ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年5月27日


2012年5月27日 主日礼拝説教
「聖書のことばが実現するためです」(マタイの福音書26章47節〜56節)

■はじめに

 イエス様はゲツセマネの園の祈りによって、神様のみこころに従うことを受け入れました。イエス様が祈っている間眠っていた弟子たちに、「立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました」と言われました。それは弟子たちに対する励ましのことばであり、イエス様がユダヤの指導者たちに捕らえられ、裁判を受け、十字架につけられることが神様のご計画であり、イエス様もそれに従おうとする決意から出たことばでした。
 それは、54、56節で「預言者たちの書が実現するためです」と言われているように、イエス様の生涯が聖書の預言のとおり、神様のみこころのままをたどっていることを、イエス様ご自身が自覚しておられたからでした。イエス様を捕らえようとしている人々さえ、聖書のことばを実現するために奉仕させられていたのでした。

■ユダの口づけ

47イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。

 イエス様が弟子たちと話しているところに、「大ぜいの群衆」がやってきました。先頭に、数時間前、最後の晩餐の席を抜け出したユダがいました。ユダはその夜、イエス様たち一行がいつものように、食事の後、ゲツセマネの園に行くことを考え、ここに向かってきたのでした。すでに真夜中でした。この時間、この場所なら、民衆の目に触れることはありませんでした。
 「群衆」は「祭司長、民の長老たちから差し向けられたもの」たちでした。ヨハネによると、ローマ兵の一団も加わっていました。たったひとりを捕まえるにしては、多すぎるほどの人数でした。しかも「剣や棒を手に」していました。

48イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ」と言っておいた。49それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で」と言って、口づけした。

 やってきた一団は、ユダの合図を待っていました。暗い中です。だれが目指すイエス様かわからないし、取り逃がす恐れもありました。ユダが抱きつき口づけするその人がイエスであると、打ち合わせがしてありました。ユダは、最後まで弟子のひとりであることを、イエス様や仲間の弟子たちに演技し続けていました。
 親しげに近づいて、油断させ、捕まえようとする。それは、合図の口づけであったと同時に、裏切りの口づけでした。それも、原文では繰り返し口づけをしたということばです。ですから、このときユダはしっかり抱きしめて口づけをしたのでした。もう逃がさない、つかまえて離さないユダの気持ちをも表しているようです。

50イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。

 ここの情景をヨハネはこう書いています。

ヨハネの福音書18:4−6「4イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか」と彼らに言われた。5彼らは、「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。6イエスが彼らに、「それはわたしです」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。」

 自ら名乗って、敵の手にゆだねられ、神様のみこころをなそうとするイエス様の姿を伝えています。しかし、弟子たちはイエス様のお心、十字架で死ぬこと、人々の罪の身代わりとなって死のうとするイエス様のお心を理解していなかったのでした。

■剣を納めなさい

51すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。

 ヨハネにはその名前が記されています。

ヨハネの福音書18:10「シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。」

 ペテロは正面から切りつけましたが、暗かったかためか、あわてたためか、手元が狂って耳を切り落とすことになりました。

52そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。

 ルカの福音書には、イエス様は「やめなさい」と言われ、このしもべの耳をいやされましたと記されています。

53それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。54だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」

 これは、マタイだけが記したイエス様のことばでした。イエス様が願えば「十二軍団よりも多くの御使い」、1軍団で数千人規模の兵士の数ですから、それほど多くの御使いが、イエス様が願えばイエス様を守るためにやってくるというのです。イエス様をのまわりを囲む無数の御使いを見ることができたならば、1対1で剣を抜き、斬りつけ合うことなど、全く無意味な行動になってしまいます。
 イエス様はそうなさりませんでした。あくまでも神様のみこころに従うこと、聖書のことばが実現することに向かっていました。また、何の罪もなく、無抵抗で捕らわれようとされました。そうでなければ、イエス様が身代わりの贖い主として十字架にかかることはできなくなってしまうのです。

55そのとき、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえなかったのです。56しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。

 「強盗にでも向かうように」ということばは、このような大げさな捕り物劇はイエス様を極悪人として、強盗以上の罪人(ざいにん)としてローマに突き出すための、ユダヤ指導者の思惑があったからであり、それをイエス様が見抜いていたことばでした。ピラトの裁判で「名の知れた人殺しのバラバ」を赦して、イエス様を十字架につけるようになるための大がかりの捕り物であったのでした。

■聖書のことばが実現する

 このときイエス様のなかにあった聖書のことばは、イザヤ書53章でした。救い主は罪を負わせられて苦難の中を歩み、死んでいくという預言のことばです。

イザヤ書53:7−8、12「7彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。8しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。……12それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」

 そして、いま祭司長、長老から遣わされた群衆に捕らわれることによって、実際にイザヤ書のことばがこの身に実現し、ご自分が罪を負って死に行くことを明らかにされたのでした。
 「そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。」イエス様が、最後の晩餐が終わって外に出た時に言われたおことばが事実となりました。このようにすべての弟子たちによって見捨てられたイエス様は、イザヤ書53章にあるような、苦難の中の救い主として、私たちすべての者の罪を赦し、そこから救い出してくださるために、十字架への道を歩んでいくことになります。

■ペテロの証言

 後にペテロは、ユダヤ議会の前で、イエス様の生涯は聖書のことばが実現した生涯であったことを証ししました。

使徒の働き3:18−17「18神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。19そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」

 今日も、聖書のことばが実現されるため、神様のみこころのとおりに歩まれたイエス様を覚え、感謝いたします。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2012年5月27日