ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年10月7日


2012年10月7日 主日礼拝説教
「すべての慰めの神」(コリント人への手紙第二 1章3節〜7節)

■はじめに

 先月から第1日曜日にパウロの手紙であるコリント人への手紙第2を読み始めました。今日は2回目になります。パウロはコリントの教会に挨拶をし、「恵みと平安があなたがたの上にありますように」と祈ってから、次に神様への賛美をささげます。

■父なる神・慈愛の父

3私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

 「父なる神様」は、主イエス様をこの地上に遣わしてくださいました。イエス・キリストは、私たちの罪を負い十字架で死んでくださいました。その死によって私たちの罪が赦されるという道を開いてくださいました。それは、父なる神様が「慈愛の父」「すべての慰めの神」だからでした。それでパウロは、「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように」と賛美したのです。
 「慈愛の父」、あるいは「いつくしみ、愛する」父なる神とは、神様が私たちの苦しみや悩みに深く同情してくださるということです。そのみこころの現れが、御子イエス・キリストを遣わしてくださったことでした。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」のです。
 神様は、私たちの置かれている状況を見ていてくださり、私たちの苦しみを知っていてくださいます。
 パウロは、「すべての慰めの神がほめたたえられますように」という神様への賛美から、「慰め」ということばに誘発されたかのように、一気に7節まで、ほとばしるように神様がいかに私たちを慰めてくださるかを語ります。

■苦しみの時に慰めてくださる神

 4節から7節まで、「慰め」という名詞や、「慰める」という動詞を9回も使って(ギリシヤ語原文では8回)「慰め」について語ります。

4神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

 パウロは、「どのような苦しみのときにも」と書きました。パウロは、イエス様の福音を宣べ伝えながら、実にさまざまな苦しみに出会いました。今日の箇所に続く1章8−9節で、アジヤであった苦しみを記しています。

コリント人への手紙第2、1:8−9「8兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、9ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。」

 また11章23−25節にはこうあります。

コリント人への手紙第2、11:23−24「23私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。24ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、25むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。」

 パウロはこのような「苦しみ」に出会いました。しかし、そのような耐えられないほどの「苦しみ」に直面した時に、パウロは神様の「慰め」を体験したのです。「苦しみ」によって、さらに神様がそば近くにいらっしゃることを知ったのでした。
 パウロはこのような経験を通して、神様は「どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださる」ことを味わいました。
 さらに進めて、「こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」と確信することができたのでした。本当に神様からの慰めを経験できる人は、罪が赦されたことを経験した人です。そのような人は、「苦しみ」にあっている人を自分と同じように慰め主なる神様のみもとに導き、慰めを共に分け合うことができるのです。

■あふれるばかりの慰め

5それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。

 パウロは、福音を伝えるためにあらゆる苦しみを経験しました。それを支えたのが神様からの慰め、あふれるばかりの神様からの慰めでした。

コリント人への手紙第2、4:8−10「8私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。9迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。10いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。」

 「四方八方から苦しめられる」時、パウロにはイエス様の十字架の死の苦しみが思い起こされてくるのです。
 パウロはどう歩んでいったらよいか思い悩んだ時、ゴルゴタの道を十字架を背負って歩かれたイエス様の姿を思ったことでしょう。パウロは力つき、倒れそうになった時、立ち上がることがもうできないと思った時、十字架を背負ったイエス様が兵士たちに追い立てられ、倒れながら進んでいかれた姿を思い出したでしょう。パウロは迫害のなか、だれも助けてくれる者もなく一人で途方に暮れた時、すべての人に見捨てられ、パウロのために十字架で死んでいかれたイエス様の姿を見たのです。
 イエス様が負われた死と苦しみを自分も味わわされている。パウロが経験したことは苦しみではありましたが、パウロにとってむしろ力となり、慰めとなったのです。

■苦しみはコリント教会の慰めと救いと望み

6もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。

 パウロが受けた「苦しみ」がどうしてコリント教会の人たちの「慰めと救いのため」なのでしょうか。それは、パウロは、教会が一つのからだであると考えていたからでした。

コリント人への手紙第1、12:26−27「26もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。27あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」

 パウロが苦しみに会い、神様から慰めを受けるなら、その慰めはコリント教会の人たちにも、苦しみから慰めを、そして苦しみに耐える力を与えるのです。教会は、教会の兄弟姉妹と苦しみを共にしている者たちの集まりです。しかし、その苦しみも神様から慰めが与えられ、さらに「苦難に耐え抜く力」が与えられていくのです。

7私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。

 パウロは、自分の受けた慰めがコリントの教会の人たちへの「望み」となっているとも語りました。それはコリントの教会も、パウロと共にキリストの「苦しみ」と、その「慰め」を分け合っていると信じたからです。

■すべてを知ってくださるイエス様

 私たちに与えられる苦しみ、あるいは悩み、重荷について考えてみましょう。どうして私たちにそのような「苦しみ」や悩み、重荷が与えられるのかなかなかわかりません。しかし「苦しみ」の結果、その人に与えられる最大の祝福は、それによって神様に近づけられ、神様からの深い慰めを経験することができるということです。そして、ほかの人を慰めることができる力、賜物が与えられるのです。
 「友よ歌おう」という讃美歌集にこのような歌があります。

だれも分からない/私の悩み/分かってくださる/救い主イエス
だれも分からない/私の悩み/分かってくださるのは/私の主イエス

 イエス様は私の苦しみ悩みをすべてご存じです。私たちは、この神の御子イエス・キリストを仰ぎ見る時、神様の本当の慰めにあずかるのです。この神様からの慰めを知って、イエス様の十字架の救いを知って初めて、同じように苦しんでいる人を慰め、イエス様の十字架をわかってもらえることができるのです。

コリント人への手紙第2、13:11「終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。」


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年10月7日