第二十四講 義とせらるることの結果(一)
− 第五章一節 〜 十一節の研究 −

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 ロマ書は第三章までにおいて、信仰によつて義とせらるるという救いの根柢眞理を説き、第四章に入つては、信仰の模範アブラハムをこの眞埋の證明者として擧げた。まず説き、次ぎに證明をかかげて、ここにこのヘ理は確立した。かくて人が信仰によつて義とせらるることはすでに明々白々となつた。ここにおいてか、義とせらるることの結果如何をしるすべき順序となつた。これ第五章以下である。
 
 第五章の一節に言う、「このゆえに、われら信仰によりて義とせられたれば、~と和ぐことを得たり、こはわが主イエス・キリストに頼(よ)りてなり」と。これは既説全部の反復と見るべきものである。我らは信仰によりて義とせられた。すでに罪をゆるされ、義人として~に受け容れらるるに至つたのであれば、これすなわち~と和ぐことを得たのである。そしてこのことたる、全く「わが主イエス・キリストに頼りて」である。彼とその十字架の犧牲によりてである。パウロは第四章までにおいてこのことを燕ラに説いたのである。然らば何ゆえ彼はかく燕ラにこれを説いたのであるか、それは、これが實に信仰生活の基礎であり、また救いの根柢であるからである。およそ根元的眞理はまず燕ラに説かるべきものである。あたかも生物學を説くに當つては、まず組織の單元たる細胞(cell)のことを詳説するがごとくである。ひとたび細胞の性質構造等が明白になれば、余は自然に理解し得らるるのである。ゆえにパウロは第四章までにおいて、信仰の義を力説し詳説したのである。そはこのことがひとたび傳受さるれば、他のことは比較的たやすく領得せられ、もしこのことが信受されぬときは、他のことは到底領得し得られないからである。
 さればパウロは第五章に入つて、まず既説せしところを一言のもとに要約し、そして二節よりはいよいよ他の問題に移り行かんとするのである。他の問題とは他なし、義とせられしことの結果たる信仰生活の特徴である。我らは前に第三章二節 〜 二六節を研究した。そしてそれまで萬民を罪人として道義の法廷に弾劾しつづけねばならなかつたパウロが、言わんとしてこらえ來つた赦罪のiケを、ここに堰を除かれし大水のごとくそそぎ出したことを見た。第五章二節以下、またこれに酷似してゐる。パウロは早く信仰生活に加えらるる恩惠を語らんと願いしも、その前提として「信仰によつて義とせらるること」をぜひとも説かねばならなかつた。かつこれが、單純ではあるが、たやすくは信受しがたきヘ義であるため、アブラハムの故事までも引用して、充分にこの一義を説明せねばならなかつた。恩惠の大水は、避けがたきかつ必要なる堰をもつてしばしとどめられていた。今やいよいよこの堰を撤開すべきときが來つた。恩惠の大水は滔々として奔流し來らんとする。これ第五章二節以下である。
 
 二節には「またわれら彼(キリスト)により信仰によりて、今おるところの恩惠に入ることを得、かつ~の榮えを望みて喜びをなす」とある。キリストにより、信仰によりて來るもののうち、第一は「恩惠」である。第二は「~の榮えを望みて喜びをなす」こと、すなわち希望の喜びである。これを一節と合せ考うれば、第一、義とせられて~と和ぐこと、第二、恩惠に入ること、第三、希望の喜びを受くることとなるのである。この三段の順序に我らは注意すべきである。
 
 罪をゆるされ義とせらるるや、恩惠に入らざるを得ない。あたかも親にそむきつつありし子が、親にゆるされてそのもとに歸るや、親は永くおさえおりし愛を一時にそそぎ、子はその加えらるる恩惠の、思いのほか大なるにおどろくがごとき類である。げに信仰によりて義とせられし結果として受くる恩惠はおどろくべきものである。そのことは、この恩惠を受けつつあるその人自身が、誰人よりもよく知つてゐる。罪の苦悶はぬぐうがごとく失せ、心には言い知らぬ平和來り、天國をしのびて現世の患難に堪え、天よりの生命を受けて確信をもつて働く、父はわが祈りに應じて可(よ)しと言いたもうがごとく、我は全世界のすべての良き人と天使と萬物と相融合するの境(きょう)に入りしを感じ、萬物のことごとくわがものなるを(コリント前書三章二一節)思うに至る。まことに測り知られぬ恩惠である。
 
 義とせられて恩惠を受くる状態に入りし人は「~の榮えを望みて喜びをなす」に至る。~の榮えを望むとは何を意味するか。~が榮えを本具したまえることは言うまでもない。この榮えを望むというのは、この榮えにあずからんことを望む意であるに相違ない。~の本具したもうところのその榮えの輝きを、己れもまた浴びんとの望みである。「愛する者よ、われらいま~の子たり、後いかん、いまだあらわれず、そのあらわれんときには、かならず~に似んことを知る」(ヨハネ第一書三章二節)とあるところの希望である。人が~とならんとするのではない。~に似た者に化せられんとするのである。一言にして言えば、完成榮化の希望である。この大希望を胸に抱いて喜び躍るは、~に義とせられて恩惠の領域に入りし者の受くる大なる特権である。
 
 義とせらるるや恩意を受け、さらにまた榮化の大希望を與えられて喜び躍る。これ一に主イエス・キリストを信ぜしという一事によるのである。彼の十字架あるがために、ただ信仰のみをもつてこの大なる特権と歡喜をわがものとするに至る。單なる信仰のみのゆえに−−何ら功(いさおし)を立つることなくして−−罪人の上にかく恩惠を與えたもう~の愛の大なるかな!「われら~を愛するにあらず、~われらを愛し、われらの罪のためにその子をつかわしてなだめの供え物とせり、これすなわち愛なり」(ヨハネ第一書四章一〇節)とあるとおりである。
 
 義とせられて恩惠を受け希望を與えらるること、このことを三章以下が細説するのである。すなわち一節は既説の要約であるが、同時にまた一節、二節を合せて三節以下の大意掲出と見ることができる。まず述べんとすることの主意を簡單にかかげて、然るのちその細説に入るは、パウロの文章の特徴である。
 
 一節、二節のごとき言をパウロがその聽衆に向つて發せしと假定してみよう(これは事實上あつたことであろう)。ある人々は勿論感服したであろう。しかし中には無遠慮に彼に向つて言うた人もあつたであろう、「パウロよ、汝の言はなはだ可し、しかし汝の現状は如何、世に何らの財もなく、わずかに勞働をもつて口を糊(のり)し、敵はヘ曾の内外に雲のごとく多く、國人よりは異端者としてしりぞけられて孤獨窮乏のうちにある惨状を如何、汝の處言と實際と、あまりに相違せるものあるではないか」と。しかしながら、かかる非難は彼の今立てる竪壘を覆(くつが)えさんにはあまりに脆弱であつた。パウロは揚々たる意氣をもつてただちにこれに酬ゆるところあつたであろう。すなわち三節 〜 五節がそれである。
 
 
義とせられて恩惠を受け、希望にあふれて喜ぶ。ただこれのみにとどまらない、患難にあつてもまた喜びをなすと言う。患難の原語は θλιψιs(スリプシス)である。聖書においては、主として信仰のゆえに受くるところの迫害、犧牲、苦難、痛苦を意味する語である。かならずしもいわゆる迫害のみを指さず、およそ信仰のゆえに受くる一切の不利益、損失、誤解、および拂わねばならぬ犧牲等を總括して「患難」と言うのである。すなわちクリスチャンに臨む特殊の患難を言うたのである。
 
 三節後半、四節、および五節は、患難にも喜びをなすところの理由提示である。まず「そは患難は忍耐を生じ」とある。忍耐と言えば、わが國の用法においては、ただあることを耐え忍んでゐるのを意味し、もつぱら消極的のものであるように見える。漢字の原意如何は別として、とにかくこれを、消極的にこらえてゐることと見るが普通の見方である。然るに原語 υπομονη(ヒュポモネー)は、消極的にこらえてゐることを意味する語ではない、積極的にかたく立ち、強く進むことを意味する語である。堅忍、剛毅、不屈、不撓等の意味を包含する語である。迫害の中にありて信仰を維持するのみならず、毫も屈するところなくして、進んで~の道を行う進取邁進を言うのである。パウロとシラスがピリピにて、町を擾(みだ)す者として捕えられ、はげしく鞭打たれ、「奥の獄に入れて桎(あしかせ)をかけ」られたるにもかかわらず、勇氣ますます身に滿ちて、夜半ごろ「祈祷をなし、かつ~を讃美」し、ついに獄吏をしてその前に俯伏(ひれふ)すに至らしめしがごとき、まことに好ヒュポモネーの一例である。
 
 「忍耐は錬達を生じ」とある。忍耐が患難の生むところであるごとく、錬達は忍耐の生むところである。然らば錬達の意味如何。英語聖書には experience(實驗)とあり、その改譯聖書には probation(立證)とある。原語はdokime (ドキメー)にして、元來實驗によつて得たる證明を意味する語であり、從つてかく證明せられし状態を言うにも用いられる。これ忍耐の結果としてiケの價値がますます實證せられて、我が心に一種犯しがたき信仰的確信の起りたる状態を指すのである。忍耐の結果として心に起りたるこの確信は、山のごとく不抜である。これ實に忍耐持続の中に得たる實驗の産物である。ゆえに世の學者が、その學術的研究をもつてiケに反對し、またはiケ昔に批判的研究を加うるとも、元來信仰上の確信はかかる學術的研究と何らの關係なきものであれば、彼らの言論を心に留めずして、余はキリストとそのiケを確信するとの境地を、他の侵犯をゆるさずして心に保つのである。信仰のために受くる多くの患難にありて忍耐を持続するとき、この確信が生れる。ゆえにその人は錬達の域に達する。百戰を經し老兵の域に達する。すなわち不動の域に達する。これすなわち錬達である。ふるきものの表面を塗りかえてこの世がたえず提供するところのいわゆる新思想、新運動の類 − かかるものに信仰の境地を犯されて動揺つねなき者のごときは、いまだ信仰上の錬達に至らざる者である。
 
 「錬達は希望を生じ」とある。錬達の境に入つて、我に確固たる希望がそなわるのである。堅信、錬達、確信ますます増し進むや、~の榮えを望むの希望はほとんどわが身わが心のごとくわが存在の一部となるに至る。患難の中に忍耐をもつて~の道に歩むや、忍耐は錬達を生み、そして錬達は希望を生む。この希望永生の希望、榮化の希望、これこそクリスチャンの至寶である。そしてこれ實に患難の産物である。患難が忍耐を生み、忍耐が錬達を生み、錬達が希望を生んだのである。ゆえに「患難にも喜びをなす」のである。
 
 一節、二節、および三節、四節の相平行せることに我らは注意する。前者は、義とせられ、恩惠に入り、希望を與えられて喜ぶと説き、後者は、患難は忍耐を、忍耐は錬達を、錬達は希望を生むがゆえに喜ぶと言う。甲は純信仰の生み起す希望の喜び、乙は實生活の生み起す希望の喜びである。かく兩方面より希望の喜びが説かれたのである。二節において「喜びをなす」と言い、三節において「喜びをなせり」と言いし原語は、ともに καυχαομαι(カウカオマイ)である。これは英語の rejoice(よろこぶ)boast(誇る)glory(榮えとする)等を意味する語であつて、勝ち得てあまりあるところのその勝利を喜ぶという意である。「われはiケを恥とせず」と言いしパウロの心境、「このほか別に救いあることなし」と叫びしペテロの確信、これすなわちカウカオマイである。信仰の道を堂々と闊歩して、自信充ち勇氣あふるる充足の感である。喜びをなすと言うも、單なる喜びではない、勝ち誇る喜びを言うのである。パウロがいかにゆたかにこの喜びを抱いていたかは、彼の全文書と全生涯との立證するところである。
 
 一節より四節までを反復熟讀せよ、信仰生活の特徴は遺憾なくこの數語の中に示されてゐるではないか。これを靈的領得の上より見れば、~と和ぎ、恩惠に入り、妙なる希望を與えられて勝ち喜ぶ心境であり、これを實際生活の上より見れば、患難にありても、その生むところが忍耐、錬達、希望なるがゆえに、勝利の光榮に酔う生涯である。これすなわち「四方より患難を受くれども窮せず、詮方つくれども望みを失わず、迫害(せめ)らるれども捨てられず、倒さるれども亡び」ざる生涯である。退轉せず、萎靡(いび)せず、進んでやまざる生涯である。積極的、進取的にして、光明と生命とを具有する生涯である。平和、温良、無害の人となるが決して信仰の目的ではない。生命と力をもつて進撃する生活が眞の信仰生活である。しかしながら注意すべきは、これ自力をもつて努力奮進して然るにあらず、主として救い主の十字架より流れ出ずるところの生命の源に汲んで然るのである。わが本具の生命によるにあらず、もつぱら彼の大生命に浴して然るのである。信仰生活は、いわゆる努力の生活ではない。十字架のゆえに罪の赦免に浴し、義ならざるに義とせらるるに至りし大恩惠に接し、感謝心に滿ちて、おのずから力ある歩みをひきおこす生活である。源あつての末である、原因あつての結果である。これ忘るべからざることである。そのゆえにこそ、感謝はますます大となるのである。
 

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