内村鑑三 著「羅馬書之研究」
 
『ロマ書の研究』に附する序

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 余に一生の志望があつた。それは日本全國に向つてキリストの十字架の福音を説かんことであつた。この志望は、余が明治の十一年、札幌において初めてキリストを信ぜしときに起つたものである。爾来星霜四十年、その實現の機会を待つも到らず、時にあるいは志望は夢として消ゆるのではあるまいかと思うた。

 されども機會はついに到来した。~は余のために所を備えたもうた。それは東京市の中央、内務省正門前、近くに宮城を千代田の丘に仰ぐところ、大日本私立衛生會の講堂であつた。余は此所に、大正八年五月より同十二年六月まで、満四年にわたり、日曜日ごとに聖書を講ずるの自由をゆるされた。建物はドイツ式の宏壮なるもの、設備完全にして、震災以前の東京市において、他に得る能わざるものであつた。聴衆はすべての階級を網羅し、キリスト教各派の信者、教會以外の信者、またみずから信者と稱せざる者、また仏教の僧侶さえをもそのうちに見た。實に日本にキリスト教が傳えられて以来、未だかつて見たことのない聴衆であつたと思う。その熱心に至つては、彼らのうちに、あるいは宇都宮より、あるいは名古屋より、毎囘列席せる者ありしに徴しても判明(わか)る。余自身にとりては、余の生涯の最高潮に達したときであつて、五十九歳より六十三歳に至るまでの間、この楽しき事業に從事するを得て、感謝この上なしである。

 余は大手町において、ダニエル書、ヨブ記、ロマ書、ならびに共觀福音書の一部を講じた。そのうち余がもつともふかく興味を感ぜしものはロマ書であつた。使徒パウロによつて口授せられしこの書は、キリスト教の眞髄を傳うる書である。この書を解せずして、キリスト教を解することはできない。また余の四十七年間の信仰の生涯において、余がもつとも注意して研究したりと思うはこの書である。余はロマ書を講じて、實は余自身の信仰を語つたのである。ゆえに六十囘にわたりしこの講義は、余にとりては快楽の連続であつた。これを百囘または二百囘となすも、余は倦怠をおぼえなかつたであろう。~の思惑の福音の講述である。キリストにあらわれたる天父の愛の宣傳である。これにまさる愉楽(たのしみ)の、他にありようはずはない。余は第六十囘の最後の講義をなし終つたときに、惜別の涙を禁じ得なかつた。
 
 著者なる余自身が、この書の不完全をもつとも痛切に感ずる者である。余は編纂者とともに最善をつくしたつもりであるが、その結果たる、理想に遠くおよばざるを遺憾とする。「われらこの寶を瓦器(つちのうつわ)に持てり」とあるがごとく、パウロの遺せし本文は寶玉であるが、我らがこれに與えし註繹は瓦器にすぎない(コリント後書四章七節)。ただし器は無きにまさるべし。あえてこれを世に提供する所以である。
 
 余はここに、過去六年のあいだ余の講演の席につらなり、直接に間接にこの聖業に参加せられし多数の聴講者諸君に、心よりの敬愛を表す。また藤井君、黒崎幸吉君、時田大一君、畔上賢造君ら、余と講壇を共にせられし諸君に感謝す。またその音楽的天才をもつて、會衆一同を讃美の歌に導かれし故吉澤重夫君の好意を記念す。ことにまた聴講者の一人なる古我貞周君が、本書出版の費用を負担せられしを感謝す。人生は短し、眞理は永し、我らこの短き生涯において、幾分なりとも~の福音の眞理のために努力して、その永久性の分與にあずかりしことを感ぜざるを得ない。願わくは、榮光かぎりなく聖霊により、イエス・キリストの御父なる眞の~に帰せんことを。
 
大正十三年(一九二四年)七月五日
内村鑑三
 

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