ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2015年4月5日


2015年4月5日 主日礼拝説教
「あの方は盛んになり」〜イエス・キリストの生涯28. バプテスマのヨハネの証言1〜(ヨハネの福音書3章22節〜30節)

■はじめに

 バプテスマのヨハネの生涯は、ヘロデ王によって捕らえられ、首をはねられて閉じることになります。そのことは、マタイ、マルコ、ルカの福音書に記されますが、ヨハネの福音書にはありません。
 ヨハネの福音書はバプテスマのヨハネの最期は記しませんが、ヨハネが捕らえられるまでどのようにイエス様を証し続けたかについて知ることができます。

■これまでのイエス様

22その後、イエスは弟子たちと、ユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。

 イエス様のこれまでの足取りをたどると、ガリラヤのナザレからヨルダン川にやって来て、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。そのあとすぐに荒野に退かれ、40日間悪魔の誘惑を受けられました。それが終わって再びヨハネのもとに来られた時、ヨハネから「見よ。神の小羊」と、ヨハネの弟子や、そこにいた群衆たちに紹介されました。それを聞いたヨハネの弟子のうちアンデレとヨハネがイエス様について行き、イエス様の弟子になりました。その後、アンデレの紹介によって兄弟ペテロが、さらにピリポが、そしてピリポの友人ナタナエルがイエス様の弟子に加わりました。
 イエス様たちはガリラヤに帰られ、カナの結婚式に出席され、水をぶどう酒の変えるという最初の奇蹟を行われました。そして過越の祭りのためエルサレムに上られ、エルサレム神殿にいた両替人や犠牲の動物を売っていた人たちを追い払われました。
 イエス様がエルサレムでなさったことを見て、この方こそ神様から遣わされたお方であり救い主ではないかと思ったニコデモは、夜、イエス様を尋ねてきました。そこでイエス様は、神様のみこころである人間の救いについて話されました。その後、エルサレムから離れて、弟子たちとこのユダヤの地と言われる所にやって来られたのでした。
 イエス様は、ここでしばらく滞在されることになります。

■イエス様の弟子による洗礼

 その所でイエス様は人々に話をされ、イエス様を救い主として信じた人たちに弟子たちが洗礼を授けました。この洗礼は、もはやバプテスマのヨハネによる悔い改めのしるしとしての洗礼ではなく、イエス様が昇天される前に、「父、子、聖霊の御名によって洗礼を授けなさい」と言われた洗礼と実質的に同じものでした。

23一方ヨハネもサリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が多かったからである。人々は次々にやって来て、バプテスマを受けていた。

 ヨハネも「サリムに近いアイノン」で教えを続け、洗礼を授けていました。ここがどこにあったのか今ではわかりません。水が多かった所であったので、ヨルダン川の近くにあった町だと思われます。聖書地図では、ガリラヤとサマリヤの境あたり、デカポリス地方にサリムを置いています。
 さてこの時ヨハネが授けていた洗礼はどのようなものでしょうか。すでにイエス様がやって来られ、それをヨハネも認め、ヨハネの弟子たちもイエス様の弟子になったのです。ヨハネの道備えとしての役割は終わっていました。それでも多くの人がヨハネのもとにやってきていました。
 ヨハネは、イエス様が神の小羊、救い主であることを知らせ、そのことを信じたしるしとして洗礼を授けていたと思われます。

24──ヨハネは、まだ投獄されていなかったからである──

 ヨハネは、ガリラヤの国主ヘロデの罪を指摘したことにより、怒りを買い、投獄され殺されます。マタイ、マルコ、ルカの福音書は、イエス様はヨハネ投獄のことを知り、ガリラヤに立ち退かれ、そこからイエス様の働きが始まったように書かれています。

マルコの福音書1:14−15「14ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。15「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」」

 ですから、これまでのイエス様の活動と、次に4章のサマリヤを通ってガリラヤに行くまでは、主にユダヤを中心とした初期の活動であり、ヨハネの福音書にのみある出来事です。

■イエス様の謙遜

30あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。

 これは、バプテスマのヨハネの謙遜さを示すことばとして知られている一節です。イエス様はヨハネを、人間の中で最も偉大な人と紹介しました。それは、彼の華々しい働きに対してではなく、このだれよりも謙遜であったことのゆえであったでしょう。
 しかし、最も謙遜であったのはイエス様ご自身でした。

マルコの福音書10:45「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

 「自分のいのちを与える」ため、イエス・キリストはゴルゴタの丘で十字架につけられました。しかし、それが終わりではありませんでした。墓に葬られてから3日目、日曜日の早朝です。マグダラのマリヤたち、女の弟子たちが、イエス様が葬られている墓に訪ねたところ、お墓が空になっていることを見、そして御使いからイエス様がよみがえったことを知らされました。
 マリヤからの知らせを聞いた弟子のペテロとヨハネは空になったお墓に駆けつけましたが、半信半疑のまま帰っていきました。ヨハネの福音書20章にある復活の記録です。

■恐れを乗り越えて

 ルカの福音書24章には日曜日の夜のことが記されています。イエス様は、復活を信じられずにいた弟子たちの部屋に現れました。最初弟子たちは、驚き恐れて、霊を見ているのだと思いました。 
 イエス様は言われました。「わたしの手やわたしの足を見なさい。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありませんが、わたしは持っています。」
 それからは、だれも疑う者はありませんでした。「イエス・キリストは死からよみがえられた。私はその復活の主をこの目で見た」と、自分のいのちをかけて伝えるようになったのです。
 マタイの福音書28章には、イエス様のお墓を見張っていた番兵たちに、お金を与えて偽証させたことが記されています。「夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行きました。」そのようなことにならないように、墓に封印をし、寝ずの番を命じられていた番兵たちでした。もし眠ってしまって職務を全うできなかったら、死刑になるかも知れないほどの罪でした。また寝ていたならば、どうして弟子が盗んだとわかるのでしょうか。
 その話が真実であるかのように広まり、マタイの福音書が書かれた十字架から30年後まで、それが人々の間では事実として広まっていました。
 しかし弟子たちはイエス様に会って変えられました。大胆に、多くの人に向かって、いつもイエス様がよみがえられたことを語りました。

使徒の働き2:32「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」

使徒の働き3:15「あなたがたは、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」

 弟子たちの別人のような力強い行動は、もし復活がなかったならば説明できないほどの変わりようです。

コリント人への手紙第1、15:17「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」

 私たちはその弟子たちの証言によって、確かにイエス様が十字架で死んでよみがえられたことを信じています。私たちはイエス様によって救われました。どんなに私たちの心が罪深くても、イエス様は私たちすべての罪を引き受けて十字架にかかられ、そのことを信じれば私たちの罪が赦されるという道を開いてくださいました。そればかりではありません。イエス・キリストを信じる者は一人も滅びることがなく、永遠のいのちを持つという約束を与えてくださいました。
 今日イースターを迎え、復活の主イエス・キリストが最初の弟子たちに現れてくださったように、今日も私たちとともにいてくださることを覚えて、これからも歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2015年4月5日