第十講 異邦人の罪(一)
− 第一章十八節〜三二節の研究 −

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 パウロは第一章劈頭において、まずあいさつを兼ねて自己紹介をなし、次ぎに八節〜十五節において、感謝をもつて初めてロマ訪問の計畫について語り、十六、十七節に入りてはおのずからロマ書の主題に移りゆきて、偉大なる語に包みて偉大なる思想を掲出した。あいさつを終え、感謝を終え、問題の提出を終えて、ここにこの大書翰はその序言を終つたのである。されば第一章十八節よりいよいよ本論に入るのである。すなわち我らの用い來りし比喩によれば、本館第一に入るのである。
 
 然らばこの大書翰の本論においてまず我らの會する語は何ぞ。人間救拯のiケを盛れる第一本館においてまず我らの眼を打つものは何ぞ。そは~の恩惠を傳うる語か。否な、~の怒りを傳うる火のごとき語である。
 
それ~の怒りは、不義をもて眞理を抑(おさ)うる人々の
すべての不虔不義に向いて、天よりあらわる。
 
と十八節は言う。まことにこれ吾人の意表に出ずることである。しかしながら、iケはまず罪惡の指摘をもつて始まる。罪の指摘あり、而して罪の悔い改めありしのちならでは、救いの與えらるる素地がない。かがやくごときiケの美屋は、陰惨なる罪惡指摘の土臺の上に立つ。美わしき花は黒き土より咲き出ずるほかはない。キリストのiケの傳えらるるに先きだちて、「主の道をそなえ、その路線を直く」すべく、バプテスマのヨハネの罪惡詰責がなくてはならなかつた。罪を責めずしてまず恩惠を説くは、土臺なきに家屋を建つることである。かかる愚かなる工師の、今や世にすくなからざるは歎ずべきことである。パウロは人を救う道を熟知してゐる。その順序を誤るがごときことはしない。彼は恩惠を説く豫備として、ここにその鋭烈なるペンをふるつて、ものすごき罪惡指摘に入るのである。
 
 十八節最初の語「それ」は、實は「そは」と譯すべきものである。すなわち十八節は十七節の理由として述べられた形になつてゐる。けだし救いの必要なる理由は、~の怒りが人の上に臨みつつあるからであるという意であろう。
 
 「~の怒り」の一句に接して、これを厭わしき語となす人があるであろう。しかしそれは「怒り」の一字をもつて人間の怒りを想起したからのことである。人の怒りは、多くの場合において感情のみだれを意味する厭わしき語である。しかし~の怒りの状態が人のそれとちがうことは言うまでもない。そして~怒の表顯は事實としてこの世に臨むことを我らはみとめる。これ理論にあらず、眞に事實の問題である。

 「不義をもて眞理を抑うる人々」は、すなわちいわゆる罪人である。善を善と知り、これを行わざるべからずと知りながら、あえてこれを抑止して、不義に歩む者である。~の~たることを知りながら、心の中に實驗せらるるこの眞埋を阻みて、その發動を抑うる者である。換言すれば、眞理を眞理として知りながらこれに從わず、不義を不義と知りつつこれに從う者、これすなわち罪人である。罪人自身はこのことをみとめないであろう。しかし罪より救われて~に生くるに至りし人は、自己の過去をかえりみて、一樣に認知するのである。

 かかる人のすべての不虔(~に對してそむくこと)と不義(人に對して道コ的に義ならざること)とに向つて、~の怒りは天よりあらわるるのである。あたかも子の不義に對しては父は怒らざるを得ざるがごときものである。「あらわる」の原語 αποκαλυπτεται(アポカルプテタイ)は、英語 is revealed に當り、現在動詞である。ゆえに今すでに~怒があらわれつつあるを意味する。

 然らば何をもつて~怒のあらわれとなすか、この問題について、學者は種々の意見を提出する。しかしそのうちもつとも合理的なるものは、二四節以下に描かるる荒濫の状態そのものがすなわち~怒の發表であるとなす見方である。然るときは、十八節の總括的斷定を、十九節以下が解明したことになるのである。

 この十八節は、異邦人のみを指したか、または人類全體を指したかは、學者のあいだに議論のあるところである。もし異邦人のみを指したとすれば、この節は第二章に全然關係なきものとなりて、ただ第一章十九節以下の、異邦人の罪惡指摘の序言にのみとどまるのである。もしまたこの節が人類全體を指したとすれば、パウロはまず人類の全部を見わたして、この總括的斷定を下し、然るのち人類を異邦人とユダヤ人とに二分して、まず第一章十九節以下において異邦人の罪を指摘し、次ぎに第二章においてユダヤ人の罪を指摘したことになるのである。すなわち第一章十八節は、第一章十九節 〜 第三章二〇節の序言となるのである。後の見方はすこぶる組織的に見えるので、近代の聖書學者たるサンデーのごときはこれを採用してゐる。しかし「不義をもつて眞理を抑うる」という心理は全然異邦人式であるという理由をもつて前の見方を採る人に、ベンゲル、マイヤー、ゴーデー、ビートらの大家があることに注意せねばならぬ。もしこの方の見方を正しとせば、十八節は全然異邦人に關する語となるのである(ゴーデー、ロマ書註解英譯一六八ページにおける明晰なる分解を見よ)。

 第一章十九節〜三二節は、三段に分ちて見るを便とする。第一段は十九節 〜 二三節である。ここに異邦人の偶像崇拝の心理はすこぶる的確に擧示せられたのである。
 
 19 そは人の知るべきところの~の事情は、人に顯明(あきらか)にして、すでに~これを人にあらわしたまえばなり。20 それ人の見ることを得ざる~の永能(かぎりなきちから)とその~性とは、造られたる物により、創世よりこのかた、悟り得て明らかに見るべし。このゆえに、人々言いのがるべきようなし。21すでに~を知りてなおこれを~と崇めず、また謝することをせず、かえつてその思念をみだし、その愚かなる心暗くなれり。22 みずから智しととなえて愚かなる者となり、23 朽ちはてざる~の榮光を變えて、朽ちはつべき人、および禽獣、昆蟲の像に似す。

 「人の知るべきところの~の事情」とは何を意味するか。これを原文のままに譯せば、「~に關して人の知り得べきこと」または「~に關して人に知らるること」となる。その意味するところは、何ら特殊の天啓によらずして、自然に人に知らるるところの~的知識を指すのである。すなわち唯一の~の存在すること、およびその~の大體の性質(たとえば、善を愛し惡を憎むこと、またそのかぎりなき力の處有者なること等)は、異邦人のあいだにありてもきわめて明らかである。~はすでにこれを彼らにあらわしたもうたのである。~は彼らに人たるの本性を與え、理性と良心とを與え、かつ宇宙萬物という材料を供して、彼らに~的知識を得せしむる道を開きたもうたのである。ことに彼らのあいだの哲學者、宗ヘ家、智者、識者ら、比較的優秀なる頭腦と感受性を有する者には、~に關する知識がある程度までは當然そなわるべきはずである。
 
 まことに然り、~にはかぎりなき力(永遠にわたる力)がある。彼は偶像~のごとき無力なるものではない。宇宙を支配し萬物を動かすとこしえの力が彼にある。そして彼にはまた明らかに「~性」がある。彼はかの多~ヘの~々のごとき卑俗なる性能の處有者ではない。。眞に萬物の造り主たるところの~たる性を具有してゐるのである。そして~にこの力とこの~性とのそなわれることは、宇宙萬物に明かにしるされてゐる。虚心平氣にして−−多~ヘ的偏見を脱して−−この宇宙萬物に對するとき、誰人か、~の~たるを悟識しないであろうか。よし~の特殊の黙示に接せざる異邦人といえども、ひとたびその本性を開いて~の造化を見れば、彼らは宇宙唯一の~とその力とを知り得べきはずである。

 然るに彼ら異邦の民は「すでに~を知りてなおこれを~と崇めず、また謝することを」しない。彼らは心に與えられおる眞理を我とみずから抑塞(よくさい)して、~をみとめつつしかも~を否認するのである。何者が彼らをしてこの矛盾に出でしむるか。その動機はさまざまであろう。しかし彼らが惡魔のささやきに聽從したる一事は明らかである。かくてその思いはみだれ、その心は暗くなり、みずから智者を以ておるも、實は愚者にして、朽ちはつべき人、および禽獣、蟲魚の像をもつて~を刻み、以て偶像崇拝の低卑と醜怪とに堕してゐる。これ實に彼ら異邦人の實状である。見よ、

 ギリシア、ロマの多~ヘを。彼らの~々は人のごとき情欲、放恣、復讐等に走るものである。これ「朽ちはてざる~の榮光を變えて、朽ちはつべき人」となすものではないか。また見よ、エジプト、カルデヤの動物崇拝ヘを。牛、猫、蛇、鰐魚等を拝する彼らは正に「~の榮光を變えて……禽獣、昆蟲の像に似す」るものではないか。文化をもつて誇る民が、心靈問題におけるその愚は沙汰のかぎりである。而して心靈問題は人生の最根本なる問題である。源濁りて末清きはずがない。心靈において愚なる彼らは、そのすべてにおいて愚なのである。

 パウロは偶像崇拝の心的經過を右のごとく描いた。近代のいわゆる宗ヘ學者と稱する輩は、彼のこの斷定を拒否するであろう。しかしパウロはふかく人の心の内部に穿つたのである。そして心の奥ふかく存する靈魂の問題としてこれを見たのである。然るとき、心靈の鏡にうつりし~的知識を我とみずから打ち消して自己の欲望を彼に移してながむるときに、偶像崇拝はおのずから生起するものなることを知るのである。パウロは罪に生れて罪に住む人間の心の傾向をながめて、一~の知覺より偶像崇拝への堕落を、その心の中の經過としてみとめたのである。實に大膽にして深刻なる斷案と言うべきである。

 ~を知覺しつつしかも偶像に走るは悟性のみだれである。悟性のみだれの次ぎに起るは情性のみだれである。すなわち彼らが眞の~をしりぞけて偶像を信ずるに至りしため、情性の荒亂は當然の結果として起つたのである。これを記述するのが二四節〜二七節である。これ第二段である。まず二四節は言う、

 このゆえに、~は彼らをその心の欲をほしいままにするにまかせて、たがいにその身を辱しむる汚穢にわたせり。と。「このゆえに」とある語に我らは注意せねばならぬ。前節において偶像崇拝を描き、今これを受けて「このゆえに」と言う。されば二四節は、偶像崇拝の結果として情性の汚穢におちいりしことを意味するのである。そして「~は彼らを…汚穢にわたせり」とあるを見れば、この節は、~怒のあらわれとしてこのことをしるしたものであること明らかである。

 「わたせり」の原語は παρεδοκεν(パレドーケン)である。二六節の「まかせたまえり」もこの字を用いてある。英語聖書はこれを gave up と譯してゐる。わたしてしまつたというのである。彼らが偶像拝跪の結果、道義的敗壊におちいつたのに對して、~はあえて阻止または警戒の手を加えずして、そのままに放任してしまつたというのである。彼らが肉欲という船に乘りて汚れの海を走りつつあるを、そのなすがままにまかせたもうたのである。かくて彼らは滅亡に向つて急走するよりほかに道なきこととなつたのである。彼らの罪惡の激甚が、ついにこの結果を生んだのである。これすなわち~の怒りのあらわれである。

 由來、偶像崇拝にはかならず道コ的腐敗がともなう。パウロがロマ書起草當時滞在しいたるコリントのごときは、偶像崇拝のさかんなるとともに、その道コ的敗壊をもつて名高きところであつた。一方に、哲學者が超高なるヘえを説きつつありて、人々は先を争つてその講筵に列せしにもかかわらず、この講筵に列する人自身が、亂倫のちまたに彷徨してあえて恥じざるのありさまであつた。實に偶像崇拝に道コ的腐敗の附随するは、甲の結果として乙の起る實證である。日本においてもその實例は決してすくなくない。彿致そのものは貴きヘえであるに相違ないが、これに偶像的信仰がともないやすく、而して偶像的信仰の起るところ、かならず風紀の敗頽が生れるのである。

 進んで二六節、二七節を見るに、そこに人性逆用の醜陋なる罪惡が擧げられてゐる。聖書にかかる言あるを異とする人があるかも知れぬが、パウロは、偶像崇拝の結果たる情性の混亂を述べんためには、當時さかんに行われたるこの種の罪惡を指示するのやむなきに至つたのである。ギリシア、ロマ社會にこの種の腐敗のはなはだしかりしは、舊記の明記するところである。しかしながら、わが國といえども、またこの點において決して清きものではない。實に偶像崇拝は人間悟性のみだれであるとともに、また情性のみだれをも惹起するところの恐るべきものである。

 悟性みだれ、情性みだれて、意志もまたみだれざるを得ない。二八節以下に記さるる各種の不義は、いずれもみな人が人に對して犯す罪であつて、すなわち意志の昏亂を意味するものである。

 ロマ書第一章十八節〜三二節は、異邦人の罪惡擧示である。そして心靈の鏡にうつりし一~の姿を打ち消して多~を崇拝するに至りしところの偶像崇拝をもつて、すべての罪惡不義の根源と 見るのがその特徴である。パウロは、學者のごとく区々たる論證を頼りとして論理の筆を行らず、豫言者のごとく、~の人のごとく、確信の語を力強く吐露するのである。ゆえに犯しがたき権威のその全體を貫けるを否定することはできない。實に偉大なる思想であり、偉大なる論述である。

 しかしながら、彼のこの権威をみとめざる者はかならず彼の處論に抗議を提出することであろう。しかしパウロは斷乎としてこれらの抗議を排し去りて、あくまでその確信を固執するのであろう。假に今日彼をしてわが日本にあらしめんか、かならず現代社会の底知れぬ腐敗と不義との原因をわが民族の偶像尊信に置くであろう。そしていかなる抗議に對しても耳を貸さぬであろう。

 パウロのここに言うところはすなわち聖書全體のヘうるところである。偶像崇拝がすべての不義腐敗の原因なりとは、すべての舊約豫言者の異口同音に唱うるところであつて、新約に入つても、またこのことはその各處に強調せられてゐる。崇むべきところのものを崇めずして、崇むべからざるところのものを崇むるは、心靈の病的状態である。心靈すでに病まば、その人のすべてが病むほかはない。かくてもろもろの不義汚行は起らざらんとするも能わない。そして偶像とはすべて~以外の崇めらるるものを指す。利欲、権勢、虚名等もまた偶像の一種である。すべて~以外のものに頼るは偶像崇拝である。そして凡百の不義汚濁の源泉である。人類數千年の歴史は明らかにこのことを證明してゐる。而して人類の歴史において、つねに社会を支え、潔め、保つ力となりしものは、聖き唯一~の信仰である。げにキリストのiケこそ、人類をなぐさめ、はげまし、改めつつ來つたものではないか。こはたしかに過去二千年の人類史に筆太にしるさるる一大事である。これを科學者、哲學者、詩人、政治家らの各種類の人について見るも、~を知る人の方が、~を知らぬ人よりも、多くの感化を他に與えしことは、否認しがたき事實である。されば我らは言う、人類幾千年の經驗は明らかにパウロの言を裏書きするものであると。

 以上のごとく、パウロの罪惡擧示をながむるとき、我らもまたこの罪人の一人なりとの感の生起するをまぬかれない。今や幸いにして~を~としてみとむるに至りしといえども、~をみとめざりし當時において犯せし各種の罪惡は、想起するだにおそろしい。そして今や~に歸するに至りしといえども、なお全く聖き人たるを得るに至らずして、罪はなおことごとく我を去つたと言うことはできない。ああ罪よ、罪よ、汝はかくわが一生涯を惱ます残酷なる暴君なるか。我はこの残酷なる暴君の奴隷として一生を拘縛の中に送らねばならぬのであるか…。罪の指摘に會つて苦悶はひとしお高まるのみである。しかしながら豫言者イザヤは言う、
エホバ言いたまわく、いざわれらともに論(あげつ)らわん、汝らの罪は緋のごとくなるも、雪のごとく白くなり、紅のごとく赤くとも、羊の毛のごとくにならん(イザヤ書一章十八節)

 と。げになぐさめふかき豫言なるかな。緋のごとき罪も消えて雪のごとく白くなり、紅のごとき罪も去りて羊の毛のごとく純白になると言う。罪人にとりてこの上なき大なる喜びの豫示である。そして主イエスのiケこそ、實にこの豫言を達成するものである。彼は十字架において萬民の罪を負い、ために我らの罪はいかに重くかつふかくとも、春の日の淡雪のごとく消え去るのである。そして我らは罪をその根柢において除かれて、ただイエスを信ずるのみにて「功なくて義とせらるる」のである。罪あるに罪なしとせられ、義ならざるに義とせらる。げに至大の恩惠と言うべきではないか。しかもまだ雪のごとく羊の毛のごとく白くなつたのではない。ここになお不滿がある、ゆえに希望がある(滿ちてしまえば希望はない)。キリスト臨(きた)つて、我らの復活し榮化するとき−−そのとき我らは全く純白の衣をまとい、手には勝利の印たる棕櫚の葉を持ちて、寶位(くらい)と羔羊(こひつじ)の前に立つに至るのである(ヨハネ黙示録七章九節)。そのときは豫言の全く成就するとき、iケがその目的を達せしときである。そのとき救いは完成し、~の義と人の義と相一致するのである。これ罪が事實的に痕跡もなく失せて、義のみがすべてにみなぎる時である。然り、ただ義のみがすべてにみなぎる時である。

 パウロはこれを知るがゆえに、またこれを説く豫備として、まず罪惡の擧示に、その強きペンをふるつたのである。彼が罪を責むるや、實に駿烈をきわむる觀がある。しかしこれに添えて赦免の道をかならず提示するのである。そして人は誰人といえども、まず赦免の實感に入ることはできない。まず罪のいや増すを實感して、堪えがたき苦痛を心に得たるのち、ついにiケ的赦免を受得して、心に安きを味わうに至るのである。これ自然の、そして健全なる順序である。ゆえに初めの苦悶は決して恐るるに足りない。これやがて彼の歡喜を生むべき第一歩である。ゆえにパウロは、はばからず遅疑せずして、まずはげしく異邦萬民の罪惡を指摘しかつ詰問したのである。パウロのこの心を知るは、ロマ書の第一章後年、第二章全部、第三章前半を讀むにおいてはなはだ大切である。
 

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