第六講 ロマ訪問の計畫
− 第一章八節〜十五節の研究 −

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 第一章一節 〜 七節の「自己紹介」は、まことに重要なる箇處であつた。それを通り來りし我らは、あたかも累々たる寶石のあいだを踏みわけつつ來たようなものである。然るに、我らはまた八節より全く別の世界に導き入れられるのである。前より用い來つた比喩によれば、壯麗雄偉なる表門を通過し終つた我らは、いよいよ本館に入ることと豫期せしに、さはなくて、ここに一つの廊下のあるに會したのである。この廊下は、寶玉をちりばめしごとき表門に比すれば、むしろ簡素撲淳(ぼくじゅん)と稱すべきものであるため、心なき者は往々にして平凡としてこれを看過するありさまである。しかしながら果してこれ平凡であろうか。塩ァなる注意がまずこれに向つてそそがれねばならぬ。
 
 8 まず汝らの信仰を世こぞりて言いひろめたるがゆえに、イエス・キリストによりて、汝ら衆人につき、わが~に感謝す。9 われその子のiケにおいて心をもつてつかうるところの~は、わがたえずなんじらをおもうその證(あかし)なり。10 われ祈祷ごとに、ついには~の旨意(みこころ)にかないて、平坦なる途を得、速かに汝らに到らんことを求む。11 われ汝らを見んことをふかく願うは、汝らを堅うせんために、靈の賜物を與えんとおもえばなり。12 すなわちわれなんじらの中にあらば、たがいの信仰によりて、相ともになぐさめを得べし。13 兄弟よ、われしばしば志を立て、なんじらに到り他の邦人の中にあるごとく汝らの中より果を得んとせしかども、今に至りてなおさまたげらる。これを汝らが知らざるを欲(この)まず。14 われはギリシア人および異邦人、また智人(かしこきひと)および愚人にも負えるところあり。15 このゆえに、われ力をつくしてiケを汝らロマにある人々にも傳えんことを願う。
 
 一讀して受けた印象においては、この箇處は單なるあいさつの語にて、他にふしぎなきがごとく思われる。また文字上においても、次ぎの十六、十七節が容易に了解しがたきところなるに反して、十五節までは平易明瞭にして、その意味はたやすくつかみ得るのである。然らば我らはこの筒處を平凡無味の處と見なして、特別の注意を拂う要はないであろうか。
 
 これを山中の水にたとえる。樹の根をくぐり草の葉を渡りて谷に集り、いくつもの谷川が凹地にそそぎ、下より湧き出ずる水と合して一の湖を造る。その湖の深さ、靜けさ、清らかさは、天に向いて開きたる澄める瞳にたとえつべきものである。その貴さは誰しもみとむるところである。湖の水は靜かに靜かに下方に移動して、やがて湖口より川となりて流れ出ずる。その川は、湖に比すれば狭くして淺い。ただ岩に激しつつ、水が低きに向つて流れゆくのみである。されば淺き觀察者はこの川を閑却して、ただかの湖の奥ゆかしさのみを讃える。しかしながら、實はこの川にまたすくなからぬ趣きと味わいとがあつて、かの湖において見出せしところとは異なる別箇の貴さがあるのである。その水の流れ、その岩のたたずまい、その兩岸の姿、その淺流、その碧潭(へきたん)……そのすべてのものに、他には無いところの風趣があるのである。ロマ書第一章一節 〜 七節を貴みて、八節 〜 十五節を平凡として捨て去る人は、山中の流れを捨ててその湖のみを愛する淺き人である。ちなみに言う、ひとたび川となりて湖より流れ出でし水が、やがて突如として一大瀑布の壯觀を作り、また川となり、また湖となり、また瀑布となり、數多度(あまたたび)姿を變えつつ、ついに洋々浩々たる大河となりて海にそそぐがごとく、ロマ書全體は幾度も姿を變えて讀者の前にあらわれ、そしてそのいずれの姿にもそれぞれ特殊の趣きありて、ついに終尾に至るのである。これを讀むものは、その一語一語に、その一句一句に、その一節一節に、その一章二章に、そのすべての箇處に、細心の注意を拂わねばならない。一として、不用または無價値のものはないのである。
 
 まず注意すべきは、第一章八節 〜 十五節はパウロの人格發露であるということである。一節 〜 七節は自己紹介ではあつたが、その内容はパウロのキリストヘ觀の綱目のようなものであつた。すなわちパウロの~學、パウロの人生觀の縮圖であつた。そして自己の哲學、自己の處信を發表するにはなはだ急であつて、決して自己自身をあらわさじとする人が世には多い。自己の情緒、感激、意圖、心持等をさながらに發表して自己のありのままの姿を人の前に露呈することをつとめて避けるは、貴からぬ人のつねである。然るにパウロは、自己の信念とあわせて自己そのままの姿を赤裸々に人の前にあらわして、すこしも悔いない人である。ここに彼の偉大さが存するのである。また美わしさが存するのである。八節 〜 十五節はすなわちこの純なる自己發表である。
 
 我らがこの處を讀みて、彼の性情に觸れ、彼の心の動きを見得るとき、一種微妙なる心の絲が彼と我らをつなぐことを實感する。のみならず、これによつて偉大なるクリスチャンの人格を知り得ることは、我らにとり、種々の意味においてすくなからぬ幸bニ利益である。世界を動かせし大使徒の人格如何、もつとも大なる愛をキリストにささげたる偉人の性情如何、我をも焼きつくさんとするごとき熾烈敏感なる魂の處有者の僞りなき姿如何、これらを知るは、信仰上の實學として、その値すくなからぬのである。もとよりこの箇處をもつてパウロの性情全部を知ることはできない。他にコリント前後書のごとき、この意味においてきわめて有力なる材料をあわせ見るべきは當然のことであるが、すくなくともこの箇處の眞價のここにあることを、まず明知しておかねばならぬ。
 
          八節前半を原文の順序のまましるせば
 
 まず第一に 感謝す わが~に イエス・キリストを通して 汝らすべてにつきて、
 
となる。
 
 「第一に」としるすも、八節以後に、第二も第三も出て來ない。あたかも頭あつて尾なきがごとくである。文法的にまた文章學的にこれを推賞することはできない。しかしこの種の文法無視は、パウロにはありがちのことである。彼の書翰中よりは、この種の缺陥をいくつも發見することができる。主語あつて説明語たる動詞なき場合のごときも、一再にとどまらぬのである。勿論この種の不注意はことさらにまねすべきことではない。しかし文法的不注意は平然としてなせしパウロが、大切のことにおいては實に遺憾なき注意を用いたる一事は、我らの充分に學ぶべきことである。處詮文法は形體のことにして、いずれにしても可なるもの、生ける拐~は生命なれば、形體の如何にかかわらず、沸々として文字の外にあふれ出ずるのである。パウロが、注意を用うべきことと用うるを要せぬこととの差別を立てたるは、大小綬急を各々適當に辨別しかつ虞賢したる質務的手腕の一片影であると思う。
 
 「まず第一に感謝す」である。あいさつの最初が感謝である。人に對する感謝ではない、~に對する感謝である。パウロが歡喜にあふれた人であつて、喜びをただ己れの喜びとせず、これを~への感謝という心持において味わつたことは注意すべきである。かつまた~を懐(おも)うことがつねに心の先頭を占めておつたゆえ、かかるあいさつの最初に、「第一に~に感謝す」という語が自然と出たのである。實に美わしき心、慕うべき魂の清さではないか。まず感謝するのである。まず~に對して感謝するのである。しかも自己の事業の成功のゆえではない。己れの名譽が揚つたからではない。實に人のことについて、しかも人々の信仰について、iケそれ自身のことについての感謝である。純にして貴き感謝、かつつねに~とともに歩める人の心の反映としての感謝である。
 
 次ぎには「イエス・キリストを通して」の一句あるに注意すべきである。これパウロ特愛の句であつて、彼の信仰の性質を示すものである。すなわち~と己れのあいだの仲介者としてキリストを見るのである。これ前囘に説明せし點であるゆえ、ここに反復を要さないのである。その次ぎには「汝らすべてにつきて」の句がある。パウロの感謝は、己れについての感謝ではなく、在ロマのすべての信徒 ── 信徒全體 ── についての感謝であることがわかる。
 
 第一に、イエス・キリストを通して、わが~に、汝らすべてにつきて感謝すると言う。何を感謝するのか、何のための感謝か、これを示すものはこの節の後年(原文においては)である。すなわち邦語聖書に「汝らの信仰を、世こぞりて言いひろめたるがゆえに」とあるものである。これを正確に言えば「汝らの信仰が、全世界に言いひろめられたることを」である。パウロはこのことを~に感謝したのである。全世界にロマ信徒の信仰が言いつたえられたというは、誇大に過ぐと難ずる人があるかもしれぬ。勿論、この種の用語において、人は數學的正確を期することはできない。全世界と言うも、當時世界に生きていたあらゆる人間をふくむと見ることはできない。しかし「世界」と「地球上」とは決して同一の範圍を指す語ではない。世界という語の指す範圍は、つねに時代によつて異なる。當時の世界はすなわちロマ世界である。ロマ帝國の政令と文化との行きわたつていた世界である。まだドイツの大森林が中歐蠻族の根據地であつたとき、まだロシアの大平原が野人と野獣との住處であつたとき、まだ英島國が北人争奪の舞臺であつたとき、勿論まだ北米南米兩大陸は發見せられずして、東洋文明は別世界のものであつたとき、このときにおいての全世界は、地中海を中にはさむところのいわゆるロマ世界であつたのである。
 
 かくのごときが當時の全世界であつた。そしてロマ府はその中心であつた。山巓の水が流れて麓をうるおすごとく、池の中央に投ぜられし石が波を岸までただよわすごとく、首都の事象はうわさの波に乘りて、おのずとロマ世界全體に聞えるのである。「言いひろめられる」の原語(καταγγελλεται)は、言いつたえらると、稱揚せらるとの兩義を有する語である。すなわちロマ信徒の信仰が單に言いつたえられたるのみならず、稱揚せられたのである。勿論不信者はこれを稱揚しなかつたであろう。しかし信者はみなこれを稱揚したのである。首都の信者の信仰がロマ世界のキリストヘ徒全部に聞こえて、その稱揚を得、その信仰をはげましたことは勿論、また不信者の側においても評判はかなり高くなつたことと思う。當時キリストヘはまだ今日のごとく文明國の宗ヘとしてはみとめられなかつたとは言え、ともかくもユダヤ人のあいだより出でし一新宗ヘとして、ようやく他人の注意をひくに至つたときであつた。このとき首都ロマに若干の信徒があらわれて、しかもその信仰の堅固にして操守の厳正であつたことは、あたかも燃ゆる焔に新たなる薪を投ぜしごとく、ロマ世界の不信者をして、よし好感をもつてせずとも、すくなくとも驚異の眼をもつてこの新宗ヘに對するに至らしめたことと思う。
 
 中央の信徒の信仰的堅立は全世界の信徒を奨励する道となり、また全世界の不信者をして新宗ヘに注意を向けしむる處以(ゆえん)となつた。この二事をふくめてパウロは感謝したのであると思う。前者は勿論感謝の充分なる動機たり得るが、後者は果して如何との疑問も出でよう。しかし、パウロがただの評判を喜ぶ人でなかつたことは言わずして明らかである。彼はかくしてiケが次第に全世界に浸透すべきを思うて、おどり立つ胸の喜びを感じたに相違あるまい。~のiケを全世界に弘流せしむる大志望を、その燃ゆる魂にみなぎらせいたる大使徒パウロの心を思うとき、われらは八節の感謝の動機を知るにおいて難くないと思う。いずれにせよ、中央の信徒の重き責任を考え、その位置に對して適當なる價値の認識と敬意とをもつてしたるパウロの細心は、注意すべきことである。
 
 九節においては、パウロは彼がたえずロマの信徒を懐(おも)うその證者として~を指し示すのである。「…~はわがたえず汝らを懐うその證なり」と言う。原文によれば「わが證人は~なり」である。パウロがロマの信徒をたえず懐うていたこと、そして何とかして彼らを訪(と)わんものをとの切なる望みを抱いていたこと、そのことは彼の心の中の事實であつて、彼のもつともよく知つてゐることである。多分、彼の二、三の友は、彼のこの心を彼より聞いて知つていたであろう。しかし誰よりももつともよくこのことを知つてゐるものは~である。人はこれを疑うかも知れぬ。しかし~はその證者である。そして世に~にまさる證者があろうか。人の中に一人の證者なくもよろしい。我が證人は~なりと眞實をもつて言い得るだけの自信あれば足りるのである。まことにバウロ式の雄勁(ゆうけい)な語であると思う。
 この~はいかなる~ぞ。彼は言う、「われその子のiケにおいて心をもつてつかうるところの~」と。「心をもつて」は原文「わが靈において」とある(英語 in my spirit)。わが魂においてである。パウロは己が心靈において~につかえるのである。そして「その子(キリストを指す)のiケにおいて」~につかえるのである。パウロが~につかうるに二つの特質がある。第一はその魂において、第二は~の子のiケというあるかぎられた範圍においてつかえるのである。
 實にこの二つは、我らの~につかうるにおいて缺くべからざるものである。我らは己が心靈において~につかえねばならぬとともに、またキリストのiケにおいてつかえねばならぬのである。そしてこの二つの制限を超えざるかぎりにおいて、我らの~につかうることは自由である。然るに世にはこのことを知らざるクリスチャンが多い。「~は靈なれば、拝する者もまた靈と眞をもてこれを拝すべきなり」とのイエスのヘ訓を忘れしがごとくに、空虚なる形式を山と積みかさねて、それにおいて~につかうるをつねとする者が多い。複雑なる儀式により、煩瑣なる手つづきを經て、初めて拝~の道を全うすと誤想せる宗派と、それに屬する信徒多きは歎ずべきである。かくのごときは實に異ヘ的形式と稱すべきものである。クリスチャンはただその心靈において、また~の子キリストのiケにおいて、自由自在に~に向つて活ける奉仕をなすべきものである。プロテスタントヘの生起は、實にかくのごとき純なる拝~の要求に根ざすものである。然るに今や末流濁りて、不純なる拝~に心身を疲らする者多きは歎ずべきことである。我らつとめて原始の純を追わんと志せるもの、パウロのこの語において、彼が我らの味方なるを知りて、喜びに堪えぬのである。
 次ぎは一〇節である。パウロは祈るごとにロマ行きの願いの充たされんことを求めてゐるというのである。邦譯聖書においては、一〇節は九節と分離して譯してあるが、實は九節と一〇節を一として、およそ左のごとく譯さなくては原意は通じないのである。
 
 右のうち圏點をほどこせしは、原文においての一〇節、他は九節の分である。右は假りの譯であるが、しかしこれによつて原文の意は知り得ると思う。すなわち~はただパウロがロマ信徒を懐うことの證者たるのではなく、そのロマ行きの希望を強く抱いてゐること、祈祷のたびごとにこの希望の實現を~に求めたことの證者であるというのである(邦語改正譯を參照のこと)。
 
 「平坦(やすらか)なる道を得」については種々の解釋があるが、大體において「行くべき道の開かれて」というほどの意味である。上掲の譯において「いかにかして、ついに」と譯し、邦譯聖書において「ついには…‥速かに」と譯せし原語は ει πωs ηδε ποτε(アイ ポース エーデ ポテ)である。これは他の國語に譯しがたき句であるが「もしできるならば、速かに、しかし時は不明」という意である。まことに奇妙な言いあらわしと言うべきである。
 
 我らはこの奇妙な言いあらわしを用いたパウロの細心を賞するものである。彼のロマ行きはアイ ポース(もしできるならば)である。彼は行かんと志し、祈祷ごとに~に祈り、~は多分この祈りを聽くであろうと思う。しかし彼もしゆるしたまわずば、行くことはできぬ。ゆえにもしできるならばである。次ぎはエーデー(今、速かに)である。今にも速かに、遅くも近き未來に行き得るであろうと、思う。しかし~ならぬ身の斷言はできない。~ゆるしたまわずば速やかに行くことはできない。よつてポテ(いつかは一度、時は不明)である。はなはだしく曖のように見えるが、實はそうでない。眞の信者はかく言うほかないのである。誰か明日のことを知り得ん、誰か聖意をことごとく知り得ん。事はいかに進み行くか、いかに變わりゆくか、到底人にはわからない。未來のわが行動について斷定的言語を用いざるものが、實は強き信頼に住む信者である。
 
 我らはこの短き一句に、パウロの信仰の性質を知り得ることを喜び、かつこれを自己の亀鑑とすべきである。十一節において、パウロはロマ行きを切望する理由を述べた。「われ汝らを見んことをふかく願うは、汝らを堅うせんために、靈の賜物を與えんとおもえばなり」とある。靈の賜物を與えて彼らの信仰の發達をうながし、その堅立を計らんことが、彼のロマ行き切望の動機であつたのである。「深く願う」の原語 επιποθεω(エピポセオー)は、切に願うを意味す。この場合、彼らを見んと願う情緒のすこぶる切々たるを言いあらわすのである。げに情の人パウロはいかに強く彼らを懐うたことであろう。ロマの信徒の信仰がいかに純良堅固であつても、大使徒パウロより見て、なお發達の餘地あるものであつたことはいうまでもない。彼らは文明の大都に幾多有力なる不信者にかこまれつつ、強烈なる誘惑の風におそわれつつ、その信仰の孤城を守つてゐる。しかも彼らを指導すべき有力なる師はない。そして責任は無限大である。我には彼らに與うべき靈の賜物がある。彼らを訪うてこれを分與するとき、彼らの信仰の堅固となり、靈的生命の豐強となるは當然である。彼は小アジアの丘陵より、またギリシアの海邊より、西の方、夕陽のうすずくあたりをはるかに望見して、彼らに到らんとの切望に心焼かれて、幾度か熱き祈りを父にささげたことであろう。美わしきかな、情の人パウロよ!
 
 この十一節と比して、十二節は特に注意すべき節である。これを原文に忠實に譯せばすなわち汝らの中にありて、汝らとわれとのたがいの信仰によりて、相ともになぐさめられんためなりとなる。「すなわち」の原語は τουτο δε εστιν(トウート デ エスティン)である。換言すればという日本語にほぼ近いのであるが、前の言が不適當あるいは不充分なるとき、さらに適切にまたは充分に言うという場合の發語である。この場合のごとき、「十一節の言がやや不適當なるゆえ、さらに適當の言い方をすれば」という意になるのである。
 ゴーデーはこの句を「またはさらに適切に言えば」(or to speak more properly)と譯し、マイヤーは「かく言うも、左のごとく意味するにすぎず」の意であるとなしてゐる。日本文において、一の語句をしるしたのち、さらに適切なる語句をしるすとき「否な」の一語をはさむのが、多分この場合に該當してゐると思われる。すなわち、かならずしも前言を打消すのでなくて、これをよりよく言い直そうとするのである。
 
 パウロは何ゆえにかかる言い直しをやつたのであろうか。けだし十一節においては、彼は彼らに對して師たる態度を取つていた。しかし彼はこのとき彼と彼らの關係にふと想到して、彼らが彼の純粹の弟子ではなくて、むしろ大部分未見の人であることを思いて、ここに友人たるの態度を取るの適當なるを思つたのである。ここにおいて、かかる發語を用いて、われ汝らに到らんと切望するは、實に相互の信仰によりて相ともになぐさめられ、はげまされんためであると言い直したのである。ここにパウロの謙遜と愼慮とを見る。偉大なる彼にして ── 彼らの師たる資格のありすぎるほどあるところの彼として ── このことあるは、まことに奥ゆかしきかぎりである。その美わしき禮譲と繊細なる心情とは、彼が人格の香氣をしていやが上にも芳醇ならしむるものである。自己を偉とせず、自己を高きに置かざるが、偉人の特色である。
 
 情緒のこまやかなる十一節と、謙遜に美わしき十二節とをあわせ見て、パウロの貴さは今さらのごとく感ぜられる。これを、みずから高しとして異邦信徒の兄弟たり得ぬ今日の歐米宣ヘ師たちに比して、いかに大なる相違ぞや。師たるを知つて友たるを知らぬところに眞の傳道の行わるるはずがない。パウロの偉大をもつてして、なお喜んでこの態度に出たことは、今日において大いに注意すべきことである。
 
 十三節は、ロマ府傳道の志望は今日まで盛んなりしも、事情がこれをゆるさざりしこと、今もなおあることのためにさまたげられつつあることを示す。思わざるにあらず、ゆるされざりしなりというのである。企業(くわだて)がなされざりしにあらず、阻止せられたるなりというのである。
 
 十四節は十三節の理由提示ともいうべきもの、大圓の中に小圓を包みしごときパウロ式論法である。「われはギリシア人および異邦人、また賢き人および愚かなる人にも負えるところあり」と言う。この場合の「異邦人」は野蠻人の意である。ギリシア人は文明人である。パウロは、文明人にも野蠻人にも、學者にも無學者にも、iケ宣傳をなすべき責務ありと言うのである。これを果さぬうちは債務を負うてゐる、これを果して初めて負債を償却したのである。この大責任を負わせられたれば、自分は當然すべての人に傳道すべき義務あるものであるというのである。まことに氣宇の宏大、責任感の熾烈たぐいなき壯大なる語である。
 
 文明人にも野蠻人にも、智者にも愚者にも、iケ宣傳の義務を負うという語のうちには、iケが、文明人にも野蠻人にも、智者にも愚者にも、すべての人に適するヘえなることが暗示されてゐる。まことにそうである。iケは世の萬人に適する。國籍の差別、文化の相違、階級の高下、知識の有無、賢愚の差、老若男女の別は、iケの前には皆無である。iケは萬人の信受に適する。ゆえにこそ~のiケである。すべての人を救わんとの~の力である。パウロはこの大なる責任感を述べたるのち、十五節において「このゆえに、われ力をつくして、iケを、汝らロマにある人々にも傳えんことを願う」としるして、この著るしきあいさつの部を閉じたのである。
 このあいさつを全體として見る。その中にパウロの感謝あり、心の願いあり、祈りの題目あり、切なる情の發表あり、美わしき謙遜と禮譲とあり、高大なる責任感あり、文字は平坦なれども、その内容は千姿萬態のおもむきあり、ことに彼の情性の僞らざる發表として、その値の大なるを思わざるを得ない。
 パウロはロマの信徒に對して右のごとく謙遜であつた。かくのごときは、彼を輕蔑の的として彼らの前に提出するがごときものではないか。彼らの中には、かかる言に接して、パウロを賤しむるに至つたものがあるいはあつたかも知れない。パウロが自己に輕蔑を招く危険をまで冒して、強いて謙遜な態度を取つたことは愚の極ではないか。然り、愚の極であるかも知れない。しかし彼がかく自分以下の者に對して謙遜であつたのは、彼の魂の清さと、キリスト的拐~の豐けさとを示すものである。獨の文豪ゲーテは言うた、
 
 もつとも普通の宗ヘは、自己以上の者を崇むる宗ヘである。これ多數者の宗ヘである。これより高き宗ヘは、自己と同等のものを崇むる宗ヘにして、これすなわち哲學者の宗ヘである(いわゆる人類的思念と稱して、人が人を自己と同等のものとして崇むる人生觀を指す)。されど最上の宗ヘは、自己以下の者を崇むる宗ヘである。これすなわちキリストのヘえである。
 
と。ゲーテを稱して眞の意味のクリスチャンとは言い得ないが、彼の高秀なる天才は、彼をしてこの深き評語を發せしめたのである。己れより低き兄弟に對して謙遜と禮譲を守り、かつ切なる愛慕の情を披瀝したる使徒パウロの態度が、いかにキリストの心に似たるものなるかは、説明を待たずして明瞭である。

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