ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2014年11月30日


2014年11月30日 主日礼拝説教
「すべての必要を満たしてくださる」(コリント人への手紙第二 8章10節〜15節)

■はじめに

 パウロが、貧しいエルサレム教会を援助するようにと、コリント教会に献金のお願いをしました。コリント教会の人たちは、ささげることが恵みであることを知っていました。
 彼らは、5節「パウロたちの期待以上に」ささげました。「期待以上に」とは、献金の額ではありません。同じ5節にあるように、彼らの自分自身を主にささげるという全き献身の思いにふれて、パウロは驚くばかりに感激しました。
 マケドニヤのクリスチャンたちは、貧しさの中にありながら、喜んで神の恵みのわざを共有したいという思いを持っていました。そのようなすばらしい信仰を見たパウロは、同じことがコリントの教会にもあってほしいと願いました。
 献金に応じることは「恵みのわざ」の一つでした。それが強制であるならば、何も「恵みのわざ」とはならないでしょう。それでパウロは、8節「私は命令するのではありません」と語りました。パウロはコリント教会の人たちに対して指図するつもりはありませんでした。
 パウロはマケドニヤのクリスチャンたちが貧しい中から、惜しみなく施しているありさまを紹介し、それを聞いてコリント教会の「愛の真実」を示してほしいと願いました。パウロは続けて、その「愛」の基となるキリストの恵みを語りました。
 コリントの教会の人たちが「愛の真実」示すことのできるのは、コリント教会の人たちが、9節「私たちの主イエス・キリストの恵みを知っている」からであり、その恵みによって知ることができた神の愛によるのです。
 このイエス・キリストの恵みについて、パウロは続いて語りました。9節「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」と。
 飼葉おけの誕生から始まり、「十字架の死」に至るまで、キリストは従順に仕える者としての生涯を送られました。それは、私たちを救ってくださるためでした。私たちが「キリストの貧しさによって富む者となるためでした」。私たちのために貧しくなって、私たちを富む者にしてくださり、私たちの罪を引き受けて、私たちを罪から解放してくださり、神の子どもとされる特権を与えてくださるためでした。
 このようなキリストの恵みを受け、感謝する人はだれでも、人から命令されてではなく、自ら進んで恵みのわざに励むようになるのです。パウロがこのように語ったのは、私たちが主イエスからどのような恵みを受けているかを思い起こすためです。ここから「愛の真実」が生まれてくるのです。

■持っている程度に応じて

 ですからパウロはコリントの教会に提案しました。

10この献金のことについて、私の意見を述べましょう。それはあなたがたの益になることだからです。あなたがたは、このことを昨年から、他に先んじて行っただけでなく、このことを他に先んじて願った人たちです。11ですから、今、それをし遂げなさい。喜んでしようと思ったのですから、持っている物で、それをし遂げることができるはずです。

 コリントの教会の人たちがエルサレムの貧しいクリスチャンたちを援助しようと願ったのは、自分たちから率先して、しかもすでに「昨年から」始めていたことでした。いろいろな教会の問題が起こって献金が中断された形になっていましたが、初志を貫いて、「今、それをし遂げなさい。喜んでしようと思ったのですから」、今「持っている物で、それをし遂げることができるはずです」とパウロは励ますのです。

12もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです。

 「恵みのわざ」である献金は、すべて心から願って自ら進んでなされるものです。どのような思いを込めてささげられたかは、「持っている程度に応じて」とあります。それを神様が受け入れてくださるのです。

■平等を図る

13私はこのことによって、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているのではなく、平等を図っているのです。14今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。

 パウロは、ここで「平等」ということを語ります。重荷を平等に負うということです。今コリントの教会に余裕があるのであれば、それはエルサレムのクリスチャンたちの窮乏を補うために用いられるべきでした。しかし反対に、エルサレムのクリスチャンたちがいつの日か、コリントのクリスチャンの欠乏を救済するような恵みに遭遇することもあるかもしれません。
 信者同士が思いやって、お互いに融通することにより、みなが「平等になる」のです。これがクリスチャン同士の愛の交わりです。

15「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった」と書いてあるとおりです。

 ここでパウロは、イスラエルの民たちが出エジプトの時に経験したことを思い起こさせて、平等の原則を語ります。彼らは荒野を旅していた時に、朝ごとに天から降るマナを集めました。その時「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった」のでした。
 神様が備えてくださった物ですべての人の必要が満たされ、一人も飢えることがなく、また余ることもありませんでした。天からの食べ物であるマナはみなに平等に行き渡りました。

■ささげ物を用いてくださる

 私たちの主イエス様は、富んでおられたのに、私たちのために貧しくなってくださいました。キリストの貧しさによって富む者とされた私たちですが、いったい私たちは持っているものをどうささげればいいのでしょうか。
 5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人に食べさせたイエス様の奇蹟を思い出してください。その時、時間も遅くなったので、弟子たちはイエス様に群衆を解散させ、めいめいで食べ物を用意させるようにと提案しました。
 しかしイエス様のお答えは、「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」でした。弟子たちは、「それはできません、無理です」と答えました。するとイエス様は彼らに言われました。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」
 弟子たちは、イエス様の言われたとおり調べました。すると、これだけでは全く役にたたないと思われるものしかありませんでした。「パン5つです。それと魚が2匹です。」これは、少年が持っていたものでした。
 しかし、イエス様は5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて祝福し、パンをさき弟子たちに渡されて、人々に配るようにされました。弟子たちはそれをさらにさいて人々に配りました。とても足りないと思われた5つのパンと2匹の魚でしたが、イエス様のおことばどおり、いくら配ってもなくならならず配り続けることができました。たくさんの人々に豊かに分け与えることができ、しかも余ってしまったというのです。
 イエス様が手にとってくださる時、そして、天の祝福をもってこれを人々に配るようにとおっしゃってくださる時、ささげられたものは決してなくならないばかりか、配っても配ってもなお余るほどに増えることを覚えたいと思います。
 私たちは、キリストの十字架の恵みによって富む者とされました。私たちができることは、その恵みに感謝して、まず私たち自身を主にささげることです。そして私たちが与えられているものを主にささげることです。
 私たちが喜んでささげる時、主はそれを何倍にもまして用いてくださり、大きな祝福の源となしてくださるのです。私たちは今週も、私たちのために貧しくなってくださった主イエス・キリストを覚えつつ、またキリストの貧しさによって富む者となったことを感謝しつつ、喜びをもって歩み出したいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2014年11月30日