ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2014年1月5日


2014年1月5日 主日礼拝説教
「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」(コリント人への手紙第二 5章11節〜15節)

■はじめに

 パウロはここまで、苦しみの中、弱さの中で、自分はどのように生きてきたかを明らかにしてきました。パウロは、「目に見えないものに目をとめ」、「天を見上げ、永遠の家を目指して」歩んでいる。「見るところによってではなく、信仰によって歩んでいる」と語りました。

■主を恐れ、主を誇る

11こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。

 パウロは10節までで、自分が抱いている天の御国への希望と、「キリストのさばきの座」について語りました。そのことを受けて「こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っている」と語りました。この恐れは「さばきの座」に対する恐怖の恐れではなく、主を恐れかしこむ畏敬の念、厳粛な思いにさせられることです。
 キリストのさばきの座の前に立つことを知っていたパウロは、その厳粛な事実に、身の引き締まる思いにされました。この主への恐れがあるからこそ、また主を見上げて歩んでいたからこそ、人の目を気にしたり、世間の思惑をはばかったりすることなく、パウロは真実の心で「人々を説得しようとする」のです。そして、そのことを、「あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです」と語りました。

12

私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。

 パウロが自分の心をわかってほしいと、11節で「私たちのことは、神の御前に明らかです」と語った時に、パウロは「それは自己推薦でも何でもない」と言いました。
 なぜこんなに注意を払っているかというと、コリント教会にはパウロを非難している人たちがいたからでした。コリント教会の指導者の中には、パウロの使徒としての権威を否定し、「私たちはパウロとは違うのだ。私はキリストの弟子からじかに教えを受け、その推薦を受けてここにいるのだ」と誇る者がいました。それがコリント教会の紛争の発端でもありました。
 パウロはコリントの教会の人たちに、こうした人々に迷わされることなく、コリントに伝えた福音を誇るようになってもらいたいと願いました。
 ここに「心においてではなく、うわべのことで誇る人たち」とあります。パウロの誇りは、見えるものによってではなく、見えないもの、霊的なものに立っていることを誇りとするものでした。それに対して、パウロに反対する者たちは「うわべのことで誇る」人たちでした。それは「肉によって誇る」自慢話のようなものでした。パウロも、そのことを11章でこのように言っています。

コリント人への手紙第2、11章「17これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者としてする思い切った自慢話です。18多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。」

 そして、自分に起こったさまざまな苦難を語っていきます。そして、そのような「うわべのことで誇る」人たちに迷わされないようにと願うのでした。

13

もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。

 パウロに反対する者たちは、パウロのやっていることを見て、あれは正気の沙汰ではない、「気が狂っている」と言ったのでしょう。確かに、パウロの宣教に対する思いは常識を越えるものでした。
 パウロも、初めは自分自身の持っているものを誇りとしていました。割礼を受けていること、ユダヤ人であること、律法に忠実なパリサイ人であったことなどでした。しかしパウロは、キリストを知っていることのすばらしさの前には、これらはすべて価値のないもの、投げ捨ててしまうようなものであることを知ったのでした。
 このような歩みを見た時に、人々は、パウロは「気が狂っている」と思ってしまったのでしょう。多くの人々には、それが理解できなかったのでした。
 しかし、コリント教会の人に対しては、いつも深い思いやりと正しい理性で貫かれていた。私は「正気である」。いつも心を砕いていたと言うのです。

■キリストの愛

14というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

 「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」というギリシヤ語には、「押し迫る」「しっかりとらえる」「追い立てる、駆り立てる」などの意味があります。ですから、ここを新共同訳は「キリストの愛が私たちを駆り立てている」と訳しました。口語訳では「キリストの愛が私たちに強く迫っている」です。
 キリストの愛に取り囲まれ、そのキリストの愛に押し出されるようにして行動していくということです。。
 またこのことばは、イエス様が行くところ、その周りに群衆が取り囲む時にも使われています。キリストの愛が前後、左右、上下に取り囲んでいる。その愛に守られて私たちは歩むことができる。そんなイメージが浮かんできます。それによって、私たちに対する神様の愛と恵みを覚えることができるのです。
 私たちを取り囲んでいる「キリストの愛」とは何でしょうか。その愛とは「ひとりの人がすべての人のために死んだ」と言うように、身代わりになって死んでくださった愛です。キリストは、打たれ、傷つけられ、あざけられても、私たちの罪のために十字架を黙って負ってくださいました、そのキリストの愛です。
 十字架の上から、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と私たちのために祈ってくださった愛です。キリストが「すべての人のために死んで」くださったことによって、罪の刑罰を代わりに受けてくださり、私たちの受けなければならなかった罪の刑罰がキリストによって取り除かれた、その愛です。
 この、ことばでは言い尽くせない大きな愛を感じたパウロは、この福音を人々に宣べ伝えずにはいられなかったのです。パウロのすべての行動の原動力は、このキリストの愛だったのです。

■キリストの愛に囲まれて生きる

15また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

 ここでパウロは、キリストの愛に囲まれて生きる者たちの姿を語りました。キリストが私たちのために死に、そしてよみがえってくださった、その愛を知った者は、もはや自分の行いによって生きるのではなく、キリストの愛によって生きる者へと変えられるのです。

ガラテヤ人への手紙2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 また、このように告白できるのです。

ローマ人への手紙14章「7私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。8もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」

 このような「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」。パウロはこのことをひしひしと感じていたでしょう。パウロは、かつてキリストの弟子たちを迫害していました。しかし、神様はパウロを愛し、赦し、新しくキリストを伝える使命へと召してくださったのです。
パウロにとってこれほどの愛があったでしょうか。この愛をパウロはいつも感じていました。この愛によってパウロの生き方が変わりました。ですから、パウロは人々の前で弁明をする時、自分が迫害していたイエス様に愛され、救われたことを何度も、何度も話しました。
 私たちも、キリストによって救われ、罪が赦された者です。私たちは、キリストがこれほど愛してくださっている、そのキリストの愛に囲まれて生きているのです。今このキリストの愛の囲みの中で平安であることを感謝します。このような平安な日々を、この1週間も、またこの1年も、キリストの愛に取り囲まれて歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2014年1月5日