ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2015年1月18日


2015年1月18日 主日礼拝説教
「初めに、ことばがあった」〜イエス・キリストの生涯18. ヨハネの福音書序文1〜(ヨハネの福音書1章1節〜2節)

■はじめに

 イエス様の生涯を福音書から順に追ってきて、イエス様が悪魔から試みを受けられたところまで読んできました。次はイエス様が宣教を始められ、弟子たちをイエス様が招く箇所に進みます。ヨハネの福音書1章35節からのところに、バプテスマのヨハネの弟子であった者たちが最初のイエス様の弟子となったことが記されています。そこに入る前に、1節からのヨハネの福音書の序文を見ることにします。

■ヨハネの福音書について

 ヨハネの福音書は、12弟子のひとりであるゼベダイの子ヨハネによって書かれました。ヨハネは、イエス様の弟子になる前はガリラヤ湖の漁師でした。この福音書では「イエスが愛された弟子」として登場します。

ヨハネの福音書21:20、24「20ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか」と言った者である。……24これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。」

 ヨハネは12弟子の中で最も若い、最後まで生き残った弟子でした。ヨハネの福音書は、イエス様が死んで復活されてから70年近くたって書かれました。そのときヨハネは90代の高齢であったと思われます。
 イエス様の行ったことは、すでに3つの福音書に明らかにされていました。ヨハネの福音書は、いちばん最後に書かれた福音書であり、資料となったものはヨハネ個人が持っていたものと、またそれまでマタイ、マルコ、ルカが使わなかったものでした。
 ですからヨハネの福音書と他の3つの福音書と比べると、だいぶおもむきが違っています。ヨハネの福音書は、ほかの福音書が省いているものを多く含み、また反対に他の福音書が記録しているものを省いているからです。しかも取り上げている出来事、しるしと呼ばれる奇蹟は7つであり、そのあとにまた長い7つの説教が組み込まれており、そして最後の晩餐の長い説教、そして十字架と復活へとつながっていく内容になっています。
 3章のニコデモが夜に訪問してきたこと、4章のサマリヤの女に水を求めた話、5章のベテスダの池、9章のシロアムの池での奇蹟、11章のラザロの復活、13章から16章までの最後の晩餐での弟子たちへの説教、17章のイエス様の祈り、21章のペテロに復活のイエス様が現れたこと、そのほか弟子やユダヤ人たちに語った霊的な説教などは、ヨハネが書き残してくれたことによって知ることができるものです。
 このようなヨハネの福音書ですが、もしヨハネの福音書がなかったならば、イエス様が神であられること、聖霊の働きについて、またイエス様を信じた者に与えられるすばらしい特権についての理解が不十分になってしまったことでしょう。
 特にこの最初の部分、序文と言われている部分は、イエス様が神であられることを最も明らかにしたものです。

■ヨハネの福音書序文

 ヨハネの福音書1〜18節が序文です。主イエス様が神であることをこれほど明瞭に、独特の表現をもって示している箇所は聖書の他の箇所には見いだされません。特に第1節は重要な聖句となっています。

1初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 ここで言う「ことば」(ロゴス)は、語られたことばを意味しているのではなく、人格を意味しています。

ヨハネの福音書1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

 ヨハネは、この「ことば」と訳された「ロゴス」を聖霊の導きによって選び、イエス・キリストに用いました。
 ヨハネは、なぜイエス様を「ことば」を使って表そうとしたのか。また「ことば」を使うことによって何を語ろうとしたのか。「ことば」によって何か深遠な真理を教えようとしたのか。その答えを出すのは不可能であろうと言われています。
 しかし、「ことば」はまさに神様、イエス様がご自分を明らかにするために最も必要なものでした。キリストは神の知恵であり、理性であるお方です。
 この序文のあと、ヨハネは「ことば」を、人格をもったイエス様ご自身のこととしては用いません。しかし、福音書を通してヨハネは、イエス様のことばが神のことばであり、そのことばを信じることが重要であり、イエス様のことばにとどまることがイエス様の弟子となることであり、イエス様のことばがいのちを与え、イエス様のことばがきよめ、イエス様のことばが祈りがかなえられる根拠になり、イエス様のことばを守ることが重要なことであると語るのです。
 1節でヨハネは3つのことを言っています。イエス・キリストは永遠であること。イエス・キリストは父なる神様とは別の人格であり、しかし父なる神様と最も密接に結びついていること。イエス・キリストは神であるということです。

■初めに

 「初めに」は永遠を示します。全創造の初めに、という意味です。「初めに」は、聖書の最初の創世記1章1節を思い起こさせます。

創世記1:1「初めに、神が天と地を創造した。」

 ヨハネは、新しい始まり、神の新しい創造のことを書こうとしたので、創世記の最初のことばを意識して用いたと言われています。4節の「いのち」や「光」、5節の「やみ」などは、創世記1章で取り上げられていることばです。
 「ことば」は造られたではなく、「あった」のです。これは、イエス・キリストが永遠なるお方であることを示しています。永遠に存在し、存在し続けていたことを意味しています。主イエス様は天と地が創造されて時に、その存在が始まったのではありません。イエス・キリストが存在しなかった時は、一瞬たりともなかったのです。
 世界が存在することになった時、物質が形造られるその時には、すでにイエス・キリストは存在していました。主イエス様は、世界が存在する前に、時が始まる前に、父なる神様と共に栄光の中におられたのです。

ヨハネの福音書17:5「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」

■神とともにあった

 「ことばは神とともにあった」。これは、神と「ことば」とが持っている個人的な関係を表しています。イエス様は神様とともにいる、結びついた関係にあることを教えています。神とことばは同じではないが、両者は一つに結び付いているのです。
 父なる神様と子なる神様は別々に、共に永遠から存在されていました。共に等しく栄光を持っておられました。しかし、その神であられることは一つであるというのです。これは神様に関する偉大なる神秘であり、人間のことばで説明することが不可能な教理です。
 このことは、2節でもう一度繰り返し強調されます。

2この方は、初めに神とともにおられた。

■神であった

 3つ目は「ことばは神であった」。御父が神であるように、御子も神であることを意味しています。イエス様は神のような方であったではなく、神であったと断言するのです。主イエス様は「神ご自身」であるということです。
 神様について言えること、神のご性質はすべてイエス様にも言えるのです。

ウェストミンスター小教理問答
問4 神とは、どんな方ですか。
答 神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変の方です。

■救い主キリスト

 しかも、このお方が、救い主として人となって私たちのために来てくださり、私たちの罪のために十字架にかかってくださいました。
 主イエス・キリストは永遠なるお方であり、神であること。主イエス・キリストは父なる神様とは深く結ばれておられるお方であること。その深遠な神様の存在を思い、そのお方が、私たちを覚え、愛し、救いの中に入れてくださったことを感謝し、これからも礼拝を守っていきたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2015年1月18日