「恩惠」とは何を意味するか。原語 χαριs（カリス）は英語 grace に當り、種々の意味を有する語である。しかし�~またはキリストの恩惠と言うときは、「人に對しての、自發的なる、制限せられざる愛」を意味する（グリーンの文法書に據る）。そして第五節の「恩惠」は、別に他の語をもつてかぎられていないゆえ、廣義に解すべきものである。マイヤーがこれを「すべての�~の恩惠」（the entire divine grace）と解したのはまことに合適であると思う。すなわち救いにあずかり、罪をゆるされ、生命に浴し、歡喜と平安を味わい、永遠の希望を與えらるるに至りし一切を指すのである。一言にして言えば「救いの恩惠」（ゴーデー）と言うこともできる。そのいかなるものであるかは、しばしば涙をもつてこのことを感謝せしすべてのクリスチャンの知るところである。

　

　まず一般的のことをしるし、次ぎに特殊的のことに移るは、パウロの慣用する筆法である。主より恩惠を受けし點において、筆者たるパウロも、讀者たるロマ府の信徒も、全く同一である。彼はこの兩者の共通點を擧げて、まずあたたかみを讀者にそそぎたるのち、「使徒の職を受く」と、自己の特異點に觸れたのである。自己の権能をしるす前に、まず讀者と同列に己れを置くは「イエス・キリストの僕、召されし使徒」と第一節にしるしたると同樣である。

　

　「われら彼より恩惠と使徒の職を受く」と言う。「彼より」はキリストである。さらに�炎mに言えば、キリストを通してである（原語の dia は英語の through に當る）。賦與者は�~である。仲介者はキリストである。すべての恩惠は、�~よりキリストを通して降るのである。これ聖書の�ﾍうるところにして、また實驗上の眞理である。近代の信者は言う、我らは仲介者をもつて�~との關係を間接にせらるるを忌む、人は各自直接にその�~につらなり得べきものである、人はみな�~の子であり、�~はすべての人の父である、父子の關係は直接であるべきであると。まことにもつともらしき説である。しかしながら、事實が雄辨にこのことを否定するを如何。そはキリストを除きて�~と人との關係を近からしめんとするは、かえつてそれを遠からしむる道であるからである。人はキリストなくして�~とつらならんとするも、事實上つらなり得ない。キリストをあいだに置きて初めて人は�~と結び得るのである。これが心靈上の實驗的事實である。あたかも山巓(さんてん)をきわむるには登山路を攀(よ)じ登らざるべからざるがごとく、電氣は電線を通して初めて電燈を照し得るがごとくである。キリストをあいだに置きて初めて恩惠は彼を通して我らに下る。これ實に生命獲得の道である。古來、敬虔有力の信者はことごとくこの道に據りたるを史にながめよ。かさねて言う、我らは理論に據らず、事實に據ると。

　五節後半は、五節前半の理由である。「これその名のために萬國の人々をして信仰の道に從わせんとなり」と言う。これを改めて「これその名のために、異邦の萬民をして、信仰の服從に入らしめんためなり」とする方、原意に近い。

　

　「その名のために」すなわちキリストの名のためにと言う。なぜ「萬民を救うために」と言わないのであるか。人類に對する�ｉｹ宣傳は、人類それ自身の救濟のためではないか。イエス自身また全人類のために十字架の死さえ受けたではないか、何ゆえにパウロは萬民のためと言わずして、キリストの名のためと言うたのか……これいかにも近代人の出しそうな抗議である。さりながら、パウロの心をつねにもつとも強く占領していたのは、世界萬民にあらずしてキリスト彼自身である。從つて彼の�ｉｹ宣傳は、彼の名のため、彼の聖名の揚(あが)らんためであつた。勿論萬民を思わなかつたのではない、牧者なき迷羊の痛ましき姿は、鋭敏なる彼の心を強く動かしたに相違ない。しかしながら、この痛ましき姿よりも、かの聖なる姿が、よりあざやかに彼の心に映つたのである。まずキリストのため、しかるのち同胞人類のためである。これ主にある健全なる心の態(さま)である。パウロの言はつねに意表に出ずるがごとくにして、實は決して意表に出でないのである。

　

　「異邦の萬民をして（すべての異邦人をして）」とあるは、パウロが異邦傳道の使命を受けし使徒なるゆえである。「信仰の服從に入らしめんためなり」とあるは、原文「信仰の服從にまで」とあるのみなるを、補譯したのである。今や服從という語は人の忌みきらうものである。さあれ吾人の實驗は、信仰の服從のみが人を自由獨立ならしむることを�ﾍうるのである。人は信仰をもつて�~に服從して初めて自主の民となり得る。この服從をしりぞくる者は、何か、他のむなしき人または力に服從して、その奴隷となるのやむなきに至るのである。見よ、服從すべき者に服從するを厭いて、絶對の自由境に至らんと志して、かえつて物欲の奴隷となれる現代人の惨状を實に現代はあらゆる権力の支配を逃れんとして、全然無服從の生活に憧憬し、國家の権能より、道�ｺの権能より、また�~の権能より脱せんと焦燥せる時代である。しかしながらかくのごとき努力は、人をして、�~よりも、道�ｺよりも、國家よりも、はるかに低き他の何ものかに服從隷屬せしむる處以である。人は服從すべきものに服從して初めて自由独立人たり得る。信仰の服從とは、壓制、威迫をふくむことではない、もつとも美わしき服從である、もつとも貴き服從である。

　「異邦の萬民」の語が末節にあるのを受けて、六節は「汝らもその人々の中にありて、イエス・キリストの召しを受けし者なり」と言う。ロマの信者は、第一に異邦の萬民の一部である。そして異邦の萬民は、パウロが�ｉｹ宣傳の使命の領域である。この意味において、彼らが單に異邦人の一部であるということのみにても、彼と彼らとの間に離れがたき關係がある。然るに、第二に彼らは「イエス・キリストの召しを受けし者」である。彼もまた一節にしるせしとおり、召されし者である。ともにキリストに召され、ともに父なる�~を�~とし、主イエス・キリストを主とする者である。されば彼と彼らとの關係は二重に密接である。二者のあいだには、離れんとして離れがたき關係が存するのである。まことにともにキリストに召されて、人と人との友交は不易である。人と人と相つながらず、キリストによつて各自相つながる。間接のごとくにして、もつとも密接なる關係である。ここにあらゆる差異区別を打破して立つ眞の友交が存するのである。

　一節より六節に至る迂囘路を取りて、ロマ書の送り手はその受け手とついに握手した。ゆえに送り手は七節の前半において「われすべてロマにあるところの、�~に愛(いつくし)まれ、召しをこうむり、聖徒となれる者にまで書を贈る」と言うたのである。單に「ロマにあるところの聖徒」と言わず、「�~に愛まれ、召しをこうむり」を添加したるところにパウロ式の潤味がある。歡喜にあふれしパウロはかく言わざるを得なかつたのである。まず�~にいつくしまるるが第一、そして第二が、召しをこうむることである。かくして初めて聖徒たり得るのである。�~にいつくしまると言い、召しをこうむると言い、ともに美わしき語である。この二句に接して、ロマの信者は、感謝のなつかしき思い出をもつて、その悔い改め當時を囘想したことであろう−−今日の我らもまた然るがごとく。

　

　�~にいつくしまれ、召しをこうむりて聖徒となつたのである。信者が信者自身聖徒と稱するときは、俗人はこれを驕慢として憎みかつ嘲る、いわく、信者もまた罪を犯すにあらずやと。然り、信者もまた罪を犯す、すなわち聖徒もまた決して聖くないのである。しかし由來「聖徒」とは聖き徒、すなわち聖浄無疵の徒を意味する語ではない。原語聖書には αγιοι（ハギオイ）とありて、αγιοs（ハギオス）より出でし語である。そしてここに注意すべきは、このハギオスと οσιοs（ホシオス）との別である。ホシオスは、事實上聖きを意味し、ハギオスは、聖きことに用いられるを意味す。ホシオスは一點の汚れなきを示し、ハギオスはただ�~が聖き目的のために用うるを示す。この二語はすこぶる似て、しかも大いに異なるものである。そして聖徒はハギオスである。完全に聖き者ではない。聖きことのために用いらるる者である。�~の選別と聖召とを受けし者、世より選び出されて聖別せられし者である。

　�~殿において用いらるる素焼の土器は、器としてははなはだ無價値のものである。しかしそれが�~事に用いらるるがゆえに貴いのである。この意味においてそれは聖器である。「われらこの寶を土の器に藏(もて)り」とパウロは言うた。我らは眞に土の器である。價値なき、もろき、壊(やぶ)れやすき者である。しかし�~に聖別せられて聖事に用いらるる意味において聖徒である。ゆえに我らの積罪垢汚(こうお)は我らの聖徒たるにおいて何らのさまたげをなさぬのである。否な、罪の増すところ恩惠はいや増すのである。我らはかく言うて、自己の罪を辨護せんとするのではない。罪を犯さざらんこと、聖きに至らんことは、クリスチャンの念々刻々の希願であるべきである。罪を犯して恥じざるものはクリスチャンではない。さあれ聖徒なる文字の意義は明確に了知しておかねばならぬ。この一事を知らざるため、自己の罪多きに失望して、效なき煩悶をかさね、かつて受けたる聖召を空無と感じ、失望の極、信仰を喪失するに至る人がすくなくない。摯實(しじつ)なる魂の處有者に、かえつてこの危険がある。これ聖徒の意味を誤解せるより起ることである。聖徒すなわちクリスチャンは決していま聖浄無疵なるものではない。ただ聖召を受け、聖別せられて、聖事に用いらるる者たるにすぎない。然らばクリスチャンはいつまでも聖くなり得ぬ者であろうか。否な、クリスチャンは永久に聖くなり得ぬ者ではない。その切に願うところは全き聖潔であつて、そのついに到達するところは全き聖潔である。しかしこれ自己の力によつて到達するにあらず、ついに�~によつて聖化され、榮化さるるのである。その時の歡喜抃舞(べんぶ)果していかなるべき。想うだに心おどるはそのときのことである。それまではクリスチャンは「聖からざる聖徒」である。けれども疑いもなく「聖徒」である。

　以上、一節より七節前半までにおいて、コリントよりロマまでの大アーチはいよいよ出來(しゅつたい)したのである。アーチの消されし距離は遠くして、しかも關係はすこぶる密である。ともに�~よりキリストを通して召されし者、ともに恩惠を受けし者である。すなわちパウロも彼らも、キリストにありて一なるものである。かくキリストにありて一なるものの一人より、他のものに書を贈るのであるとパウロは言う。見事にアーチの造られしかな。かくてこのアーチを越えて、甲は乙に祝�ｂ�送るのである。すなわち七節後半に言う、「汝ら願わくはわれらの父なる�~および主イエス・キリストより、恩惠と平康を受けよ」と。

　

　「恩惠」は、五節の恩惠と同義に用いられしものと思わる。�~とキリストよりのすべての賜物を指すのである。その内容は、クリスチャンの實驗上熟知せるところである。「平康」は、英語 peace 原語において ειρηνη（アイレーネー）である。これ恩惠に接したる結果として起る一種言いがたき微妙なる心の平安を言う。「�~と和ぎしため、心に與えらるる深き靜謐または内的安心の感」とゴーデーはこれを説明してゐる。その貴さは、これを味わえる者の熟知せるところである。

　

　この恩惠と平康が「われらの父なる�~および主イエス・キリストより」來るのである。�~を「われらの父なる�~」と呼び、イエスを「主イエス・キリスト」と呼ぶ。甲は父にして、乙は主である。もつとも美わしき、意味ふかき稱号である。恩惠と平康が、�~とキリストとの兩者より來るのか、または五節の解義において説明せしごとく、�~よりキリストを通して來るのか、これ一の疑義であると思う。字義の上より見るとき、英語の from に當る απο（アポー）なる前置詞が、�~とキリストとの兩者にかかれるゆえをもつて、二者を恩惠と平康の源泉と見る前説を採る人がある。しかしこの字義上の關係が、�~を源泉としキリストを仲介者とする事實をすこしもさまたげぬと斷じて、乙説を固執する人もある。いずれにせよ、恩惠と平康が�~とキリストとより來るとは實驗上の事實である。そして�~のみを擧げなかつたところにパウロの特色が存するのである。�~のみを擧ぐれば足るというは、近代人の理論たるにすぎない。信仰の偉人使徒パウロは、その實驗上より、�~とキリストとの兩者を擧げざるを得なかつた。そして近代の信者といえども、理論より靈的實驗を重んずる者はまた然るのである。

　七節後半は、原文のとおりに譯せば、「願わくはわれらの父なる�~と、主イエス・キリストとより、汝らに恩惠と平康あらんことを」となる。すなわちこれ祈りの語である。兄弟に向つての祈りとして、もつとも美わしきものであるというべきである。しかしながら、あるいは言う人があるであろう、書翰において「平安を祈る」という意味の語をしるすは、不信者もまたよくし得るところでないかと。答えて言う、不信者の祈りの語とパウロのこの語とのあいだには、第一に、意味上に大なる相違があり、第二に、實際に祈らぬと祈るとの相違があると。いたずらに「平安を祈る」と書翰にしるすも、事實上祈らざるは不信者である。パウロのごとき人は、單にかくしるすにとどまつた人ではない。かならずやロマの兄弟のために、その恩惠と平康とを數多度(あまたたび)熱心に祈つたに相違ない。かく思うとき、この語に一層の力を感知するのである。

　然り、パウロは世界の中心ロマ府を忘れ得る人ではなかつた。そしてそこに住むところの少數の信者を忘れ得る人ではなかつた。彼がコリントにありてこの書をしたためし前、小アジアの各地を廻りつつありしとき、彼は目に幾度となく、心を西方に向けて、カイザルの都ロマ府を想つたことであろう。そしてそこの聖徒のために、篤き祈りを�~にささげたことであろう。彼は世界の中心に立つ彼らの、クリスチャンとしての責任の重大を痛切に思つたに相違ない。キリストの聖名の揚らんことを生涯の願いとした彼が、かく思わぬことはできなかつたに相違ない。從つて彼らの信仰の堅立は、單に彼ら自身のためのみでなく、キリストの聖名のため、�~の榮光のため、�ｉｹの世界に弘まらんため、全世界人類の救いのために、すこぶる必要なことであつた。されば、�~を思い、キリストを思い、�ｉｹを思い、世界人類を思うパウロは、ロマの信徒のために切なる祈りをささげざるを得なかつた。彼らの信仰の堅立を祈り、彼らの上に、父なる�~と主イエス・キリストとより、恩惠と平康の來らんことを祈らざるを得なかつたのである。

　

　以上をもつて自己紹介の部を終る。その中にいくつもの貴重なる眞理ふくまる。これをよく解せし人は、�ｉｹそのものを了解せし人である。眞にこれキリスト�ﾍの縮瀉圖である。その一語一語に、この世の他の處において見出し得ぬ特異なる眞理が存する。

　

第一章一 〜 七節の直譯

　

1 パウロ　イエス・キリストの僕、召されし使徒　�~の�ｉｹのために選別せられたる、 2 この�ｉｹは　彼の豫言者たちを通して　聖書において　從前より誓いたまえるものにて、3 彼の子に關するものなり、彼は肉によればダビデの裔より生れ、4 聖き靈によれば死者の復活をもつて　能(ちから)をもつて　�~の子として立てられし者すなわちわれらの主イエス・キリストなり、5 彼を通してわれら恩惠と使徒職を受く、すべての異邦人における信仰の服從にまで　彼の名のために、6 汝らもその人々の中にありて　イエス・キリストに召されしものなり、7 ロマにあるすべての　�~々に愛せられ　召されて聖徒たる者にまで。汝らに思惠と平康あれかし　我らの父なる�~および主イエス・キリストより。

　

右の意譯

　

1 われパウロ、イエス・キリストの奴隷たる點においては汝らと全くひとしきもの、しかし特に召されて使徒となりしもの、また�~の�ｉｹために前もつて選別しおかれし者、2 この�ｉｹは、いま突然あらわれしものにあらず、またわれ自身の創設にもあらず、�~が舊約聖書において、その出現を、古くよりその豫言者たちの口を通して約束したまえるものにて、3 �~の子に關係せるところのものなり、�~の子とは誰か、肉によれば、ダビデ王統の裔(すえ)として生れ、4 聖き靈によれば、死者の中より復活せしために、紳の子なることが力強くあらわれしもの（または権能をもつて�~の子と立てられしもの）すなわちわれらの主なるイエス・キリストなり、5 このイエス・キリストを通して、われらは救いに浴して各種の恩惠を受け、その上、使徒職を受けたり、そは彼の名の揚らんため、異邦萬國の民をして、信仰の服從(信仰によりて�~に服從すること)に入らしめんためなり、6 而して汝らは實にこの異邦民中の一部にて、かつわれら同樣、イエス・キリストに召されて信者となりしものなり、7 （一節を受けて）ロマ府にいま住めるところの、�~に愛せられ、召されて聖徒となりし者にまで、この書翰を送る。祈る、願わくはわれらの父なる�~および主イエス・キリストより、汝らに恩惠と平康と來らんことを。

　

附　言

　四節「聖書の靈性によれば、よみがえりしことによりて、明らかに�~の子たることあらわれたり」とあるは、全節ことごとく難解であること、上述せしとおりである。そのうち、「よみがえりしことによりて」は、原語には「死者（複數）の復活によりて」とある（εξ αναστασεωs νεκρων）。普通はこれを「死者の中よりの復活」と見て、キリストの復活を指すと解してゐる。これは事實を文字の中に讀みこみしものである。文字上より言えば、「キリストが死者を復活せしめたもうことによりて」と解する方が、むしろ自然であるかも知れない。

　

　もしパウロの意味ここにあつたとすれば、それは靈的死者を靈的に復活せしむること、すなわち多くの者を新生命に入れることを意味することとなる（靈的死者と明示はしてないが）。何となれば、この場合は既往のことゆえ、未來に起る肉體の復活を指さないことは明らかであるからである。然るときは、四節は、人々を靈的によみがえらしめることをもつてキリスト�~性の證據となしたことになるのである。もしパウロの眞意がここにあつたとすれば、彼はこの場合、あまりにユニテリアン的ではないかとの非難が起るかもしれぬ。