ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2015年4月12日


2015年4月12日 主日礼拝説教
「すべてのものの上におられるお方」〜イエス・キリストの生涯29. バプテスマのヨハネの証言2〜(ヨハネの福音書3章22節〜36節)

■はじめに

 先週はイースター礼拝説教のため、22節から始まったバプテスマのヨハネの証言について24節まで読み、バプテスマのヨハネとイエス様たちの2か所で洗礼を授けていた状況をお話ししました。今日は25節から入ります。

■ヨハネの弟子たちの嫉妬

25それで、ヨハネの弟子たちが、あるユダヤ人ときよめについて論議した。

 ヨハネの弟子たちがユダヤ人たちと始めたきよめについての論議が、自分たちの先生であるヨハネの洗礼と、イエス・キリストの洗礼とはどこが違うか、になったようです。ユダヤ人たちから、ヨハネのほうに来る人たちが減っているのはイエス様の洗礼がよりきよめられるのではないか、と言われたのでしょう。先生思いのヨハネの弟子たちは悔しい思いをしたでしょう。それで……

26彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」

 ヨハネ先生の人気が落ちてきていることに対していらだち、イエス様に嫉妬したのです。かつてヨハネがイエス様を「見よ。神の小羊」と紹介したのに、イエス様のもとに行った弟子たちはアンデレ、ヨハネなど少なかったのでしょう。ヨハネの弟子たちの多くは、そのままヨハネのもとにとどまりました。

■私は衰える者

 ヨハネは弟子たちに、自分はキリストではなく、キリストの前に遣わされる者であることを思い起こさせました。ヨハネがそう言い続け、実際にイエス様が現れたことを、ヨハネの弟子たちも知っており、また見てきました。それがわかっていれば、イエス様の働きが進展していることを喜んでいいはずです。
 これからもイエス様の働きは自分を追い越して行くだろう、とヨハネは語りました。そのことを、花婿と花婿の友人の関係を使って弟子たちに話しました。

29花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。

 花嫁はイエス様を信じる信者全体、花婿は主イエス様を指しています。花婿の友人とはバプテスマのヨハネです。花婿の友人は結婚の時、結婚前の花嫁、花婿の間をとりもち、両者の間にある障害を取り除き、両者が速やかに結婚できるようにする役目を負っていました。二人が無事に結婚できれば、友人の仕事は終わるのです。
 そのようにキリストが有名になり、キリストの教えを喜んで聞いている人たちが起こされることをヨハネが望んでいることなので、弟子たちも同じ思いになることを願いました。

30あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」

 これはヨハネの謙遜さを最もよく表していることばでした。

■すべてのものの上におられるお方

31上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。

 ここから福音書を書いた使徒ヨハネの解説のことばとなります。30節の「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」と語った「あの方」とはどういうお方なのかを記していきます。イエス様は、「上から来る方」「天から来る方」です。それは救い主キリスト、「人の子」のことでした。13節で「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です」とイエス様が言われたとおりです。そのお方が人としての性質をとり、人間としてお生まれになりました。神であり、人であられたお方です。
 この地に属する者は人間にすぎず、語ることも地に属しています。ヨハネも神様から遣わされた預言者であり、後にイエス様から人間の中で最も偉大な人と言われます。それでもキリストの前では、太陽が上がってくると消え去っていく星のような存在でした。

32この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。

 このお方は天で、永遠に父なる神と共におられ、直接見たこと聞いたことを語っているのです。しかし、そのように神様を証ししているキリストのことばを「だれもそのあかしを受け入れ」ません。わずかの人しか受け入れないとのです。
 ヨハネの弟子たちが、「みなあの方のほうに行きます」とヨハネに不満を言いました。確かに今はたくさんの人がイエス様の説教を聞きにやってきていますが、ごくわずかな人しか信じないのです。今は一時的な人気を博しているが、つまずき離れていく者が多いのです。

33そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。

 しかし、そのような中でイエス様のことばを受け入れた人は、神様が真実であり、神様は約束を守られ、必ず救われるという信仰を告白するのです。「確認の印を押した」とは、正式に公に表明するということです。

■神のことばを信じる者、信じない者

34神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。

 イエス様のことばは神のことばそのものでした。イエス様のことばを聞いた者は、神様が語られることばを聞いたのです。イエス様の教えを聞いた者は、父なる神の教えを直接聞いたのです。

ヨハネの福音書14:10「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」

 それは、「神が御霊を無限に(イエス様に)与えられる」からでした。イエス様は、人として御霊の賜物と恵みが無限に与えられています。しかし、神であるイエス様と御霊は分離することができません。聖霊は神の御霊であり、キリストの御霊でもあります。神、御子、御霊なる神は一つだからです。

35父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。

 神様は、人間の救いについてはすべて御子の手にゆだねられました。神様は永遠から御子を愛しておられました。

ヨハネの福音書17:24「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」

36御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

 キリストを受け入れて信じるか、そうでないかの重大さを語ってヨハネの福音書3章は閉じられます。これは16節、18節でイエス様も語られました。

ヨハネの福音書3:16、18「16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。18御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」

 ニコデモの訪問から始まったヨハネの福音書3章で、イエス様が語り、バプテスマのヨハネが語り、著者である使徒ヨハネが記したことは、イエス様が十字架に示された愛が私たちの罪のための死であったことを信じ受け入れるかどうかは、その人の人生に生と死を決定する重大な問題であるということでした。
 イエス・キリストの福音は、信じる者に永遠のいのちに至る約束が与えられます。キリストを信じる時に、永遠のいのちへの道が直ちに始まるのです。罪が赦され、平安が与えられ、天国へ行く権利が信じた者のものとなるのです。しかし、この確かな神のことばを聞きながら、「すべてのものの上におられる」お方の声に従おうとしない者にはいのちがないばかりか、「神の怒りがその上にとどまる」のです。
 私たちは、イエス様のことば、神のことばを聞いて信じています。今日も、永遠のいのちを喜んで生きていることを感謝したいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2015年4月12日