第一講 ロマ書の大意

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 キリストヘの經典は言うまでもなく新約聖書である。勿論舊約聖書をも加えて、創世記より黙示録に至るまでにおいて、~の道の啓示は完うせられたのであるゆえ、キリスト信者の據るべき經典は舊新約兩書であるが、厳密の意味においてキリストヘの經典と言うべきは新約聖書である。何となれば、キリストヘそのものは、その完き形においては、キリストの出現をもつて始まつたものであるからである。而してこの新約聖書は、その分量においては決していわゆる大著述と稱せらるべきものではない。五号活字をもつて四六判に組みて、わずかに數百頁にわたるにすぎない。これを佛ヘの經典たる大藏經に比するに、その分量においては、小屋をもつて大厦(たいか)に比するもなお足りない。またこれを囘ヘの經典たるコーランに比するも、なおその半量(なかば)たるにすぎない。その大きさより言うて、まことに一小著述である。然るにこの一小著述中に、全世界を幾度も改造したる歴史を有し、なお将來も然かする力を具備せる一書のふくまるるは、眞に奇蹟中の奇蹟であると言わねばならぬ。この一書こそ、實に我らの今囘の研究の題目たるロマ書である。
 
 實に聖書は寶の庫である。その中に、採つて以て我らの心靈の糧とすべきものはかぎりなくある。從つて我らは研究すべき題目のすくなきに苦しまずして、かえつて多きに苦しむのである。しかしながら、iケの中心たる十字架すなわち贖罪問題について研究せんとするときは、この問題に關して徹底的説明を提供したるロマ書を採るを最上の道とすること、勿論である。
 
 イエスはその公生涯の終りに當つて、自己の死を弟子らに豫示したもうた。マタイ傳第十六章二一節に言う、「このときよりイエス、その弟子に、己れのエルサレムに行きて、長老、祭司の長、學者たちより、多くの苦しみを受け、かつ殺され、三日目によみがえるなど、なすべきことを示し始む」と。こは最後のガリラヤ巡囘中におけることであつた。それを引き止めたるペテロは、「サタン」と呼ばれてしりぞけられた。主は動かすべからざる決意をもつて、みずから死を選みたもうたのであつた。何のゆえの死ぞ。何ゆえ彼はできるだけ長く地上に住みて衆民濟度の聖業に從わんとせぬのであるか。まことに怪しむべきの至りである。イエスはガリラヤにおいてこのことをくりかえして弟子らに語りしと見え、第十七章二二節、二三節も同一のことをしるしてゐる。彼はエルサレムにのぼる途中において、またこのことを彼らに告げた(二〇章十七節より十九節まで)。そしてここに初めて自己の死の決心の意味を語つた。「かくのごとく、人の子の來るも、人を使うためにはあらず、かえつて人に使われ、また多くの人にかわりて生命を與え、そのあがないとならんためなり」と(二〇章二八節)。そして弟子と最後の過越節を守りしときに「汝らみなこのさかずきより飲め、これ新約のわが血にして、罪をゆるさんとて、多くの人のために流すところのものなり」と告げたもうた。果然、彼の死の決意は、萬民の罪を自己一身に擔(にな)い、彼らにかわりて自己の生命を與えてそのあがないとなり、以て彼らの罪のゆるしを得んとするにあつた。實にこれ彼の永久に人類全體を包む大愛の發動であつた。
 
 イエスはその言を果して、十字架上にそのなお壯(さかん)なる生命をささげた。弟子は失望と恐怖に逃れ去つた。しかしイエスは墓と死に閉じこめらるべきものではなかつた。父は彼を復活せしめた、そして昇天せしめた。ここにおいて、弟子のあいだに力ある信仰が勃然として起つた。彼らは主の生前のヘえを想起した。そしてこれと相照して、その十字架と復活とをながめた。かくて彼らはまずイエスの~性を明らかに信じた。それに合せて十字架の贖罪を信じた。それに合せて主の再臨を信じた。かくしてキリストヘは成り、かくしてその世界的宣傳は開始せられた。
 
 我らが、イエスの贖罪の死の豫示と、己れの罪の赦免の切望とをもつて十字架を見るとき、贖罪の信仰は生起する。十二使徒らはそれであつた。しかし彼らは單純朴實の民であつて、理論の上にその信仰を説明しようとはくわだてなかつた。ここに~は敵人の中より使徒パウロを起したもうた。彼は痛切なる赦罪の實驗と、深奥なる贖罪の理論とを兼ね有した人であつた。多分彼はこのことについて父の黙示に接せんと欲して、幾年かを曠野に彷徨したことであろう。ついに彼は血と涙とをもつて贖罪の實驗とその理論とを兼ね得るに至つた。父は彼にこれを示し、彼はイエスの十字架に理論的根柢を與えた。ロマ書はすなわち贖罪の理論的根柢を開示せる大著である。
 
 再臨は貴き希望である。しかし十字架を除きし再臨の希望は、害多くして益すくない。人は十字架を信ぜずしては、または十字架について淺き信仰にとどまるかぎりは、再臨を信ずるも、健全なるを得ない。げにキリストヘの特色は、再臨に存せずして十字架に存する。勿論キリストヘの再臨およびそれにともなう世の終末と改造との内的性質が、他の宗ヘのこれと相似たるものと比して、全く比較しがたき高處に立つは事實である。しかしそのことは、他の宗ヘにもこれに似たるヘ義の存することを否定するを得ない。たとえば、かの大本ヘのごときはいわゆる終末ヘであつて、近き将來における世界の壊敗と改造とを主張するものである。ゆえに我らの再臨唱道が往々にしてかかる宗ヘを信ぜる人の同感贊成を得て、キリストヘの淺き見方を惹起せしは遺憾の至りである。再臨の希望は贖罪の土臺の上に築かれて初めて健全なるのである。後者を除きたる前者は、砂の上に建てられたる家のごとくである。雨降り、大水出で、風吹きてその家を撞(う)てば、ついに倒れて、その傾覆(たおれ)大である。否な、雨降らず、風吹かざるに、その家は倒れ去るのである。
 
 キリストヘの専有的ヘ義は贖罪である。もとより罪の赦免は佛ヘにもある。浄土眞宗のごときは、これをもつて生命とせる宗ヘである。さあれ彼になくして我にあるものは實にキリストの十字架である。いかなる宗ヘか、そのヘ祖の死の上に赦罪の信仰を立脚せしむるものがあるか。ただの赦罪の信仰ではない、實にイエス・キリストの贖罪による赦罪の信仰である。これキリストヘの特有物にして、iケのiケたる處以また實にここに存するのである。ゆえに今日この信仰を提唱するは、キリストヘを他の宗ヘと截別(せつべつ)せしむる效果あるとともに、近時唱道せらるる贖罪抜きのキリストヘと我らの信ずるキリストヘとの相違を明らかならしむる、もつとも有力なる道である。この意味において、ロマ書の研究はすこぶる有價値であると言わねばならぬ。
 
 人は往々にしてロマ書をもつて難解の書とし、この意味において新約聖書中これを黙示録と併置する。黙示録は記事そのものが不可解であり、ロマ書は、その中に貴き語は散見すれど、全體として解しがたしと言われてゐる。果してこの書はしかく難解のものであろうか。まず注意すべきは、その分量の至極小なることである。章に分ちて十六、節に分ちて四百三十三、字の數はギリシア原文において約七千字、英譯において約八千字、日本譯において約一萬六千字(カナを一字に數えて)である。これを『聖書之研究』誌上に印刷すれば、わずかに二十ページをもつて事足るのである。またこれを通讀するには四十分をもつて足ると思う。到底一時間を越ゆることはないであろう。幾度も世界を改造せし書と稱せらるるも、その分量の小なること、まことにおどろくべきである。ゆえにこれを難解なりとするも、その小冊子たるを思えば、これが研究に從わんとの勇氣はおのずから生起せざるを得ないのである。もしこの書を一つの要塞にたとえんか、もとより堅壘たるには相違なけれど、決して難攻不落と言うべきほどのものではあるまい。攻むるに道をもつてすれば、この堅壘もまた陥落する。要は我らの熱心如何に存する。而してこの要塞が、堅固なりといえども大ならざるは、これを攻略せんとする我らにとり勿計(もっけ)の幸いである。しるせよ、十六章、四百三十三節、一萬六千字。難しといえどもわずかに一萬六千字をもつて成る一文章たるにすぎない。
 
 由來、貴重なる書物は、これを讀むのみにとどめずして、筆瀉をもつて理解を助くるを最良の方法とする。我らの祖先に、佛ヘに熱心なる信者多かりしは周知の事實なるが、彼らが熱心に經文を筆瀉したる一事は、今人の遠くおよばざることである。法華經を全部筆瀉したる人のごときは、數え得ぬほど多數であると思う。かの宗ヘ改革において貴く重き責を充たしたるメランクトンは、ロマ書を二囘筆瀉したとのことにて、それが西洋においてめずらしきこととして傳えられてゐる。しかしこれを日本の佛ヘ史に持ち來れば、すこしもめずらしきことでなく、全く普通のことである。ロマ書のごとき、貴重にしてかつ平易ならざる書は、よろしくこれを筆瀉すべきである。然るときは、ただの通讀に比して、理解の上に十倍もの力が加えらるることであろう。英の詩人にしてかつ文學批評の天才なりしコレリッジは、ロマ書を稱して「世界最大の書」と呼んだ。げに人間の筆に成りしもののうち、これほどの大著作はないのである。この書ありしため、地球の表面は幾度も改造せられたのである。もしこの書なかりせば如何。我らは果して今見るごとき世界を見得るであろうか。この書のために起されし幾度かの世界改造なかりしとせば、我らはなお心靈束縛の暗き境に呻吟しつつあるであろう。オーガステンのロマヘなく、ルーテルのプロテスタントヘなく、クロムウェルの清ヘ徒改革なく、ウォシントンの米國建設なきとき、世界は果して如何の状態にあるであろうか。我らは今その樣を想像にのぼすことはできない。しかし恐らくは今日に比しなおはるかに惡しき世界に我らは住むに相違ないと思う。
 
 今や世界改造の聾は地の果てより果てにいたるまで鳴りとどろいてゐる。改造は、人間生活の各方面に向つて叫ばれつつある。しかしながら、今日の改造説は未だ一度も實地に試みられざるもの、從つてそのどよめきはいかに大なるも、その效能の明らかならぬものであることは否定し得られない。然るにロマ書の提示する改造の原理は、かつて幾度か試みられて、その效果の顯著なるを證據立てられしものである。かつ今日流行の改造説はただ社会の外部的制度に關するものであるが、ロマ書の改造説は自己心靈の改造を主眼とするものである。而して外の改造と内の改造と、いずれが源にしていずれが末なるかは、識者を待たずして明らかである。ゆえにロマ書の提供する改造の原理は、今日流行のそれに比して、はるかに深奥なるものなることは、言わずして明らかである。外か内か、形か心か、肉か靈か、我らは後者の一をもつて前者の一の上に置かねばならぬ。而して古往今來、人の道はおおむね外と形と肉とに重きを置き、~の道はとこしえに内と心と靈とに重きを置く。而してロマ書の改造説は~の道である。ゆえに今日流行の人の道たる幾多の改造説と正反對の極に立つものである。さりながら、問題はいずれが眞正の改造説なるかに存する。然り、まことにそうである。それに相違ないのである。
 
 今ロマ書の中より二、三の有名なる語を摘出して、それが右のごとき意味における改造の原理たることを示すことにしよう。第一は、第一章十六節、十七節である。われはiケを恥とせず。このiケは、ユダヤ人をはじめギリシア人、すべて信ずる者を救わんとの~の大能たればなり。~の義はこれにあらわれて、信仰より信仰に至れり。しるして、義人は信仰によりて生くべしとあるがごとし。
 
 これ多くの註解者によりて、ロマ書の主題と見らるる重要なる語であつて、ロマ書全體を壓搾せしごときものである。時は千五百十一年の某月某日のことであつた。かの北歐の剛健兒マルチン・ルーテルは、その屬する宗派の使命を帶びてロマ府に使した。時に彼は三十歳の壯齡においてあつた。彼は多くの巡禮者の群れに投じて「ピラトの階段」を膝をもつて至りつつあつた。この階段はもとピラトの政廳にありしものにて、イエスの登りしことあるものと傳えられてゐる。(勿論事實ではない)。ゆえにこの階段を聖なるものとして、巡禮者が敬虔なる姿態をもつて登ることになつていたのである。中途にして彼の心に浮びしはロマ書第一章十七節、十八節であつた。ことに「義人は信仰によりて生くべし」の句であつた。電撃のごとく、この句が彼の魂を撃つた。彼は中途より階段を引き返した。彼の心はこのときロマヘと絶縁したのである。彼は多くの失望をもつて郷國に歸つた。しかし新しき生命はこの失望の中より發芽しはじめたのである。かくてプロテスタントヘは起り、かくて自由は全歐にみなぎるに至つた。彼によりて起りたる宗ヘ改革は、決して單なる宗ヘの改革ではなかつた。また舊ヘに對抗して新ヘが起つたというだけのことではなかつた。實に彼の宗ヘ改革は、當時の世界たる歐洲全土の大改革であつた。げにキリストヘの生起を別として、宗ヘ改革が與えたほどの大改造はかつてこの世に起らなかつた。ロマ書が −− ことにその第一章十七節が −− かくのごとき大改造の因となつたのである。ふしぎである。しかし事實である。
 第二に注意すべきは、第三章二一節 〜 二六節である。これロマ書の中心である。ことにその中の二三節 〜 二五節を我らは見よう。
 
 すべての人、罪を犯したれば、~の榮光を受くるに足らず、功なくして、~の恩惠により、キリスト・イエスにある贖罪によりて義とせらるるなり。すなわち~は忍耐をもつて過ぎ來しかたの罪を見のがしたまいしが、己れの義をあらわさんとてキリストを立て、その血によりて信仰によれる宥の供物となしたまえり。(改譯)
 まことに人の救わるるは行いによらず、信仰による。功なくして、ただキリストを信ずる信仰のみによりて、~の恩惠を受けて義とせらる。これイエスの十字架の贖罪あるがためである。人はただイエスを信ずるによりて、罪をゆるされ、潔めらる、唯一の救いの道は信仰であると。これ人を救い、國を救い、世界を救う救濟の大原理である。もしヨブ記第十九章二五節がヨブ記の中心であり、かつ舊約聖書の中心であるならば、ロマ書第三章二五節は、ロマ書の中心たるにとどまらずして、また實に新約聖書の中心であるのである。
 
 古來この語によりて靈魂の平安を得たる人は、その數無限であると思う。英の詩人ウィリアム・クウパーのごときはその代表者である。
 
 それはクウパーが絶望の底まで落ちこんだときであつた。彼ははなはだしく興奮して、居室を右に左に歩みつつあつた。ついに彼は窓ぎわに腰をおろした。そこに聖書があつたので、何かのなぐさめと力を見出し得るかも知れぬと思つて、それを開いた。彼は言うてゐる。「私の眼にふれた箇處はロマ書第三章の二五節であつた。義の太陽の光はこよなき豐けさをもつて私を照した。私はキリストが、私の赦免と全く義とせらるることとのためになせしあがないの完全充足なるを知つた。一瞬にして私はこれを信じ、そしてiケの平和を受けた」と。彼はなお言う。「もし全能者の腕が支えなかつたならば、私は感謝と歡喜のために壓倒されてしまつたことであろう。私の眼は涙に充ち、感きわまつて聲は出なかつた。私は愛と驚異にみなぎりあふれて、ただ靜かなる敬畏をもつて天を見上げ得るのみであつた」と。「その歡喜は言いがたく、かつ榮光あり」(ぺテロ前書一章八節)とは正にかくのごとき聖靈のはたらきを言うのである。(テーラー氏著クウパー傳より)
 
 げに第三章二五節のごときは聖書の中心たる著るしき語である。聖書はロマ書に照して見るとき完全に理解し得るとカルヴィンは言うた。我らはむしろ進んで言おう、ロマ書第三章二五節に照らして、創世記の始めより黙示録の終りまで眞に解し得るのであると。眞に偉大なる言である。
 
 第三に、我らは第十三章十一節 〜 十四節を擧げたい(讀者は聖書を開きてこの箇處を讀まれたし)。こは再臨の希望に根ざす強き新生活のすすめである。この語にはげまされて新生涯に入つた人の數は無限であると思う。かのロマヘ会の最大偉人オーガスチンのごときはそのよき實例である。彼はいかにかして信仰生活に入らんとつとめつつあつたが、心に荒れ狂う情欲はむなしく彼の努力を嘲笑つていた。しかし期はついに來た。聖靈は彼の切なる願いを納れた。彼は一日懊惱に重き胸をおさえて庭園を歩みつつあつた。時に何處よりともなく、細く妙なる聲が彼の耳を打つた。その聲は明らかに「聖書を開け」と聞えた。天使の聲か、聖靈のささやきか、いずれにしてもこの世の人の聲ではなかつた。彼はただちに聖書を開いた。そこはあたかもロマ書第十三章の終りであつた。彼は燃ゆる眼をもつて十一節以下を一氣に讀み下した。ここに強烈なる決心はおのずからにして彼に起つた。ここに「舊きは去つてみな新しくな」つた。その熱烈なる信仰の叫びと廣博なる思想とをもつて世界に大感化を與えしオーガスチン、彼はかくして生れたのであつた。ロマ書第十三章末段は、オーガスチンを通して全世界に大感化を與えたのである。
 その他、十八世紀において世界に強き靈的復活を與えたるジョン・ウェスレーのごときは、ルーテルのロマ書註解の序文を讀みて信仰に入れりと傳えらる。すなわちロマ書がルーテルを通してウェスレーを生んだのである。以上のごとく、世界を改造せし大偉人を幾度も起したるロマ書は、すなわち世界を改造せし書と言うべきである。まず人をその根柢において改造し、以て世界の改造をうながすものはこの書である。これ今日までの歴史の證明するところである。
 
 余自身またこの書によつて救われし一人である。儒ヘ國に育ちし我らは、キリストヘをもつて聖人君子たるの道と考え、完全なる道コ的状態に達せんことを信仰の目的と考えやすい。然るとき、己れの實状が己れの理想と副わざるため、苦悶懊惱の襲うところとなるのである。余のごときは、この罪の悶えに泣きしも、日本國においてこれを解決するの道なく、ためにはるばる米國にまで渡りて、この疑問の氷解を求めたのである。時に親切なる先生あり、余にヘえていわく、「汝みずから義たらんとつとむるなかれ。そはあたかも小兒が植木を鉢に植えて、毎日引き抜きつつ發育如何を調査する類にして、到底でき得べきことにあらず。汝みずから聖くならんとつとめずして、ただ十字架のイエスを仰げ、さらば平安汝に臨まん」と。かくヘえられて大いに悟るところあり、かつロマ書を画、して、ついに平安に達したのである。仰ぎ見よ、さらば救われんと、これロマ書の提示する平安獲得の道である。みずから義となりて平安に達せんとするは、iケとは正反對の道である。iケはただ一つ、すなわち信仰によりて~に義とせられて平安に入るのである。我らの研究せんとするロマ書は、この道を人にヘうる書である。
 
 最後にロマ書の骨子を述べよう。第一章一節 〜 十七節は前置きであり、第十五章十四節以下第十六章までは結尾のあいさつであるゆえ、これを除きて、第一章十八節より第十五章十三節までをロマ書の本體とする。これは左の三綱目に分たれる。
 一、人はいかにして救わるるかの問題(第一章十八節 〜 第八章)
 二、人類はいかにして救わるるかの問題(第九章 〜 第十一章)
 三、この救いにあずかりしものの生活の問題
   =信者の實践道コ(第十二章 〜 第十五章十三節)
 
右のうち、第一がもつとも大切であつて、これロマ書の主要部である。そしてこれをさらに左の三項に分つ。
 
 一、義とせらるること(第一章十六節 〜 第五章)
 二、聖めらるること(第六章、第七章)
 三、榮化せらるること(第八章)
 
 この三つ、すなわち義とせらるること、聖めらるること、榮化せらるることは、いずれも自己の努力によらず、ただ信仰による仰瞻(ぎょうせん)によつて與えられる。これを細説すれば、十字架のキリストを仰ぎ見ることによつて義とせられ、復活せるキリストを仰ぎ見ることによつて聖められ、再臨すべき彼を仰ぎ見ることによつて榮化せられる。一として自己の功、行、積善、努力等によつて達成せらるるものはない。すべてすべて彼を信ずる信仰により、彼の遂げたまいし功による。ただひとえに彼を信受し、彼に信頼し、彼を仰ぎ見ることによりて、我らは義とせられ、また聖められ、また榮化せしめらる。このことをヘうるがロマ書の主要なる目的にして、それに添えて人類の救いとクリスチャンの實践道コとを説示するのである。簡單にして明瞭、解しやすきがごとくにしてしかも解しがたく、解しがたきがごとくにしてしかも解しやすきがロマ書である。げにこの偉大なる書は我らの熱心なる研究に値いするものである。そはその論ずるところが世界人類の最大問題であるからである。
 

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