の心とは全くちがう。~は怒ること遅くして、惠むこと早い。彼は責むるに熱心ならずして、ゆるすに熱心である。ゆえに今日の人といえども、~を信じて聖靈を心に迎うるに至れば、また善に對して熱心にして惡に對して嫌厭たり得るのである。

 この~の心を知りて我らは十五節を讀まねばならぬ。「されど罪のことは恩賜のことのごときにあらず。もし一人の罪によりて死ぬる者多からば、まして~の恩(めぐみ)と一人のイエス・キリストによれる恩惠の賜物とは、多くの人にあふれざらんや」と言う。~はアダム一人の罪のゆえに、全人類に對するに審判をもつてしたれども、これやむを得ざるに出でたのであつて、彼がこのことに熱心であるからではない。彼が熱心はキリストによる全人類の救いにある。キリスト一人の義のゆえに、惠みの賜物が多くの人にあふるるに至る。ここに~の特別の熱心がそそがれたのである。キリスト一人より全人類に生命のおよんだということは、~のこの特別の性質を知れば、決して不可解のことではない。これが了得しがたく思わるるのは、人が自己の、善に不熱心にして惡に熱心なる心を、~に映してながむるからのことである。

 次ぎに十六節は「賜物は一人より來る罪のごときにあらず。そは審判は一つの罪より出でて罪せらるるに至り、賜物は多くの罪より出でて義とせらるるに至る」と改譯すべきものである。前節同樣、アダムによる審判と、キリストによる恩惠との對照である。甲は全人類の罪せらるるに至りしこと、乙は全人類の義とせらるるに至りしことにて、この兩者のあいだには天地の相違ありと言うのである。すなわち審判は一つの罪を出發點として出で、賜物は多くの罪を出發點として出でて救いに至つたと言うのである。

 次ぎの十七節は言う、「もし一人罪を犯ししにより、死この一人によつて王たらんには、ましてあふるる恩惠と義の賜物を受くる者は、一人のイエス・キリストにより生にありて王たらざらんや」と。この節の對照は、死と生とである。一人のアダムの堕罪のため、死の支配を安くるに至り、一人のキリストの義のゆえに、生にありて支配し得るに至る。死の支配を受くると、生にありて支配すると、その差は實に無限大である。アダムのために人類は死に支配せらるるの不幸に會した。しかし~は第二のアダムとしてキリストを賜うて、彼の義のゆえに、彼を信ずる者には何人にかぎらず、永生にありて支配するの幸b與うる道をひらきたもうた。~は罰するに熱心ではなく、惠むに熱心である。

 以上において、アダムとキリストの比較はほぼ明らかになつたことと思う。まことにキリストの救いは大いなる救いである。~もし人類の一人一人が義となるとき初めて永生をもて酬ゆるとならば、人生は永久の絶望たるほかないのである。自分の罪を考えよ、また人類の罪を考えよ、その深きを思えよ、人いかでみずから完き義人たり得よう。各人みずから全き義を實現せずしては生命を與えられずとせば、人は滅亡をその前途に期するほかはない。さりながら、~はあわれむに熱心なる~である。ゆえにその獨り子を人として世に降し、彼をして人類にかわつて義を實現せしめ、彼義なるがため人類もまた義とせられて生を受くるに至る道をひらきたもうた。ここに大なる惠みがありまた人類の據りどころがある。このほかに眞に救わるる道はない。從つてこのほかに眞に安心に入り得る道はない。この義とせられて生を與えらるる惠みに入りて初めて、また事實上義を行い得るに至るのである。すなわち道コより信仰に入るにあらず、信仰より道コに入るのである。義となりて義とせらるるにあらず、義とせられて義となるのである。完き人として取り扱わるる惠みに入りて初めて完全に向つて進むのである。ゆえに第一に必要なることはイエス・キリストを信ずることである。この信仰ありて義とせられ、義とせられて義となるのである。信仰!これ實に現代の最大缺乏物であつてまた最大必要物である。いかにしてこの社会を救うべきか、またいかにして個々の人を救うべきか、そはいずれも信仰によりてである。キリストに對する信從のあるところ、人も救われまた社會も救わる。まず必要なるものは信仰である。
 
 以上をもつて第五章十二節 〜 二一節の大意を説明し終つた。遼遠の古における始祖アダムの堕落はついに~の獨り子の降世を必要ならしめたのである。始祖の堕罪は人類の受けたるもつとも大なる創痍であつた。ただこれを癒してあまりあるキリストの救いあつて、我らの歡びはつくるところを知らないのである。この兩者の對照を、パウロは力強くしるして我らに示すのである。今ここに、有名なるミルトンの『失樂園』(Paradise Lost)がアダムの堕落をいかに描きしかを見よう。これはロマ書第五章の解釋を大いに助くるものである。多分そのもつとも良き註解であろう。ミルトンの『失樂園』は創世記第三章の詩的註解であつて、始祖堕落のもつとも深き説明と稱すべきものである。事は第六章、七章、八章、九章、十章につまびらかである。まずサタンは蛇の形をとつてアダムとエバとを罪におとしいれんとする。彼は男よりもあざむきやすき女を選び、エバに近よりて「美わしき創造者に似たるもつとも美わしき汝よ」と言いて、彼女に甘きへつらいの語をかける。サタンは女のおちいりやすき虚榮心と好奇心の兩方より、エバを惑わさんとするのである。かくエバはまず虚榮心に滿足を與えられ、そして何ゆえに蛇が人語を語り得るかとの疑問を起す。これすなわち好奇心の生むところである。蛇はエバが思うつぼにはまつたのを喜んで、ある樹の果を食いしため人語を解するに至つたと答える。エバ好奇心に駆られて、蛇をうながし至り見れば、果せるかな、それは禁ぜられてゐる樹の果であつた。蛇は言う、~がこれを禁じたのは、獣がこれを食すれば人のごとくなるとともに、人がこれを食すれば~のごとくになるからである、~は人が己れとひとしき者となるをねたみ、永久に人を己れに隷屬せしめんと欲して、これを禁じたのである。ゆえにこれを食するはすこしもさしつかえないのみか、かえつて大なる幸b持ち來すのであると。この巧みなる誘いの語にまどわされて、エバはついに知識の樹の果を食するに至るのである。

 これを食し見れば、案の定、心に言い知らぬ喜びと新たなる力とが臨んだ。彼女はこの力を用いて、アダムとひとしきものまたはアダムよりすぐれた者と己れを見なして、アダムを下におさえようという心を起した。しかしまた思い直した、自分はすでに禁令を犯したのであるゆえ、多分罰として死を受くるのであろう、然るのちはアダムには新しき妻が與えられるであろう、これは堪えがたきことである、ゆえにむしろアダムを誘いて同じ罪を犯さしむる方がよいと(男を屈服させようと願いながら、また男に頼らねばならぬ女性の弱味が、心理的に描かれてゐる)。すなわち自己の堕罪をアダムに打ちあける。アダムは大いにおどろきまた失望した。しかし女の愛にひかされて「汝なくして、いかでわれ生くべきや」と、ついに同じ罪を犯すに至つたのである。

 かくして二人はついに堕落した。二人は一時の歡樂より醒めて、失いしところのあまりに大なるにおどろいた。堕落の状態のみじめさがしみじみと感ぜられた。アダムはことにはげしき失望におそわれた。彼は二人の現状について痛恨のうめきを發した。彼はするどき非難の矢をエバに向け、彼女の薄志をもつて堕落のすべての原因であると詰(なじ)つた。エバはこれに對して、アダムの薄志弱行にして彼女の誘惑に勝つ能わざりしを責めた。而して二人はついに相争うの愚なるをさとつて、ともに悲惨なる運命を甘受するに至つた。彼らは他のすべてを失うも、二人の愛だけは失わじと決心するに至つた。

 かくミルトンは人類堕落の心理的解剖をなした。人類堕落の動機、および戀愛のためにはすべてを捨てても厭わずという堕落せる人間の心は、遺憾なく描かれてゐる。實に人間は−−ことに現代の人間は−−戀愛のためにはあらゆる罪を是認せんとするのである。十二節に「さればこれ一人より罪の、世に入り、罪より死の來り、人みな罪を犯せば、死のすべての人におよびたるがごとし」とあるごとく、人はみなアダムにありて罪を犯し、またアダムと同じく死するのである。

 「人みな罪を犯せば、死のすべての人におよぶ」のである。人類が堕落して~を失い、男は女よりも、また女は男よりも良きものがなきに至つて、その醜さが一層明らかにあらわれるのである。いかにしてこの堕落より脱すべきか。いかにして失いし樂園を囘復すべきか。ミルトンがその『樂園恢復』(Paradise Regained)において説けるごとく、そは一にキリストによつてである。

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